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悪女と呼ばれる公爵令嬢のことだけ、なぜか王太子は思い出せない  作者: はな
第四部:追還の王太子──ときどき公爵令嬢

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第48話 譲れないもの



 黄昏の丘には、今日も柔らかな風が吹いていた。

 紫色のスイートピーが揺れる。


 昼でも夜でもない曖昧な時間。


 光と闇が混じり合う僅かな境界で、グレースはいつものように姿を現した。


「……何?」


 視線が合った瞬間、怪訝そうに眉を寄せる。

 何も答えず、その姿を見つめた。

 その反応が不思議だったのか、グレースはさらに首を傾げる。


「今日は変ね」

「そうか?」

「そうよ」


 いつもなら何かしら言葉を返していたはずだ。

 だが今日は、それをする気になれなかった。


 ただ目の前のグレースを見つめる。


 その沈黙が不思議だったのか、グレースは小さく眉を寄せた。


「何かあったの?」

「ああ」


 短く答えると、グレースの眉がさらに寄った。

 普段と違うことくらい、あいつにも分かるのだろう。


「なあ、グレース」

「何よ」

「お前、知っていたんだろ。俺の身体のこと」


 グレースの表情が止まった。

 風が吹き、花々が揺れる。

 けれど、その場だけが不自然なほど静まり返った。


「……何の話かしら」


 少しだけ遅れて返ってきた声は、驚くほど平坦だ。

 だがもう騙されなかった。


「誤魔化さなくていい。……エドガーの記憶が戻り始めている」


 その瞬間、グレースの瞳がわずかに揺れた。


「医師との会話を聞いたんだろ」

「……」

「俺と一緒にいると、お前の魔力が俺を蝕むと」


 沈黙が落ちる。


 否定はなかったが、それだけで十分だった。

 胸の奥が鈍く痛む。


 分かっていた。

 分かっていたはずなのに、実際に認められると苦しかった。


 グレースはゆっくりと目を伏せ、小さな声で呟いた。


「……それが分かったところで、何も変わらないわ」

「変わる」

「変わらない」


 即座に返ってきた答えに、息を呑んだ。

 グレースは顔を上げる。


 その瞳は、何を言っても揺らがないと告げているようだった。


「戻れば同じことになるもの。私が、あなたを殺す」


 掠れた声だった。

 風が止まった気がした。


 グレースの肩は小さく震えていたが、それでも視線だけは逸らさない。

 今までずっと飲み込んできた本音を、ようやく口にしたように。


「私の魔力は異常なの。近くにいるだけで影響が出る。……だから戻れない」


 自嘲するように笑った。

 その笑みは痛々しいほど弱々しかった。


 それはようやく聞けた本当の理由だった。

 けれど少しも納得できなかった。


 むしろ胸の奥から別の感情が込み上げてくる。


「それで?」

「……は?」

「だから何だ」


 グレースが目を見開き、呆然とした顔で固まった。

 一歩だけ前へ出てグレースに近づく。


「死ぬかもしれないから離れる?」


 思わず自嘲するように、呆れるように笑う。


「そんな理由で納得できるか」

「っ!そんな理由じゃない!あなたは分かってない!私は何度も考えたの!何度も方法を探したのよ!」


 グレースの顔色が変わり、初めて声が荒くなる。 苦しそうに胸元を押さえ、震える声で叫んだ。


 胸が痛む。


 知っている。

 それは分かっている。


 誰より努力してきたのはグレースだ。

 誰より足掻いてきたのもグレースだ。


 見ていたわけではないが、それくらい分かる。


 ——だからこそ。


「分かってる」

「……え?」

「お前が諦めたんじゃないことくらい分かってる。何度も方法を探したんだろ。俺が壊れない未来を。二人とも失わずに済む未来を。………それでも答えが見つからなかった」


 グレースの瞳が揺れた。

 何も言えなくなったグレースの反応だけで十分だった。

 ゆっくり息を吐き、言葉を続ける。


「だから今度は俺が決める」


 グレースが息を呑む。

 黄昏の光が二人の間に降り注いでいた。


「お前は俺のために離れた。——なら俺は俺のためにお前を取り戻す」

「……ふざけないで」


 その言葉にグレースの瞳が大きく揺れ、震えた声が漏れた。


「私はあなたを守りたいの!」

「知ってる」

「だったら——」

「だから言ってるんだ」


 グレースの瞳をまっすぐ見つめる。

 俺の本気が伝わらない限り、グレースは簡単には意志を曲げない。


 でもこれが嘘偽りない俺の本心だから。


「守られるかどうかを決めるのは、お前じゃない。——自分の人生を選ぶ権利は俺にある。お前が勝手に決めることは許さない」


 きつい言葉だったが、それでも傷つけたいわけではなかった。


 グレースの唇が震え、絞り出すような声が漏れる。


「……どうして分からないの。私はあなたに生きていてほしいの」


 その言葉に込められた願いの重さを、誰より知っていた。

 だからこそ、首を横に振る。


「分かってないのはお前だ。俺は死ぬのが嫌なんじゃない」


 グレースが顔を上げ、俺を見つめる。

 黄昏の風が二人の間を吹き抜けた。


「——お前がいなくなるのが嫌なんだ」


 グレースの瞳が大きく揺れた。

 畳み掛けるように静かに言葉を重ねる。


「王太子だからでも、責任だからでもない。俺はただ、お前のいない未来を選びたくない」

「……っ」


 グレースが苦しそうに息を呑む。

 だが視線を逸らさなかった。


「お前は俺を守るために、自分を捨てた」


 胸の奥が痛む。


 どれだけ苦しんだのか。

 どれだけ悩んだのか。


 想像するだけで苦しかった。


「だったら俺は、お前を守るために俺を捨てる」

「やめて!」


 グレースが今にも泣きそうな顔で叫んだ。


「そんなこと望んでない!」

「ああ。知ってる。…….お前は俺を殺すかもしれないと言ったな」

「……ええ」

「なら聞くが」


 小さく笑った。

 不思議と心は静かだった。


 怒りも焦りもない。

 ただ一つだけ、譲れないものがある。


「お前がいないまま生きる俺は、本当に生きていると言えると思っているのか」




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