第47話 待たない
そこから先の日記は、今までとは明らかに違っていた。
文字が荒れている。
焦りとも絶望ともつかない感情が、そのまま紙へ叩きつけられているようだった。
『私は彼女を止めた』
短い一文が目に入る。
その言葉だけで胸がざわつく。
『まだ魔力を失わずに済む方法があるはずだと、もっと良い未来があるはずだと言った。彼女は優しい顔で笑ってくれた。だから、私は安心したのだ』
嫌な予感がした。
胸の奥が、冷えていく。
『時間はいつまであるのかわからない。それでもすぐに消えるわけではないだろう。だから私は研究を続けた』
一行ごとに呼吸が苦しくなる。
そして日付が飛んだ。
『何も見つからない。焦る必要はない。まだ大丈夫だ。まだ間に合う』
文字が乱れている。
インクも滲み始めていた。
『やっと、理論は完成した。あと少しだ。最後にこれが確認できれば……』
文字の乱れとは裏腹に、その一文には微かな安堵が滲んでいた。
ようやく答えに辿り着いたと思ったのだろう。
だからこそ、次のページの言葉はあまりにも残酷だった。
『彼女は消えた』
先ほども見た、たった一文。
それだけだった。
それなのに、今までのどの文章より重かった。
しばらく空白が続いていた。
そして次のページを開いた瞬間、息を呑む。
そこに残されていた文字は、もはや日記とは呼べないほど荒れていた。
『私が殺した』
その一文に、呼吸が止まる。
続く文章には、自責の言葉が延々と綴られていた。
もっと早く決断できていれば。
もっと早く手を取っていれば。
何も惜しまなければ。
そんな後悔が、何度も何度も繰り返されている。
『彼女は戻れた。戻れたのに』
震えるような筆跡だった。
魔力も、未来も、研究も。
全てを惜しんだ結果、自分は彼女を失ったのだと。
男は同じ後悔を書き連ねていた。
途中からは文字すら崩れ始めている。
書いては消し、消してはまた書き直した跡が残っていた。
さらにページを捲ると、そこから先はほとんど判読できなかった。
ただ、失われた名だけが何度も何度も書き殴られている。
『返してくれ。レベッカを』
紙は破れ、インクは滲み、文字は途中で潰れていた。
もはや日記ではない。
愛した者を失った男の慟哭だった。
そして最後の数ページをみると、そこだけは異様なほど文字が整っていた。
泣き叫ぶことすら終えた者のようだった。
静かで、冷たくて、だからこそ恐ろしかった。
そこには、闇が人を狂わせるのではないと記されていた。
狂ったのは自分だ、と。
彼女を失ったから狂ったのだ、と。
そして。
『もし、もう一度だけ選べるなら。私は何も惜しまない』
思わず息を止める。
その一文に込められた後悔の重さに、胸の奥が軋む。
その後の文章には、理論だの方法だのという言葉が並んでいた。
失われたわけではない。
まだ取り戻せる。
必ず取り戻す。
そう繰り返す文字からは、執念にも似た熱が伝わってくる。
それは希望ではなかった。
救いでもない。
何かを失った者が、その喪失だけを抱えて辿り着いた狂気だった。
そして最後のページには、たった一言だけが残されていた。
『返せ』
紙を抉るほどの筆圧で刻まれたその文字を見つめながら、静かに本を閉じた。
何百年も前の男の後悔。
何百年も前の男の絶望。
そして狂気。
その全てが、この一冊に詰まっていた。
しばらくの間、閉じた本を見つめていた。
胸の奥に残っているのは、恐怖でも驚きでもない。
ただ、どうしようもない痛みだった。
この男は、最初から彼女を失いたかったわけではない。
レベッカを救い、失わない未来を探していた。
その気持ちは理解できる。
いや、理解できてしまった。
魔力を失うことが、この世界でどれほど重い意味を持つのか。
だからこそ、この男は迷った。
少しでも可能性があるなら、もっと良い方法があるならと願い、時間を費やした。
そして気付いた時には——もう遅かった。
ゆっくりと目を伏せる。
それは、決して他人事ではなかった。
ふと、グレースの顔が浮かぶ。
黄昏の丘で見せた笑顔。
理由を問われても答えず、ただ苦しそうに目を伏せた横顔。
あいつもまた、何もせずに諦めたわけではない。
俺の知らない場所で、何度も方法を探したのだろう。
俺の傍にいても俺が壊れない未来を。
二人とも失わずに済む未来を。
それでも見つからなかったからこそ、あいつは自分を切り捨てた。
もし日記の男と同じ立場だったら、以前の自分ならきっと同じことをして、別の方法を探しただろう。
グレースが何も失わずに済む未来を。
俺も彼女も傷つかずに済む未来を。
——そんな都合のいい結末を求めて。
だがその結果が、この日記だった。
日記に残された最後の言葉が、胸に突き刺さる。
——彼は間に合わなかった。
救う方法を探し、失わない未来を選ぼうとしているうちに。
一番失いたくなかったものを失った。
「……同じには、ならない」
小さく呟く。
この男を責めることはできない。
間違いだったとも言えない。
ただ一つだけ、自分はこの結末を知ってしまった。
同じ後悔を繰り返すわけにはいかない。
グレースが何を失うのか。
自分が何を失うのか。
そんなことを考えているうちに、彼女が手の届かない場所へ消えてしまうのなら。
グレースが正しかったのか。
自分が正しいのか。
そんなことは分からない。
だが一つだけ分かるのは、彼女は俺のために離れたということ。
それならば——俺は俺のために彼女を取り戻す。
あいつが望まなくても関係ない。
俺は、グレースのいない未来など望んでいないのだから。
もう迷う理由はない。
この男は間に合わなかった。
だからこそ。
「……待たない」
掠れた声が、静かな書庫に響く。
何を失うとしても。
この身の何を捨てるとしても。
もう二度と——彼女を失うつもりはなかった。




