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悪女と呼ばれる公爵令嬢のことだけ、なぜか王太子は思い出せない  作者: はな
第三部:追想の王太子──ときどき幼馴染

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第39話 黄昏を待つ



 夕陽はとうに沈み、丘には夜の静寂が降りていた。

 それでも、俺はこの場所から一歩も動かなかった。


 一面に広がるスイートピーの花畑。

 冷たい夜風が吹くたび、薄紫の花々が暗闇の中で波のように揺れる。


 その中心で、ただ一人、俺は汚れた衣服のまま膝を抱えるように座り込んでいた。

 手の中にあるのは、くしゃくしゃに握り締められた白いハンカチだ。


 刺繍された、向かい合う二つの三日月。

 これを見つめるたび、胸の奥が痛む。


「……グレース」


 呼んでも、返事はない。

 風の音が冷たく通り過ぎるだけだ。


 けれど、この場所を離れる気にはなれなかった。

 一歩でも離れたら、二度と彼女に会えなくなる気がした。


 だから、俺は待った。

 夜が明けても、この場所を離れなかった。


 もしかしたら、もう一度会える気がして。

 ただひたすらに、彼女の気配だけを求めて。


 ——そして、どれだけの時間が流れただろうか。


「一体、どうしたんだ」


 聞き慣れた低い声が、頭上から降ってきた。

 顔を上げなくても、その足音と気配で誰だか分かる。


「帰れ」


 即座に、冷たく突き放すように言った。

 今の俺には、他人に割くための力なんて残っていない。


 頭上から、盛大なため息が返ってくる。


「……せめて、心配してここまで来た友人に挨拶くらいしろ」

「帰れ」

「まだ用件を何も言ってないんだが?」

「帰れ」

「壊れた魔導具かお前は」


 しつこい奴だ。

 俺はようやく、重い瞼を持ち上げて顔を上げた。


 そこには、呆れ果てた顔をしたエドガーが立っていた。


 その片手には、無造作に食事の入った籠が握られている。


「食べろ。昨日から何も口にしてないだろ」

「いらない」

「嘘をつけ。お腹が空いてるはずだ」

「いらないと言っている」

「じゃあ俺が食べる」

「好きにしろ」


 エドガーは肩を竦めると、俺の隣の草むらへと、躊躇うことなくどさりと腰を下ろした。


 自分の聖域を侵されたような不快感に、眉間に深い皺が寄る。


「帰れ」

「嫌だね」

「帰れ」

「断る」

「帰れ」

「しつこいな、お前」


 どっちがだ、と内心で毒づく。

 だが、それを口に出す気にすらなれなかった。


 代わりに、エドガーは広大な丘を見渡している。

 風に揺れる、紫色のスイートピー。


 そして、その花畑の中から一歩も動こうとしない俺を、探るような目で見つめてきた。


「……思い出したんだな」


 ぽつりと、エドガーが呟いた。

 その言葉に、肩がピクリと不自然に跳ね上がる。


「……何をだ」

「惚けるなよ。お前のその顔を見るのは、初めてじゃない気がするんだ」


 エドガーの声は静かだった。

 おそらく、こいつ自身にも自分の胸の内にある感情の正体はよく分かっていないのだろう。


 だが、その瞳に宿る戸惑いは見覚えがあった。

 かつての俺と同じだ。


「実は、俺も最近おかしいんだ」


 俺は答えず、ハンカチを握り締めた。

 エドガーは空を見上げたまま続ける。


「何か大切なものを、俺は忘れている気がする」


 ざあ、と風が吹き、花々が揺れる。


「……でも、どうしても思い出せない」


 エドガーの言葉を聞いた瞬間、胸の奥がざらりと波立った。


 思い出すな——そう言いたくなるほどに。


「レオナルド。お前も、ずっと同じだったんじゃないのか?」


 長い沈黙が、俺たちの間に流れる。

 エドガーの真っ直ぐな視線から目を逸らし、俺は低く、掠れた声を絞り出した。


「……そうだな」


 それだけで、エドガーにとっては十分すぎる答えだったらしい。

 こいつは小さく息を吐き出した。

 

「そうか」


 エドガーは、それ以上は深く追求してこなかった。


 だがこいつの顔に、一つだけ、どうしても腑に落ちないといったような妙な引っかかりが浮かぶ。


「なあ」

「……」

「俺は……誰かに、言った気がするんだ」


 嫌な予感がした。

 俺は、警戒を隠そうともせずに眉を寄せた。


「……何を」


 エドガーは、自嘲気味に少しだけ苦笑した。


「覚えてない。相手の顔も、どんな状況だったかも、さっぱりわからない」


 だが次の瞬間、俺の心臓は凍りついた。


「——『俺じゃ、駄目か』って」


 その瞬間、俺の思考が完全に停止した。

 全身の血が冷たく凍りつく。


 ——思い出した。


 学園の中庭でこいつがグレースに向かって口にした言葉を。


 記憶を取り戻した今なら分かる。

 あれは冗談でも憐れみでもなかった。


 エドガーは、本気だった。


(エドガー、お前……)


 顔から一切の感情が消える。


 そこまで残っているのか。


「……何だ、その顔は」

「帰れ」


 先ほどまでの拒絶とは一線を画す、芯から冷え切った声が自分の唇から漏れる。


「は?」

「今すぐ帰れ、エドガー」

「急だな」

「帰れ」

「だから何でだ!」

「帰れ」

「せめて説明しろ!」

「嫌だ」


 エドガーは呆気にとられて目を瞬いていた。

 今の俺が本気で機嫌を損ねていることに気づいたのだろう。


「……まさか、お前……何を隠して——」

「頼むから」


 これ以上、こいつの口からグレースに繋がる言葉を聞きたくなかった。

 遮るように告げた俺の言葉に、エドガーが目を見開く。


「……今日は、帰ってくれ」


 自分でも驚くほど弱い声だった。

 エドガーは目を見開いた。


 しばらく黙り込んだ後、諦めたように深くため息をついて立ち上がった。


「……分かった」


 俺はもう、何も言わずに視線を落とした。


「だが、一つだけ言わせろ」


 エドガーが振り返り、俺の背中に声をかける。


「お前が何を思い出したのかは知らない。けど、これだけは忘れるな。俺を頼ることを、躊躇うなよ」


 風が吹いた。

 俺は苦笑にもならない、酷く歪な表情を浮かべる。

 

「余計なお世話だ」

「知ってるよ、そんなことは」


 エドガーも、いつものように苦笑した。

 そして、今度こそ丘を下りていく。

 二度と振り返らなかったのは、もし振り返れば、俺を問い詰めてしまうと分かっていたからだろう。


 お前が何を失ったのか。

 何を思い出したのか。


 そして——自分が忘れてしまった『大切な何か』の正体を。


 丘の上に再び静寂が戻る。

 残された俺は、強くハンカチを握り締めた。


「……グレース」


 夜空へ零れたその名に、返事はない。


 それでも、ここへ来る。


 そんな確信だけが胸に残っていた。



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