第37話 もう二度と忘れない
丘を吹き抜けていた風が、不意に止まった。
つい先ほどまで足元を揺らしていたスイートピーが静まり返り、花の擦れ合う音も、遠くから聞こえていた鳥の声も、いつの間にか消えている。
俺はハンカチを握りしめたまま、ゆっくりと顔を上げた。
「……?」
夕暮れの空には、まだ茜色が残っていた。夜が近づき、丘の斜面には少しずつ影が伸び始めている。
その足元で、淡い光が瞬いた。
一粒、また一粒と、花々の間から銀色の光が浮かび上がってくる。
「……なんだ、これ……」
思わず息を呑んだ。
見覚えがあった。
あの夜、腕の中からグレースが消えていったときも、こんな光が溢れていた。忘れていた記憶を取り戻した今、見間違えるはずがない。
だが、あのときは彼女の身体が光へ変わり、俺の手の届かないところへ消えていった。
今は、その逆だった。
花々の間から立ち上った光が、空中の一点へ引き寄せられるように集まっていく。散らばっていた粒子は次第に人の輪郭を描き始め、夕暮れの空を背に、一人の少女の姿を形作っていった。
華奢な肩に、細い手足。
風もないのにふわりと揺れる、長い銀色の髪。
「……っ」
喉の奥が詰まった。
見間違えるはずがない。
数ヶ月もの間、名前さえ分からないまま探し続けていた人。
たった今、すべてを思い出したばかりの、俺の最愛の人。
光が静かに収まったとき、彼女は確かにそこに立っていた。
「……グレース」
震える声で名前を呼ぶ。
少女の紫色の瞳が、大きく見開かれた。
彼女は信じられないものを見るように俺を見つめ、やがて、かすかに唇を震わせた。
「……どうして……?」
その声を聞いた瞬間、胸の奥が熱くなった。
聞き間違えるはずがない。少し素っ気なくて、けれど今は驚くほど頼りない、グレースの声だった。
「あなたは……私を忘れて、生きるはずだったのに。どうして、ここにいるの……?」
俺は答えるより先に、彼女へ向かって歩き出していた。
また会えた。
あんなに探しても見つからなかったのに、今、目の前にいる。
その事実だけで胸がいっぱいになり、ほかのことなど何も考えられなかった。
「……グレース!」
駆け寄り、彼女の肩へ手を伸ばす。
けれど。
「……え?」
指先は、何にも触れなかった。
すぐそこにいるはずの彼女の身体を、俺の手がすり抜けていく。
慌ててもう一度手を伸ばしたが、結果は同じだった。銀色の髪も、細い肩も、触れようとしたところから淡い光が揺らぐだけで、何ひとつ掴むことができない。
グレースは、そんな俺を見て小さく目を伏せた。
「……だから言ったでしょう。忘れていた方が、あなたのためによかったのよ」
困ったような微笑みだった。
昔から何度も見てきた、何かを隠すときの顔だ。
その表情に、胸の奥から怒りが込み上げた。
「……ふざけるな。よかったわけがないだろう……っ!」
声を荒らげながら、もう一度彼女へ手を伸ばす。だが、指先はやはり何にも触れられなかった。
目の前にいるのに、抱きしめることさえできない。
あの夜と、同じだった。
「俺にとって一番大切なものを失ったことにも気づかず、それで幸せだと言えると思うのか……?」
「……それでも、あなたは生きていたでしょう?」
グレースの声は静かだった。
俺の怒りを受け止めながらも、そこだけは譲れないのだと、その表情が告げていた。
「完璧な王太子として、国を支えて、人々に慕われて……いつか、あなたにふさわしい誰かを愛して。私なんかいない世界で、ちゃんと幸せになれたはずよ」
「……誰かを愛せ、だと?」
喉の奥から、低い声が漏れた。
彼女は俺の顔を見つめたまま、何も答えない。
「お前以外を選べるなら、こんなに苦しんでいない」
忘れていた間も、ずっとそうだった。
朝、目を覚ますたびに頬が濡れていた。公務をこなしていても、何かが足りないという感覚が消えず、名前も顔も分からない相手を、ただひたすら探し続けた。
ソフィアとの婚約を拒んだときも、誰を想っているのか説明できなかった。それでも、彼女と生涯を共にすることだけは、どうしても受け入れられなかった。
今なら、その理由が分かる。
「俺は、お前を忘れていた間も、ずっと誰かを探していた。会いたくて、見つけたくて……それなのに、誰を探しているのかさえ分からなかったんだ」
「……でも、あなたは——」
「確かに生きていた。王太子としての仕事だって、今までどおりにこなしていたさ」
俺は彼女の言葉を遮った。
「けど、それを幸せだったと言えっていうのか? 毎朝、泣いている理由も分からないまま目を覚まして、何を失ったのかも知らずに過ごしていた俺に?」
グレースは返事をしなかった。
その沈黙が、痛かった。
彼女は俺が生きていれば、それでいいと思っていたのだろう。自分のことを忘れたままでも、いつか別の誰かと笑って暮らせるのなら、それが一番だと。
けれど、俺は違う。
あいつのいない未来を、自分の幸せだとは思えない。
「……お前が幸せになれと言うなら、俺だってそうなりたい」
込み上げる感情を抑えながら、俺は続けた。
「でも、お前がいない未来を幸せだと思えと言うなら……そんなの、俺にはできない」
「……やめて」
グレースが小さく首を振った。
「お願いだから、そんなこと言わないで……っ」
その声は、ひどく震えていた。
初めて、彼女の頬に涙が伝うのを見た。
俺は思わず言葉を失った。
いつも強がって、どんなに辛くても平気な顔をしていた女だ。自分が消えてしまうと分かっていたあの夜でさえ、最後まで俺を安心させようと笑っていた。
けれど、今のグレースは泣いていた。
自分が消えたあとも俺が苦しんでいたと知って、傷ついている。
その姿を見て、ようやく気づいた。
俺が忘れていた間も、グレースだけは覚えていたのだ。
俺たちが過ごした日々も、交わした約束も、彼女が何を犠牲にしたのかも。
すべてを抱えたまま、たった一人で消えていった。
そんな彼女へ、自分の苦しさばかりぶつけてしまった。
「……グレース」
声をかけると、彼女は身を引いた。
「来ないで!」
鋭い声が、静かな丘に響く。
「もう、この丘に来ないで。私を探そうとしないで……」
グレースは涙を拭おうともせず、俺を見つめていた。
「私はただ、あなたに傷ついてほしくないだけ。あなたに、生きていてほしいだけなのよ……」
その願いが嘘ではないことくらい、分かっている。
俺は、彼女がどれほど必死に俺の命を守ろうとしたのか知っているのだから。
それでも。
「……なら、俺にも考えさせてくれよ」
グレースが、わずかに息を呑んだ。
「俺が生きるために、お前が何を背負ったのか。これから、どうすればいいのか。何も知らないまま幸せになれなんて、もう言わないでくれ」
「……やめて!!」
悲鳴のような声だった。
グレースは両手を胸元へ寄せ、苦しそうに顔を歪める。
「お願いだから……これ以上、私を困らせないで……っ」
その言葉を聞いた途端、幼い頃の記憶が蘇った。
来なくていいと言いながら、いつも俺を待っていた少女。
勝手にしなさいとそっぽを向きながら、隣に座ると少しだけ嬉しそうに笑っていた少女。
今のグレースも、同じなのだろうか。
そう思いかけて、すぐに考えを改めた。
あの頃と違い、彼女が俺を遠ざけるのには、命に関わる理由がある。
だから、今すぐ傍にいられると言い切ることはできない。
それでも、もう何も知らずに離れるつもりはなかった。
「……分かった。今は、これ以上近づかない」
足を止めて告げると、グレースが驚いたように顔を上げた。
「だから、ひとつだけ教えてくれ。お前は今、どうなっているんだ?」
彼女は答えなかった。
その代わり、ふと自分の手元へ目を落とした。
「……あ……」
何かに気づいたように、小さく息を呑む。
「グレース?」
俺が呼びかけると、彼女はゆっくりと顔を上げた。
先ほどまで必死に俺を拒んでいた瞳が、不意に柔らかく揺れる。
その表情はどこか寂しげで、それでいて、何かを確かめたようにも見えた。
「……ううん。なんでもないわ」
「なんでもない顔には見えないけどな」
そう言っても、彼女は答えなかった。
ただ、いつものように少し困った顔で笑った。
その笑顔を見た瞬間、胸の奥が嫌なほど強く脈打った。
グレースの輪郭が、先ほどよりも薄くなっていたのだ。
銀色の髪の先から、小さな光が零れ始めている。肩や指先も、夕暮れの景色へ溶け込むように揺らいでいた。
「……おい」
グレースは自分の身体へ視線を落とし、何かを悟ったように目を伏せた。
空に残っていた茜色が、少しずつ夜の青へ変わっていく。
「待て……っ!」
俺は反射的に手を伸ばした。
けれど、指先は彼女の身体をすり抜けるばかりで、零れ落ちる光を掴むことさえできなかった。
「グレース!」
もう一度名前を呼ぶ。
返事の代わりに、彼女が小さく微笑んだ。
あの夜と同じだった。
必死に抱きしめても、どれほど離れたくないと願っても、俺の手は彼女を繋ぎ止めることができない。
「……待ってくれ。まだ、何も聞けてないだろ……!」
ようやく思い出したのだ。
まだ、ちゃんと謝ってもいない。
あの夜、彼女が言いかけた言葉の続きだって、聞けていない。
それなのに、また目の前からいなくなるなんて。
「……グレース、頼むから……!」
俺の声を聞きながら、彼女はいつものように不敵に笑おうとした。
けれど、うまく笑えなかったのだろう。
唇を震わせたまま俺を見つめ、その表情がふいに崩れた。
「……どうして……」
光の中から、掠れた声が届く。
「そんな、怒ったような……悲しい顔をするのよ……」
答えようとして、言葉が詰まった。
怒っている。
彼女を失ったことにも、何も知らずに過ごしていた自分にも。
けれど、それ以上に、悲しかった。
今度こそ会えたと思ったのに、また手が届かないことが。
グレースの紫色の瞳が、泣きそうに揺れる。
彼女は何か言いかけたが、結局、言葉にはならなかった。
そして、消え入りそうな声で告げた。
「……さようなら、レオナルド」
次の瞬間、光がふわりと散った。
「……っ!」
伸ばした手は、何にも触れなかった。
彼女がいた場所を、夜風が吹き抜けていく。
足元では、薄紫のスイートピーが何事もなかったかのように揺れていた。
それだけだった。
「……グレース……?」
呼んでも、返事はない。
先ほどまで確かにそこにいたはずなのに、銀色の髪も、紫色の瞳も、もうどこにも見えなかった。
俺はその場へ膝をついた。
胸の奥が痛い。喉が詰まり、まともに息もできない。
会いたかった人に、ようやく会えたのに。
伝えたいことは、何ひとつ伝えきれなかった。
それでも、今度はあの夜とは違った。
彼女が消えたあとも、その名前を覚えている。
俺はグレースを知っている。
何度も喧嘩をして、一緒に笑って、誰よりも愛していた人のことを。
そして、もう一度この丘で会えたことも。
「……忘れない」
震える声が、誰もいない丘へ落ちた。
グレースの言葉も、泣き顔も、最後に見せたあの微笑みも。
何ひとつ、忘れたくなかった。
俺は手の中のハンカチを広げた。
白い布には、アシュフォード公爵家の紋章と、小さな花。そして、向かい合う二つの三日月が縫い込まれている。
幼い頃、二人で空へ浮かべた月。
彼女が闇で描いた三日月へ、俺が光を添えた。
『……いい? これが私と、あなたの合図』
『暗くても、お前がいるって分かる』
あのとき、そう言ったのは俺だった。
グレースは、その言葉を覚えていたのだろう。
だから、この模様を大切にしていたのだろう。
彼女が消えても、記憶を失っても、このハンカチだけは俺の手元に残っていた。
そうして、もう一度この丘へ辿り着いた。
俺は指先で二つの三日月をなぞり、涙を拭った。
光は、さっきまでここにあった。
触れられなかったけれど、彼女の声を聞いた。
あいつは確かに、俺の名前を呼んでくれた。
どうして姿を見せてくれたのかは分からない。今の彼女がどこにいるのかも、まだ何も分かっていない。
それでも、調べられることはあるはずだ。
あの光が何だったのか。なぜ、この場所で再び会えたのか。
諦めるのは、そのあとでも遅くない。
「……待ってろ」
俺はハンカチを握りしめ、グレースが消えた場所を見つめた。
「今度は俺が、お前を見つけ出す」
風が吹き、スイートピーが一斉に揺れた。
夜はすっかり深くなり、丘にはもう誰の姿も見えない。それでも、俺はしばらくその場を離れることができなかった。
あの子が帰れと言っても、また来ると答えた、幼い頃の自分を思い出していた。
グレースがここにいたことを、今度こそ忘れない。
だから、もう一度。
あの声が聞こえるまで、この丘へ来ようと思った。




