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悪女と呼ばれる公爵令嬢のことだけ、なぜか王太子は思い出せない  作者: はな
第三部:追想の王太子──ときどき幼馴染

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第37話 会いたい



 丘の頂へ辿り着いた瞬間、足が止まった。


 風が吹き、視界いっぱいに広がる紫色のスイートピーが、茜色に染まった光を浴びながら静かに揺れていた。


「……なんだ、ここは……」


 掠れた声が零れる。


 初めて来たはずだった。

 それなのに、胸が苦しいほど懐かしい。


 風の匂いも、花の香りも、丘から見える景色さえも、まるで昔から知っていたもののように感じられた。


「……違う」


 思わず呟く。


 知っている気がする、ではない。

 知っているのだ。


 理屈では説明できない。

 だが、この場所が自分にとってかけがえのない場所だったことだけは、なぜか確信できた。


 そしてその確信と同時に、強烈な違和感が胸を締め付ける。


「どうして……」


 ここは王都からそう遠くない。

 学園からだって来られる距離だ。


 何かがおかしいと思った時。

 誰かを探しているのだと気づいた時。


 真っ先に来るべき場所だったはずなのに。


 そこでふと、数ヶ月前の出来事が脳裏をよぎった。


 あの日、気づけば自分はこの丘に立っていた。


 なぜここに来たのかも分からず、なぜ白いハンカチを握っていたのかも分からないまま。


 ただ胸の奥に、説明のつかない虚無感だけを抱えて。


 ——そうだ。


 あの空虚さは、あの日から始まったのだ。


「どうして俺は、ここを探そうとしなかった……?」


 ここ数ヶ月、自分は狂ったように学園を歩き回った。


 図書室も、中庭も、訓練場も。

 手掛かりになりそうな場所は、何度も探した。


 存在を忘れていたわけではない。

 だが不自然なほど意識に上らなかった。


 ——なんでこの場所に来ようと思わなかった?


 今になって思えば、それこそが異常だった。


 こんなに近い場所なのに、一度たりとも足を向けようと思わなかったのだから。


 まるで何者かに、この場所から遠ざけられていたかのように。


 そんな考えが浮かんだ瞬間、背筋を冷たいものが走った。


 丘の上は、静かだった。

 風が花々を揺らし、そのたびに紫色の波が広がっていく。


 見覚えがある。

 けれど思い出せない。


 そのもどかしさに胸を締め付けられながら、一歩、花畑の中へ足を踏み出した、その時だった。


 ぽたり、と頬を何かが伝った。

 指で触れると、濡れている。


「……なんで、俺は……」


 わからない。

 泣く理由なんて、今の俺には何一つないはずなのに。

 どうしてか、涙が次から次へと溢れて止まらない。


 喉の奥が、焼けるようにひりつく。

 胸が、押し潰されそうなほど苦しい。


 何かがすぐそこまで来ている。

 手を伸ばせば掴めそうなのに、掴めない。


「……っ」


 そんな焦燥に駆られた瞬間、視界の端で一輪の花が大きく揺れた。


 ——紫色のスイートピー。


 その花を見た途端、不意に声が頭の奥で響く。

 

 花の名前なんて、薔薇や百合などメジャーなものしかわからない。


 ましてや品種なんて、なおさらわからないはずなのに。


『このスイートピーはね、私と同じ名前なの』


 誰の声か分からない。

 いつ聞いた言葉なのかも分からない。


 それでも、その声音だけは不思議なほど鮮明だった。


 そして次の瞬間——


「……グレース」


 口が、勝手に動いていた。

 自分の声なのに、理解できない。


「……グレースって……誰だ……」


 知らないはずだ。

 知らないはずなのに。


 なのに胸が、締めつけられる。

 息が、苦しい。


 どうして——


「……っ、あ……」


 頭に、痛みが走る。


 その次の瞬間、記憶が溢れた。

 脳の奥へ、次々と光景が流れ込んでくる。


 真っ先に浮かんだのは、いつもどこか不機嫌そうな顔だった。


 偉そうで、口が悪くて、少し気に入らないことがあればすぐに睨んでくる。


 可愛げなんて欠片もないはずなのに、思い出した瞬間には胸が苦しくなるほど愛おしかった。


 強がりで、頑固で、素直じゃなくて。

 誰にも頼ろうとしないくせに、困っている人を放っておけない。


 冷たい言葉で突き放しながら、結局は誰よりも優しかった。


 そんな彼女の姿が、次から次へと脳裏をよぎる。


 夕暮れの丘で交わした他愛のない会話。

 風に揺れる紫色のスイートピー。


 呆れるほど意地の張り合いをしたこともあった。

 くだらない言い争いをしたこともあった。

 いつだって憎まれ口ばかり叩いていたくせに、ふと目を向けた横顔だけは、なぜかひどく寂しそうだった。


 それでも気づけば、いつも隣にいた。


 当たり前みたいに。

 ずっと昔からそうだったみたいに。


 そして——あの夜を、思い出してしまう。


 自分の腕の中で、今にも消えてしまいそうなほど傷つきながら、それでも最後まで弱音を吐かなかった彼女を。


 泣きそうな顔をしながら、それでも微笑んで。

 俺を守るためだけに魔法を放った彼女を。


 ——グレース。


「……っ……」


 息が止まった。


 次々と流れ込む記憶の中で、思い出す。


 あの日、グレースが自分の記憶を消したことを。

 そして、その代償に自らが消えたことを。


 あまりにも大きすぎる代償だった。

 あまりにも残酷な選択だった。


 それなのにグレースは何一つ訴えなかった。


 苦しみも、恐怖も、不安も。

 そのすべてを胸の奥へ押し込めたまま、最後まで微笑んでいた。


 ——どうして。


 胸の奥が、抉られるように痛む。


 なぜそこまでして俺を忘れさせたかったのか。

 なぜそこまでして、自分から消えようとしたのか。


 記憶は戻ったが、その答えだけはまだ分からない。


 ただ一つだけ、確かなことがある。


 あの日、グレースは何かを守ろうとしていた。

 自分自身ではなく、きっと——俺を。


 震える手が、無意識に上着の内ポケットへ伸びる。


 指先に触れたのは、ずっと持ち歩いていた白いハンカチだった。


 なぜ手放せなかったのか、今なら分かる。


 広げた布地の四隅には、小さな刺繍が施されている。


 二つ並んだ三日月。

 そして、それぞれの誕生花。


 以前はただの飾りにしか見えなかったはずなのに、今はその意味まではっきりと思い出せた。


 幼い頃、二人だけの秘密の印として交わした約束。


『暗くても、お前がいるって分かる』


 そう笑った自分の声まで、鮮明に蘇る。

 向かい合う二つの三日月を見るたびに、離れていても必ず見つけるのだと、そう誓ったことまで思い出した。


 さらにその隅には、見慣れているはずのアシュフォード公爵家の紋章が縫い込まれていた。


 王太子である自分が見間違えるはずもないそれを、なぜ今まで認識できなかったのか。


 答えはもう分かっていた。


 忘れていたのではない。

 忘れさせられていたのだ。


 その事実を理解した瞬間、胸の奥で何かが音を立てて崩れ落ちた。


「……なんで……」


 力が抜けたようにその場へ膝をつく。

 地面に触れた指先は、自分でも驚くほど震えていた。


 思い出した。

 思い出してしまった。


 こんなにも大切だったのに。

 こんなにも失いたくなかったのに。


 それでも自分は何事もなかったように日々を過ごし、笑い、眠り、朝を迎えていた。


「なんで……忘れてるんだよ……俺は……」


 喉の奥から漏れた声は掠れ、途中で何度も途切れた。


「……ふざけるな……。ふざけるなよっ……お前を守るために強くなったはずなのに……こんな大事なものを、どうして手放せた……! どうして、あいつのことを忘れられたんだ、俺は……っ!!」


 大粒の涙が、地面の紫色の花びらを濡らしていく。


 守りたかった。

 俺が、この手で幸せにしたかった。


 そのために死に物狂いで頑張ってきたのに。

 こんなにも大切だったのに。


「……グレース……」


 その最愛の名前を呼ぶ。

 だが、返ってくるのは虚しい風の音だけだ。


 それでも、胸の奥から湧き上がる衝動は、もう誰にも止められなかった。


「……会いたい」


 その言葉は懇願のように零れ落ちた。


 会いたかった。


 何を代償にしてでも。

 世界のすべてを敵に回したとしても。


 ただ、もう一度だけ彼女に会いたかった。


「お前がいない世界なんて……」


 喉の奥から絞り出すように呟き、花畑の先を見つめる。


 そこには誰もいない。

 けれど、この場所のどこかに、まだ彼女の面影が残っている気がしてならなかった。


「そんなものに、意味なんてない……」


 その言葉が風に溶けた瞬間、丘を吹き抜ける空気がふいに変わった。



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