第40話 残された証
夜の王宮書庫には、紙をめくる音だけが静かに響いていた。
公務を終えてから、いったい何時間が経ったのだろう。机の上には闇魔法と存在干渉に関する文献が積み重なり、読み終えた本の脇には、気になった記述を書き留めた紙が散らばっている。何度も同じ箇所を読み返しているうちに、文字が滲んで見え始めた。
「……違う。これも、違う……」
俺は本を閉じ、次の一冊へ手を伸ばした。
黄昏の丘では、今もグレースに会える。けれど、それはほんの短い時間だけだった。昼間にはどれほど待っても現れず、夜が訪れれば、話の途中であっても彼女の姿は光となって消えてしまう。
あの丘が、俺たちにとって大切な場所だったことは覚えている。グレースの闇と俺の光で、向かい合う二つの三日月を描いたことも。
だからこそ、あの場所と魔力に何らかの関係があるのではないかと思っていた。だが、なぜ世界から消えたはずの彼女が姿を現せるのか。どうすれば触れられるようになるのか。それを説明できるだけの知識は、今の俺にはなかった。
「……くそ」
疲れから額を押さえた、そのときだった。
「——そこまでやるとは思わなかったな」
背後から、聞き慣れた声がした。
振り返ると、書架の間にエドガーが立っていた。机の上の本を一瞥し、呆れたように眉を寄せている。
「……帰れと言ったはずだ」
「丘ではな。書庫にまで立ち入り禁止を言い渡された覚えはない」
そう言いながら近づいてきたエドガーは、俺の顔を見るなり、さらに険しい表情になった。
「お前、ちゃんと寝てるのか?」
「必要なだけはな」
「それは何時間だ」
「……」
「答えられない時点で駄目だろ」
エドガーは盛大にため息をついた。
「公務をこなしているのは聞いている。だが、それ以外の時間を全部ここへ費やしていたら、いずれ倒れるぞ」
「放っておけ」
「放っておけるなら、あの丘まで食事を届けたりしない」
返す言葉が見つからず、俺は視線を本へ戻した。
エドガーはそのまま帰るかと思った。だが、彼は机の脇へ回り込み、積まれた文献の題名を確かめ始めた。
「……闇魔法、記憶干渉、存在消失。随分と物騒なものばかりだな」
「お前には関係ない」
「本当にそうか?」
その声が、少しだけ低くなった。
顔を上げると、エドガーはこちらを真っ直ぐに見ていた。
「俺の胸の奥にも、ずっと何かが欠けている。何を失ったのか分からないのに、思い出そうとすると息が詰まるんだ」
エドガーは机の端へ手をついた。
「お前と話していると、特にそうなる。あの丘でお前が何かを思い出したと知ってからは、なおさらだ」
「……」
「お前は今、自分が誰を探していたのか分かってるんだろ。だったら、俺の空白とも無関係じゃないかもしれない」
俺は答えられなかった。
無関係なはずがない。
こいつもグレースを知っていた。あいつが辛いとき、傍にいたのは俺だけではなかった。
そして、こいつが今も忘れられずにいるあの言葉。
『……俺じゃ、だめか』
思い出すだけで胸の奥がざわついた。だが、だからといって、エドガーの苦しみをなかったことにはできなかった。
「……何を調べているかは、まだ詳しく話せない」
ようやくそう告げると、エドガーは黙って続きを待った。
「ただ、世界から存在を消された者が、再び姿を見せることはあるのか。それを知りたいんだ」
エドガーの表情が変わった。
机に積まれた本へ視線を落とし、しばらく考え込んでから、低い声で尋ねる。
「……ただの記憶喪失の話じゃないんだな?」
「ああ」
「なら、俺が調べていたものとも繋がるかもしれない」
エドガーは空いている椅子を引き寄せた。
「図書室で読んだ『存在消失と記憶修正について』に、気になる記述があったんだ。記憶が失われても、強い感情だけは残ることがある、と」
その言葉には覚えがあった。エドガーが以前から調べていたという禁書だ。
「ただの忘却なら、どうしてお前も俺も、失った相手を探そうとするのか説明がつかない。……その本、俺にも見せろ」
差し出した文献を受け取ると、エドガーは迷うことなくページを開いた。
俺はしばらく、その横顔を見つめていた。
数日前、あの丘で帰れと言ったばかりだ。それなのに、こいつは何事もなかったように俺の隣へ座っている。
「……お前、しつこいな」
「知ってるよ。今さらだろ」
さらりと返され、思わず息を吐いた。
エドガーは顔も上げず、机の上に散らばった紙を二つの山に分ける。
「読んだものと、まだのものを分けろ。お前一人で同じ本を何度も読んでいるより、二人で手分けした方が早い」
「……好きにしろ」
「そうする」
そうして、俺たちは並んで文献を調べ始めた。
◇
それから数日、俺は昼間の公務を終えると王宮書庫へ通い、黄昏には必ず丘へ向かった。エドガーも、自分の仕事の合間を縫って調査を続けてくれた。
記憶を書き換える魔法については、比較的多くの記録が残っていた。だが、対象者だけでなく、その周囲の人間や記録からも特定の人物が失われるという事例は、ほとんど見つからなかった。見つかったとしても、禁術の危険性を警告するような、断片的な記述ばかりだった。
その夜も、俺たちは書庫の奥にいた。
「……これ、見てみろ」
先に声を上げたのは、エドガーだった。
彼の手元には、題名のない薄い本があった。黒い革の表紙はひどく古びており、背にも何も記されていない。
「どこにあった?」
「禁術の分類棚だ。記憶干渉について調べていたら、関連資料として挟まっていた」
エドガーは本をこちらへ寄せた。
開かれたページには、いくつかの闇魔法が記されている。その中の一項目を見た瞬間、呼吸が止まった。
『最愛記憶消去』
対象者にとって最愛の人物に関する記憶を失わせる禁術。
失われた記憶が回復した場合には、術者へ重大な代償が及ぶ可能性があると記されていた。
「……これだ」
思わず声が漏れた。
あの夜、グレースは俺を生かすため、自分に関する記憶を消した。それでも、俺は思い出してしまった。
この丘で過ごした時間も、あいつの名前も、愛していたことも。
そして、その直後だった。彼女の身体が光へ変わり、世界から消えていったのは。
つまり、記憶を消すこと自体が終わりではない。失われた記憶が戻ったとき、初めて術者へ代償が及び、存在そのものが世界から切り離されるのかもしれない。
「……俺が、思い出したから……」
掠れた声に、エドガーが顔を上げる。
「レオナルド?」
俺は答えられなかった。
グレースが何度も「忘れていた方がよかった」と言っていた理由が、ようやく分かった気がした。あいつは、俺が自分を思い出すことで何が起きるのか、知っていたのだろう。
それでも、最後には名前を呼んでしまった。あいつが嬉しそうに笑ったことまで、鮮明に覚えている。
『……やっと、呼んでくれた』
その直後に、彼女は消えた。
「……っ」
視界が揺れ、俺は机へ手をついた。
思い出したかった。忘れたままでいることに、耐えられなかった。
けれど、俺が記憶を取り戻したことが、彼女の消失に繋がったのだとしたら。
「……俺が、あいつを……」
「待て」
エドガーの鋭い声が、思考を遮った。
「その先を決めつけるな。ここに書かれているのは、記憶が戻った場合に術者へ代償が及ぶ、ということだけだ。具体的に何が起きるのかも、どうすれば防げるのかも、まだ分かっていない」
俺が顔を上げると、エドガーは真剣な表情で本を指さした。
「お前が何を見たのかは知らない。だが、原因を調べている途中なんだろ。だったら、ここで答えを出すな」
「……」
言い返せなかった。
そうだ。ここで自分を責めて終わったところで、グレースを取り戻せるわけではない。
俺は震える息を吐き、もう一度ページへ目を戻した。
そのとき、エドガーが隣に置いていた別の本を引き寄せた。
「こっちにも、気になる記述がある」
表紙には『魔法の対価と代償』と記されている。
開かれたのは、存在消失に関する項目だった。
『完全消失ではない。存在の座標そのものが現世から切り離され、因果の届かない断絶された空間へ堕ちる。だが、極稀に、特定の魔力や執念が“一時的な魔法的接続”を生むことがある』
俺は、その一文を何度も読み返した。
「……完全消失ではない?」
世界から消えたはずのグレースが、黄昏の丘では姿を見せる。目の前にいて、声が聞こえる。けれど、手を伸ばしても触れられない。
もし彼女の存在が、この世界から完全に失われたわけではなく、どこか別の場所へ切り離されているのだとしたら。あの丘で起きていることは、その隔たりを越えて、一時的に彼女へ繋がっている現象なのではないか。
「……可能性はあるな」
俺が口にすると、エドガーも頷いた。
「少なくとも、お前が見たものを説明する手がかりにはなる。ただ、ここにはその空間がどこにあるのかも、切り離された存在を元へ戻す方法も書かれていない」
「……ああ」
それでも、何も分からなかったときとは違う。グレースが今もどこかにいる可能性が、ようやく言葉になったのだ。
俺は本の続きを追い、ページの余白に細い文字が書き足されていることに気づいた。
『※本術は“記憶”を媒体として対象を世界から切り離す。記憶の強度が高いほど座標の固定力は増し、逆に強すぎる執着は干渉点となる。そのため術式は、対象と術者双方に“共通する記憶の残滓”を媒体として必要とすることがある。』
「……共通する記憶の残滓……」
その言葉を読んだ瞬間、自然と上着の内側へ手が伸びた。
取り出したのは、白いハンカチだった。
アシュフォード公爵家の紋章と、小さな花。そして、向かい合う二つの三日月。
グレースが消えたあとも、この布だけは俺の手元に残っていた。
世界中の誰もが彼女を忘れ、その存在を確かめられる記録さえ見つからなくなったというのに、これだけは消えなかった。
俺自身、何の意味があるのかも分からないまま、失くしてはいけないと思い続けていたのだ。
「……それか」
エドガーがハンカチへ目を向けた。
「ああ。あいつのものだ」
俺は刺繍された三日月を指先でなぞった。
「幼い頃、二人で作った合図なんだ。あいつの闇と、俺の光で描いた、向かい合う二つの月」
エドガーは少しだけ目を細めたが、何も言わずに聞いていた。
「誰にも知られない場所でも、暗くても、互いを見つけられるようにって。……そういう約束だった」
あの頃のグレースは、嬉しいことがあっても素直に喜ぶような女ではなかった。けれど、あの月を見上げたときだけは、少し照れたように笑っていた。
その表情を思い出すと、胸が締めつけられる。
「……俺は、ずっとこれを持ってた。忘れていた間も、手放せなかった」
エドガーは余白の注記とハンカチを見比べ、やがて小さく息を吐いた。
「確かに、条件は合うな。ただ、残っている品だからといって、それ自体が接続の原因だとは限らない」
「分かってる」
「だが、確かめる価値はある。記憶が消えても残ったものなら、世界の修正を完全には受けていない可能性がある」
俺は頷いた。
ハンカチが何のために残されたのかは分からない。グレースが俺へ贈ろうとしていたものなのか、それとも、ただ偶然手元に残ったのか。そこに込められた彼女の気持ちも、まだ聞けていない。
けれど、これを持っていたからこそ、俺は何度もあいつを思い出そうとした。そして、あの丘へ辿り着いた。
ただの布切れだとは、どうしても思えなかった。
「……もう一つ、あの丘も気になる」
俺が言うと、エドガーは顔を上げた。
「そこは、俺たちが何度も一緒に過ごした場所だ。あいつが消えたのも、あの丘だった」
「お前の光と、相手の闇。共通の記憶が残る場所に、このハンカチ……か」
エドガーは考え込むように眉を寄せた。
「黄昏という時間も、関係しているのかもしれないな。光と闇のどちらか一方ではなく、両方が存在する短い時間だからこそ、一時的な接続が生じている可能性はある」
「……ああ。俺も、そう考えていた」
彼女は昼間には現れない。夜になってからも、姿を見せることはない。黄昏の、ほんのわずかな間だけ。
光が退き、闇が満ち始めるその時間に限って、俺たちはもう一度言葉を交わせる。そこに意味がないとは思えなかった。
ただし、それが正しいとしても、分かったのは繋がる条件の一部だけだ。どうすればその時間を延ばせるのか、彼女の身体へ触れられるのか、現世へ戻せるのかまでは、まだ何も分かっていない。
「……道は、あるんだな」
思わず呟くと、エドガーがこちらを見た。
「あるかもしれない、だ。まだ見つかったとは言えない」
「……それでもいい」
俺はハンカチを握りしめた。
昨日まで、グレースを取り戻す方法など存在しないのではないかと、何度も考えた。それでも丘へ通い続けたのは、諦められなかったからだ。
今は、その想いだけではなく、調べるべきことが見えてきた。
あいつは、完全に失われたわけではないのかもしれない。少なくとも俺は、今も彼女と話している。
だったら、そこから先へ進みたい。
◇
エドガーが別の本を取りに席を立つと、俺はもう一度、手の中のハンカチを広げた。
向かい合う二つの三日月。
以前は、刺繍を見るたびに胸の奥が痛んだ。今も苦しいことに変わりはないが、その意味を思い出したことで、少しだけ違って見える。
——暗くても、お前がいるって分かる。
あのときの自分は、ただ、離れていても同じ月を見上げられることが嬉しかったのだ。
まさか、こんな形でその言葉に縋る日が来るとは思わなかった。
「……なあ、グレース」
誰にも聞こえないほど小さく、名前を呼ぶ。
あいつは、今も向こう側で俺の声を聞いているのだろうか。
黄昏の丘へ現れるのは、俺が呼んでいるからなのか。それとも、あいつもまた、俺に会いたいと思ってくれているからなのか。
分からない。分からないことばかりだ。
けれど、再会したときのあの涙を思い出すと、俺だけが会いたかったわけではないと、信じたくなった。
「……何を一人で笑ってるんだ」
戻ってきたエドガーの声に、顔を上げる。
「別に」
「気持ち悪いな」
「お前に言われたくない」
いつもどおりのやり取りだった。
だが、エドガーの視線が俺の手元へ落ちた瞬間、ふと別の記憶が蘇ってしまう。
学園の中庭。泣いていたグレースを抱き寄せたこいつの腕。
『……俺じゃ、だめか』
思い出した途端、胸の奥がむっとした。
「……何だよ」
エドガーが怪訝そうに眉を寄せる。
「いや」
「明らかに何か言いたそうな顔をしてるだろ」
「……ちっ」
「なんで舌打ちした?」
こいつは、まだ何も思い出していない。グレースが誰なのかも、自分が誰へあの言葉を向けたのかも。
それなのに、俺と同じような喪失感を抱え、こうして調査に付き合ってくれている。
……だから、感謝はしている。
しているが。
「一応、言っておくけどな」
「何だ?」
「見つけても、俺の女だからな。お前には譲らない」
エドガーは、ぽかんとした顔で俺を見た。
「……は?」
「だから、そういうことだ」
「何がだよ。お前、さっきから話が飛びすぎだろ」
呆れた声に、思わず顔を背ける。
今のこいつに説明したところで、納得できるはずがない。それでも、言わずにはいられなかった。
「……もういい。早く資料を寄越せ」
「いや、こっちの台詞なんだが……」
ぶつぶつ言いながらも、エドガーは新しい本を机へ置いた。そのまま椅子へ腰を下ろし、何事もなかったかのように調査を再開する。
俺もハンカチを丁寧に畳み、上着の内側へしまった。
今はまだ、分からないことの方が多い。
グレースを取り戻す方法も、あいつが俺の記憶を消す前に何を抱えていたのかも。そして、目の前の親友がどこまで思い出すことになるのかも。
けれど、ようやく手がかりを見つけたのだ。その先に何があろうと、もう調べるのをやめるつもりはなかった。
黄昏になれば、またグレースに会える。
次に会ったときには、今日分かったことを伝えよう。そして今度こそ、あいつの話をちゃんと聞きたい。
俺は机の上の文献を引き寄せ、エドガーとともに次のページを開いた。




