第34話 それぞれの喪失
ソフィア視点→エドガー視点です。
マルクス侯爵家の馬車は、夕闇に包まれつつある王都を静かに進んでいた。石畳を踏む車輪の音だけが、重苦しい車内に規則正しく響いている。
ソフィアは膝の上で両手を固く握りしめていた。爪が掌へ食い込んでいるというのに、指先の震えは一向に止まらない。
——レオナルド様に、拒絶された。
何度思い返しても、信じられなかった。
今日の会議は、婚約の日取りを具体的に決めるためのものだったはずだ。父も、周囲の貴族たちも、当然そう考えていた。もちろん、ソフィア自身も疑ってはいなかった。
それなのに。
「……ありえない。こんなこと、絶対にあってはならないわ……」
零れた声は、ひどく掠れていた。
王太子妃になるのは、この私だったはずだ。そのために、どれほど努力してきたことか。
礼儀作法も、学問も、政治も、社交界での立ち回りも。王城で行われる厳しい教育にも、弱音を吐かずについてきた。
誰よりも優秀でなければならなかった。誰よりも美しく、気品に満ち、非の打ち所のない令嬢でなければならなかった。
そうすれば、いつかレオナルド様も認めてくださる。私こそが、隣に立つべき相手なのだと。
ソフィアは、ずっとそう信じてきた。
『未来の王妃、ソフィア様』
『次期王太子妃となるお方』
社交界で向けられる羨望の眼差しも、貴族たちの賛辞も、いつしかすべて当然のものになっていた。
なのに、当のレオナルド様は——。
『私には……もう、生涯を共にすると心に決めた相手がいるはずなのです』
「……誰なのよ……」
ソフィアは俯いた。
名前も分からない。顔も思い出せない。そんな相手のために、どうして私との婚約を拒むことができるの?
「存在しないじゃない……そんな女、どこにもいないのよ……!」
口にした途端、胸の奥がざわついた。
——存在しない。
なぜ、そう言い切れるのだろう。
レオナルドの心に誰かがいたとしても、今の自分には、その相手を確かめる術すらないというのに。
それでも、その誰かはもうどこにもいないはずだと、奇妙な確信だけが胸の奥にこびりついていた。
ソフィアは慌てて首を振る。
馬鹿げている。そんな相手のことなど、考える必要はない。
婚約は、まだ白紙になったわけではないのだ。卒業までの猶予が設けられただけ。それならば、まだ——。
「お前のせいだ」
正面から落ちてきた声に、ソフィアはびくりと肩を震わせた。
顔を上げると、父であるマルクス侯爵が冷たい目でこちらを見ていた。
「……お、お父様……」
「余計な真似をしてくれたな。弁えろ、ソフィア」
その声には、怒鳴りつけるような激しささえなかった。ただ、冷え切った失望だけが滲んでいる。
「我がマルクス家は、この婚約を確かなものにするため、長い時間と多額の資産を費やしてきた。お前一人の安っぽい恋愛ごっこに付き合っているわけではない」
「……っ」
ソフィアの喉が詰まった。
侯爵は娘から視線を外し、馬車の窓へ目を向ける。
「どのような状況であれ、人前で感情を見せるなと、あれほど教えたはずだ」
「ですが……! あのようなことを言われては——」
「黙れ」
短い一言に、ソフィアの身体が強張った。
「お前は国王陛下の御前で取り乱した。婚約を拒む殿下に食ってかかり、マルクス家の令嬢としての品位を失った」
「……申し訳、ございません……」
「謝罪を聞きたいのではない。己の立場を理解しろと言っている」
ソフィアは膝の上の手を、さらに強く握りしめた。
「勝ちを目前にして、あのような姿を晒すとはな。結果として、殿下の意思を余計に固くしただけではないか」
——私の、せい?
レオナルド様が婚約を拒んだのは、私が取り乱したから?
違う。
あの方は、私が何かを言う前から、すでに決めていた。王太子の座を返上してでも、婚約を受けないと。
けれど、それを父へ言い返すことはできなかった。
父が求めているのは、何があっても取り乱さず、マルクス家に利益をもたらす娘だ。私がどれほど傷ついたかなど、そんなことは少しも関係ないのだろう。
「……申し訳ございません、お父様」
ソフィアは深く頭を下げた。
頬が熱い。泣いているところを見られたくなくて、顔を上げられなかった。
完璧な令嬢であること。王太子妃にふさわしいと認められること。それだけを目指してきたはずなのに、今さらになって、胸の奥から別の願いが顔を出す。
——私を、見てほしかった。
王太子妃候補だからではなく、マルクス侯爵家の娘だからでもなく。
ただ、私を。
レオナルド様に、見てほしかった。
『その人を、世界の誰にも否定させたくなかった』
『……ただ、その人の隣に、胸を張って立ちたかったんです』
会議室で聞いた言葉が、何度も脳裏を巡る。
レオナルドは、あんなふうに誰かを想っていたのだ。その人のために、剣も、魔法も、学問も、政務も頑張ってきたのだと。
あんなにも、はっきりと。あんなにも、大切そうに。
私は、知らなかった。
ずっと隣を目指してきたのに、あの人が何を見つめていたのか、知らなかった。
「……私の方が……私の方が、ずっと昔から、あなただけを想っていたのに……っ」
返事など、あるはずもなかった。
向かいに座る父は、窓の外を見つめたままだ。ソフィアは俯き、ドレスへ涙が落ちるのを見つめていた。
そのとき、窓の外に淡い紫色の花が見えた。夜風に揺れる、小さな花だった。
「……っ」
胸が、嫌な音を立てて跳ねた。
何かを思い出しかけた気がした。けれど、そこにあったはずの光景は、すぐに霧の向こうへ消えてしまう。
残ったのは、得体の知れない不安だけだった。
私は、何かをした。
何か、取り返しのつかないことを。
そんな感覚が、どうしても拭えなかった。
「……気のせいよ。ただの、気のせい……」
ソフィアは小さく呟いた。
卒業まで、まだ時間はある。婚約の話も、終わったわけではない。
そう言い聞かせれば、少しは落ち着くはずだった。
けれど、レオナルドがあの白いハンカチへ手を当てていた姿が、どうしても忘れられない。
名前も分からない誰かを想うとき、彼はいつも、あの布に触れていた。
——そこにいるのは、誰なの?
私には、何が足りないの?
いくら問いかけても、答えは返ってこなかった。
馬車は、何事もなかったかのように侯爵邸へ向かって進み続けていた。
◇
夜の公爵邸では、執務室にまだ灯りが残っていた。
エドガーは机に向かい、手元の書類へ視線を落としている。けれど、同じ一行をもう何度読み返したのか、自分でも分からなかった。
「……駄目だな」
やがて羽ペンを置き、椅子の背へ身体を預ける。
今日の出来事は、すでに耳に入っていた。
——レオナルドが、ソフィアとの婚約を拒んだ。
それも、王太子の座を返上する覚悟まで示したという。
理由を聞いたとき、エドガーは驚いた。名前も顔も分からない相手がいる。その人と生涯を共にしたいから、ほかの誰とも婚約できないのだという。
普通なら、到底納得できない話だろう。
けれど、エドガーには奇妙なほど腑に落ちるものがあった。
——ああ。そうだろうな。
あいつなら、そうする。
そんな考えが、何の迷いもなく浮かんだのだ。
「……何を納得してるんだよ、俺は」
自嘲するように呟く。
レオナルドが誰を想っているのか、自分だって知らない。それなのに、あいつがその人を選ぶことだけは、当然だと思えてしまう。
まるで、ずっと前から知っていたかのように。
エドガーは机の引き出しを開け、闇属性に関する古い報告書を取り出した。
以前の自分なら、ここまで執着して調べることはなかったはずだ。けれど最近は、図書室に通い、古い記録や禁書を読み漁っている。
何を探しているのかも分からないまま、ただ、見つけなければならないという思いだけが頭から離れなかった。
机の端には、先日読み返した禁書の内容を書き留めた紙が置かれている。
『強い感情は、世界修正後も“残滓”として残る場合がある』
その一文が、やけに気になった。
存在そのものが失われたとしても、記憶が修正されたとしても、強く結びついた感情だけは残ることがある。
だとしたら。
自分の胸に残っている、この説明のつかない痛みも。レオナルドが、名前すら分からない相手を探していることも。
同じ何かに繋がっているのではないか。
「……まさかな」
小さく呟き、エドガーは報告書へ目を戻した。
闇属性。その文字を目にするたび、胸がざわついた。
忌避すべき力だと教えられてきたはずなのに、不思議とそんな気持ちにはなれなかった。むしろ、誰かがその力を使う姿を知っていた気がする。
強くて、ひどく不器用で、自分のことなど後回しにしてしまう、誰かを。
「……知っている……?」
エドガーは思わず顔を上げた。
知らない。そんな相手の名は、どこにも残っていない。
それなのに、声だけが耳の奥に引っかかっていた。
『……関係ないわ』
冷たく突き放すような、少女の声。
あの声の主は、いつもあんな言い方をしていたのだろうか。
そうだとしたら、きっと自分は、呆れて文句を言い、それでも結局は放っておけなかったのだろう。
何の根拠もない考えだった。けれど、そう思うと、胸の奥がひどく痛んだ。
「……っ」
エドガーは目を閉じた。
そのとき、別の声が聞こえた気がした。
『……ごめんなさい』
か細い声だった。
聞き覚えなどないはずなのに、ひどく胸を締めつけられた。
誰の声だ。何を謝っている。なぜ、そんなにも苦しそうなんだ。
エドガーは思わず机へ手をついた。
「……っ、ふざけるな……」
自分でも驚くほど、掠れた声が出た。
「謝るべきなのは……俺の方だろうが……っ!」
言い終えた瞬間、息が止まった。
……俺が?
誰に、何を謝るというのだろう。
思い出そうとしても、何も浮かばない。それでも、胸の奥だけが知っていた。
俺は、誰かを守れなかった。
誰よりも無理をしていることに気づいていたはずなのに。誰よりも苦しんでいることを、知っていたはずなのに。
それでも結局、どうすることもできなかった。
そんな後悔だけが、理由も分からないまま残っている。
エドガーは両手で顔を覆った。
何を忘れた。誰を忘れた。どうして、こんなに苦しい。
答えは、どこにもなかった。
やがて、窓の外で風が吹いた。
顔を上げると、月明かりの下で淡い紫色の花が揺れている。それを見た瞬間、胸の奥に別の感情が浮かんだ。
——幸せになっていてほしい。
誰なのかも分からない相手に、そう願っていた。
今もどこかで笑っているなら。もう苦しまずに生きているなら。それだけでいい。
そう思おうとした。
けれど。
「……嘘だろ」
思わず、苦笑が零れた。
そんな綺麗な言葉だけで、諦められるはずがなかった。
本当は、その笑顔を自分が見たかった。辛いときは頼ってほしかった。何でもない顔で強がる前に、少しくらい甘えてほしかった。
そのために、傍にいたかったはずなのに。
「……俺じゃ、だめだったのかよ……」
考えるより先に、言葉が零れた。
誰に向けた問いなのかも分からない。けれど、声にした瞬間、胸が引き裂かれるように痛んだ。
エドガーははっと顔を上げる。
……今のは、何だ。
どうして、そんな言葉が出た?
自分でも理解できない。それなのに、涙だけが止まらなかった。
エドガーは机に肘をつき、額を押さえた。
「……本当に、何なんだ……」
窓の外では、薄紫の花が夜風に揺れていた。
答えを知っているはずの誰かは、もうどこにもいない。
それでも、忘れてしまった想いだけが、今も胸の奥に残り続けていた。




