第2話 零れた名前
グレース・アシュフォードに拒絶されてから、一年が過ぎた。
あれ以来、彼女と言葉を交わすことはほとんどない。
それでも、気づけば目で追っていた。
周囲が口を揃えて悪女と呼ぶ、あの銀髪の少女を。
中庭のベンチで腰を下ろしていると、向かいに座っていたエドガーが呆れたように息をついた。
「……また、目で追っているのか」
その視線の先には、一人で本を広げる銀髪の少女がいる。
陽光を受けて淡く輝く髪が、やけに目についた。
「……追ってなどいない。ただ、あそこにいるのが見えただけだ」
そう返すと、エドガーは何も言わなかった。
「毎日、同じ時間にここを通っているな」
「……たまたまだ」
「一年間、ずっとか?」
「………」
言葉が詰まる。
自覚がないわけではない。
一度だけ、彼女の進路に立ったことがある。
理由は自分でも分からない。
ただ、声をかけなければならない気がした。
だが、彼女は俺の姿を認めた瞬間、露骨に顔を歪め、何も言わずに踵を返した。
その時の瞳に浮かんでいたのは、嫌悪だけではなかった。
もっと別の、言葉にできない感情。
……まるで、傷口を見られることを恐れているような。
「レオナルド様、またあの方を見ていらっしゃるの?」
ソフィアがそっと袖を引く。
その仕草はいつも通り柔らかいのに、どこかほんのわずかに力がこもっている気がした。
甘い香水の匂いが鼻をかすめる。
——違う。この香りじゃない。
ふと、そんな感覚がよぎる。
どこか懐かしい花の香りが、記憶の奥で引っかかる。
けれど少なくとも、この香りではない──それだけは、なぜかはっきり分かった。
「あの方は、下級生の魔力石を奪ったそうですわ。本当に恐ろしい方……」
柔らかな声だが、その奥にわずかな棘が混じる。
まるで、念を押すように。
──“あの女は危険だ”と。
だが、後から耳に入る話はどこか食い違っていた。
奪われたはずの魔力石には呪いがかかっており、彼女が浄化するために取り上げただけだった──そんな話を、涙ぐむ下級生が語っていたと聞いた。
もしそれが本当なら。
なぜ彼女は、それを否定しない?
なぜ、自分が悪者になるような振る舞いをする?
そして──夢の中で見た、あの銀髪の少女。
涙を浮かべながら微笑み、「大好きよ」と囁いて消えていった存在。
あれが夢だとは思えない。
……というより、夢だったという事実の方が、どこか不自然だった。
夢にしては、あまりにも感情が残りすぎている。
目が覚めた後も、胸の奥が締め付けられるように痛んだ。
まるで、大切な何かを失ったかのように――
◇
そんな日々が続く中、屋外演習で事件が起きた。
普段は訓練用に調整された魔獣を相手に、安全な距離を保ちながら魔法の制御を学ぶ授業であり、危険などない──はずだった。
だが、その日は違った。
突如として、魔獣が暴れ出したのだ。
先ほどまで大人しかったはずの個体が、明らかに様子を変えている。
濁った瞳に荒い呼吸、まるで理性を失ったかのように地面を掻き、檻を激しく打ち鳴らしていた。
嫌な予感が胸をよぎる。
空気が妙に重く、どこかに異質な気配が混じっているような──そんな違和感を覚えた。
だがそれを確かめるよりも早く、ソフィアの悲鳴が響いた。
「きゃああああっ! 助けて、レオナルド様!!」
視線を向けた瞬間、檻が内側から破壊され、魔獣がこちらへ飛び出してくるのが見えた。
「ソフィア!」
反射的に剣を抜く。
思考よりも先に身体が動いていた。
——迷いはなかった。いつも通り、間に合うはずだった。
光を纏わせた刃を構え、一気に距離を詰める──はずだった。
だがその直前、横から黒い衝撃が走った。
「──っ!」
視界がぶれる。
身体が横へ弾かれ、数歩分の距離を強引に引き剥がされる。
体勢を崩し地面に手をついたが、すぐに立て直す。
——直撃はしていない。
だが、あのまま突っ込んでいれば、確実に間に合っていなかった。
次の瞬間、耳に届いたのは低く冷たい声だった。
「──邪魔よ。どいてなさい」
顔を上げると、そこにいたのは──グレースだった。
彼女は一歩も引かず、魔獣の真正面に立っている。
その背は細いはずなのに、不思議なほど揺るがない。
まるで、最初からそこに立つことを決めていたかのように。
「グレース、やめろ! それは訓練用の──」
一瞬だけ、彼女の肩がぴくりと揺れた。
──なぜ、名前が出た。
自分でも、理解できない。
呼んだ覚えなど、一度もないはずなのに。
まるで何度もそうしてきたかのように、その名は、迷いなく口をついて出た。
「黙って」
短く、冷たく遮られる。
その声には、一切の迷いがなかった。
「……この程度の雑魚、私一人で十分よ」
次の瞬間、空気が歪む。
彼女の手元に集まった闇が凝縮され、鋭い杭のような形を取り、それが放たれた。
一直線に、魔獣の喉元へ。
断末魔とともに、肉が裂ける音と濁った咆哮が響く。
魔獣は一瞬で力を失い、そのまま黒い霧となって霧散した。
静寂が落ちた。
地面は黒く焼け焦げ、周囲の草木は枯れている。
……明らかに、やりすぎだ。
「……なんてことを……」
震える声でソフィアが呟く。
彼女はその場に崩れ落ちるように座り込み、まだ恐怖から抜け出せていない様子だった。
その光景を見下ろしながら、俺は同時に別の事実も理解していた。
彼女の判断は結果だけ見れば──正しい。
……いや、正しいどころか、最善だったはずだ。
それでも。
「……アシュフォード公爵令嬢、やりすぎだ。なぜ、あんな魔法を使った」
口から出たのは、責める言葉だった。
グレースはゆっくりとこちらを振り返る。
その表情はいつも通り無機質で、何も感じていないかのように見えた。
「……ふん。弱い者同士、傷を舐め合えばよろしいわ」
小さく鼻で笑いながら放たれたその言葉に、わずかに空気が軋んだ気がした。
「後始末はよろしくね。ただ見ていただけの王太子殿下?」
胸の奥が、わずかに軋む。
ただ見ていただけ──その一言が妙に引っかかった。
確かに俺は、間に合わなかった。
だが、それだけではない気がする。
何か別の意味を含んでいるような──そんな違和感が残った。
だがそれを考える前に、ソフィアが声を上げる。
「後始末、ですって……?」
震えていたはずの声には、ほんのわずかに強さが戻っていた。
「グレース様、あまりにも言い方がひどいですわ……! レオナルド様は、私を助けようとしてくださったのに……!」
その言葉に、周囲の視線が一斉にこちらへ向く。
ざわり、と空気が揺れた。
「……ソフィア様の言う通りだ」
「さすがにあれは……」
一瞬、彼女に同調する声が上がる。
だが、それはすぐに別のざわめきに呑まれていった。
「……今の、見たか?」
「闇魔法で、あそこまで……」
「やっぱり、あの方は──」
押し殺した声が、あちこちから漏れる。
しかしその中に――
「……でも、美しい……」
ぽつりと誰かが呟いた。
視線を向ければ、同じ学年の男がグレースを見つめている。
——妙に、気に障った。
俺も、言葉を重ねようとした。
だが──やめた。
喉の奥で、言葉が引っかかる。
本当に、それでいいのか。
そう問いかける何かが、確かにあった。
だがそれを言葉にする前に、グレースの足が、一瞬だけ止まる。
ほんのわずかに、気づくかどうかも分からないほどの動きだった。
まるで、何かを言われるのを待っているかのように。
あるいは、何かを期待してしまったかのように。
けれど次の瞬間には、何事もなかったかのように歩き出す。
振り返ることは、なかった。
まるで、知っているみたいだ。
——そんなはずはないのに。




