第38話 もう二度と忘れない
丘を吹き抜けていた風が、ふいにピタリと止まる。
世界から音が消えたかのように、異様な静寂が辺りを支配した。
次の瞬間、大気が微かに震え、足元から淡い光の粒子がぽつぽつと立ち上り始める。
「……なんだ……これ……」
見覚えがあった気がした。
だが、それを思い出そうとした瞬間、強い拒絶のような痛みが走る。
忘れていたはずなのに、この光の属性をはっきりと記憶している。
——あの日と、同じだ。
理屈じゃない。
だが、身体の奥がそう告げていた
ドクン、と心臓が大きく脈打つ。
光の粒子はゆっくりと宙に集まり、夕闇の中で一つの確かな形を形作り始めた。
華奢で細い肩。
風もないのにふわりと揺れる長い髪。
「……っ」
喉が鳴り、息を呑む。
やがて眩い光が収まった時、そこに一人の少女が立っていた。
茜色から夜へと移り変わる夕暮れの空を背に、静かにこちらを見つめている。
人の形になった。
だが、それが“誰か”だと理解するまで、数秒の空白があった。
それでも見間違えるはずがなかった。
ここ数ヶ月、名前も分からぬまま何度も何度も夢に見た。
忘れていたはずなのに、身体が、心が求め続けていた人。
「……グレース」
震える声で、その愛おしい名前を呼ぶ。
すると、彼女の美しい紫色の瞳が、驚愕に大きく揺れた。
「……どうして。あなたは……私を忘れて、生きるはずだったのに。どうしてここにいるの……?」
掠れた声が溢れ、信じられない奇跡を目撃してしまったかのような、怯えを孕んだ瞳だった。
引き寄せられるように一歩前へ足を出す。
愛おしくて、今すぐ抱きしめたくて、手を伸ばしかけた。
「……っ」
しかし触れようとした指先が、空をすり抜けた。
まるで最初からそこに何もなかったかのように。
手を伸ばせば触れられる距離に、彼女の息遣いまで感じられるほど鮮明に見えているのに、その身体を掴むことができない。
グレースは自嘲気味に小さく目を伏せ、泣き出しそうなほど寂しそうに笑った。
「だから言ったでしょう。忘れていた方が、あなたのためによかったのよ」
「ふざけるな」
彼女の言葉が終わるより早く、即座に否定した。
声が震える。
それが忘れていた自分への怒りなのか、目の前にいるのに触れられない悲しみなのか、もう自分でも分からなかった。
「よかったわけがないだろう……っ!」
グレースがハッとしたように顔を上げる。
俺は拳を血が滲むほど強く握り締め、彼女の幻影を射抜くように見つめた。
「俺にとって一番大切なものを失ったことにも気づかず、それで幸せだと言えると思うのか……?」
「……それでも、あなたは生きていたでしょう?」
グレースの声は、酷く静かで、どこまでも残酷に優しかった。
「完璧な王太子として。国を支えて、人々に慕われて……いつかふさわしい誰かを愛して。……私なんかいない世界で、まっとうに幸せになれたはずよ」
その言葉を聞いた瞬間、理性を繋ぎ止めていた何かが、ブツリと音を立てて千切れた。
「……誰かを愛せ、だと?」
地を這うような、低い声が零れる。
「ふざけるな。お前以外を選べるなら、こんなに苦しんでいない」
グレースの細い肩がわずかにと震え、沈黙が落ちる。
二人の間で、ただ夕風だけが冷たく紫色の花々を揺らしていた。
「忘れていた間も、ずっとそうだった」
一歩も引かずに言葉を紡ぎ続ける。
「朝起きても、公務をこなしていても、何かが決定的に足りなかった。胸の奥に巨大な穴が空いていて、理由も分からず、ただひたすらに苦しかった」
喉が焼けるように痛む。
それでも、この溢れ出した想いはもう止められなかった。
「今なら分かる。あの空虚さの理由が。……お前がいなかったからだ」
グレースは耐えかねたように目を逸らす。
けれど、俺はその視線すら逃がさなかった。
「お前が幸せになれと言うなら、俺はそうなりたいと思う。……でも」
じり、とさらに一歩、触れられぬ彼女へと距離を詰める。
「…… お前がいない未来のために生きろと言うなら、それは『生きろ』じゃない。死ねと言っているのと同じだ」
グレースの紫の瞳が、苦しそうに今にも決壊しそうなほど波打つ。
「……やめて。お願いだから……」
蚊の鳴くような、小さな声だった。
彼女の全身が、痛々しいほど震えている。
「そんなこと、言わないで……っ」
その涙を見て、初めて気づいた。
苦しくて、ボロボロになっていたのは自分だけじゃない。
すべてを消し去って一人で消えたグレースもまた、傷ついていたのだと。
「グレース」
「来ないで!」
言葉を被せるように、鋭い拒絶が飛ぶ。
「もう、この丘に来ないで。私を探そうとしないで」
彼女の声は、今にも消え入りそうなほど掠れていた。
「私はただ、あなたに傷ついてほしくないだけ……。あなたに、生きていてほしいだけなのよ」
「なら、俺の隣で——」
「やめて!!」
絞り出すようなその一言が、俺の言葉のすべてを遮った。
グレースの瞳から、ついに大粒の涙が溢れ、頬を伝っていく。
「お願いだから……これ以上、私を困らせないで……っ」
いつも通りの、突き放すような拒絶の言葉。
だが、その言葉を口にした直後、グレースはハッとしたように小さく息を呑んだ。
自分の手元かを見て何かに気づいたような、奇妙な間があった。
俺が言葉を失っていると、彼女はゆっくりと顔を上げ、俺の顔をじっと見つめた。
さっきまでの張り詰めた拒絶が嘘のように、その瞳の奥が、ふっと柔らかく、どこか寂しげに揺れる。
「……グレース?」
思わず名前を呼ぶと、彼女は何かを諦めたように、見たこともない微かな微笑みを浮かべた。
「……ううん。なんでもないわ」
その瞬間、彼女の身体が、いっそう強く淡い光を放ち始めた。
粒子が空気中に溶け出していく。
「……っ」
心臓が凍りつく。
まただ。
また、俺の目の前で、俺の手の届かないところへ消えようとしている。
「待て……っ!」
反射的に両手を伸ばす。
けれど、やはりその手は彼女の光をすり抜けるだけだった。
「グレース!!」
王太子としての矜持も体裁も忘れて、ただ彼女の名を呼んだ。
だが、光の崩壊は止まらない。
少しずつ、確実に、彼女の輪郭が薄く、透明になっていく。
グレースは、完全に消え去るその最後の瞬間に、振り返った。
今にも泣き出しそうな顔だった。
それでも最後まで、自分の決意を曲げようとはしなかった。
そして健気にも、無理やりいつものように不敵に笑おうとしていた。
しかし俺の顔を見て目を見開いた。
「……どうして」
消えゆく光の中から、かすれた声が愛おしそうに零れる。
「そんな、怒ったような……悲しい顔をするのよ……」
向けられたその問いに、何も答えられなかった。
ただ、消えゆく光の残滓に向かって、何度も手を伸ばすことしかできない。
グレースはきゅっと唇を噛む。
何か、最後の言葉を言いかけて——けれど、それは最後まで声にならなかった。
そして。
「さようなら、レオナルド」
パチン、と光の粒子が大きく弾けた。
次の瞬間——そこには、もう誰もいなかった。
ただ、遮るもののなくなった夕風が、寂しく丘を吹き抜けていく。
一面の紫色のスイートピーが、何事もなかったかのようにざわざわと揺れている。
それだけだった。
「……っ、ああ……っ」
膝から完全に力が抜け、地面に激しく崩れ落ちた。
胸が、引き裂かれたように痛い。
息ができないほど苦しい。
けれど。
今度の俺は、あの夜とは決定的に違っていた。
——もう、二度と忘れない。
何があっても、世界のすべてに拒絶されたとしても、絶対に忘れてやるものか。
どれだけ距離が遠くても、どれだけ本人に拒絶されようとも。
ふと、手のひらの中で握り締めたままの白いハンカチが目に入った。
刺繍された、二つの三日月。
離れていても、暗闇の中でも、お互いを見つけ出すための秘密の印。
『暗くても、お前がいるって分かる』
幼い頃の自分の声が、胸の奥で力強く蘇る。
涙を拭い、震える指先でその三日月の刺繍をなぞった。
その瞳から涙は消え、代わりに底知れない執着と、確かな決意の灯火が宿る。
そして、誰もいない空間へ向けて、静かに呟いた。
「……待ってろ」
夕暮れの丘に、低く、しかし絶対の重さを持った声が溶けていく。
「今度は俺が、何をしてでもお前を見つけ出す」
ゴウ、と強い風が吹き、紫の花々が一斉に揺れる。
空はすでに夜に沈みきっていた。
星の姿はまだはっきりとは見えない。
ただ、冷えた空気の奥に、微かな光の気配だけが滲んでいる。
その静寂の中で、丘だけが取り残されたように存在していた。
その淡い光の下で、ハンカチの二つの三日月は静かに、しかし確かな重さを持って揺れていた。




