第2話 目が離せない理由
「私に近づかないで!!」
あの日、廊下で投げつけられた出来事から一年が過ぎた。
——それでも、あの声は消えない。
本来なら、不敬極まりない態度だ。王太子である俺に向けられる言葉ではない。
マルクス侯爵令嬢のソフィアが言うように、彼女──グレース・アシュフォードは「冷酷な悪女」で、関わればろくなことにならない“闇”の使い手のはずだ。
頭では、そう理解している。
だが、身体が、視線が、それを拒絶する。
中庭のベンチで腰を下ろしていると、向かいに座っていたエドガーが呆れたように息をついた。
「……また、目で追っているのか」
呆れたような声だった。
だが、その奥に──ほんのわずかに、苦いものが混じった気がした。
その視線の先には、一人で本を広げる銀髪の少女がいる。
陽光を受けて淡く輝く髪が、やけに目についた。
風が吹くたびに揺れるその髪から、どうしてか目が離せない。
「……追ってなどいない。ただ、あそこにいるのが見えただけだ」
そう返すと、エドガーは何も言わなかった。
「毎日、同じ時間にここを通っているな」
「……たまたまだ」
「一年間、ずっとか?」
「………」
言葉が詰まる。
自覚がないわけではない。
「……お前、公務の方は大丈夫なのか? 国務会議での提案が国王陛下に絶賛されたそうじゃないか。そんな完璧超人の王太子殿下が、毎日同じ時間にここを通って一人の女を観察しているなんて、国民が知ったら腰を抜かすぞ」
エドガーの皮肉に、俺は眉をひそめた。
自分でも異常だとは分かっている。
やるべき仕事も、身につけるべき教養も、俺はすべて完璧にこなしてきたはずなのに。
講義中、ふとした瞬間に彼女の後ろ姿を探している自分がいる。
食堂でも、廊下でも、無意識に視線が追ってしまう。
誰とも群れず、凛とした──どこか孤独を抱えた背中。
その姿を見るたび、胸の奥がチリチリと焼けるように痛んだ。
……なぜ、そんな感情を抱くのか、自分でも分からない。
ふと、視界の端で、別の男の視線が彼女に向いているのが見えた。
同じ学年の貴族子息だろう。
遠巻きに、だが明らかに興味を持った目でグレースを見ている。
——気に入らない。
そう思った瞬間、自分でも驚いた。
その理由を、うまく言葉にできないことにも。
なぜ、そんな感情が湧くのか分からない。
あいつは“悪女”で、関わるべきではない存在のはずだ。
それなのに、胸の奥に理由の分からない苛立ちが残る。
……それを、無視できない自分にも苛立った。
視線を逸らそうとして──結局、逸らせなかった。
一度だけ、彼女の進路に立ったことがある。
理由は自分でも分からない。
ただ、声をかけなければならない気がした。
だが、彼女は俺の姿を認めた瞬間、露骨に顔を歪め、何も言わずに踵を返した。
その時の瞳は嫌悪というよりは──嫌悪ではなかった。
それよりずっと近い、言葉にできない感情だった。
……まるで、傷口を見られることを恐れているような。
あれは、気のせいだったのか。
それとも──。
俺が、そうであってほしいと願っているだけなのか。
「レオナルド様、またあの方を見ていらっしゃるの?」
ソフィアがそっと袖を引く。
その仕草はいつも通り柔らかいのに、どこかほんのわずかに力がこもっている気がした。
甘い香水の匂いが鼻をかすめる。
——違う。この香りじゃない。
ふと、そんな感覚がよぎる。
どこか懐かしい花の香りが、記憶の奥で引っかかる。
思い出せそうで、思い出せない。
けれど少なくとも、この香りではない──それだけは、なぜかはっきり分かった。
「あの方は、下級生の魔力石を奪ったそうですわ。本当に恐ろしい方……」
柔らかな声だが、その奥にわずかな棘が混じる。
まるで、念を押すように。
──“あの女は危険だ”と。
だが、後から耳に入る話はどこか食い違っていた。
奪われたはずの魔力石には呪いがかかっており、彼女が浄化するために取り上げただけだった──そんな話を、涙ぐむ下級生が語っていたと聞いた。
その時、ふと胸の奥に小さな違和感が生まれる。
もしそれが本当なら。
なぜ彼女は、それを否定しない?
なぜ、自分が悪者になるような振る舞いをする?
(どちらが、本当のお前なんだ)
冷酷な悪女として振る舞う彼女と、人知れず誰かを救う彼女。そのどちらもが同じ人物だという事実が、どうしても腑に落ちない。
そして──夢の中で見た、あの銀髪の少女。
涙を浮かべながら微笑み、「大好きよ」と囁いて消えていった存在。
あれが夢だとは思えない。
……というより、夢だったという事実の方が、どこか不自然だった。
夢にしては、あまりにも感情が残りすぎている。
目が覚めた後も、胸の奥が締め付けられるように痛んだ。
まるで、大切な何かを失ったかのように。
「……思い出せない。だが、知っているはずなんだ」
夜、自室で鏡を見つめながら、何度も同じ問いを繰り返す。
夢の中で彼女に触れた指先だけが、目が覚めた後もずっと、じりじりと熱を持っている気がした。
あんなに切実な熱を、俺は他に知らない。
なぜ彼女の名前を呼ぼうとすると胸が締め付けられるのか。
なぜ他の男と一言交わしただけで、世界が歪むような苛立ちを覚えるのか。
なぜ、あの女のことで──こんなにも心が乱されるのか。
鏡に映る自分の顔は、どこか見慣れないもののように見えた。
答えは、いまだに見つからない。
だが──
このまま、何も知らずにいることだけは、耐えられそうになかった。
この1年、言葉を交わした記憶はほとんどない。
それでも——なぜか、無視できなかった。
──この1年で、何もなかったわけじゃない。




