第4話 触れてはいけないもの
──そしてもう一つ。
創立記念祭で、王家に伝わる宝具が展示されていた。
普段は厳重に保管されているそれらが、特別に一般公開される日。
貴族の子弟たちだけでなく、教員や一部の来賓までが足を運び、展示室はいつになく賑わっていた。
並べられた宝具はどれも歴史を感じさせるものばかりで、その一つ一つに逸話がある。
だが──その中でも、ひときわ目を引くものがあった。
黄金の指輪。
王家に代々伝わる宝具であり、持ち主の魔力を増幅させるとされる代物だ。
次期国王である以上、いずれは自分の手に渡るもの。
そう考えた瞬間だった。
──触れてみたい。
そんな衝動が、ふと胸をよぎる。
理由は分からない。
ただ、抗いがたい何かに引き寄せられるように、無意識に手が伸びていた。
その時。
「──汚い手で触らないでくださる?」
すぐ間近で、低く冷たい声が聞こえた。
はっとして視線を上げる。
気づいた時には、指輪はすでに彼女の手の中にあった。
本来なら、すぐに制止が入るはずだった。
王家の宝具だ。
許可なく触れることすら咎められる。
そして何より──それを止めるべきは、この場にいる誰でもない。
王太子である、俺だ。
だが……動けなかった。
声をかけるべきだと、分かっていたはずなのに。
ただ、彼女を見ていた。
周囲にいた騎士も、教員も、誰一人として彼女を止めようとしない。
その異様さに気づいていながら、誰もそれを指摘しようとはしなかった。
──近い。
思った以上に距離が近い。
手を伸ばせば触れられるほどの距離で、銀の髪が揺れている。
その一瞬、呼吸がわずかに乱れた。
「グレース・アシュフォード……」
無意識に、そう呼んでいた。
名を呼びながら、乱れかけた鼓動を押し殺す。
なぜ、今ので動揺したのか。
分からないまま、視線だけはそらせなかった。
「気に入ったわ。……私の方が、この輝きに相応しいと思いませんこと?」
グレースは何でもないことのようにそう言い、指輪を指に嵌める。
その仕草は、まるで最初からそれが自分のものであるかのように自然だった。
次の瞬間──ぱちり、とほんの一瞬だけ黒い火花のようなものが走った気がした。
だが、それはすぐに消える。
見間違いかとも思ったが──妙な違和感だけが、胸の奥に残った。
(今のは……)
問いかけるように彼女を見る。
だがグレースは、何もなかったかのように微笑んでいるだけだった。
──ならば、気のせいか。
そう結論づけるしかなかった。
——それなのに、気づけば口が動いていた。
「……お前が触れていいものじゃない。……軽々しく扱うな」
口をついて出た言葉はやけに冷たく、言った瞬間、自分でもその言葉に違和感を覚えた。
──違う。
本当は、そんなことを言いたかったわけじゃない。
なぜそんな言葉になったのか、自分でも分からない。
ただ、他の言葉が出てこなかった。
何かを言わなければならない気がして。
けれど、何を言えばいいのか分からなくて。
結果として、最も遠ざける言葉だけが残った。
その瞬間、ほんのわずかに──彼女の表情が揺らいだ気がした。
──まるで、傷ついたように。
ほんの一瞬の、瞬きほどの時間だった。
それは怒りでも悲しみでもなく、どこか諦めに近い色だった。
——まるで、最初から傷つくことを知っていたみたいに。
次の瞬間には、もう消えていた。
いつも通りの、何も感じていないような笑みだけが残る。
指輪を嵌めるその手に、一瞬だけ視線が止まる。
展示室を流れる冷えた空気が、彼女の周りだけさらに凍りついているようだった。
白く細い指先は——なぜか、ひどく冷たそうに見えた。
「ええ、そうですわね」
あっさりと肯定する声だった。
その軽さが、なぜか胸に引っかかった。
まるで自分の言葉が何の意味も持たなかったかのようで、それ以上何も言えなくなる。
グレースはそのまま背を向け、指輪を嵌めたまま、何事もなかったかのように歩き出す。
止める理由は、いくらでもあったはずだ。
王家の宝具に無断で触れたこと。
本来なら咎めるべき行為だ。
——それなのに。
なぜか、身体が動かなかった。
ただ、その背中を見送ることしかできなかった。
呼び止めるべきだった気がした。
だが、口を開こうとするたび何も言葉にならなかった。
やがて人混みの中に紛れ、銀の髪が見えなくなる。
その瞬間、ようやく息を吐いた。
残されたのは、言いようのない苛立ちと──自分自身への、わずかな嫌悪だった。
(……何をやっている)
あれほど冷たく言い放っておきながら、胸の奥には、別の感情が残っている。
あの一瞬の表情が、妙に引っかかっていた。
傷ついたように見えたのは、本当に気のせいだったのか。
もし違うのだとしたら──
なぜ、あんな顔をしたのか。
思考がまとまらない。
それ以上考えることを、無意識に拒んでいる自分がいる。
考えても、結論は出なかった。
ただ一つわかるのは、あの令嬢の前ではいつも調子が狂うということだけだった。
言葉が噛み合わない。
行動と感情も、どこかずれている。
まるで──自分ではない何かに、操られているみたいだった。
そうして、一度もまともに言葉を交わせないまま、1年が過ぎた。
時間だけが過ぎていく。
何も変わらないまま──いや、むしろ少しずつ、手に負えなくなっている気がした。
もどかしくて、理解できない。
だが、それ以上に──目を逸らせない。
考えるなと思うほど、意識が向く。
関わるなと言われるほど、気になってしまう。
胸の奥に溜まっていくのは、名前のつかない感情だった。
焦燥にも似ているが、それだけではない。
もっと厄介で、もっと曖昧なもの。
名前をつけた瞬間、壊れてしまいそうな──そんな感情だった。
そんな中、進級して発表された、2年生最初の合同演習。
掲示板の前には人だかりができていた。
自分の名前を探すよりも先に、視線が動いた。
──探している。
そう気づいた瞬間、わずかに眉をひそめる。
(違う)
否定するように視線を流すが、見つけてしまった。
「グレース・アシュフォード」
「レオナルド・ヴァレンティン」
そのすぐ隣に並んだ名前を。
その瞬間、心臓が強く、はっきりと大きく跳ねた。
この1年で、最も明確だった。
わずかに息を詰めたそのとき、隣でエドガーが小さく息を吐いた。
「……面倒なことになったな」
そう呟いたエドガーの横顔は、どこか強張って見えた。
ほんの一瞬——見間違いかと思うほどだったが、わずかに血の気が引いていたような気がした。
その言葉と、見過ごしかけたはずの違和感が、妙に引っかかった。
胸の奥に、わずかな違和感だけを残して——思考は次へと引きずられた。
(……今度こそ)
逸らせない。
もう、見て見ぬふりはできない。
逃げることも、許されない。
胸の奥に溜まり続けていたものが、形を持ち始める。
(お前が何を隠しているのか──俺は、知らなければならない)
視線を掲示板から離さないまま、強く思う。
それが、彼女のためなのか。
それとも、自分自身のためなのか。
──その時の俺には、まだ分からなかった。




