第51話 おかえり
——温かい。
指先に触れたその瞬間、何年も焦がれ続けた温もりが、確かにそこにあった。
夢でも、幻でもない。
黄昏が見せるまやかしでもない。
触れられる。
今、俺はグレースに触れている。
その事実だけで胸がいっぱいになった。
「グレース——」
名前を呼ぶ。
指先を握っても、逃げていかない。
消えないし、光にもならない。
ずっと求め続けた存在が、ようやく腕の届く場所にいた。
「っ……」
ふらり、とグレースの身体が傾いた。
考えるより先に身体が動く。
「グレース!」
抱き寄せると、細い身体が腕の中へ落ちてきた。
今度こそ。
本当に今度こそ、空を切らなかった。
腕の中に重みがある。
柔らかな髪が肩へ触れると、微かな体温が伝わってくる。
息が止まりそうだった。
抱きしめられる。
触れられる。
失わない。
それだけのことが、どうしようもなく嬉しかった。
「……グレース」
震える声が漏れるが、返事はない。
ぐったりと力を失っている。
一瞬だけ血の気が引いた。
「おい!」
顔を覗き込み、呼吸も脈もあることを確認する。
ただ眠っているだけだった。
それを確認した瞬間、全身から力が抜けた。
俺の腕の中で——生きている。
魔法解除の反動なのか。
念の為治癒魔法をかけるが、特に異常はないようだ。
ほっと安堵すると同時に、胸に込み上げる気持ちのまま、意識のないグレースを抱きしめる。
甘い、花の匂いがする。
この香りだと、思った。
「やっと……」
やっと、取り戻した。
二度と失いたくなかった存在を。
「もう、離さない」
——二度と。
意識を失ったままのグレースに声をかけて横抱きに抱える。
そしてそのまま丘を降りた。
◇
抜け穴を通り、アシュフォード公爵家の離れ近くへ。
そして城への抜け道を通り、王城へ戻る。
王城での抜け道から出たちょうどそのとき。
「レオナルド!!」
見なくても誰かわかってしまう。
こいつには会いたくなかった。
正確にはグレースを見せたくなかった。
グレースを自身で隠しつつも顔だけ振り返る。
「……エドガーか。何の用だ」
突き放すような言葉しか出てこない。
それでもエドガーには十分伝わったようだ。
隠しきれるわけもなく、グレースに気づいたようだった。
「……っ、グレースっ……!」
「……見るな」
エドガーの気持ちもわからなくない。
が、しかし。
どうしてもこいつには……
わかっている。
グレースのために動いてくれていたことも。
調べるのだって手伝ってくれていたことも。
それでも記憶をなくしてたときの2人が思い浮かび嫉妬心が抑えられない。
「……ついさっき。頭痛とともに、記憶がなだれこんできたんだ。だからもしかしたらと思ったんだが……ありがとう、レオナルド」
涙目になってグレースを見ているところ申し訳ないが、その言葉には頷けない。
「お前に礼を言われることではない」
「ははっそれはそうだな」
そんな泣き笑いのような顔をしないでほしい。
グレースが戻ってきたことが本当に嬉しいようだ。
ただグレースが戻ってこれたのは、エドガーの頑張りも一部……ほんの少しだけあるのも事実だ。
「礼を言う。エドガー」
「は——」
「だが、グレースは俺が守る」
俺の言葉に驚いた顔をしていたエドガーは、続いた俺の言葉に納得したような、ほっとしたような顔をしていた。
「まぁ、そうだよな。わかっている。で、グレースをここまで連れてきてどうするつもりだ?」
「決まっている。俺の部屋につれていく」
「は——?」
「おそらく、魔法を解除した反動で気を失っているが、ほどなく目を覚ますだろう。だから——」
「いや待て待て待て」
エドガーと話しつつも早くグレースを横にしてあげたいと、歩きだそうとした俺の肩をエドガーが掴んだ。
「離せエドガー。グレースは渡さないと言っただろう」
「いやそういうことではない。このまま連れて行くのは——」
「もうグレースを離すつもりはない。どんなことを言われようとな。どんな噂をされても俺が全てねじ伏せる。そのために今まで努力してきたんだ」
死に物狂いで努力していたのは全てグレースのため。
なのにこうも邪魔立てするとは。
「普通は医務室だろう」
「断る」
「でも医者に見せたほうが……」
「王宮医師を呼べばいい」
「だからってお前の部屋はおかしい」
「どこがおかしい」
本気で分からなかった。
ようやく取り戻したのだ。
ずっと探し続けて、何度も失って、何度も後悔して。
やっと——やっとだというのに、なぜ離さなければならないのか。
「……お前、本当に変わらないな」
「何の話だ」
「いや、別に」
エドガーは呆れ果てたような顔をしていたが、ふっと諦めたように笑った。
「連れて行けよ」
「当然だ。なぜお前が許可をするんだ」
「はいはい。ただし医者は呼べ」
「最初からそのつもりだ」
それ以上引き止められることはなかった。
再び、自室に向かって歩き出す。
腕の中のグレースを見る。
静かな寝息に、穏やかな表情。
もう消えない。
もう失わない。
その事実だけで胸が満たされた。
自室に着き、俺は迷わず部屋の奥へと進んだ。
自分のベッドへ、そっと彼女を寝かせる。
——俺のベッドで眠っている。
その事実が未だに信じられなかった。
子供の頃なら喜んでいただろう。
記憶を失う前なら緊張して眠れなかったかもしれない。
だが今は違う。
ただただ安心していた。
ようやく帰ってきたのだと。
それだけで十分だった。
そっと手を伸ばし、頬に触れる。
——柔らかい。
黄昏では決してできなかったことだった。
何度も手を伸ばした。
何度も名前を呼んだ。
触れたいと思うたびに夜が来た。
そのたびに彼女は消えていった。
けれど今は違う。
触れても消えない。
そこにいる。
俺の手の届く場所に。
眠ったままのグレースの額へそっと唇を寄せる。
「……おかえり」
誰にも聞こえない声でそう呟き、そっと掛布をかける。
俺はいつまでもその愛おしい寝顔を見つめ続けた。
——もう二度と失わないように。




