第3話 零れた名前
——あの屋外演習の日だ。
それは、学園の裏庭で行われた屋外演習の時だった。
普段は訓練用に調整された魔獣を相手に、安全な距離を保ちながら魔法の制御を学ぶ授業であり、危険などない──はずだった。
だが、その日は違った。
突如として、魔獣が暴れ出したのだ。
先ほどまで大人しかったはずの個体が、明らかに様子を変えている。
濁った瞳に荒い呼吸、まるで理性を失ったかのように地面を掻き、檻を激しく打ち鳴らしていた。
嫌な予感が胸をよぎる。
空気が妙に重く、どこかに異質な気配が混じっているような──そんな違和感を覚えた。
だがそれを確かめるよりも早く、ソフィアの悲鳴が響いた。
「きゃああああっ! 助けて、レオナルド様!!」
視線を向けた瞬間、檻が内側から破壊され、魔獣がこちらへ飛び出してくるのが見えた。
「ソフィア!」
反射的に剣を抜く。
思考よりも先に身体が動いていた。
——迷いはなかった。いつも通り、間に合うはずだった。
光を纏わせた刃を構え、一気に距離を詰める──はずだった。
だがその直前、横から黒い衝撃が走った。
「──っ!」
視界がぶれる。
身体が横へ弾かれ、数歩分の距離を強引に引き剥がされる。
体勢を崩し地面に手をついたが、すぐに立て直す。
——直撃はしていない。
だが、あのまま突っ込んでいれば、確実に間に合っていなかった。
次の瞬間、耳に届いたのは低く冷たい声だった。
「──邪魔よ。どいてなさい」
顔を上げると、そこにいたのは──グレースだった。
彼女は一歩も引かず、魔獣の真正面に立っている。
その背は細いはずなのに、不思議なほど揺るがない。まるで、最初からそこに立つことを決めていたかのように。
「グレース、やめろ! それは訓練用の──」
一瞬だけ、彼女の肩がぴくりと揺れた。
──なぜ、名前が出た。
自分でも、理解できない。
呼んだ覚えなど、一度もないはずなのに。
まるで何度もそうしてきたかのように、その名は、迷いなく口をついて出た。
一瞬、思考が止まる。
目の前の魔獣よりも、その違和感の方に意識が引きずられる。
今のは——なんだ。
「黙って」
短く、冷たく遮られる。
その声には、一切の迷いがなかった。
思考が追いつかない。
ただ——目の前で、彼女だけが迷いなく踏み出していた。
「……この程度の雑魚、私一人で十分よ」
次の瞬間、空気が歪む。
彼女の手元に集まった闇が凝縮され、鋭い杭のような形を取り、それが放たれた。
一直線に、魔獣の喉元へ。
断末魔とともに、肉が裂ける音と濁った咆哮が響く。
魔獣は一瞬で力を失い、そのまま黒い霧となって霧散した。
静寂が落ちる。
だが、その余波は確かに残っていた。
地面は黒く焼け焦げ、周囲の草木は枯れ、空気には焦げたような匂いが漂っている。
明らかに──やりすぎだ。
「……なんてことを……」
震える声でソフィアが呟く。
彼女はその場に崩れ落ちるように座り込み、まだ恐怖から抜け出せていない様子だった。
その光景を見下ろしながら、俺は同時に別の事実も理解していた。
あのまま突っ込んでいれば、間に合っていたかどうかは分からない。
いや、それどころか──あの異様な暴れ方を考えれば、周囲の生徒を巻き込んでいた可能性すらある。
つまり、彼女の判断は結果だけ見れば──正しい。
……いや、正しいどころか、最善だったはずだ。
それでも。
「……アシュフォード公爵令嬢、やりすぎだ。なぜ、あんな魔法を使った」
口から出たのは、責める言葉だった。
自分でも分かっている。
これは正論ではない。
それでも──そう言わずにはいられなかった。
グレースはゆっくりとこちらを振り返る。
その表情はいつも通り無機質で、何も感じていないかのように見えた。
「……ふん。弱い者同士、傷を舐め合えばよろしいわ」
小さく鼻で笑いながら放たれたその言葉に、わずかに空気が軋んだ気がした。
「後始末はよろしくね。ただ見ていただけの王太子殿下?」
胸の奥が、わずかに軋む。
ただ見ていただけ──その一言が妙に引っかかった。
確かに俺は、間に合わなかった。
だが、それだけではない気がする。
何か別の意味を含んでいるような──そんな違和感が残った。
だがそれを考える前に、ソフィアが声を上げる。
「後始末、ですって……?」
震えていたはずの声には、ほんのわずかに強さが戻っていた。
「グレース様、あまりにも言い方がひどいですわ……! レオナルド様は、私を助けようとしてくださったのに……!」
その言葉に、周囲の視線が一斉にこちらへ向く。
ざわり、と空気が揺れた。
「……ソフィア様の言う通りだ」
「さすがにあれは……」
一瞬、彼女に同調する声が上がる。
だが、それはすぐに別のざわめきに呑まれていった。
「……今の、見たか?」
「闇魔法で、あそこまで……」
「やっぱり、あの方は──」
押し殺した声が、あちこちから漏れる。
恐れと、嫌悪と、そしてわずかな興奮が混じったようなざわめきがおきた。
しかしその中に。
「……でも、美しい……」
——その一言だけが、やけに耳に残った。
ぽつりと誰かが呟いたその声は、小さかったはずなのに、不思議と耳に残る。
——美しい。
その言葉に、胸の奥がわずかにざらついた。
理由は分からない。
ただ、その声の主が視界の端に映る。
同じ学年の男だ。
グレースを見つめるその目は、隠しきれない感情を帯びていた。
——妙に気に障る。
その理由が分からないことが、さらに引っかかった。
悪女だと、分かっているはずだった。
それでも、胸の奥だけが妙にざわつく。
……まるで、他の誰かに見られることが許せないみたいに。
誰がどう見ようと、俺には関係ない。
それなのに、その視線が妙に気に障る。
胸の奥に残ったざらつきだけは、どうしても消えなかった。
だが、それを確かめる前に、ざわめきは再び一つに溶けていった。
責めるような空気が広がり、まるで正義はどちらにあるのかと問いかけるような無言の圧力が、じわじわと場を支配していく。
俺も、言葉を重ねようとした。
だが──やめた。
喉の奥で、言葉が引っかかる。
本当に、それでいいのか。
そう問いかける何かが、確かにあった。
だがそれを言葉にする前に、グレースの足が、一瞬だけ止まる。
ほんのわずかに、気づくかどうかも分からないほどの動きだった。
だが確かに──止まった。
まるで、何かを言われるのを待っているかのように。
あるいは、何かを期待してしまったかのように。
けれど次の瞬間には、何事もなかったかのように歩き出す。
振り返ることは、なかった。
その背中を見送りながら、胸の奥に小さな違和感が残る。
──今のは、なんだ。
なぜ、あの一瞬が気になる。
言葉にしなかったことを、後悔しているのか、それとも──
答えは出ないが、ただ一つだけ。
あの背中を見送った瞬間——胸の奥で、何かが噛み合わなかった。
……おかしい。
まるで、知っているみたいだ。
——そんなはずはないのに。




