↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
悪女と呼ばれる公爵令嬢のことだけ、なぜか王太子は思い出せない〜忘れているはずなのに、いつだって君だけが特別だった〜  作者: はな
第三部:追想の王太子──ときどき幼馴染

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
34/53

第34話 それぞれの喪失

ソフィア視点→エドガー視点です。



 マルクス侯爵家の馬車は、夕闇に包まれつつある王都を静かに進んでいた。石畳を踏む車輪の音だけが、重苦しい車内に規則正しく響いている。


 ソフィアは膝の上で両手を固く握りしめていた。爪が掌へ食い込んでいるというのに、指先の震えは一向に止まらない。


 ——レオナルド様に、拒絶された。


 何度思い返しても、信じられなかった。


 今日の会議は、婚約の日取りを具体的に決めるためのものだったはずだ。父も、周囲の貴族たちも、当然そう考えていた。もちろん、ソフィア自身も疑ってはいなかった。


 それなのに。


「……ありえない。こんなこと、絶対にあってはならないわ……」


 零れた声は、ひどく掠れていた。


 王太子妃になるのは、この私だったはずだ。そのために、どれほど努力してきたことか。


 礼儀作法も、学問も、政治も、社交界での立ち回りも。王城で行われる厳しい教育にも、弱音を吐かずについてきた。


 誰よりも優秀でなければならなかった。誰よりも美しく、気品に満ち、非の打ち所のない令嬢でなければならなかった。


 そうすれば、いつかレオナルド様も認めてくださる。私こそが、隣に立つべき相手なのだと。


 ソフィアは、ずっとそう信じてきた。


『未来の王妃、ソフィア様』

『次期王太子妃となるお方』


 社交界で向けられる羨望の眼差しも、貴族たちの賛辞も、いつしかすべて当然のものになっていた。


 なのに、当のレオナルド様は——。


『私には……もう、生涯を共にすると心に決めた相手がいるはずなのです』


「……誰なのよ……」


 ソフィアは俯いた。


 名前も分からない。顔も思い出せない。そんな相手のために、どうして私との婚約を拒むことができるの?


「存在しないじゃない……そんな女、どこにもいないのよ……!」


 口にした途端、胸の奥がざわついた。


 ——存在しない。


 なぜ、そう言い切れるのだろう。


 レオナルドの心に誰かがいたとしても、今の自分には、その相手を確かめる術すらないというのに。


 それでも、その誰かはもうどこにもいないはずだと、奇妙な確信だけが胸の奥にこびりついていた。


 ソフィアは慌てて首を振る。


 馬鹿げている。そんな相手のことなど、考える必要はない。


 婚約は、まだ白紙になったわけではないのだ。卒業までの猶予が設けられただけ。それならば、まだ——。


「お前のせいだ」


 正面から落ちてきた声に、ソフィアはびくりと肩を震わせた。


 顔を上げると、父であるマルクス侯爵が冷たい目でこちらを見ていた。


「……お、お父様……」

「余計な真似をしてくれたな。弁えろ、ソフィア」


 その声には、怒鳴りつけるような激しささえなかった。ただ、冷え切った失望だけが滲んでいる。


「我がマルクス家は、この婚約を確かなものにするため、長い時間と多額の資産を費やしてきた。お前一人の安っぽい恋愛ごっこに付き合っているわけではない」

「……っ」


 ソフィアの喉が詰まった。


 侯爵は娘から視線を外し、馬車の窓へ目を向ける。


「どのような状況であれ、人前で感情を見せるなと、あれほど教えたはずだ」

「ですが……! あのようなことを言われては——」

「黙れ」


 短い一言に、ソフィアの身体が強張った。


「お前は国王陛下の御前で取り乱した。婚約を拒む殿下に食ってかかり、マルクス家の令嬢としての品位を失った」

「……申し訳、ございません……」

「謝罪を聞きたいのではない。己の立場を理解しろと言っている」


 ソフィアは膝の上の手を、さらに強く握りしめた。


「勝ちを目前にして、あのような姿を晒すとはな。結果として、殿下の意思を余計に固くしただけではないか」


 ——私の、せい?


 レオナルド様が婚約を拒んだのは、私が取り乱したから?


 違う。


 あの方は、私が何かを言う前から、すでに決めていた。王太子の座を返上してでも、婚約を受けないと。


 けれど、それを父へ言い返すことはできなかった。


 父が求めているのは、何があっても取り乱さず、マルクス家に利益をもたらす娘だ。私がどれほど傷ついたかなど、そんなことは少しも関係ないのだろう。


「……申し訳ございません、お父様」


 ソフィアは深く頭を下げた。


 頬が熱い。泣いているところを見られたくなくて、顔を上げられなかった。


 完璧な令嬢であること。王太子妃にふさわしいと認められること。それだけを目指してきたはずなのに、今さらになって、胸の奥から別の願いが顔を出す。


 ——私を、見てほしかった。


 王太子妃候補だからではなく、マルクス侯爵家の娘だからでもなく。


 ただ、私を。


 レオナルド様に、見てほしかった。


『その人を、世界の誰にも否定させたくなかった』

『……ただ、その人の隣に、胸を張って立ちたかったんです』


 会議室で聞いた言葉が、何度も脳裏を巡る。


 レオナルドは、あんなふうに誰かを想っていたのだ。その人のために、剣も、魔法も、学問も、政務も頑張ってきたのだと。


 あんなにも、はっきりと。あんなにも、大切そうに。


 私は、知らなかった。


 ずっと隣を目指してきたのに、あの人が何を見つめていたのか、知らなかった。


「……私の方が……私の方が、ずっと昔から、あなただけを想っていたのに……っ」


 返事など、あるはずもなかった。


 向かいに座る父は、窓の外を見つめたままだ。ソフィアは俯き、ドレスへ涙が落ちるのを見つめていた。


 そのとき、窓の外に淡い紫色の花が見えた。夜風に揺れる、小さな花だった。


「……っ」


 胸が、嫌な音を立てて跳ねた。


 何かを思い出しかけた気がした。けれど、そこにあったはずの光景は、すぐに霧の向こうへ消えてしまう。


 残ったのは、得体の知れない不安だけだった。


 私は、何かをした。


 何か、取り返しのつかないことを。


 そんな感覚が、どうしても拭えなかった。


「……気のせいよ。ただの、気のせい……」


 ソフィアは小さく呟いた。


 卒業まで、まだ時間はある。婚約の話も、終わったわけではない。


 そう言い聞かせれば、少しは落ち着くはずだった。


 けれど、レオナルドがあの白いハンカチへ手を当てていた姿が、どうしても忘れられない。


 名前も分からない誰かを想うとき、彼はいつも、あの布に触れていた。


 ——そこにいるのは、誰なの?


 私には、何が足りないの?


 いくら問いかけても、答えは返ってこなかった。


 馬車は、何事もなかったかのように侯爵邸へ向かって進み続けていた。


◇


 夜の公爵邸では、執務室にまだ灯りが残っていた。


 エドガーは机に向かい、手元の書類へ視線を落としている。けれど、同じ一行をもう何度読み返したのか、自分でも分からなかった。


「……駄目だな」


 やがて羽ペンを置き、椅子の背へ身体を預ける。


 今日の出来事は、すでに耳に入っていた。


 ——レオナルドが、ソフィアとの婚約を拒んだ。


 それも、王太子の座を返上する覚悟まで示したという。


 理由を聞いたとき、エドガーは驚いた。名前も顔も分からない相手がいる。その人と生涯を共にしたいから、ほかの誰とも婚約できないのだという。


 普通なら、到底納得できない話だろう。


 けれど、エドガーには奇妙なほど腑に落ちるものがあった。


 ——ああ。そうだろうな。


 あいつなら、そうする。


 そんな考えが、何の迷いもなく浮かんだのだ。


「……何を納得してるんだよ、俺は」


 自嘲するように呟く。


 レオナルドが誰を想っているのか、自分だって知らない。それなのに、あいつがその人を選ぶことだけは、当然だと思えてしまう。


 まるで、ずっと前から知っていたかのように。


 エドガーは机の引き出しを開け、闇属性に関する古い報告書を取り出した。


 以前の自分なら、ここまで執着して調べることはなかったはずだ。けれど最近は、図書室に通い、古い記録や禁書を読み漁っている。


 何を探しているのかも分からないまま、ただ、見つけなければならないという思いだけが頭から離れなかった。


 机の端には、先日読み返した禁書の内容を書き留めた紙が置かれている。


『強い感情は、世界修正後も“残滓”として残る場合がある』


 その一文が、やけに気になった。


 存在そのものが失われたとしても、記憶が修正されたとしても、強く結びついた感情だけは残ることがある。


 だとしたら。


 自分の胸に残っている、この説明のつかない痛みも。レオナルドが、名前すら分からない相手を探していることも。


 同じ何かに繋がっているのではないか。


「……まさかな」


 小さく呟き、エドガーは報告書へ目を戻した。


 闇属性。その文字を目にするたび、胸がざわついた。


 忌避すべき力だと教えられてきたはずなのに、不思議とそんな気持ちにはなれなかった。むしろ、誰かがその力を使う姿を知っていた気がする。


 強くて、ひどく不器用で、自分のことなど後回しにしてしまう、誰かを。


「……知っている……?」


 エドガーは思わず顔を上げた。


 知らない。そんな相手の名は、どこにも残っていない。


 それなのに、声だけが耳の奥に引っかかっていた。


『……関係ないわ』


 冷たく突き放すような、少女の声。


 あの声の主は、いつもあんな言い方をしていたのだろうか。


 そうだとしたら、きっと自分は、呆れて文句を言い、それでも結局は放っておけなかったのだろう。


 何の根拠もない考えだった。けれど、そう思うと、胸の奥がひどく痛んだ。


「……っ」


 エドガーは目を閉じた。


 そのとき、別の声が聞こえた気がした。


『……ごめんなさい』


 か細い声だった。


 聞き覚えなどないはずなのに、ひどく胸を締めつけられた。


 誰の声だ。何を謝っている。なぜ、そんなにも苦しそうなんだ。


 エドガーは思わず机へ手をついた。


「……っ、ふざけるな……」


 自分でも驚くほど、掠れた声が出た。


「謝るべきなのは……俺の方だろうが……っ!」


 言い終えた瞬間、息が止まった。


 ……俺が?


 誰に、何を謝るというのだろう。


 思い出そうとしても、何も浮かばない。それでも、胸の奥だけが知っていた。


 俺は、誰かを守れなかった。


 誰よりも無理をしていることに気づいていたはずなのに。誰よりも苦しんでいることを、知っていたはずなのに。


 それでも結局、どうすることもできなかった。


 そんな後悔だけが、理由も分からないまま残っている。


 エドガーは両手で顔を覆った。


 何を忘れた。誰を忘れた。どうして、こんなに苦しい。


 答えは、どこにもなかった。


 やがて、窓の外で風が吹いた。


 顔を上げると、月明かりの下で淡い紫色の花が揺れている。それを見た瞬間、胸の奥に別の感情が浮かんだ。


 ——幸せになっていてほしい。


 誰なのかも分からない相手に、そう願っていた。


 今もどこかで笑っているなら。もう苦しまずに生きているなら。それだけでいい。


 そう思おうとした。


 けれど。


「……嘘だろ」


 思わず、苦笑が零れた。


 そんな綺麗な言葉だけで、諦められるはずがなかった。


 本当は、その笑顔を自分が見たかった。辛いときは頼ってほしかった。何でもない顔で強がる前に、少しくらい甘えてほしかった。


 そのために、傍にいたかったはずなのに。


「……俺じゃ、だめだったのかよ……」


 考えるより先に、言葉が零れた。


 誰に向けた問いなのかも分からない。けれど、声にした瞬間、胸が引き裂かれるように痛んだ。


 エドガーははっと顔を上げる。


 ……今のは、何だ。


 どうして、そんな言葉が出た?


 自分でも理解できない。それなのに、涙だけが止まらなかった。


 エドガーは机に肘をつき、額を押さえた。


「……本当に、何なんだ……」


 窓の外では、薄紫の花が夜風に揺れていた。


 答えを知っているはずの誰かは、もうどこにもいない。


 それでも、忘れてしまった想いだけが、今も胸の奥に残り続けていた。






評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。