第38話 黄昏を待つ
夕陽が沈みきると、丘には夜の静けさが降りてきた。風が吹くたび、足元に広がるスイートピーが暗がりの中で揺れている。先ほどまでグレースが立っていた場所にも、今は花が咲いているだけだった。
俺は、その場から動けずにいた。
手の中には、くしゃくしゃになった白いハンカチがある。何度も握りしめたせいで、丁寧に施されていた刺繍にまで皺が寄っていた。そっと布を広げ、向かい合う二つの三日月を指先でなぞる。
——グレース。
心の中で名前を呼んだ瞬間、胸の奥が強く痛んだ。
思い出したのだ。幼い頃から一緒に過ごしたことも、あいつが俺を生かすために記憶を消したことも、最後にこの丘で姿を失ったことも。そして今日、もう一度会えたことも。
忘れていた間は、失ったものが何なのかさえ分からなかった。けれど今は、あいつがいないという事実を、はっきりと理解している。それが、こんなにも苦しい。
「……グレース」
声に出してみても、返事はなかった。あの素っ気ない声で「何よ」と言い返してくれることもない。さっきまで確かに聞こえていた声を思い返しながら、俺は彼女が立っていた場所を見つめ続けた。
触れられなかった。目の前にいたのに、抱きしめることも、涙を拭ってやることもできなかった。
それでも、あれはただの夢だったとは思えない。グレースは俺の名前を呼んだ。俺が忘れていた間のことを話すと、苦しそうに泣いた。そして、俺にもうこの丘へ来るなと言った。
あいつらしい、勝手な言い分だった。
「……来るなって言われて、素直に帰るわけないだろ」
小さく呟くと、幼い頃の記憶が蘇った。
来なくていいと言いながら、あいつはいつも俺の顔を見ていた。俺がまた来ると答えると、呆れたようにそっぽを向いていたくせに、翌日にはちゃんとそこにいた。
今も同じだとは思わない。彼女が俺を遠ざける理由は、あの頃よりずっと重い。それでも、何も分からないまま離れることだけはできなかった。
夜半になると、俺を探していた護衛たちが丘の麓までやって来た。王城へ戻るよう何度も促されたが、怪我はないことと、今夜はここを離れないことだけを告げ、ひとまず報告へ戻ってもらった。どうやら護衛の何人かは、離れた場所で夜通し警戒に当たることにしたらしい。
迷惑をかけている自覚はあった。けれど、もしもう一度あの光が現れたらと思うと、どうしても丘を下りる気にはなれなかった。
俺は花を潰さないよう斜面に腰を下ろし、白いハンカチを握ったまま夜を明かした。
◇
朝日が丘を照らし始めた頃、俺は自分が眠っていたのだと気づいた。ほんの短い間だったのだろう。身体は冷えきっていて、首筋もひどく痛んだ。
だが、目を覚ました瞬間、真っ先に確かめたのはそんなことではなかった。
「……グレース」
声に出すと、銀色の髪も、紫色の瞳も、夕暮れの中で見せた泣き顔も、ちゃんと思い出せた。昨日のことを、忘れていない。
その事実に安堵した途端、胸の奥へ別の痛みが広がった。記憶が残っているということは、あいつがいないことも、もう忘れられないということだった。
俺はゆっくりと立ち上がり、昨日と同じ場所へ目を向けた。朝の光の中で、薄紫の花々が揺れている。けれど、グレースの姿はなかった。
名を呼んでみても、返事はない。
しばらく待ったあと、今度は花畑の周囲を歩いてみた。あの光が現れた場所へ戻り、昨日のようにハンカチを握りしめてみたが、何も起こらなかった。
当然だろう。昨日何が起きたのかさえ分かっていないのだから、同じことをすればまた会えるという保証など、どこにもない。
それでも、ここを離れようとは思えなかった。彼女が消えた場所に、まだ繋がる道が残っているのではないか。そんな期待を捨てられずにいた。
昼近くになった頃、丘を上ってくる足音が聞こえた。
「……一体、どうしたんだ」
聞き慣れた声だった。顔を上げなくても分かる。
「帰れ」
即座に答えると、頭上から盛大なため息が返ってきた。
「……せめて心配して来た友人に、挨拶くらいしろ」
「頼んでない」
「だろうな。護衛から、お前が昨日から帰ってこないと聞いた。何かあったのかと思って来てみれば……」
ようやく顔を上げると、そこには呆れた表情のエドガーが立っていた。片手には、食事の入った籠を提げている。
「……何しに来た」
「見て分からないか。食事を持ってきたんだよ」
エドガーは籠を少し持ち上げて見せた。
「昨日から何も口にしてないんだろ。とりあえず食え」
「いらない」
「そう言うと思った。だが、お前がここで倒れたら、昨日から護衛している奴らまで責任を問われるんだぞ」
「…………」
そう言われると、何も返せなかった。エドガーは俺の反応を見て、ようやく満足したように籠を下ろした。
「少しは頭が働くらしいな」
「……うるさい」
「なら食え」
こいつは昔から、こういうところだけ妙に容赦がない。
俺が返事をしないでいると、エドガーは勝手に隣へ腰を下ろし、包みを開いてパンを取り出した。
「食わないなら俺が食うぞ」
「好きにしろ」
「そうする」
本当に食べ始めたエドガーを見て、思わず眉を寄せた。
「……帰れよ」
「食い終わったら考える」
「帰れ」
「しつこいな、お前」
どっちがだ。そう言い返そうとして、やめた。今はそんなやり取りをする気力すら惜しかった。
エドガーはしばらく黙ってパンを食べていたが、やがて花畑へ視線を向けた。淡い紫色の花々が、昼の光を受けて揺れている。その横顔から、いつもの軽さが消えた。
「……思い出したんだな」
ぽつりと零れた言葉に、俺は息を呑んだ。
「……何をだ」
「惚けるなよ。お前、ここへ来てからずっと何かを待ってるだろ」
エドガーは俺へ向き直った。
「昨日までのお前は、探している相手が誰なのか分からなくて苦しんでいた。だが今は、少なくとも何を待っているのか、自分では分かっているように見える」
鋭い奴だ。こいつ自身も、まだ何も思い出せていないはずなのに。
俺は答えず、手の中のハンカチを握り直した。エドガーの視線が、その布へ一瞬だけ落ちた。
「……それも、手放さないんだな」
「……ああ」
ようやく返せたのは、それだけだった。
エドガーはそれ以上、ハンカチについて尋ねてこなかった。代わりに、膝へ肘をつき、花畑を眺めながら口を開く。
「実は、俺も最近おかしいんだ」
その言葉には、覚えがあった。以前、執務室の前で話したときも、エドガーは何かを探しているような顔をしていた。図書室へ籠もり、古い記録を調べ続けていることも知っている。
「何か大切なものを忘れている気がする。そう思って調べているんだが、どうしても肝心なところへ辿り着けない」
エドガーは小さく息を吐いた。
「何を忘れたのか分からないくせに、忘れたままではいけないと思うんだ。……お前も、ずっと同じだったんじゃないのか?」
俺はしばらく、何も言えなかった。
同じだった。少なくとも、昨日までは。
エドガーもまた、グレースを忘れているのだ。あいつがどれほど無茶をしていたかも、どれほど苦しんでいたかも知っていたはずなのに、今はその名前さえ思い出せない。
以前、エドガーがグレースへ向けていた眼差しを思い返すと、胸の奥が複雑に軋んだ。こいつに思い出してほしいのか、思い出してほしくないのか。自分でも分からなかった。
「……そうだな」
長い沈黙の末に答えると、エドガーは小さく頷いた。
「そうか」
それきり、しばらく二人とも口を開かなかった。丘を渡る風が、花々を静かに揺らしている。
エドガーはその光景を眺めていたが、やがて何かを思い出しかけたように眉を寄せた。
「……なあ」
「何だ」
「俺、誰かに言った気がするんだ」
嫌な予感がした。胸の奥が、ざらりと波立つ。
「……何を」
エドガーは困ったように笑った。
「相手も、どんな状況だったのかも分からない。ただ、最近になって、そのときの気持ちだけが妙にはっきりしてきてさ」
膝の上で組んでいた手に、わずかに力がこもる。
「誰かが泣いているのを、もう見ていられなかったんだと思う。そいつが俺のことを見ていないのも、分かっていたはずなのに」
俺は、息を止めた。
エドガーは少しだけ俯き、低い声で続けた。
「……『俺じゃ、だめか』って」
心臓が、嫌な跳ね方をした。
その言葉を、俺は知っている。
学園の中庭の入り口で、落ちていた白いハンカチを拾ったあと。奥から聞こえてきたのは、いつも冷静なエドガーとは思えないほど切実な声だった。
『……俺じゃ、だめか?』
建物の影から見えたのは、エドガーの腕の中にいるグレースだった。
あのときの俺は、二人が自分の知らないところで特別な関係になっていたのだと思い込み、それ以上そこに留まれなかった。
だが、記憶を取り戻した今なら分かる。あれは、エドガーの本心だった。
グレースが泣いているのを見ていられず、それでも自分では彼女の一番にはなれないと分かっていて、口にした言葉だったのだろう。
——エドガー、お前……。
目の前の男は、まだ相手の名前も思い出せていない。それなのに、あのときの想いだけが、今も胸に残っているのか。
「……何だ、その顔は」
エドガーが訝しげにこちらを見る。
「帰れ」
「……は?」
「今すぐ帰れ、エドガー」
「急に何なんだよ。さっきまでも帰れとは言っていたが、今のは明らかに意味が違うだろ」
そのとおりだった。
これ以上、こいつの口からグレースに繋がる言葉を聞きたくなかった。まだ何も知らないエドガーへ、こんな感情を向けるのは筋違いだと分かっている。あのときの自分が勝手に二人の関係を決めつけたことも、今となっては情けない。
それでも、グレースを想っていたのが自分だけではなかったという事実に、胸の奥がどうしようもなくざわついていた。
「おい、レオナルド」
「……今日は、もう帰ってくれ」
絞り出した声は、自分でも驚くほど弱かった。
エドガーが口を閉ざす。何か言いかけたようだったが、俺の顔を見ると、そのまま言葉を飲み込んだ。
「……分かった」
やがて立ち上がり、服についた草を払う。
俺は俯いたまま、何も言えなかった。
「だが、一つだけ言わせろ」
去りかけたエドガーが、振り返る。
「お前が何を思い出したのかは知らない。俺が今、何を忘れているのかも分からない。……けど、一人で抱え込むなよ」
その言葉に、思わず顔を上げた。
エドガーは、どこか疲れたように笑っていた。
「俺を頼ることを、躊躇うな。昔からそうしてきただろ」
昔から。その言葉が、胸に刺さった。
確かに、俺たちは親友だった。互いに何も知らない頃から一緒に過ごし、くだらないことで言い争いながらも、必要なときには助け合ってきた。
グレースを巡って、あんな想いを抱えていたとしても。エドガーは、俺の友人であることをやめなかった。
「……余計なお世話だ」
ようやく返すと、エドガーはいつものように肩を竦めた。
「知ってるよ、そんなことは」
それから、食事の入った籠を俺の傍へ寄せる。
「置いていく。食わなかったら、次は無理やり食わせるからな」
「……分かったよ」
「最初からそう言え」
エドガーは小さく息を吐き、丘を下りていった。
その背中が見えなくなるまで、俺は何も言わなかった。
あいつは、まだグレースを思い出していない。だが、いつか思い出すのだろうか。
もしそうなったら、何が起きる?
グレースを失ったあの夜のことを思い返すと、簡単に思い出せとは言えなかった。けれど、あいつが今も理由の分からない喪失感に苦しんでいることを、知らないふりもできない。
俺はハンカチへ視線を落とした。
答えを出すには、まだ分からないことが多すぎる。まずは、グレースが今どこにいるのか。そして、どうして昨日、この丘で姿を見せてくれたのか。それを確かめなければならなかった。
◇
エドガーが残していったパンを、俺はようやく一口食べた。味はよく分からなかったが、空腹だったことに、そのとき初めて気づいた。
食事を終えて立ち上がると、陽は少しずつ傾き始めていた。
昨日、グレースが現れたのは夕暮れだった。光が集まり始めたとき、空にはまだ茜色が残っていた。そして、夜が深まるにつれて彼女の輪郭は薄くなり、やがて消えてしまった。
あの時間に、何か意味があるのだろうか。
まだ分からない。けれど、昼間にいくら探しても姿を見せなかった彼女が、夕暮れのあの瞬間に現れたことだけは確かだった。
俺は昨日と同じ場所へ戻り、白いハンカチを取り出した。向かい合う二つの三日月。グレースの闇と、俺の光で描いた、二人だけの合図。
幼い頃、あいつがこの丘で待っていたときのように。
今度は、俺が待とう。
「……グレース」
花々の向こうに広がる空を見上げ、静かに名前を呼んだ。
返事はなかったが、もう一度呼んでみる。風が吹き、薄紫の花が揺れる。夕陽が、ゆっくりと丘の向こうへ傾いていく。
俺はハンカチを握りしめたまま、昨日と同じ黄昏が訪れるのを待ち続けた。




