第52話 見慣れた光景
柔らかな感触が身体を包み込んでいた。
沈み込むような寝具と、どこか心を落ち着かせる香り。
微かに漂う懐かしい空気に誘われるように、小さく声を漏らした。
「……ん」
重たい瞼をゆっくりと開く。
ぼんやりとした視界の先に映った天井を見た瞬間、彼女は思わず息を呑んだ。
(……ここ)
見覚えがある。
何度も訪れたことのある部屋だった。
懐かしいはずなのに、最後にここを訪れた日の記憶が脳裏をよぎり、胸が痛んだ。
「まさか……」
呟きながらゆっくりと身体を起こしたその時、不意に聞き慣れた声が耳に届いた。
「起きたか」
心臓が大きく跳ねる。
振り向けば、窓際の椅子に腰掛けていた青年が立ち上がるところだった。
深海色の瞳に、陽光を受けて輝く金色の髪。
見間違えるはずがない。
「……レオナルド」
自然とその名が唇から零れた。
レオナルドは静かにこちらへ歩み寄ってくる。
その視線はまるで、少しでも目を離せば消えてしまうものを見つめるようで、どこかくすぐったかった。
「具合はどうだ」
「……大丈夫」
そう答えながら周囲を見回し、確信する。
「ここ……あなたの部屋よね」
「ああ」
迷いのない即答だった。
「どうして?」
「連れてきた」
「それは分かるわ」
分からないのは、その理由だ。
「なぜ私の家じゃないの?」
問いかけると、レオナルドはごく自然な顔で答えた。
「離したくなかった」
あまりにも真顔だったせいで、一瞬言葉を失う。
「……は?」
「離したくなかった」
「聞こえてるわよ」
聞こえているからこそ困るのだ。
昔から少し変わった人だったけれど、記憶を取り戻した今はさらに輪をかけておかしい気がする。
「……怒ってる?」
レオナルドが眉を寄せる。
「何に対してだ」
「記憶を消したこと」
沈黙が落ちるが、レオナルドの方を見ることができずに俯いてしまう。
「……恨まれても仕方ないわ」
勝手に記憶を消されて、それでも全部思い出したのだ。
胸の奥が苦しくなる。
思い出してほしかった。
でも、思い出してほしくなかった。
そんな身勝手な願いを抱いていた自分に気づき、グレースはそっと目を伏せた。
「……ごめんなさい」
気づけば言葉が零れていた。
「何がだ」
「全部」
レオナルドのためだと思っていた。
離れた方がいいと信じていた。
忘れてしまった方が、彼は幸せになれるのだと。
「私は勝手に決めた。だから——」
「謝るな」
低く響いた声に言葉を遮られる。
次の瞬間、強い力で身体が引き寄せられた。
「っ……!」
気づけば抱きしめられていた。
苦しいほど強く、逃げられないほど強く。
まるで存在を確かめるように。
二度と失わないように。
「レオナルド……」
「二度と」
耳元で響いた声は掠れていて、今にも壊れてしまいそうだった。
「二度と一人で全部決めるな」
その言葉にグレースは目を見開く。
「俺のためだと言うなら……今度は俺にも選ばせろ」
抱きしめる腕にさらに力がこもる。
胸が痛かった。
苦しいほど優しくて、真っ直ぐだから。
だからこそ離れようとしたのに、それでもこの人は手を伸ばしてくる。
「……馬鹿」
震える声で呟く。
「知ってる」
「本当に馬鹿」
「ああ」
レオナルドは否定しなかった。
昔からこうだった。
どうしようもないほど頑固で、どうしようもないほど真っ直ぐだった。
気づけばグレースの手は彼の服を掴んでいた。
離したくなくて。
安心してしまって。
情けないほどに。
「……ただいま」
小さく呟いた瞬間、抱きしめる腕がわずかに震えた。
そして耳元で、本当に小さな声が返ってくる。
「おかえり」
それは、何年もの間待ち続けていた声だった。
◇◇◇
「身体に異常はありません。ただ……」
医師が一瞬だけ言葉を選ぶように沈黙した。
「魔力について、以前とは大きく変化しています」
「変化?」
「はい。以前のあなたの魔力量は、正直に申し上げて異常なほどでした」
医師は慎重に続けた。
「それほど膨大な魔力を持つ者は、歴史上でもほとんど例がありません。ただ……」
その視線がレオナルドへ向く。
「殿下の光属性と長期間干渉していた場合、危険な状態になる可能性は否定できませんでした」
指先が震える。
やはり、あの日聞いた言葉は間違っていなかった。
医師は穏やかに続けた。
「ですが、現在のあなたの魔力量は一般的な貴族と同程度です。魔法の使用にも問題ありませんし、殿下へ影響を及ぼす心配もないでしょう」
その言葉が、すぐには理解できなかった。
「……え?」
思わず間の抜けた声が漏れる。
影響がない。
その言葉だけが、頭の中で何度も反響した。
「本当に……?」
自分でも驚くほど震えた声だった。
「はい。少なくとも現在の状態であれば、殿下の身体を蝕むような危険はありません」
その瞬間、何かが胸の奥で崩れ落ちた。
長い間、抱え続けていた恐怖。
レオナルドの隣にいる資格などないと思い込んだ理由。
愛しているからこそ、離れるしかないと決めた理由。
全部、もう必要なかったのだ。
「……つまり」
ずっと黙っていたレオナルドが、低い声で尋ねる。
「もう、グレースが俺から離れる理由はないということですか」
医師は静かに頷いた。
「はい」
その返事を聞いた瞬間、レオナルドは目を閉じた。
安堵したようにも見えるが、その表情には少しだけ痛みが混じっていた。
「……そうか」
小さな呟きが溢れた。
◇
医師の診察が終わり、部屋には再び静かな空気が戻っていた。
「身体に異常はありません。しばらく安静にしていれば問題ないでしょう」
そう言い残して退出していく医師を見送りながら、グレースはようやく胸を撫で下ろした。
魔法解除の影響は魔力が代償となったのだと理解する。
魔法も変わらず使えるし不便はないが、少し心許なく感じる。
でも、それでもレオナルドのそばにいることができるので仕方がないことだと思うことにした。
寝間着から着替えも済ませ、ようやく落ち着いたところだった。
ふと気づくと、レオナルドは何故か部屋の扉の前に立ったまま動かない。
「……何してるの」
「見張りだ」
「何の?」
「エドガー」
「意味が分からないわ」
即答だった。
だがレオナルドは真顔である。
「絶対来る」
「そうかしら?」
「だから見張る」
「来ること前提なのね」
呆れた声を返した瞬間、コンコン、と扉が叩かれた。
「入るぞ」
聞き慣れた声だった。
「……来たな」
「だから何なのよ」
レオナルドが不満そうに眉を寄せる。
そして扉が開く。
姿を現したエドガーは、ベッドの上のグレースを見るなり、小さく息を吐いた。
「起きたか」
「ええ」
「そうか」
短い返事だったが、その一言だけで十分だった。
ずっと張り詰めていたものが、少しだけ緩んだように見えたから。
「ありがとう。いろいろ助けてくれて」
グレースがそう言うと、エドガーは即座に返した。
「今更だ。別に礼はいらない」
あまりにも迷いのない返答だったので、思わず笑ってしまう。
「でも」
「お前がもう無茶しないならそれでいい」
「……ごめんなさい」
「反省してるならいい」
そう言いながらも、その表情はどこか優しかった。
胸の奥がじんわりと温かくなり、笑みが溢れる。
禁書庫で一緒に文献を漁った日々。
共犯者になってくれた日。
包帯を巻いてくれたこと。
誰にも言えない秘密を共有してくれたこと。
たくさんの記憶が蘇る。
そのとき、いつもより低い声で隣から声が聞こえた。
「助けられたとはなんだ」
レオナルドの声だった。
深海色の瞳がじっとエドガーへ向けられていた。
「え?」
「いつだ」
「色々」
「色々とは何だ」
圧が強く、思わず瞬きを繰り返した。
エドガーはそんなレオナルドを見て、小さくため息を吐く。
「昔の話だ」
「俺の知らない話か」
一瞬だけ沈黙が落ちた。
そしてエドガーは静かに答える。
「……そうだな」
レオナルドの眉がぴくりと動いたことに気づかず、真面目な顔で続ける。
「禁書庫もそうだし」
「……」
「共犯者にもなってくれたし」
「……」
「包帯も巻いてくれたし」
「包帯?」
レオナルドが妙に低い声で反応した。
「魔力逆流した時の」
「誰が巻いた」
「エドガーよ。一人じゃ上手く巻けなかったもの」
気づけば沈黙が落ちていた。
疑問に思いつつもふと、レオナルドを見ると真顔だった。
すると静かな声で問いかけられる。
「そうか。……何回だ」
「何回?」
「包帯だ」
「何回か」
「何回かとは」
「覚えてないわ」
わざわざ回数なんて数えたことはない。
でもレオナルドは再び無言になってしまった。
(何かまずいこと、言ったかしら……?)
エドガーを見るとおでこに手を当てて天井を向いていた。
……これは、どういう状況?
「……レオナルド?どうしたの?」
恐る恐るレオナルドに問いかけてみる。
「嫉妬している」
「……は?」
即答された内容が理解できず、思わず固まる。
「嫉妬している」
「二回言わなくても聞こえてるわ」
「なら理解しろ」
「何を?」
本当にわからない。
今の内容に嫉妬することがあっただろうか。
しかしレオナルドは真顔で続けた。
「お前が苦しんでいた時期を支えていたのが俺じゃなかった。……だから嫉妬している」
「でもあなた、記憶なかったじゃない」
包帯を巻きたかったということだろうか。
レオナルドがいるなら包帯を巻くまでもなく治癒魔法を使っている気もするが。
そもそも記憶がないから、私に近づこうとしないはずだ。
「それは知っている」
「なら仕方ないでしょう」
「仕方なくても嫉妬はする」
「……面倒ね」
「知ってる」
その即答にどう返すか迷っていると、エドガーが吹き出した。
「はは!お前たちは本当に変わらないな」
笑いつつも、呆れた声だった。
「……そうかしら」
「そうだ」
今度はレオナルドまで即答した。
そして当然のように私の隣へ腰を下ろす。
距離が近い。
近すぎる。
ちらっとエドガーを見ると、眉をひそめた。
「お前な」
「何だ」
「近い」
「そうか?」
「そうだ」
レオナルドは少し考えたあと、さらに私の肩を抱き寄せた。
「これでどうだ」
「悪化した」
その軽快なやりとりに思わず二人を見比べた。
状況についていけない。
「?」
そのとき、エドガーは深いため息を吐いた。
それでふと私たちをじっと見つめたあと、ふっと笑った。
「……まあいい。ようやく見慣れた光景に戻ったからな。安心した」
エドガーは小さく肩を竦めた。
その言葉に一瞬だけ目を見開いてしまうも、笑みが溢れた。
たしかに、昔から私たちを1番近くで見ていたのはエドガーだ。
なんだかんだ心配していたのかもしれない。
「……ありがとう」
笑顔でそう言うと、エドガーは一瞬だけ目を細めた。
「礼ならいらないとさっきも言っただろう」
ぶっきらぼうに返されるが、その声はどこか柔らかかった。
「おい」
隣から不機嫌な声がしてそちらをみると、レオナルドが露骨に嫌そうな顔をしていた。
「何だ」
「その顔やめろ」
「無理だ」
「隠せ」
「嫌だ」
エドガーは呆れ果てたように再び天を仰いでいた。
——面倒くさい。
そんな言葉が聞こえた気がした。
ちなみにその後。
禁書庫の件から包帯の件まで、レオナルドによる長時間の聞き取りが行われたのだが。
——その時の私は、まだ知る由もなかった。




