最終話 またお前を愛する
王都中央大聖堂。
高くそびえる白亜の尖塔の下、神聖な空気に満ちた礼拝堂の奥で、グレースは静かに水晶へ手を伸ばしていた。
——魔力鑑定。
王国でも最も精度が高いとされる正式な鑑定だった。
医師の診断はあったが、戻ってきた後の身体に問題がないか。
そして、最も重要なこと——グレースがもう何の憂いもなく、自分の隣にいてくれるのか。
それを確かめるためだった。
隣に立つグレースの存在を確かめるように視線を向ける。
正直、自分の身体がどうなろうと構わない。
だが、もし再び危険が残っていると言われれば、グレースはまた一人で抱え込もうとするだろう。
それだけは絶対に認められなかった。
やがて水晶が淡く光り始める。
神官長は静かに目を閉じ、その反応を確かめた。
しばらくして。
「……なるほど」
意味深な声が大聖堂に響いた。
そして神官長は穏やかに顔を上げる。
「結果を申し上げます。現在のアシュフォード公爵令嬢の魔力量は、一般的な上位貴族と同程度です」
その言葉に、礼拝堂の空気がわずかに緩んだ。
「以前の魔力量は常識の範囲を大きく超えるほど膨大でした。しかし現在は極めて安定しております」
医師の言葉が正しかったことが証明された。
それだけで十分だった。
グレースが戻ってきた代償は決して小さくない。
だが、命を失うこともなく、魔法を失うこともなく、今こうして隣にいる。
「日常生活にも魔法の行使にも問題はありません」
神官長のその一言に、ようやく肩の力が抜けた。
もう彼女が、自分から離れなければならない理由は存在しない。
隣へ視線を向けると、グレースもまたどこか安堵したように肩の力を抜いていた。
その姿を見て、俺もようやく心から安堵した。
◇
その後。
禁書庫から持ち出した数百年前の闇属性魔法使いの日記の解読も終わった。
愛する人を取り戻すために、手を尽くした男。
結果として周囲から忌み嫌われ、危険視された。
やがて闇属性そのものが恐れられるきっかけとなった存在だった。
しかし、最後まで読み終え、静かに本を閉じた。
「結局、この人も同じだったんだな」
「同じ?」
「ああ」
静かに本を撫でた。
「失った人を取り戻したかったんだ」
数百年前の男も、禁忌だと分かっていても、周囲に恐れられても、全てを敵に回しても。
それでも諦められなかった。
「……愛していたから」
ぽつりと零れた言葉に、グレースが目を伏せる。
その姿がどこか愛おしくて、笑みが溢れる。
「少しだけ、気持ちが分かる」
数百年前の誰か。
そして自分。
やったことは違っても、願いは同じだった。
愛する人に幸せでいてほしい。
それだけだったのだ。
◇
その日の夕方。
王城へ戻った俺たちを待っていたのは、思いもよらない知らせだった。
「アシュフォード公爵家へ、正式に婚約の打診を出しておいたわ」
母上のその一言に、隣でグレースの身体がぴたりと固まる。
「……え?」
声が小さく零れた。
普段なら滅多に動じない彼女が、珍しく言葉を失っていた。
「ええ。もちろん正式な返答はこれからだけれど」
母上は穏やかに微笑んでいる。
対照的に、グレースは完全に思考が停止しているようだった。
「こ、婚約……ですか?」
「そうよ」
信じられないものを見るような目で、グレースがゆっくりこちらを振り返る。
その視線を受けながら、俺は何も言わなかった。
いや、正確には言えなかった。
下手に口を開けば顔が緩みそうだったからだ。
「……レオナルド」
嫌な予感がした。
「何だ」
「あなた、知っていたわね?」
鋭い。
流石に勘が良い。
「さてな」
「さてな、じゃないでしょう」
じとりと睨まれるが、否定はしない。
できるわけがなかった。
むしろ今すぐ公爵家へ向かいたいくらいだった。
そんな俺たちを見ながら、母上は楽しそうに目を細める。
「ふふ。随分待たせてしまったものね」
その言葉に、グレースの頬が僅かに赤く染まった。
俺も何も言い返せない。
実際、待たせ過ぎたのは事実だったからだ。
◇
慌ててアシュフォード公爵邸へ戻ったグレースが、不意に足を止めた。
離れの前に一人の男が立っていた。
——アシュフォード公爵。
グレースの父親だ。
以前会った時と変わらず、表情らしい表情もない。
何を考えているのか分からない男だった。
だが、グレースはその姿を見た瞬間、僅かに息を呑んだ。
「帰ったか」
「……はい」
グレースの返事も小さい。
二人の間に流れる空気は、どこかぎこちなかった。
親子だというのに、まるで初対面同士のようだと思った。
けれど、それでも公爵は確かにグレースを見ていた。
公爵はゆっくりと視線を動かした。
一瞬だけ俺を見るが、王太子相手だからといって態度を変える様子はない。
「婚約の話は聞いている」
静かな声だった。
隣でグレースの肩が僅かに強張った。
そして公爵は続ける。
「どうする」
「……え?」
「お前の意思を聞いている」
グレースが目を瞬く。
俺も思わず公爵を見た。
その言葉が意外だったからだ。
少なくとも以前の公爵なら、娘の意思など聞かずに決めても不思議ではないと思っていた。
だが今は違う。
公爵はただ静かに返事を待っていた。
グレースは戸惑ったように立ち尽くす。
それからゆっくりと、何かを確かめるように俺を見上げた。
紫の瞳が揺れる。
その答えは知っていた。
「……婚約、したいです」
小さな声だったが迷いはない。
公爵は静かに目を閉じる。
「……そうか」
それだけだった。
それだけなのに、グレースの表情が少しだけ緩んだ気がした。
公爵はしばらく娘を見つめていたあと、今度はレオナルドを真っ直ぐに見る。
「……娘を頼みます」
思わず息を呑んだ。
隣でグレースも目を見開いている。
公爵の表情はほとんど変わらない。
だが、その言葉だけで十分だった。
不器用な男なりの答えなのだろう。
それに対して静かに頷いた。
「お任せください」
今度こそ、絶対に離さない。
◇
夕暮れの丘には、柔らかな風が吹いていた。
紫色のスイートピーが一面に揺れている。
ここは全ての始まりの場所だった。
二人だけの秘密を重ねた場所。
そして何度も失い、何度も探し続けた先に、再び辿り着いた場所でもある。
「懐かしいわね」
花畑を見つめながら、グレースが小さく笑った。
「ああ」
その隣へ腰を下ろす。
風が吹くたびに銀色の髪が揺れた。
ただそれを眺めているだけで胸が満たされる。
こんな時間がもう二度と訪れないと思っていた。
だからこそ、今こうして隣にいられることが奇跡のようだった。
しばらく二人で景色を眺めていたが、ふと思い出して口を開いた。
「そういえば、一つ頼みがある」
「何?」
「また作ってくれないか」
グレースが首を傾げる。
「ハンカチを」
一瞬だけ、彼女が目を瞬いた。
グレースが刺繍した白いハンカチ。
何度も握り締めた大切な宝物だ。
だが、あれはもうグレースが戻ってきたときには失われてしまった。
「今度は失わない」
真面目に言うと、グレースが吹き出した。
「考えておくわ」
「作ってくれ」
「考えておく」
「作ってくれ」
「しつこいわね」
呆れたように笑う声が心地いい。
昔と何も変わらない。
それがどうしようもなく嬉しかった。
自然と笑みが溢れる。
そして、そっとグレースへ視線を向けた。
紫色の瞳が夕陽を映して揺れている。
何度も見失った。
何度も手を伸ばした。
それでも諦められなかった人。
「グレース」
名前を呼ぶと、彼女がこちらを見る。
その瞬間、胸が静かに満たされた。
「俺はずっと、お前を愛していた」
グレースが息を呑む。
そして静かに続ける。
「記憶を失っても、忘れさせられても」
何度記憶を奪われても。
何度離されても。
気づけば探していた。
理由も分からないまま惹かれ続けていた。
「それでも俺は、お前を探していた」
紫の瞳が潤み、涙が零れそうになっているのが分かった。
何も持っていないと思い込み。
一人で抱え込み。
誰にも頼らず傷ついてきた少女へ。
「だからもう、自分に価値がないなんて思うな。お前は最初から、俺にとって唯一だった」
ぽろりと涙が零れ落ちるが、彼女は目を逸らさなかった。
まっすぐに俺を見つめ返してくる。
その姿が愛おしくてたまらなかった。
「愛している」
ずっと伝えたかった。
何度失っても変わらなかった想いを、ようやく言葉にできた。
グレースは涙を拭いながら、小さく笑う。
「私も……愛してる」
震える声だったが、確かに届いた。
その言葉を聞いた瞬間、レオナルドはそっと彼女を引き寄せた。
重なった唇は驚くほど温かい。
黄昏の空の下、紫色のスイートピーが風に揺れる。
失われた時間は戻らない。
けれど、それでもいいと思えた。
これから先の未来を共に歩けるのなら。
たとえ何度忘れても。
何度離れても。
俺はきっと、またお前を愛する。
——だから今度こそ、二度と離さない。
最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。
レオナルドとグレースの物語を、無事に完結まで届けることができて嬉しく思います。
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本当にありがとうございました。




