第35話 埋まらない空白
婚約を拒んだあの日から、しばらくの時が過ぎた。
朝になれば王太子として公務に向かい、昼には会議へ出席し、夜には執務室で残された書類に目を通す。学園へ通う日も、講義や実習の合間を縫って届いた報告書を処理しなければならず、以前と変わらず忙しい毎日が続いていた。
周囲も、俺をこれまでどおりに扱っている。
王太子として求められるものは変わらず、父上から命じられた仕事が減ることもない。マルクス侯爵家との婚約については卒業まで結論を保留することになったが、日常そのものに大きな変化はなかった。
それなのに、俺だけが、どうしようもなく変わってしまった。
いや、違う。
胸の奥にある空白は、あの日突然生まれたものではない。もっと前から、そこにあったはずの何かを根こそぎ失っていたのだ。
婚約を拒んだことで、その事実から目を逸らせなくなっただけだった。
◇
「殿下、こちらの領地報告書に署名をお願いいたします」
「ああ」
差し出された書類を受け取り、内容を確かめてから署名をする。記載に不備があれば担当者へ確認を命じ、問題がなければ次の案件へ進む。長年繰り返してきた仕事だ。手順に迷うことなどない。
それでも、ふとした瞬間に羽ペンを持つ手が止まってしまう。
窓の外から聞こえてきた足音に、無意識に顔を上げた。
中庭では使用人たちが忙しなく行き交い、その向こうの訓練場からは騎士たちの声が響いている。どこにでもある王城の風景だった。
俺は、その中を一人ずつ確かめるように見つめていた。
誰かを探している。
そう自覚してからというもの、人の気配を感じるたびに視線がそちらへ向くようになっていた。廊下の向こうで衣擦れの音がすれば顔を上げ、庭園を通り過ぎる令嬢の姿が目に入れば、仕事の手を止めてしまう。
見つかるはずがないと思いながら、それでも探すことをやめられなかった。
「……殿下?」
側近の声に、我に返る。
「……すまない。続けてくれ」
書類へ視線を戻したものの、先ほどの光景が頭から離れなかった。
名前も分からない。顔だって、銀色の髪と紫色の瞳がぼんやり浮かぶばかりで、はっきりと思い出せない。
それなのに、会いたいという気持ちだけが日に日に強くなっていく。
婚約の話し合いで、父上から卒業までの猶予を与えられた。
あの人を見つけなければならない。
誰なのか分からない相手を探すなど、傍から見れば無謀な話だろう。俺自身、何を手がかりにすればいいのかさえ分かっていなかった。
けれど、何もせずに卒業の日を迎えることだけは、どうしても考えられなかった。
上着の内側へ手を差し入れると、指先が白いハンカチに触れた。
取り出すことなく、布の感触を確かめる。
これが誰のものなのか、未だに分からない。それでも、俺が探している相手と無関係だとは思えなかった。
向かい合う二つの三日月をなぞるたび、胸の奥に懐かしさが込み上げてくるのだから。
いつか、その意味も思い出せるだろうか。
俺はハンカチをそっと握りしめ、それから書類へ目を戻した。
◇
学園にいる間も、落ち着かない日々が続いた。
講義が終われば、いつもなら待たせている馬車へ向かうところだ。だが、最近の俺は校舎を出る前に、決まってどこかへ寄り道してしまう。
中庭、図書室、訓練場。
特に用事があるわけではない。誰かと待ち合わせをしているわけでもなかった。
ただ、その場所へ行けば何かを思い出せるのではないかと、そんな期待を抱いてしまうのだ。
廊下の角を曲がるたび、向こう側に誰かが立っている気がした。
窓辺を通りかかると、そこにいた誰かがこちらを振り返るような気がする。
けれど、いつだって何も起こらなかった。
見慣れた校舎と、見知った生徒たちがいるだけだ。
「……何をやってるんだ、俺は」
自嘲するように呟き、足を止める。
こんな探し方に意味がないことくらい、分かっていた。それでも、まっすぐ帰ってしまえば、今日も何ひとつ手がかりを見つけられないまま一日が終わってしまう。
そう思うと、どうしても足が動かなかった。
「レオナルド」
背後から声をかけられ、振り返る。
そこには、エドガーが立っていた。
「……また無意味に歩き回っていたのか」
「そうか?」
「そうだ」
即答され、思わず息を吐く。
エドガーも、ここ最近は顔色が悪い。以前より図書室に籠もることが増えたらしく、目の下には薄く疲労の色が滲んでいた。
俺と同じように、あいつも何かを探しているのだろう。
「ここ最近ずっとだぞ。学園中の奴らが、完璧王子が幽霊でも探しているのかと噂している」
「……幽霊、ね」
妙に引っかかる言葉だった。
見えない相手を探し続けているのだから、確かにそう見えるのかもしれない。
「誰かを探しているのか、と聞かれれば……」
俺はエドガーへ向き直った。
「……探している。自分でも呆れるほどにな」
エドガーがわずかに目を見開く。
以前なら、こんなことを自分から認めるとは思わなかっただろう。だが、今さら取り繕ったところで、この男には見抜かれてしまう。
「……誰を、探している」
「分からない」
「……そうか」
エドガーはそれ以上、すぐには尋ねてこなかった。
その反応が気になり、俺は逆に問い返した。
「お前は?」
「……俺も、分からん」
静かな答えだった。
エドガーは廊下の先へ視線を向けている。その横顔を見ていると、俺と同じように何かを見つけようとして、何度も空振りを繰り返してきたのだと分かった。
俺たちは互いに、誰を探しているのか分からない。
それなのに、どちらも探すことをやめられずにいる。
不意に、以前エドガーが図書室で何かを調べていたことを思い出した。
「……何か分かったのか」
「まだ、何とも言えない。ただ……」
「ただ?」
「お前も俺も、何かを忘れてるんだとしたら。忘れたことにさえ気づけないような、何かが起きたんじゃないかと思ってる」
その言葉に、胸の奥がざわついた。
忘れたことにさえ、気づけない。
それは、今の俺たちにあまりにもよく当てはまっていた。
「……何か分かったら、教えてくれ」
「ああ。確かなことが分かればな」
エドガーはそう答え、やがて深く息を吐いた。
「お前も、俺も……完全に重症だな」
「ああ。否定はしない」
短く答えると、彼がほんの少しだけ笑った。
昔から見慣れたはずの顔だった。
けれど、今のエドガーが笑うと、どこか寂しそうに見える。
それが自分の顔にも浮かんでいるのだろうと思うと、何とも言えない気持ちになった。
俺たちはしばらく廊下に立っていたが、結局、互いに答えを見つけることはできなかった。
◇
それから、さらに数週間が過ぎた。
王太子としての仕事をこなしながら、俺は相変わらず誰かを探し続けていた。卒業までの猶予も、残り数ヶ月となっている。
銀色の髪など、そう見かけるものではない。それでも、陽の光を受けて白く輝く淡い金髪や、すれ違いざまに揺れた白い髪飾りにさえ、思わず目を奪われるようになっていた。
一度だけ、街で遠目に銀髪らしき令嬢を見かけたときには、馬車を止めさせてしまった。けれど、近づいてみれば見知らぬ相手で、期待した分だけ胸の奥が冷えていった。
そもそも、あの人の顔さえはっきり思い出せていないのだ。
それなのに、違うということだけは分かってしまう。
探しているのは、この人ではない。
あの人は、もっと——
「……くそっ」
誰もいない馬車の中で、思わず悪態が漏れた。
もっと、何だ。
どんな顔をしていた?
どんな声で笑っていた?
俺は、その人に何と呼ばれていた?
思い出そうとすれば、胸の奥がひどく痛んだ。
けれど、そこから先へ進めない。
夜になれば同じことを考え、朝には理由の分からない涙を拭う。最初は夢の内容を思い出そうとしていたが、最近では、目覚めた瞬間に何かを失っていることだけが分かるようになっていた。
顔を洗い、身支度を整え、公務へ向かう。
そんな当たり前のことをしながらも、ふとした拍子に胸が締めつけられる。
もし、あの人が俺の傍にいたのなら。
朝、目が覚めたとき。
仕事を終えて帰ってきたとき。
何でもないことで疲れた日も、きっとこんなふうに空っぽではなかったのだろう。
自分でも呆れるほど、知らない相手との日々を想像してしまう。
いや、知らないのではない。
忘れているのだ。
この気持ちだけが、あの人を知っている。
そう思うたび、上着の内側にあるハンカチへ手を伸ばした。
今ではすっかり癖になっていた。
指先に柔らかな布が触れると、少しだけ呼吸が楽になる。あの人に繋がる唯一のものを、まだ失っていないと思えるからだ。
けれど、どれだけ握りしめても、そこから先の記憶は戻ってこなかった。
◇
その日も、公務を終えて王城へ戻る途中だった。
馬車の窓から見える街並みは、夕暮れの光に染まり始めている。人々が家路を急ぎ、店先では夜の支度が進んでいた。
俺は流れていく景色をぼんやりと眺めながら、明日の予定を頭の中で確かめていた。
そのとき、遠くに見えたなだらかな丘へ、ふと目が留まった。
「……っ」
心臓が大きく跳ねた。
理由は分からない。
ただ、その丘から目を離せなくなった。
夕暮れの空を背にした、何の変哲もない丘だった。王都の外れにある、どこにでもありそうな場所だ。
それなのに、見つけた瞬間から胸の奥が騒がしくなっていた。
なぜだろう。
あそこへ行かなければならない。
そんな思いが、突然浮かんだ。
まるで、ずっと探していた道をようやく見つけたかのように。
無意識に、上着の内側へ手を伸ばす。
白いハンカチに触れた指先が、わずかに震えた。
布が熱を帯びたように感じたのは、気のせいだろうか。
「……馬車を、止めてくれ」
「殿下?」
同乗していた護衛の騎士が、驚いた顔をした。
「少し、外へ降りる」
「なっ、お待ちください殿下! このような何もないところで、急に何を仰るのですか!?」
困惑するのも当然だった。
ここには視察先もなければ、立ち寄る予定の施設もない。護衛に何の説明もなく馬車を止めさせるなど、普段の俺なら決してしないことだ。
けれど、今は説明している余裕すら惜しかった。
「ここで待っていてくれ」
「ですが、殿下——」
「……頼む」
護衛の声を遮り、俺は扉へ手をかけた。
胸の鼓動が、うるさいほど速くなっている。
あの丘の向こうに、何があるのかは分からない。
それでも、今行かなければ、また何かを見失ってしまう。
そんな焦りに突き動かされ、馬車から飛び降りた。
「殿下! お待ちください!」
背後から呼び止める声がした。
それでも、足は止まらなかった。
道端の草を踏み分け、夕暮れの丘へ向かって駆け出す。
足元の土が跳ね、上着が風を孕んだ。
こんなふうに、何も考えず走るのはいつ以来だろう。
王太子としての体面も、いつもなら優先するはずの予定も、今は頭から抜け落ちていた。
ただ、あの場所へ行きたかった。
名前も知らない誰かに、呼ばれている気がした。
——待っていてくれ。
心の中で、何度も繰り返す。
ようやく、ここまで来たんだ。
今度こそ、見つけたい。
俺は上着の内側の白いハンカチを押さえながら、丘の頂へと続く道を駆け上がった。




