第40話 黄昏に繋がる
ゆっくりと時間が流れ、再び夕陽が傾き始めていた。
空がゆっくりと色を溶かしていく。
光でもない。
闇でもない。
相容れないはずの二つが、ほんの僅かな時間だけ混じり合う刻。
——黄昏。
俺は、再び一人になった丘で、静かに空を見上げた。
昨日、彼女の幻影が現れたのと、全く同じ時間だ。
理由は分からない。
けれど、胸の奥が、昨日と同じように激しく脈打って警鐘を鳴らしている。
「……来てくれ」
誰に向けた言葉かも分からない掠れた呟きは、風に消えた。
それでも待つ。
世界のすべてを敵に回してでも、俺はここで待ち続ける。
その時だった。
ふいに、世界を揺らしていた風がピタリと止まった。
世界から音が消える。
昨日と同じだ。
——来る。
次の瞬間、俺の足元から眩いばかりの淡い光の粒子が、さあっと立ち上り始めた。
「……っ」
呼吸が止まる。
光はゆっくりと宙に集まり、夕暮れの空の下で、俺が焦がれ続けた、たった一つの愛おしい輪郭を作り始めていた。
——グレース。
焦がれ続けたその美しい姿が、世界から浮かび上がるようにそこに立っている。
その表情に、昨日までのような鋭さはない。
そこにあるのは、諦めにも似た静けさだけだった。
「……また来たのね、レオナルド」
その言葉は問いではなく、確認だった。
初めて会った日のような拒絶でもない。
驚きでもない。
「当たり前だろ」
俺は即座に返す。
迷いはなかった。
ここにいることだけは、すでに揺るぎない現実になっていた。
「ここにお前がいるなら、俺は毎日でも来る」
「……毎日、ね」
グレースは小さく目を伏せる。
その横顔には、かすかな影が落ちていた。
(……?)
ふと、胸の奥で奇妙な違和感があった。
グレースなら、こんな俺の言葉には「馬鹿じゃないの?」とそっけなく言うはずだ。
しかし今のグレースには、その棘が欠片もなかった。
やっと会えたことが、ただ痛いほど愛おしかった。
その反面、普段と様子の違う彼女に不安を感じる。
「……無駄よ。私はもう、この世界のどこにもいない。ただ、あなたの執着が見せている幻かもしれないのに」
「幻だとしても構わない。苦しそうに泣く幻を、放っておけるわけがない」
その言葉に、グレースの指先がわずかに震えた。
風がまた一段と冷たくなり、丘の麓から夜の気配が滲み上がってくる。
黄昏は長くは続かない。
夜が近づくにつれてグレースの輪郭が薄れ始める。
時間が来るのだ。
「……そう」
かすかな声が落ちた。
何かを言いかけて、グレースは一瞬だけ言葉を飲み込むように唇を結んだ。
「もう、ここに来なくてもいいのよ。自分の——」
「来る」
その言葉は、拒絶というより祈りに近かった。
しかし俺も一歩も引かず、短く、はっきりと言い切った。
「お前がここにいる限り、俺は必ず来る」
「どうして……そこまで……」
グレースの声が揺れる。
その揺らぎの中に、かつて確かに存在していた“何か”が滲んでいた。
だがそれを掴む前に、夜が一気に丘へ押し寄せる。
黒い影が、足元から光を飲み込んでいく。
その瞬間だけ、丘の上から音が完全に消えた。
風も、呼吸も、言葉さえも止まる。
「……さようなら、レオナルド」
その言葉を口にした瞬間、グレースはほんのわずかだけ言葉に詰まった。
だが、それを自分で押し殺すように視線を逸らす。
その声は言い慣れた拒絶のはずなのに、どこか途中で途切れたように揺れていた。
冷たいものではなくむしろ——痛いほどに優しかった。
「……明日も、来るのね?」
「来る」
「そう。……あなたは、変わらないわね」
そう呟いた声は、どこか安堵しているようにも聞こえた。
けれど次の瞬間には、グレースはいつものように感情を押し隠してしまう。
引き止めようと伸ばした手は、やはり何も掴めない。
光はすり抜け、指先は虚空を切るだけだった。
次の瞬間、粒子は弾けるように散り、そこにはもう何も残らなかった。
ただ、冷たい夜風だけが丘を吹き抜けていく。
胸の奥に、抉られるような喪失感が戻ってくる。
ただ消えた場所を見つめたまま、呼吸を整えるように一度だけ息を吐く。
「……明日な、グレース」
誰もいない夜へ向けて、そう告げる。
それは祈りではなく、確信だった。
——明日も、必ずここで会えるという。
◇
そうして何度も、何度もこの丘で黄昏の時を待ち、奇跡のような逢瀬を繰り返すうちに、俺はある一つの“法則”を理解し始めていた。
会えるのは、いつもあの時間だけ。
太陽が沈み、夜が訪れる前のほんの僅かな数分間。
昼に願っても、夜に呼んでも、この丘はただの静かな花畑のままだった。
確信が、じわじわと胸の奥で形を成していく。
(——そうか。あいつの魔力は『闇』だ。そして俺の魔力は『光』)
なぜあの時間だけは、あいつの髪に、その指先に、触れられそうなほどの現実感が宿るのか。
昼でも夜でもない、光と闇が互いを拒絶し合うのをやめ、ほんの一瞬だけ融け合うあの時間——黄昏だ。
これは、幻なんかじゃない。
現実に起きている、俺たちの魔力が起こしたものだろう。
(ここにいても駄目だ。この正体を突き止める必要がある)
会える時間が「黄昏の間だけ」だと分かってから、俺は初めてその足で丘を降りた。
残りのすべてを、あいつを救うための手段を調べるために。




