第46話 最愛の代償
震える指先で次のページを開く。
『どうしてこんなにも苦しいのか分かった。全て、思い出した』
その二行を見た瞬間、背筋に震えが走った。
それまで整っていた文字が乱れている。
焦ったような、縋るような筆跡だった。
さらに視線を落とし、紙の一部が歪んでいたことに気付いた。
一箇所だけ、まるで何かの雫が落ちたようにインクが滲んでいる。
古い本だからではないだろう。
思わず指先でなぞる。
触れても当然乾いている。
何百年も前の日記なのだから。
それでも、なぜか胸が締め付けられた。
『レベッカだ。私はレベッカを忘れていた。なぜ忘れたのか分からない。なぜ思い出せなかったのかも分からない。だが一つだけ確かなことがあった。彼女がいない』
無意識に唇を噛む。
胸の奥をざわつかせていた違和感が、少しずつ形になっていく。
大切な何かを失った感覚。
理由も分からないまま胸を締め付ける喪失感。
思い出せないのに苦しいという矛盾。
その全てを、知っていた。
かつて自分も同じだったからだ。
忘れていることすら忘れさせられ、それでも何かが足りないと苦しみ続けた日々だった。
この男もまた、同じ魔法に囚われていたのだろう。
『誰もレベッカのことを覚えていない。私は彼女を探した。研究棟にも、街にも、彼女の部屋にも、どこにもいなかった』
やはりそうだった。
そして視線は、自然とその先に記された文章へと吸い寄せられる。
『不思議だった。忘れていることには気付いていた。何か大切なものを失っていることも分かっていた。それなのに、一度も日記を見返そうと思わなかった』
背筋が冷え、無意識に本を握る手に力が入る。
『今なら分かる。思い出さないようにしていたのではない。思い出そうとする発想そのものが消されていた』
そうだ。
自分も同じだった。
違和感は確かにあった。
何度も夢を見たし、理由の分からない苦しさに襲われたこともある。
大切な何かを失った気がしていた。
それなのに——調べようとは思わなかった。
記録を探そうとも、過去を辿ろうともしなかった。
胸の奥では何かがおかしいと感じていたはずなのに、その違和感を追いかけるという発想そのものが、当時は浮かばなかったのだ。
まるで誰かに、その考えだけを遠ざけられていたかのように。
日記の男も同じだったのだろう。
違和感を抱きながら、その正体へ辿り着くことだけができなかった。
ページを捲ると、そこから先の文字は今までよりも荒れていた。
『私は記録を調べた。研究資料も読み返した。だが彼女が消えた理由は分からない。最初から存在しなかったかのように痕跡が消えていた』
文字には焦燥が滲んでいた。
インクは何度も掠れ、書き直した跡が残っている。
『それでも諦められなかった。そして理由は分からないが、行かなければならない気がした。あの場所へ』
一瞬、指先が止まる。
それでも次の頁を開く。
『研究棟の中庭にきた。レベッカと初めて出会った場所だ。なぜそこへ向かったのかは分からない。だが足が勝手に向かった』
鼓動が速くなる。
『そして、零時の鐘が鳴った瞬間』
そこで一度文章が途切れていた。
まるで書いた本人でさえ、その瞬間を思い出すのに時間が必要だったかのように。
そして次の行をみる。
『彼女がいた』
その一文だけが書かれていた。
その下の文字は大きく乱れ、何度も書き直した跡が残っている。
『信じられなかった。夢かと思ったが、違った。彼女は確かにそこにいた』
次の行から筆跡がさらに荒れていた。
『レベッカ。レベッカだった。間違いなく、私の——』
そこで文章は途切れていた。
何度も書こうとして、やめたような跡だけが残っている。
そして次のページを開く。
『ごめんなさい!』
その一文が飛び込んできて、思わず目が見開かれる。
『本当にごめんなさい!そんなつもりじゃなかったの!こんなことになるなんて思わなかった!』
文字は小刻みに震えていた。
まるで泣きながら書いているかのようだ。
『彼女は私を見るなりそう叫んだ。何を言っているのか分からなかった。なぜ謝るのか。なぜ消えたのか。なぜ今ここにいるのか。聞きたいことは山ほどあったが、彼女はみたことがないほど泣いていた』
少し間を空けたように文章が続く。
『私は何があったのか、何をしたのか、なぜ私の前から消えたのか聞いた』
そして次の一文で全てが変わる。
指先が止まった。
『彼女が私の記憶を消したのだと言った。意味が分からなかった。そんなことが本当に可能なのか。だが彼女は震えながら、一つの禁術の名を口にした。
——最愛記憶消去。
聞いたこともない魔法だった』
やはり思った通りだった。
今俺とグレースが置かれている状況と同じだ。
心臓は変わらず早く鼓動を打っている。
はやる気持ちと怖い気持ちがせめぎ合っている。
それでも手は自然とページを捲った。
『だが私は怒れなかった。勝手に記憶を消されたのだ。本来なら怒るべきだったのだと思う。それでも怒れなかった。彼女の方が、ずっと苦しそうだったからだ』
しばらく空白が続く。
『分からなかったの。自分が本当にあなたの最愛なのか。いつか私を置いていなくなるんじゃないかって怖かったの。だから確かめたかった。それだけだったの』
文字が滲んでいる。
インクではない。
紙に残った古い染みが、その部分だけ不自然に広がっていた。
『私が馬鹿だった。結果がどうなるかも知らずに、ただ知りたかっただけなの。ごめんなさい。本当にごめんなさい』
そこから先の文章はしばらく続いていた。
だがその謝罪を読んだ瞬間、もう彼女を責める気にはなれなかった。
『私は彼女に聞いた。戻れないのか、と』
心臓が大きく跳ねる。
視線が文字を追う速度を速めた。
『すると彼女は困ったように笑った。戻れないわけじゃないの』
呼吸が止まる。
無意識に本を握る手へ力が入った。
『たぶん戻れる』
その一文を見た瞬間、胸の奥で何かが弾けた。
——戻れる。
その言葉だけで十分だった。
今まで探し続けていた答えが、そこにある気がした。
だが次の文章を読んだ瞬間、その熱は凍りつく。
嫌な予感がした。
ページを捲る指先が僅かに震える。
『でも、戻ろうとすると分かるの。何かを失うと。それはたぶん魔力だと思う。戻れば今までのようにはいかない。どれくらい失うのかも分からない』
文章はそこで一度途切れていた。
そして最後に、震えるような文字が残されている。
『もしかしたら全部失うかもしれない』
書庫が静まり返る。
紙を捲る音さえ聞こえない。
ただ鼓動だけが耳の奥で大きく鳴っていた。
——魔力。
この世界で生きる者にとって、あまりにも重い言葉だった。
魔力がなくなるということは、つまり死と同義。
それは誰もが知る常識だ。
だからこそ、レベッカがあれほど怯えていた理由も理解できた。
『全部失うかもしれない』
その言葉は、単なる代償の話ではない。
——戻れば、命を失うかもしれない。
そう言っているのと同じだった。
ページの向こうで、何百年も前の二人が立ち尽くしている気がした。




