第50話 帰ろう
レオナルドに戻ります。
グレースの涙は止まらなかった。
泣きながら、それでも必死にこちらを見ている。
その姿が愛おしくてたまらなかった。
そして何より、どうしようもなく、胸が苦しいほどに嬉しかった。
今までも分かってはいた。
グレースが俺を想っていたことくらい。
分からないはずがない。
俺のために離れようとしていた。
俺のために嫌われようとしていた。
俺のために自分を犠牲にしていた。
そんなものは愛情以外の何でもない。
だから俺に対する気持ちを疑ったことはなかった。
けれど、今までずっと思っていた。
グレースは俺を想っている。
そんなことは知っていた。
あいつは昔から嘘が下手だから。
だが俺ほどではないと思っていた。
俺ほど失いたくないわけじゃない。
俺ほど執着しているわけじゃない。
俺ほど——
俺がどれだけ手を伸ばしても。
どれだけ傍にいてほしいと願っても。
グレースは最後には、俺より俺を優先してしまうのだと。
こいつはきっと笑って、自分だけ離れていくのだと。
けれど違った。
違ったのだ。
こいつも苦しかった。
こいつも離れたくなかった。
こいつも俺と同じだった。
俺がグレースのいない未来を望めなかったように。
グレースもまた、俺のいない未来を望んでいなかった。
俺だけがしがみついていたわけじゃなかった。
その事実が胸を満たしていく。
長い冬が終わったようだった。
失い続けてきたものを、ようやく取り戻した気がした。
「……グレース」
名前を呼ぶと、彼女の肩が小さく震えた。
「お前は俺の傍にいたいんだな」
びくりと身体が揺れる。
そして、困ったように視線を逸らした。
「それは……」
「違うのか」
「……」
「さっき自分で言っただろう」
グレースは何も言わない。
唇を噛み締めたまま俯く。
今度こそ—— 絶対に逃がさない。
「お前は戻りたいんだな」
震える瞳がこちらを向く。
否定しない。
できない。
それだけで十分だった。
小さく笑みが漏れた。
もう迷いはない。
日記に残されていた術式はすべて解読した。
帰還に必要な条件も、グレースが恐れている理由も、全部分かっている。
——なら条件は揃った。
グレースは戻りたい、俺の傍にいたいと言った。
ならもう終わりだ。
何も諦める必要などない。
「帰ってこい——俺の傍に」
真っ直ぐに告げると、グレースの瞳から大粒の涙が零れ落ちた。
「たとえ魔力を失ったとしても構わない。王妃になれなくてもいい」
そんなものは後から考えればいい。
「お前が戦えなくてもいい」
そんなことを望んだことは一度もない。
「お前がお前でいてくれれば、それでいい」
ただ、それだけだった。
ずっと昔からグレースだけが欲しかった。
「だから帰ってこい」
声が情けないほどに震える。
それでも止まらなかった。
「もう二度と離れるな」
ずっと言いたかった言葉だった。
何年も。
何度失っても。
何度忘れられても。
ずっと。
「俺の隣にいろ」
グレースが息を呑む。
「一年でも。十年でも。五十年でも。死ぬまで」
黄昏の風が吹いた。
揺れるスイートピーの向こうで、グレースの瞳が大きく揺れている。
「……一生、俺の傍にいてくれ」
声が少し震えた。
今さら格好などつけられなかった。
グレースは何も言わなかった。
ただ大粒の涙を零しながら、じっとこちらを見つめている。
その沈黙さえ愛おしかった。
もう答えは分かっている。
分かっているのに、それでも彼女は最後まで素直になれない。
そういう奴だから。
「……返事は」
わざと問いかけると、グレースが眉を寄せた。
「……ずるいわね」
掠れた声だった。
「何がだ」
「全部よ」
涙を拭うこともせず睨んでくる。
言葉が続かず、唇が震えている。
「そんなこと言われたら……今まで私が頑張って我慢してきた意味がなくなるじゃない」
思わず笑いそうになった。
本当に最後までこいつはこいつだ。
「意味なんて最初からなかった」
「あるわよ!」
珍しく即座に言い返された。
しかしその声は震えていた。
「私は本気だったの!あなたを守ろうとしてたの!」
知っている。
だから苦しかった。
だから怒っている。
「だったら今度は俺を信じろ」
グレースが息を止める。
そんな彼女に静かに告げる。
「今度は俺がお前を守る。お前が一人で全部背負うのは禁止だ」
「……そんなの横暴だわ」
「王太子だからな」
「最低」
「知ってる」
グレースが泣きながら笑った。
その笑顔を見た瞬間、胸の奥に絡みついていた何かがほどけていく。
(……ああ。やっとだ)
本当に、長かった。
失って、忘れて、探して——ようやくここまで辿り着いた。
「……後悔しても知らないわよ」
不意にグレースが涙声で呟いた。
「ん?」
「私は面倒よ」
「知ってる」
「すぐ怒るし」
「知ってる」
「可愛くないし」
思わず眉をひそめた。
何を言い出すのかと思えば、泣きながらそんなことを言う。
「誰がそんなことを言った」
「——え?」
グレースがぱちりと瞬く。
まるで予想もしていなかった言葉を聞いたような顔だった。
「お前は可愛いだろう」
何をそんなに驚いているのか分からない。
昔からそうだった。
初めて会った頃から。
不機嫌そうに眉を吊り上げる顔も。
意地を張って素直になれないところも。
動物を見つめる時だけ少し柔らかくなる表情も。
——全部、ずっと可愛かった。
だから自然と口から出た。
当たり前の事実を口にしただけだった。
けれどグレースは違ったのか、固まっていた。
「は……?」
間抜けな声が漏れ、思わず笑いそうになる。
「それに綺麗だ」
ついでに付け加えるが、こちらも事実だった。
黄昏の光の中で涙を零すその姿は、息を呑むほど綺麗だし、そもそも昔から綺麗だった。
だから何も間違ったことは言っていない。
「昔から思っていた」
グレースの顔がみるみる赤くなる。
「な、何を突然……!」
「突然でもないが」
「突然よ!」
「でも事実だ」
「違う!」
「違わない」
即答すると、グレースがますます顔を赤くした。
本当に面白い。
さっきまであれほど泣いていたくせに、今は涙より羞恥が勝っているらしい。
その様子が愛おしくて、笑みが溢れる。
「……私は、性格悪いわ」
「それはそうだな」
「……失礼ね」
「自分で言ったんだろ」
するとグレースが少しだけ頬を膨らませた。
「……じゃあ、後悔するかもしれないわね」
その言葉に即答する。
「しない」
「絶対に?」
「ああ」
「本当に?」
「何百回でも言うぞ」
グレースの瞳が揺れる。
そしてほんの少しだけ、観念したように笑った。
「……馬鹿」
それは昔から変わらない。
彼女なりの降参だった。
その瞬間、黄昏の光が大きく揺れた。
花畑を渡る風が強くなり、スイートピーが一斉に揺れた。
空から降り注ぐ茜色の光が、まるで祝福するように二人を包み込む。
グレースが目を見開いた。
「……え」
淡い光が彼女の身体から溢れ始める。
崩れる光ではない。
消えるための光でもない。
もっと温かく。
もっと優しく。
夜へ溶けるはずだった黄昏そのものが、彼女を包み込んでいた。
「レオナルド……」
震える声だったが、今度は恐怖ではなかった。
グレースへ向けて手を伸ばす。
今度こそ届くと信じて。
「帰ろう」
そう告げた瞬間、伸ばした手に今度こそ彼女の指先が触れた。
黄昏の丘を満たしていた光が、眩い輝きとなって空へ駆け上がった。




