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悪女と呼ばれる公爵令嬢のことだけ、なぜか王太子は思い出せない  作者: はな
第三部:追想の王太子──ときどき幼馴染

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第34話 決別



 王城の第一会議室。


 重厚な長机を挟み、この国の最高権力者である国王夫妻と、名門マルクス侯爵が真っ向から向かい合っていた。

 そのそれぞれの隣には、張り詰めた空気の中で前を見据えるレオナルド、そしてどこか焦燥を孕んだソフィアが座っている。


「では、改めまして——両家の婚約について、前向きなお返事をいただければと存じます」


 マルクス侯爵がその老獪な顔に柔らかな笑みを浮かべ、穏やかに、しかし断定するように口を開いた。

 だが、その言葉が耳に入った瞬間、俺の胸の奥には激しい拒絶感が広がった。


「うむ。本日はその件について、改めて当人たちの話を聞く場だ」

「ありがとうございます。では、具体的な婚約の日取りですが——」

「待ってください」


 静かだが、鋭く響いたその声に、会議室の空気が一瞬で凍りつく。


「レオナルド?」


 国王が低く眉を寄せる。

 俺は自らの心を完全に決め、ゆっくりと、しかし揺るぎない眼差しで顔を上げた。


「……申し訳ありません。私は、この婚約を受けることはできません」

「ど、どうしてですの……!?」


 静寂を破り、最初に声を荒げたのはソフィアだった。

 完璧な令嬢であるはずの彼女の声が、今は見苦しく震えている。


 けれど、俺は彼女に何ひとつ答えられなかった。


 ——本当に、まっとうな理由など自分でも分からないからだ。


 ソフィアは優秀だ。

 家柄も申し分ない。

 王太子妃としての能力も、立ち居振る舞いも不足など何ひとつない。


 なのに——どうしても受け入れられない。


「理由は……明確には分かりません。ですが——」


 無意識に、上着のポケットの上からあの白いハンカチを強く押さえた。

 手のひらから伝わる確かな感触が、力を与えてくれる。


「この婚約だけは、受けることができないのです。私には……もう、生涯を共にすると心に決めた相手がいるはずなのです」

「そんな方……この国のどこにもいらっしゃらないではありませんか!そんな、名前も分からない曖昧な理由で国の取り決めを断るなど——!」

「ソフィア!」


 マルクス侯爵の鋭い一喝が飛ぶ。

 取り乱し、立ち上がりかけていたソフィアは、途中でハッとしたように己の醜態に気づき、動きをピタリと止めた。


 国王もまた、深く眉をひそめて俺を見つめている。


 周囲の冷え切った様子を素早く読み取り、ソフィアは悔しげに唇を噛み、ようやく口を閉ざした。


「……失礼いたしました」


 不自然に震える声で頭を下げる娘を一瞥してから、マルクス侯爵は再び向き直った。


「殿下。娘の無礼をお許しください。ですが……あまりにも突然のお話です。幼い頃から殿下をひたむきに慕っていたこともあり、娘も動揺したのでしょう」


 その聲音はどこまでも穏やかだったが、その両目だけは一切笑っていない。


 侯爵は追い詰めるように、ゆっくりと言葉を選びながら続けた。


「殿下。王太子とは個人ではなく、王家そのものです。マルクス家と王家の結びつきは、個人の身勝手な感情だけで覆るものではございません。それに……」


 侯爵はここで一度言葉を区切り、冷たい圧力を込めて告げる。


「殿下のお言葉は、この世に存在するかも分からぬ不確かな相手のために、既に進んでいる『国の決定』を覆すと仰っているようにも聞こえますが?」


 重苦しい沈黙が場を支配する。

 そこで、今まで黙って成り行きを見守っていた国王が、厳かに口を開いた。


「マルクス侯爵。まずはレオナルドの話を最後まで聞こう」

「……っ!は、は。承知、いたしました……」


 絶対的な国王の一言に、マルクス侯爵はそれ以上言葉を続けられず、押し黙った。


 しかし、表面上は恭しく取り繕っているものの、その眼光からは隠しきれない怒りと圧力が放たれている。


 そしてソフィアは、まるで恋敵を呪うかのような、恐ろしい目圧でレオナルドを睨み据えていた。


 しかし、いくら脅されようと、どれだけ現実を突きつけられようとも——意思は1ミリもブレなかった。


「申し訳ありません。私はどうしても、貴女との未来を考えることができない」


 俺は何故、周囲から『完璧な王太子』などともてはやされるまで、死に物狂いで全てを頑張ってきたのか。

 未だに記憶の霧は晴れず、自分でもわからないことばかりだ。


 けれど、これだけは決して揺るがなかった。


 俺にとって何よりも大切な存在が、確かにいたはずなんだ。


 それならば。

 もし、この婚約を受け入れることが王太子でいるための絶対条件なのだというのなら。


「もし、私のこの決断が王家や国政に不利益をもたらすというのであれば——私は今この場で、王太子の座を返上いたします」


 あの人がいない王座など、俺にとっては何の価値もない。

 必要なものではないのだ。


「「なっ……!?」」


 マルクス侯爵とソフィアの声が、綺麗に重なった。

 いつもは完璧なポーカーフェイスを保つ侯爵すらも、今は目を見開き、驚愕の表情を隠せずにいる。


 隣に座る国王夫妻は、実の親だからこそ分かる程度のわずかなピクリとした変化しかなかったが、その場の誰もが呼吸を忘れたかのように凍りついていた。


 酷く長い沈黙のあと。

 この国の絶対君主である父上が、静かに声を響かせた。


「王太子の座より優先したい、たった一人の相手がいる、と……そう言うのだな」

「申し訳ありません。……ですが、私がここまで死に物狂いで努力してきた理由は、間違いなくその人のためでした」


 静まり返った室内に、決意に満ちた声がまっすぐに落ちる。


「その人を、世界の誰にも否定させたくなかった」


 気づけば、堰を切ったように言葉が零れ落ちていた。

 しかし、その言葉を自らの口で紡いだ瞬間、不思議なほど胸の奥が、熱く、確かな灯火で満たされていくのが分かった。


「だから強くなりたかった。誰よりも相応しくなりたかった。……ただ、その人の隣に、胸を張って立ちたかったんです」


 言葉にするほど、不思議と胸の奥が熱を帯びていく。


 そうだ。


 俺はきっと、その人のために頑張ってきたのだ。


 王妃もまた、驚いたように息子を見ていたが、その慈愛に満ちた表情は、次第に何かを察したように優しく和らいでいく。


「……して、その人とは誰なのです?そこまで言い切るのであれば、当然、名前くらいは教えていただけますわね?」

「それは……分かりません」

「…………え?」


 王妃は上品に扇子で口元を隠しつつも、呆気にとられたようにその美しい目をパチパチと瞬かせた。


 再び、締まらない沈黙が部屋に落ちる。


 マルクス侯爵にいたっては、何か反論しようと口を開けるものの、あまりにも荒唐無稽な返答に言葉が出ず、口をぱくぱくとさせていた。


「……本人の記憶がそれでは、こちらとしても今は動けん。これ以上の議論は無意味だな」

「申し訳ありません。それでは——」


 『王太子を辞退します』という言葉を続けようとしたレオナルドを、国王の鋭い声が遮った。


「期限を設けよう」

「は……?」

「無理にこのまま婚約を進めて、後から破綻されては我が王家の面汚しだ。マルクス侯爵、お前もそれでよいな?」

「そ、それでよいかと問われましても……!もしこのお話が白紙に戻ってしまっては、我が娘ソフィアは、また一から婚約者を探さねばならなくなります!」

「分かっている。期限は学生の間だ。卒業まであともう1年もない。その卒業の日までに、レオナルドに最終的な結論を出させることとしよう。もともと貴族の多くは学園で婚約者を決めるもの。それくらいの猶予であれば、外交的にも問題なかろう。わざわざ今回のように、侯爵が話を急かす必要もなかったのだからな」

「そ、それは……っ!」


 国王の暗に「お前が焦って婚約をねじ込もうとしたのだろう」という指摘に、マルクス侯爵は完全に言葉を詰まらせた。


 しばらくの間、またしても口を開けたり閉じたりして激しく葛藤していたが、これ以上国王に反論することは不可能だと悟ったのだろう。


「しょ、承知……いたしました……」


 ガタガタと震えながらも、侯爵は最終的にその条件を了承するしかなかった。



 マルクス侯爵一家が、苦虫を噛み潰したような顔で退室していった後。


 最後に向き合わされたソフィアの視線は恐ろしいほどに厳しかったが、俺は内心で深くホッとしていた。


 そして、国王である父上に、改めて寛大な処置への感謝を告げようと口を開いた、その時。


「レオナルド。お前が幼い頃から……いや、ここ数年か。異常なほどの執念で努力を重ねていたのは、私もこの目で見て知っている」

「……はい」

「おそらく、その見えぬ誰かのためなのだろう。そして、最近のお前の様子がおかしいことも、とうに気づいていた。正直、私にも理解はできん。だが、お前がそこまで言うのなら無視はできない。昔からどんな過酷な教育にも文句ひとつ言わず、完璧にこなしてきたお前が、王座を捨ててまで言うのだ。何か、よほどの理由があるのだろう。王太子の進退については、卒業まで保留とする。公務は変わらず励め」


 事務的にそう告げ、国王は会議室から退出するために歩き出す。

 その大きな背中に向けて、弾かれたように声をかけた。


「ありがとうございます!……父上」


 いつもは『国王』として厳格に接しているが、今だけは、一人の『父親』として味方をしてくれたこの人にお礼を言いたかった。


 自分のこれまでの血の滲むような努力を、この人はちゃんと見ていてくれた。

 そして、最近の異変にも気づき、ずっと気にかけてくれていたのだ。


 その事実が、胸が熱くなるほど嬉しかった。


 父上はピタリと足を止め、少しだけ振り返ると、ふっと父親の顔で微笑んだ。


「『唯一』と定めた、たった一人の女すら幸せにできんような意気地なしの男に、この国が守れるわけなかろう。……頑張れよ」


 それは、久しぶりに見る、王の仮面を脱いだ「父親」の顔だった。


「ふふっ、お父様にそっくりね。私も、早くその素敵な方に会いたいわ」


 すっかり公務の顔を崩した王妃——母上は、にこにこと楽しそうにそう告げたあと、弾むような足取りで父上の後を追っていった。


 両親である国王夫妻は、国内外でも有名なほど仲が良い。


 公私ともに仲睦まじく、その深い絆は周辺諸国からも一目置かれているほどだ。


 噂によれば、父上が母上を手に入れるまでには、国を揺るがすほどの様々な大事件があったという都市伝説すらある。


 そんな、一途に想い合う両親の姿に、自分自身、ずっと密かな憧れを抱いていたのも事実だった。


 だからこそ、父上も母上も、理屈ではなく俺の『この気持ち』を誰よりも理解し、背中を押してくれたのかもしれない。


 母上はソフィアの母親と親しい間柄であるはずなのに、それでも俺の言葉を信じてくれた。


「ありがとうございます。父上、母上……」


 無人の会議室で、両親への深い感謝の言葉が再び零れ落ちる。


 そして、俺は鋭い目で前を見据え、完全に気持ちを切り替えた。


 卒業までの限られた期限。

 その間に——絶対に、見つけ出してみせる。


 名前も、顔も、何ひとつ思い出せなくても。


 ——俺の命そのものと言える、あのひとを。




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