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悪女と呼ばれる公爵令嬢のことだけ、なぜか王太子は思い出せない  作者: はな
第三部:追想の王太子──ときどき幼馴染

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第36話 埋まらない空白



 今までと、何ひとつ変わらない日常。

 ……そのはずだった。


 朝になれば膨大な公務を裁き、昼になれば重苦しい御前会議に出席し、夜になれば深夜まで執務室で書類仕事に追われる。


 王太子として過ごす毎日は、以前と何一つ変わらない。

 周囲の大人たちも、俺を「完璧な次期国王」としてこれまで通りに扱う。


 だが——俺だけが、決定的に変わってしまった。


 あの日から。

 王城の会議室で、ソフィアとの婚約を明確に拒絶したあの日から。


 胸の奥にぽっかりと空いた巨大な穴は、どれだけ時が流れても塞がる気配がない。


 いや、違う。


 新しく穴が空いたのではない。

 最初からそこにあったはずの何かを、根こそぎ失っているのだ。



「殿下、こちらの領地報告書に署名をお願いいたします」

「ああ」


 差し出された書類に機械的に目を通し、内容を確認し、淀みなく署名をする。

 それだけの作業だ。それだけのはずなのに。


 ふと、羽ペンを握る手が止まり、視線が窓の外へと吸い寄せられる。

 燦々と降り注ぐ太陽の下、中庭を忙しなく歩く使用人たち。鋭い訓練の声を上げる騎士たち。 


 その大勢の人混みの中に—— 必死に探している『誰か』がいる気がしてならないのだ。


「…………」


 だが、当然そこには誰もいない。


 分かっている。

 頭では、そんな都合よく見つかるはずがないと分かっているのだ。


 それでも、俺は無意識に誰かの影を追い求めてしまう。


 気づけば、最近の俺は完全にどうかしていた。


 名前も知らない。

 顔も、声も思い出せない。


 それなのに、今すぐ見つけなければならないという焦燥感だけが胸を締め付けていた。


 ——猶予は、学園を卒業するまでの残り数ヶ月。


 もし見つからなければ。


 卒業の日は必ずやって来る。

 その時、自分がどんな決断を下すことになるのか分からない。


 だが、あの人を見つけられないまま迎える未来だけは耐えられなかった。


 そんな地獄は、死んでも御免だ。

 何が何でも、卒業までに探し出す。



 その異常な執念は、学園にいる時でも同じだった。


 退屈な講義が終わる。

 普段なら真っ直ぐ馬車へ向かうはずの俺は、気づけば何かに取り憑かれたように校舎を彷徨い歩いていた。


 中庭、図書室、訓練場。

 理由もなく足が向く。


 何をしているのか、自分でも全く説明がつかない。


 効率も糞もない、ただの無駄な足掻きだ。

 だが、どうしても足が止まらないのだ。


 もしかしたら、この曲がり角を曲がった先にいるかもしれない。


 そんな、一縷の望みに縋るように。


「レオナルド」


 不意に、背後から低く鋭い声がした。

 振り返ると、同じようにやつれた顔をしたエドガーがそこに立っていた。


「……また無意味に歩き回っていたのか」

「そうか?」

「そうだ」


 親友からの即答に、レオナルドは自嘲気味に息を吐く。


「ここ最近ずっとだぞ。学園中の奴らが、完璧王子が幽霊でも探しているのかと噂している」

「誰かを探しているのか、と聞かれれば……」


 足を止め、エドガーの目をまっすぐに見据えた。


「……探している。自分でも呆れるほどにな」


 もう、己の異常性を否定するつもりはなかった。

 エドガーが僅かに目を見開く。


 けれど彼もまた、その瞳の奥に俺と同じ、どす黒い焦燥を宿しているのを俺は見逃さなかった。


「……誰を、探している」

「分からない」

「そうか」

「お前は?」

「……俺も、分からん」


 互いに、本当に何も分からなかった。

 名前も、理由も。


 それなのに、見つけなければならないという確信だけがあった。


 エドガーはしばらく俺の目を凝視していたが、やがて諦めたように深く、重いため息を吐き出した。


「お前も、俺も……完全に重症だな」

「ああ。否定はしない」



 それから、さらに苦しい数週間が過ぎた。


 公務の合間も、移動中も。


 気づけば人混みの中に銀色の髪を探していた。

 似た姿を見つけるたび心臓が跳ね上がる。


 だが、そのたびに別人だった。

 確かめるたびに、見知らぬ他人の顔がそこにある。


「……くそっ!!」


 誰もいない馬車の中で、思わず乱暴な悪態が漏れた。

 こんな無様な姿、昔の俺なら絶対にあり得なかった。


 何を探しているのかも分からないのに、見つからないという事実だけが苦しかった。


 夜になっても、ベッドの中でそればかりを考える。

 朝、目を覚ますたびに頬が濡れていた。


 気づけば、考えることはその人のことばかりだった。


 会いたい。

 見つけたい。

 もう一度、その声を聞きたい。


 それだけなのに、肝心の相手に手が届かない。


 世界そのものが俺を遠ざけているようで、どうしようもなく苦しかった。



 その日も、公務を終えた帰路の途中だった。


 馬車の窓から流れる景色を、ぼんやりと眺めていたその時——

 

 視界の端、遠くに見えたなだらかな丘に、ふと目が留まる。


 ドクン、と胸が大きく跳ねた。


 全身の血が逆流し、ポケットの中の白いハンカチが、まるで生き物のように熱を帯びた気がした。


「……馬車を、止めてくれ」

「殿下?」


 御者や同乗していた護衛の騎士たちが、怪訝そうに振り返る。


「少し、外へ降りる」

「なっ、お待ちください殿下!このような何もないところで、急に何を仰るのですか!?」


 困惑し、制止しようとする護衛たち。

 当然だ。俺自身、なぜ自分がここまで動揺しているのか、理屈での説明など何ひとつできないのだから。


 ただ——今すぐにあそこへ行かなければならない。


 胸が大きく跳ねる。


 理由など分からない。

 それでも、あの丘の向こうに答えがある気がした。


「ついて来るな!!」


 呼び止める護衛たちの声を荒っぽく振り切り、馬車から飛び出した。


 泥を跳ね上げ、確信だけを胸に丘の頂へと駆け出した。




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