第36話 会いたい
丘の頂へ辿り着いた瞬間、俺は思わず足を止めた。
視界いっぱいに広がるのは、淡い紫色の花だった。なだらかな斜面を埋め尽くすように咲いたスイートピーが、夕暮れの風を受けて静かに揺れている。
花々の向こうには、茜色から薄青へと移り変わり始めた空が広がっていた。
「……ここは……」
掠れた声が零れる。
初めて来た場所ではない。
そう思った。
花の香りも、頬を撫でる風も、丘の上から見渡す景色も、どれも胸が苦しくなるほど懐かしかった。足元の小道がどこへ続いているのかさえ、確かめる前から分かる気がする。
けれど、いつ誰と来たのかを思い出そうとすると、頭の奥に薄い靄がかかった。
俺はゆっくりと辺りを見渡した。
王都から、そう遠くない場所だ。学園の裏手から続く道を辿れば、ここへ来られる。今まで何度も近くを通っていたはずなのに、どうして一度も足を向けようとしなかったのだろう。
そう考えたとき、ふいに一つの光景が浮かんだ。
月明かりに照らされた丘。
地面に座り込み、白いハンカチを握っている自分。
頬が濡れていて、何かを失ったような気がしているのに、なぜここにいるのか分からない。
「……あの日……」
思わず上着の内側へ手を伸ばした。
ずっと持ち歩いていた白いハンカチが、そこにある。
あれは、ここで拾ったものだった。
なぜ今まで思い出せなかったのだろう。
手に入れた場所すら曖昧なまま、ただ失くしてはいけないという思いだけで持ち歩いていた。けれど、この丘に立った今、月明かりの下で布を拾い上げた感触が、指先に蘇っていた。
それだけではない。
胸の奥に空いた穴も、理由の分からない涙も。
すべては、あの夜から始まったのだ。
「……どうして俺は、ここへ来なかったんだ……?」
学園の中庭も、図書室も、訓練場も、何度となく歩き回った。何かを思い出せるのではないかと、手がかりになりそうな場所を探し続けてきた。
それなのに、この丘だけは、思い浮かべることさえなかった。
忘れていたわけではない。今になって、あの日ここにいたことを思い出せるのだから。
ただ、思い出そうとするたび、そこへ考えが至る前に別のことへ意識が逸れていたような気がする。
まるで、この場所へ戻ることを、何かに妨げられていたかのように。
背筋を冷たいものが走った。
俺はハンカチを握りしめ、花畑へ一歩踏み出した。
柔らかな土が靴の下でわずかに沈む。風に揺れる花が足元へ触れた、そのときだった。
ぽたり、と何かが頬を伝った。
「……え?」
指を当てると、濡れていた。
涙だった。
泣く理由など、今の俺には分からない。けれど、見渡す限りの花を前にしていると、胸の奥から次々と感情が込み上げてきた。
懐かしい。
ここへ帰ってきたかった。
ずっと、誰かと一緒にこの景色を見ていた気がする。
そんな思いが溢れるのに、隣へ目を向けても誰もいない。
そのことが、どうしようもなく悲しかった。
「……誰だよ……」
俺は、誰とここにいたんだ。
誰を、こんなにも探しているんだ。
息を整えようと俯いたとき、足元の一輪の花が風に揺れた。薄い花弁が重なり、夕暮れの光を受けて淡く透けている。
——スイートピー。
その花の名前は知っていた。けれど、目の前に咲く薄紫色の花を見つめた瞬間、なぜか品種の名前までが、ごく自然に頭へ浮かんだ。
——グレース。
「……え……?」
思わず、花を見つめ直す。
なぜ、そんなことまで知っているのだろう。花の品種に詳しいわけでもないのに、その名前だけは昔から知っていたかのように馴染んでいた。
どこで覚えたのか、思い出そうとした。そのとき、頭の奥で幼い少女の声が響いた。
『このスイートピーはね、私と同じ名前なの』
「……っ」
少し素っ気ないのに、どこか嬉しそうな声音だった。
その声を、俺は知っている。
花の名前を教えてくれたのは、誰だった?
その子は、何という名前だった?
胸の奥が強く脈打つ。
そして、気づけばその名前を、もう一度口にしていた。
「……グレース」
今度は、花の名前としてではなかった。
ずっと忘れていた誰かを呼ぶように、声が震えた。
「……グレースって……誰だ……」
もう一度、呼んだ途端、胸が強く締めつけられた。
その名を知っている。
何度も呼んだはずだ。呆れたときも、笑ったときも、心配で堪らなかったときも。
ずっと、そう呼んできた。
なのに、その人の顔が思い出せない。
「……っ、あ……!」
頭の奥を鋭い痛みが貫いた。
思わず額を押さえ、膝をつく。
視界の端で、紫色の花が揺れている。その向こうに、小さな少女の姿が浮かんだ。
銀色の髪。
紫色の瞳。
こちらを睨みつけるように見上げながら、少しも怯まずに言い返してくる。
『来なくていいって言ってるでしょ』
『じゃあ毎日来る』
『……勝手にしなさい』
そう答えた少女が、そっぽを向く。
けれど、ほんの少しだけ口元が緩んでいたことを、俺は知っていた。
——グレース。
そうだ。あいつだ。
次の瞬間、途切れていた景色が次々と繋がり始めた。
公爵家の敷地で出会った、物騒なことを平然と言う少女。誰にも頼ろうとせず、何でも一人で抱え込もうとするくせに、困っている者を放っておけない。
憎まれ口ばかり叩いていた俺たちは、いつの間にか、会える日を心待ちにするようになっていた。
夕暮れの丘を駆け上がったことも、彼女が斜面で転んだくせに楽しそうに笑っていたことも。
花畑に並んで座り、何でもない話をしたことも。
いつも、隣にいた。
やがて、別の光景が鮮やかに浮かび上がる。
薄暗くなった空へ、彼女が闇の魔力で三日月を描いている。俺はその輪郭を金色の光でなぞり、隣へもう一つの三日月を浮かべた。
向かい合う、二つの月。
『……いい? これが私と、あなたの合図』
小さな指が、俺の指へ絡められる。
『三日月が二つ……これなら、暗い夜でも寂しくないな』
『これなら、離れていても同じ月を見てるってわかるだろ?』
『……そうね』
彼女の手は、思っていたよりもずっと温かかった。
その手を離したくなくて、もう一度空を見上げた自分の声まで蘇る。
『暗くても、お前がいるって分かる』
「……ああ……」
喉の奥から、掠れた声が漏れた。
――思い出した。
あの月は、俺たちだけの合図だった。
暗い場所にいても、離れていても、互いを見つけられるようにと交わした約束だった。
その記憶とともに、彼女へ抱いていた気持ちまでもが、堰を切ったように溢れてくる。
不器用なくせに優しくて、強がりで、頑固で。
自分のこととなると、驚くほど無頓着な女だった。
放っておけば何でも一人で背負おうとするから、俺が傍にいなければならないと思っていた。
守りたかった。
誰からも否定されず、胸を張って俺の隣に立っていてほしかった。
そのために努力してきたのだ。
剣も、魔法も、学問も、政務も。
あいつが隣にいることへ、誰にも文句を言わせない男になるために。
——グレース。
俺は、あいつを愛していた。
ずっと昔から。
何度も好きだと伝えて、いつか同じ言葉を返してもらえる日を、ずっと待っていた。
そのグレースを。
俺は、忘れていた。
「……なんで……」
声が震える。
浮かび上がった記憶は、まだ止まらなかった。
学園の廊下。
冷たくこちらを見つめるグレース。
その目に傷つきながら、どうしてそんな態度を取るのかと問い詰めた自分。
彼女を悪女だと決めつけ、何も知らないまま突き放していた日々。
やがて記憶は、あの夜へ辿り着いた。
月明かりに照らされた、この丘。
腕の中にいるグレースは、驚くほど軽かった。
銀色の髪が風に揺れ、その輪郭が少しずつ薄くなっていく。何が起きているのか分からず、必死に抱きしめた。
彼女は、俺の記憶を奪った。
俺を生かすために。
そして、俺が思い出したことで、彼女は代償を支払うことになったのだ。
『……大丈夫よ。あなたは、忘れるわ』
『忘れて……ちゃんと、生きていける』
違う。
そんなわけがない。
あのとき、そう伝えたはずだった。
俺は、忘れたくなかった。
彼女を離したくなかった。
『どこにも行くな。頼むから……俺の前から、いなくならないでくれ』
それでも、グレースは微笑んだ。
泣きそうなくせに、最後まで俺を安心させようとしていた。
『……愛してるわ』
耳元で囁かれた声が、鮮明に蘇る。
『誰よりも、何よりも——あなたを』
「……っ!」
息が詰まった。
ずっと聞きたかった言葉だった。
ようやく、彼女が想いを伝えてくれたのに。
俺は、その続きを聞くことさえできなかった。
銀色の光が溢れ、抱きしめていた身体の重みが消えていく。慌てて腕へ力を込めても、もう何にも触れられない。
そして気づけば、俺は一人、この丘に取り残されていた。
——ああ。
そうだった。
全部、思い出した。
「……グレース……」
膝から力が抜け、その場に崩れ落ちる。
あれほど大切だった人が、自分の腕の中から消えた。
それなのに、俺はまた忘れたのだ。
何も知らないまま朝を迎え、公務をこなし、眠りについた。頬を伝う涙の理由も分からず、ただ誰かを探し続けていた。
彼女が最後まで守ろうとしたものを、俺は失っていた。
「……なんで、忘れてるんだよ……俺は……」
地面についた手が震えた。
忘れたくて忘れたわけではない。それでも、そんな理屈で納得できるはずがなかった。
あいつは、俺に忘れられることがどれほど苦しかっただろう。
俺が何も知らずに冷たく接していた間も、たった一人で、どれだけのものを抱えていたのだろう。
そして最後には、消えたくないとさえ言えなかったのかもしれない。
思い返せば、あのときの笑顔は、少しも平気そうではなかった。
俺を見上げる紫色の瞳には、確かに涙が滲んでいたのだから。
「……ふざけるなよ……」
喉の奥から、絞り出すような声が漏れた。
「お前を守るために、強くなったはずなのに……っ」
大切な人を、自分の腕の中で失った。
何もできなかった。
離さないと約束したのに、その手を握り続けることすらできなかった。
「……こんなに大事だったのに……どうして……っ」
涙が頬から零れ、足元の花弁を濡らしていく。
俺は上着の内側へ震える手を差し入れ、白いハンカチを取り出した。
広げた布の四隅には、小さな刺繍が施されている。
アシュフォード公爵家の紋章と、二人の誕生花。
そして、向かい合う二つの三日月。
今なら分かる。
あの月は、俺たちが幼い頃に空へ描いたものだ。
彼女がどれほど大切にしていたかも、覚えている。
あの日、中庭の入り口でこのハンカチを見つけたとき、確かにグレースのものだと思った。
彼女へ返そうとしたことも。
結局、渡せなかったことも。
その後もなぜか手放せず、上着の内側へしまい続けていたことも。
すべて、繋がった。
「……お前の、だったんだな……」
呟きながら、三日月の刺繍を指先でなぞる。
どんな気持ちで、この模様を縫ったのだろう。
何を思いながら、ずっと持ち歩いていたのだろう。
その答えまでは、まだ分からない。
けれど、この布だけは、あいつが確かにここにいた証だった。
記憶を失っても、俺はこれを捨てられなかった。
誰のものか分からなくなっても、失くしてはいけないと思い続けていた。
『暗くても、お前がいるって分かる』
幼い頃の自分の言葉が、胸の奥に響いた。
あのときは、こんな未来が来るなど思いもしなかった。
どれだけ離れていても、必ず見つけられると信じていたのに。
俺は、すぐ傍にいた彼女を見失い、ようやく思い出したときには、もう手の届かない場所へ行かせてしまった。
「……グレース……」
名前を呼んでも、返事はない。
少し不機嫌そうな顔で振り返ることも、呆れたようにため息をつくこともなかった。
風が丘を吹き抜け、薄紫の花が一斉に揺れる。
俺はハンカチを握りしめ、彼女が立っていた場所を見つめた。
消えてしまう直前、グレースは何と言いかけていたのだろう。
『あなたは、私の——』
その先を、俺は知らない。
もう一度会えたなら、今度こそ最後まで聞きたい。
俺も、まだ伝えられていないことがある。
どうして黙っていたのかと怒りたいし、勝手に一人で抱え込むなと文句も言いたい。
それでも最後には、きっと抱きしめてしまうのだろう。
何度も名前を呼んで、もう離さないと伝えて。
できることなら、あいつが安心して笑えるまで、ずっと傍にいたい。
「……会いたい」
声にした途端、胸の奥が痛いほど締めつけられた。
会いたかった。
もう一度、その顔を見たかった。
あの素っ気ない声で名前を呼んでほしかった。
今度こそ、彼女が何を抱えていたのか、ちゃんと聞きたかった。
「……お前がいない世界なんて……」
掠れた声が、風に紛れていく。
目の前には、誰もいない花畑が広がっていた。
それでも、俺はまだ立ち上がれずにいた。
この場所を離れてしまえば、今度こそ彼女のすべてが遠ざかってしまう気がしたからだ。
「そんなものに、意味なんてない……」
握りしめたハンカチを胸元へ引き寄せる。
あの日は、ここで何も分からないまま泣いていた。
今は、涙の理由が分かる。
そして、誰を探していたのかも。
——グレース。
俺は、まだお前に会いたい。
その想いを胸の奥で繰り返した、そのときだった。
丘を吹き抜けていた風が、ふいに変わった。




