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悪女と呼ばれる公爵令嬢のことだけ、なぜか王太子は思い出せない  作者: はな
第三部:追想の王太子──ときどき幼馴染

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第35話 それぞれの喪失

ソフィア視点→エドガー視点です。



 マルクス侯爵家の馬車は、夜の帳が下り始めた街を、静かに揺れながら進んでいた。


 誰も口を開かず、耳が痛くなるほどの重苦しい沈黙だけが車内を満たしている。


 ソフィアはドレスの膝の上で、白くなるほど固く拳を握り締めていた。

 爪が手のひらに食い込むほど力を込めても、身体の奥底から湧き上がる震えは一向に止まらない。


 ——レオナルド様に、完全に拒絶された。


 その残酷な事実だけが、何度も、何度も濁流のように頭の中を巡っていた。


「……ありえない。こんなこと、絶対にあってはならないわ……」


 ぽつりと零れた声は、自分でも驚くほど惨めに掠れていた。


 王太子妃になるのは、この私だったはずだ。

 最初からそう決まっていたし、世界だってそれを望んでいるはずだった。


 そのために、誰よりも血の滲むような努力をしてきたのだ。


 高慢な貴族たちを黙らせる礼儀作法も、複雑な政治の仕組みも、狐と狸の化かし合いのような社交界の立ち回りも。

 王城で行われる過酷な王太子妃候補者教育でも、私は常に他の令嬢たちを圧倒し、トップの成績を収めてきた。


 いや——トップなどという生ぬるいものではない。

 いつだって、私は完璧な『一番』だったのだ。


 だからこそ、王城へ招かれるたびに、自分が次期王妃として誰よりも相応しいと認められているのだと確信していた。


 いつしか周囲の貴族たちも、当然のように自分をそういう目で扱っていた。


『未来の王妃、ソフィア様』

『次期王太子妃となるお方』

『我が国の至宝』


 社交界へ足を踏み入れればそんな賛辞で迎えられ、年下の令嬢たちは私に羨望と憧れの眼差しを向けてきた。

 気付けば、その約束された未来は、私にとって呼吸をするのと同じくらい当然のものになっていたのだ。


 誰もがそうなると思っていた。

 他ならぬ、自分自身でさえも。


 だからこそ——。


 今日のあの王城の場で、当のレオナルド殿下から真っ向から全否定されたことが、どうしても信じられなかった。


「存在しないじゃない……そんな女、どこにもいないのよ……!」


 唇から零れ落ちた呪詛のような言葉に、ソフィアは自分自身で息を呑む。


 レオナルドが「命に代えても守る」と言い放ったあの相手など、この世界のどこを探したっていやしない。


 そんな人間は、最初から影も形も存在しないのだ。


 なのに、あの時のレオナルドの瞳は、恐ろしいほどに本気だった。


 王太子の座すら躊躇なくドブに捨てる覚悟で、彼は自分ではない『誰か』を選んだ。


 ——顔も、名前すらも分からない、幻のような誰かを。


「どうして……っ」


 涙混じりの声が震える。

 理解できなかった。


 今までだって、私は完璧にやってきたはずだ。


 レオナルドへ近づこうとする不届きな令嬢は、すべて私の手で排除した。


 悪質な噂を流して社交界から失脚させ、他家との縁談を強引に潰し、時には父の権力を利用して物理的に遠ざけた。

 それでも足りないなら、さらに冷酷な手を打って二度と這い上がれないようにしてきた。


 全部、全部——レオナルドの隣という、世界で一番特別な場所に立つためだった。


 それなのに、これほどの犠牲を払ってきたというのに——。


「お前のせいだ」


 氷のように冷たい声が頭上から落ち、ソフィアは弾かれたように顔を上げた。


 正面に座っているのは、実の父親であるマルクス侯爵だった。

 その冷え切った冷徹な視線が、容赦なくソフィアを射抜いている。


「……お、お父様……」

「余計な真似をしてくれたな。弁えろ、ソフィア」


 侯爵は一度だけ侮蔑を込めて娘を見ると、感情の失せた声音で告げた。


「我がマルクス家は、この婚約を完璧なものにするために、気の遠くなるような時間と資産を投じて準備してきたのだ。お前一人の安っぽい恋愛ごっこに付き合っているわけではない」


 その一言で、ソフィアの全身の血の気が一気に引いていく。

 侯爵はすでに娘に関心を失ったかのように、窓の外の夜景を見つめながら淡々と続けた。


「どのような状況であれ、人前で感情を見せるなとあれほど教えたはずだ」

「ですが……!あのような理不尽な侮辱をされては——」

「黙れ」


 遮られた短い言葉の圧力に、ソフィアの喉が完全に詰まる。

 侯爵の顔には、激しい怒りすら浮かんでいなかった。そこにあるのは、ただ機械的な『失望』だけだ。


「お前は、勝ちを目前にして無様に動揺し、取り乱した。完璧であるべきマルクス家の令嬢が、王の前で叫ぶなど論外だ」

「……っ」

「その結果として、殿下の『婚約を拒絶する意思』を余計に強固にさせたのだ。すべてはお前の失態だ」


 反論など、できるはずがなかった。

 レオナルドが明確に婚約を断ったあの瞬間、私の頭は真っ白になっていた。そして気づけば、淑女としては絶対に許されない金切声を上げてしまっていたのだ。


 完璧であるべき自分が、最も人に見せては行けない、醜く狂った姿を晒してしまった。


「申し訳、ございません……」

「今さらお前の謝罪など、何の役にも立たん」


 冷酷に切り捨てられた言葉に、ソフィアはただ深く俯き、ドレスの布地を握りしめることしかできなかった。

 胸の奥が、ドロドロとした黒い感情で重くのしかかる。


 悔しい。苦しい。絶対に認めたくない。

 そんな感情ばかりが頭の中で渦巻いているのに、それでも、あの時のレオナルドの言葉が脳裏からどうしても離れてくれない。


『その人を、世界の誰にも否定させたくなかった』

『だから強くなりたかった。ただ、その人の隣に立ちたかったんです』


 あの真っ直ぐな言葉だけが、何度も、何度もソフィアの胸を容赦なく抉り続ける。


 王妃の座という権力が欲しかった。それは間違いない。

 でも、それ以上に……私が本当に欲しかったのは、世界中でただ一人、レオナルド様、あなたの心だったのに。


「私の方が……私の方が、ずっとずっと昔から、あなただけを想っていたのに……っ!」


 小さく、血を吐くような声が溢れるも、夜の闇に消えるだけで返事などあるはずもない。


 馬車は静かに進み続ける。

 ふと、窓の外に目をやると、夜風に揺れる不気味な紫色の花が目に入った。

 その花を見た瞬間、なぜか心臓がドクンと嫌な音を立てて波打つ。


 得体の知れない不安。胸のざわつき。

 まるで、自分が犯してしまった『決して忘れてはいけない大罪』が、すぐ後ろまで迫ってきているような感覚。


「……気のせいよ。ただの、気のせい……」


 自分を呪縛するように呟くも、その声はもう、自分自身でも信じられないほどに弱々しく震えていた。


 ——レオナルドが選んだ、あの“誰か”。

 この世界に存在すらしないはずのその幻が、今、少しずつ、確実に自分からすべてを奪い去ろうとしている。そんな強烈な恐怖に、ソフィアはただ身を震わせるしかなかった。



◇◇◇



 夜の公爵邸の執務室には灯りだけが残っていた。

 エドガーは手元の書類を見下ろしていたが、一文字も頭に入ってこない。


 気付けば同じ行を何度も読み返している。


「……駄目だな」


 小さく呟いて椅子にもたれた。


 今日の話は既に耳に入っている。


 ——レオナルドが婚約を拒否した。


 理由も分からないまま、王太子の座すら手放す覚悟を見せたらしい。


 聞いた瞬間、妙な納得があった。


 当然だと思った。

 そうするべきだとすら思った。


 だが、その理由だけは分からない。


「本当に何なんだ……」


 ここ最近、そればかりだった。


 レオナルドを見ると胸が痛む。

 紫色の花を見ると息が苦しくなる。


 そして自分は妙な行動を繰り返している。

 あの日から調べ続けている。


 ただ、この胸にずっとこびりついている違和感に、名前を付けたかった。


 学園では気付けば視線が誰かを探している。


 何を探しているのか。

 誰を探しているのか。


 それすら分からないまま。


 机の引き出しを開く。

 引き出しから取り出したのは、闇属性に関する古い報告書だった。


 以前なら興味も持たなかったはずだ。

 だが最近、気付けば何度も同じ資料を読み返している。


 まるで、その先に何か大切な答えがあるかのように。

 資料を読み返せば読み返すほど、この世界のどこかに歪みがあるような気がしてならない。


 あの声を思い出そうとする。

 だが何も浮かばない。


 けれど、その奥に隠れていたものを知っている気がした。


「……知っている?」


 思わず顔を上げる。


 知らない。

 知るはずがない。


 それなのに、あの声が泣いていたことだけはなぜか分かる。


 胸が痛む。

 どうしようもなく。

 耐えられないほど。


 まるで大切な人を傷つけた時のように。


「……俺は」


 言葉が止まる。

 その先を言ってはいけない気がした。


 言葉にした瞬間、何かが壊れてしまう気がした。


 窓の外を見ると、月明かりの下で紫色の花が揺れていた。


 その瞬間、胸の奥から強烈な感情が溢れ出す。


『ごめんなさい』


 誰の声だったのか。


 分からない。


 それなのに。


「……っ、ふざけるな……。謝るべきなのは……俺の方だろうが……っ!!」


 その言葉だけが、自然に零れ落ちた。

 なぜそんな言葉が出たのか分からない。


 だが胸の奥だけが知っている。


 俺は誰かを守れなかった。


 誰よりも傷付いていたはずなのに。

 誰よりも助けを求めていたはずなのに。


 俺は何もできなかった。


 その事実だけが、理由も分からぬまま胸を締め付ける。


 月明かりに照らされた紫の花が揺れる。


 その光景を見た瞬間、なぜか強く思った。


 幸せになっていてほしい、と。


 その人が誰なのか分からない。

 どんな顔をしていたのかも思い出せない。


 それでも、もし今その人がどこかで笑っているのなら、それでいいとさえ思った。


 そう思った瞬間、胸の奥が焼け付くように痛む。


 ——嘘だ。


 本当は、他の誰でもないこの俺が、その笑顔を見たかった。


「……本当に、何なんだ」


 苦笑が漏れる。

 だが胸の痛みだけは消えなかった。




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