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悪女と呼ばれる公爵令嬢のことだけ、なぜか王太子は思い出せない〜忘れているはずなのに、いつだって君だけが特別だった〜  作者: はな
第四部:追還の王太子──ときどき公爵令嬢

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第53話 すべてを終わらせて



 王城の謁見の間には、重苦しい静寂が満ちていた。


 中央に立つのはマルクス侯爵一家。


 その正面には国王夫妻とレオナルド、そして司法局と騎士団の人間たちが並んでいる。


 今日ここで何かが終わるのだと、誰の目にも明らかだった。


 司法局長は手元の書類へ視線を落とし、淡々と調査結果の報告を始めた。


 最初に読み上げられたのは、学園内への禁制品――魔力誘発剤の持ち込みについてだった。


 続いて、複数の貴族令嬢に対する執拗な嫌がらせや虚偽の噂の流布。

 さらには有力貴族家同士の縁談への不当な介入、他家への圧力行為までが次々と明かされていく。


 だが、それだけでは終わらなかった。


 報告はやがて学園内の問題から侯爵家そのものへと及び、不自然な帳簿の改竄、関係各所への収賄、違法な取引の存在までもが詳細な証拠と共に提示されていく。


 机上へ積み上げられる資料は一枚や二枚ではない。


 厚く束ねられた報告書が次々と運び込まれ、その量が増えるたびに、謁見の間を満たしていた空気は重く冷え込んでいった。


 ソフィアは青ざめた顔でそれを見つめていた。


 どれも完璧に隠したはずだった。

 誰にも知られていないはずだった。


 それなのに——


 目の前には、言い逃れのできない証拠が山のように積み上げられている。


 そして、その光景を見て顔色を変えたのはソフィアだけではなかった。


 隣に立つマルクス侯爵でさえ、ついに余裕を失ったように表情を歪める。


「……馬鹿な」


 絞り出すような声が漏れる。


 その一言が、すべてを物語っていた。

 

 これほどまで掴まれているとは思わなかった、という絶望だった。


 国王は冷ややかに告げる。


「長年好き勝手をしてきたツケだ」


 マルクス侯爵は何も言い返せなかった。


 積み上げられていく証拠の山を前にしては、もはや弁明の余地など残されていない。


 司法局長の報告はなおも続き、違法取引や収賄の記録、改竄された帳簿の写し、関係者たちの証言書が次々と提出されていく。

 そのたびに侯爵の顔色は悪くなり、最初は辛うじて保っていた余裕も、今では跡形もなく消え失せていた。


 やがて全ての報告が終わると、広い謁見の間を静寂が包み込んだ。


 誰も口を開かない。


 ただ重く張り詰めた沈黙だけが、その場にいる全員へマルクス侯爵家の罪の重さを突きつけていた。


 その静寂を破ったのは、レオナルドだった。


 彼はゆっくりと一歩前へ進み出る。


 その視線は、崩れ落ちそうな表情で立ち尽くすソフィアだけを真っ直ぐ見据えていた。


 レオナルドはしばらく無言でソフィアを見つめていた。


 その沈黙だけで、ソフィアの呼吸は少しずつ浅くなっていく。


 やがて彼は静かに口を開いた。


「……一つだけ聞きたい」


 声音は驚くほど穏やかだった。

 だが、その穏やかさこそが恐ろしい。


「なぜグレースを狙った」


 ソフィアの肩が震えたが、レオナルドは構わず続けた。


「なぜあいつを陥れようとした。なぜ何度も傷つけた」


 問いは短いが、その一つ一つが逃れようのない重さを持っていた。


「答えろ」


 静かに告げられた最後の一言が、謁見の間に重く響いた。


 震える唇が開く。


 そして次の瞬間、積み上げていた感情が堰を切った。


「だって邪魔だったのよ!」


 張り裂けるような声が謁見の間に響いた。


 ソフィアは涙に濡れた顔を歪めながら、レオナルドを睨みつける。


「いつだってそうだったじゃない! 貴方は私を見ているようで、何も見ていなかった!」


 感情を押し殺してきた堰が切れたようだった。


「どれだけ努力しても、どれだけ頑張っても、結局貴方の心には私じゃない誰かがいた! あの女ばかりだった!」


 震える声には怒りも悲しみも嫉妬も、長年積み重ねてきた執着の全てが滲んでいた。


 王太子妃になるために、どれほどの時間を費やしただろう。


 幼い頃から礼儀作法を叩き込まれ、王妃教育を受け、誰よりも勉学に励み、社交界では一瞬たりとも隙を見せないよう己を磨き続けた。


 常に完璧であることを求められ、その期待に応え続けてきた。


 誰よりも努力した。

 誰よりも我慢した。

 誰よりも王太子妃という座に相応しい人間であろうとしてきた。


 その自負だけは本物だった。


 だからこそ理解できなかった。


 なぜ、自分ではないのか。


「……どうしてなのよ」


 絞り出すような声が漏れる。


 涙で滲む視界の先にいるレオナルドを見つめながら、ソフィアは唇を震わせた。


「私の方が優れているのに……」


 その呟きは、もはや誰かを責める言葉ではなく、自分自身に問いかけるような、痛々しいほど弱々しい声だった。


 けれど次の瞬間、再び感情が爆発する。


「能力だって、容姿だって! 何もかも私の方が上でしょう!?」


 それは怒号であり、懇願であり、絶望だった。


 どうしても認められない。


 認めてしまえば、自分が積み上げてきた全てが無意味になってしまうから。


 だが——


 レオナルドはただ静かに彼女を見つめていた。

 そこに憐れみはあった。

 しかし、愛情だけは欠片もなかった。


「なのにどうして!」


 涙で滲む視界の向こうで、レオナルドはただ静かに立っていた。


 その姿を見つめながら、ソフィアは震える唇を必死に動かす。


「私じゃなくて……あんな女なの……?」


 絞り出した声は、もはや叫びですらなかった。


 理解できない。

 理解したくない。


 これほど努力してきた自分ではなく、なぜグレースなのか。


 その問いに対する答えを求めるように見上げた瞬間、レオナルドの表情が僅かに変わった。


 それまで抑え込まれていた感情が初めて表に現れる。


 静かで、冷たく、そして明確な怒りだった。


「……あんな女?」


 低く落ちた声に、ソフィアの背筋が凍りつく。

 レオナルドは一歩も動かないまま、鋭い視線を向けた。


「そう呼ぶことは許さない」


 声量は決して大きくない。


 それなのに、その一言には怒鳴り声など比較にならないほどの重みがあった。


 張り詰めた空気の中、レオナルドは静かに続ける。


「俺はお前を憎まない」


 その言葉に、ソフィアの胸に微かな希望が灯った。

 けれど、それは次の瞬間には無残に打ち砕かれる。


「だが、グレースを傷つけたことは許さない」


 迷いのない断言だった。


 そこにあったのは怒りだけではない。

 守りたいと願う強い意志と、誰にも譲ることのない想い。


 そして隠しようもないほど深い愛情だった。


 その瞳を見た瞬間、ソフィアは悟る。


 ——負けたのだと。


 今、この場で負けたのではない。

 もっとずっと前から。


 自分がどれだけ努力を重ねても、どれだけ完璧な令嬢になろうとしても、決して届かない場所にグレースは立っていたのだと。


 レオナルドの心の中心の、誰にも入り込めないその場所に。


 その事実を理解した瞬間、全身から力が抜けた。


 支えを失った身体は崩れるように床へ沈み込み、ソフィアはただ呆然と立ち尽くすレオナルドを見上げることしかできない。


 もう反論する気力もなかった。

 何かを訴える言葉も見つからない。


 残されたのは、自分が積み上げてきた全てが届かなかったという残酷な現実だけだった。


 それは紛れもない敗北だった。


 覆しようのない、完全な敗北だった。



 最終的な裁定は、その日のうちに下された。


 マルクス侯爵家は爵位剥奪。全財産没収のうえ王都追放。


 王国屈指の名門として長年権勢を振るってきた一族は、その日をもって完全に没落した。


 判決が読み上げられても、マルクス侯爵はもはや何も言わなかった。


 すべてを失った男の顔には怒りも反論もなく、ただ虚ろな絶望だけが残されている。


 そんな中、一人だけ静かに前へ進み出た人物がいた。


 ソフィアの母である侯爵夫人だった。


「申し訳ございませんでした」


 深く頭を下げるその姿に、王妃は苦しげに目を伏せる。


 長年の親友だった。


 王妃となった後も変わらず交流を続け、互いの子供たちの成長を語り合ったこともある。


 だからこそ、この結末はあまりにも痛ましかった。


 侯爵夫人はゆっくりと顔を上げ、小さく微笑む。

 その笑みには言い訳も恨みもなかった。


「私は何も知りませんでした。ですが、それを理由に責任から逃れるつもりはございません」


 静かな声だった。


「夫のしていたことも、娘の抱えていた歪みも……私は見ようとしていなかったのでしょう」


 王妃は何も言えなかった。

 慰めの言葉など、今この場ではあまりにも軽すぎる。


 しばしの沈黙の後、侯爵夫人は穏やかな表情のまま続けた。


「離縁を受け入れます」


 その言葉に、ソフィアがはっと顔を上げる。

 だが侯爵夫人は振り返らなかった。


「今後は修道院へ入り、生涯をかけて償うつもりです」


 決意のこもった声音だった。


 王妃はしばらく黙っていたが、やがて静かに頷く。


「……そうですか」


 それ以上の言葉はなかった。


 親友として引き留めることもできず、王妃としてそれを否定することもできない。


 侯爵夫人はその返答を聞くと、どこか肩の荷が下りたように微笑んだ。


 そして最後に視線をレオナルドへ向ける。

 その眼差しは不思議なほど穏やかだった。


「殿下」


 レオナルドが顔を上げると、侯爵夫人は優しく微笑み静かに言った。


「どうか、お幸せに」


 その言葉が誰を指しているのか、ここにいる誰もが理解していた。


 レオナルドもまた何も言わず、ただ静かに頭を下げる。


 それを見届けた侯爵夫人は満足そうに目を細めると、二度と振り返ることなく謁見の間を後にした。


 かつて王都で最も華やかな貴婦人の一人と称えられた女性の背中は、どこか寂しく、それでいて不思議なほど凛としていた。



「ようやく終わったな」


 背後からエドガーの声がした。


 レオナルドは窓の外へ視線を向けたまま、小さく息を吐く。


「ああ」


 長かった。


 失われた記憶も。

 グレースが一人で抱えていた痛みも。

 彼女を傷つけ続けた過去も。


 すべてを知った今、もう迷う理由などどこにもなかった。


「それで?次はどうする」


 エドガーが問いかけるが、レオナルドは迷わなかった。


「決まっている」


 思い浮かぶのは、紫色の花畑でいつも自分を待っていた少女。

 自分の命よりも、自分の幸せよりも、誰かを優先してしまう不器用な少女。


「グレースを迎えに行く」


 エドガーが眉を上げる。


「いや、もう帰ってきているだろ」

「そういう意味じゃない」


 レオナルドは苦笑した。


 彼女の身体は、もうここにある。


 けれど、彼女の心はまだどこか遠い場所に置き去りにされたままだ。


「今度こそ、隣に立ってもらう」


 誰にも奪わせない。

 誰にも諦めさせない。


 ——彼女自身にも。


 レオナルドは歩き出した。


 向かう先は決まっている。


 これから先の未来を、二人で選ぶために。



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