第33話 決別
王城の第一会議室には、重苦しい空気が漂っていた。
長机を挟んで父上と母上が並んで座り、その向かいにはマルクス侯爵とソフィアがいる。そして俺は父上の隣で、目の前に広げられた書類を見つめていた。
——婚約。
何度も聞かされてきた話だった。
マルクス侯爵家との結びつきは王家にとって有益であり、ソフィア自身も王太子妃候補として十分な教育を受けている。条件だけを並べれば、反対する理由など見つからないのだろう。
けれど、その書類に自分の名を記すことだけは、どうしてもできなかった。
「では、改めまして——両家の婚約について、前向きなお返事をいただければと存じます」
侯爵が穏やかな笑みを浮かべる。その声音には、すでに話がまとまったかのような響きがあった。
「うむ。本日はその件について、改めて当人たちの話を聞く場だ」
「ありがとうございます。では、具体的な婚約の日取りですが——」
「待ってください」
自分でも驚くほど、はっきりとした声が出た。
会議室が静まり返る。
「レオナルド?」
父上がこちらを見た。
俺は一度だけ息を吸い、顔を上げた。もう、先延ばしにはできない。
「……申し訳ありません。私は、この婚約を受けることはできません」
「ど、どうしてですの……!?」
ソフィアが声を上げた。その顔には、驚きと困惑が浮かんでいる。
当然だろう。俺自身、少し前までなら、なぜこの話を拒むのか説明できなかった。
ソフィアは優秀だ。家柄も申し分なく、王太子妃として必要な素養も備えている。彼女がこれまで努力を重ねてきたことも知っていた。
だからこそ、曖昧な態度のまま話を進めてはいけない。俺は彼女を、生涯を共にする相手として見ることができなかったのだから。
「理由は……明確には分かりません。ですが——」
無意識に、上着の内側へ手を当てた。そこには、白いハンカチがある。
誰のものなのか分からない。どうして手元にあるのかも、思い出せない。
けれど、これを失くしてはいけないという気持ちだけは、ずっと変わらなかった。
指先で布の感触を確かめながら、俺は言葉を続けた。
「この婚約だけは、受けることができないのです。私には……もう、生涯を共にすると心に決めた相手がいるはずなのです」
ソフィアの表情が凍りついた。
「そんな方……この国のどこにもいらっしゃらないではありませんか! そんな、名前も分からない曖昧な理由で国の取り決めを断るなど——!」
「ソフィア!」
侯爵の鋭い声が響いた。
立ち上がりかけたソフィアは、はっとしたように動きを止める。
「……失礼いたしました」
小さく頭を下げた彼女を見て、胸が痛まなかったわけではない。
俺が今口にしていることは、彼女にとって到底納得できる話ではないだろう。だが、だからといって受け入れることはできなかった。
「殿下。娘の無礼をお許しください」
マルクス侯爵が、再び口を開く。
「ですが……あまりにも突然のお話です。幼い頃から殿下をひたむきに慕っていたこともあり、娘も動揺したのでしょう」
穏やかな言葉とは裏腹に、その視線は厳しかった。
「殿下。王太子とは個人ではなく、王家そのものです。マルクス家と王家の結びつきは、個人の身勝手な感情だけで覆るものではございません。それに……」
侯爵は一度、言葉を区切った。
「殿下のお言葉は、この世に存在するかも分からぬ不確かな相手のために、既に進んでいる『国の決定』を覆すと仰っているようにも聞こえますが?」
答えられなかった。
相手の名前を言えと言われても、分からない。いつ、どこで出会ったのかを尋ねられても、説明できない。記憶を探ろうとすれば、ただ頭が痛むばかりだった。
けれど、ここで引き下がったら、俺はまた、あの人を見失ってしまう気がした。
「マルクス侯爵。まずはレオナルドの話を最後まで聞こう」
父上の声が、沈黙を破った。
「……っ! は、は。承知、いたしました……」
侯爵が口を閉ざす。
俺はソフィアへ向き直った。
「申し訳ありません。私はどうしても、貴女との未来を考えることができない」
これ以上、期待を持たせるような言い方はしたくなかった。婚約を受け入れたところで、俺はきっと、彼女ではない誰かを探し続ける。そんなことをして、ソフィアを幸せにできるはずがない。
それに、俺はもう気づいてしまったのだ。自分が、誰かを愛していたことに。
銀色の髪。紫色の瞳。風に揺れる、淡い花。
浮かぶのは、わずかな断片だけだった。それでも、あの人の隣に立つために、俺は必死で努力してきた。
剣も、魔法も、学問も、政務も。
王太子としての責務を果たすことは、もちろん大切だった。けれど、その努力の先には、いつだって誰かがいたはずなのだ。
その人が俺の隣にいても、誰からも否定されないように。俺自身が、誰よりも強くなれるように。
なのに、今の俺は、その人の名前すら呼ぶことができない。
「もし、私のこの決断が王家や国政に不利益をもたらすというのであれば——私は今この場で、王太子の座を返上いたします」
「「なっ……!?」」
侯爵とソフィアの声が重なった。
父上も母上も、わずかに目を見開いている。
俺だって、王太子の地位を軽く考えているわけではない。これまで学んできたことも、果たしてきた責務も、決して無意味ではなかった。
だが、王太子でいるために、心にもない誓いを立てることはできなかった。それを受け入れた瞬間、自分がこれまで何のために努力してきたのか、本当に分からなくなってしまう気がした。
長い沈黙のあと、父上が静かに口を開いた。
「王太子の座より優先したい、たった一人の相手がいる、と……そう言うのだな」
「申し訳ありません。……ですが、私がここまで死に物狂いで努力してきた理由は、間違いなくその人のためでした」
言葉にするほど、胸の奥が熱くなる。
「その人を、世界の誰にも否定させたくなかった。だから強くなりたかった。誰よりも相応しくなりたかった。……ただ、その人の隣に、胸を張って立ちたかったんです」
——そうだ。
ずっと、そう思っていた。
名前も顔も分からないのに、その願いだけは、驚くほどはっきりと思い出せた。
俺は、あの人を守りたかった。そのためなら、命に代えても惜しくないと思うほどに。
失った記憶の奥には、きっとそれだけの時間があったのだ。
「……して、その人とは誰なのです?」
母上が静かに尋ねた。
「そこまで言い切るのであれば、当然、名前くらいは教えていただけますわね?」
「それは……分かりません」
「…………え?」
母上が扇子で口元を隠したまま、目を瞬かせる。
俺は視線を落とした。情けない答えだということは分かっている。あれほど愛していたと確信している相手の、名前すら言えないのだから。
「……申し訳ありません」
会議室が再び静まり返った。
マルクス侯爵は何か言いたそうに口を開きかけたが、結局、言葉にならなかった。
父上が深く息を吐く。
「……本人の記憶がそれでは、こちらとしても今は動けん。これ以上の議論は無意味だな」
「申し訳ありません。それでは——」
「期限を設けよう」
「は……?」
思わず顔を上げた。
父上は俺を見据えたまま、言葉を続ける。
「無理にこのまま婚約を進めて、後から破綻されては我が王家の面汚しだ。マルクス侯爵、お前もそれでよいな?」
「そ、それでよいかと問われましても……! もしこのお話が白紙に戻ってしまっては、我が娘ソフィアは、また一から婚約者を探さねばならなくなります!」
「分かっている。期限は学生の間だ。卒業まであともう一年もない。その卒業の日までに、レオナルドに最終的な結論を出させることとしよう」
父上は侯爵へ視線を向けた。
「もともと貴族の多くは学園で婚約者を決めるもの。それくらいの猶予であれば、外交的にも問題なかろう。わざわざ今回のように、侯爵が話を急かす必要もなかったのだからな」
「そ、それは……っ!」
侯爵が言葉に詰まった。
しばらく何かを考えている様子だったが、やがて深く頭を下げる。
「……承知、いたしました……」
こうして、ようやく会議は終わった。
婚約の話が白紙になったわけではない。俺の今後が決まったわけでもない。
それでも、今日この場で誰かに誓いを立てずに済んだことに、俺は心から安堵していた。
◇
マルクス侯爵とソフィアが退室すると、会議室には俺と両親だけが残った。
最後にソフィアから向けられた視線が、まだ脳裏に残っている。彼女には、申し訳ないことをした。
だが、同情で婚約を受け入れることだけは、してはいけないと思った。
「レオナルド」
父上の声に顔を上げる。
「お前が幼い頃から……いや、ここ数年か。異常なほどの執念で努力を重ねていたのは、私もこの目で見て知っている」
「……はい」
「おそらく、その見えぬ誰かのためなのだろう。そして、最近のお前の様子がおかしいことも、とうに気づいていた」
驚いて、父上を見つめた。
……気づいていたのか。
自分でも説明できない、この異変に。
「正直、私にも理解はできん。だが、お前がそこまで言うのなら無視はできない。昔からどんな過酷な教育にも文句ひとつ言わず、完璧にこなしてきたお前が、王座を捨ててまで言うのだ。何か、よほどの理由があるのだろう」
父上は、いつもどおりの厳しい顔で告げた。
「……それから、マルクス侯爵家については別に調べさせる」
父上の言葉に、思わず顔を上げた。
「侯爵家を、ですか?」
「ああ。以前から気になる報告がいくつか上がっていてな。今回、婚約を急ぐ理由も含めて、確認しておく必要がある」
父上は淡々と告げた。
「司法局には、すでに内々の調査を命じている。お前は自分のすべきことに集中しろ」
「……承知しました」
侯爵家に何の疑いがあるのか、詳しいことまでは聞かされなかった。
ただ、父上が今回の婚約問題を、俺個人の事情だけで片づけようとしていないことは分かった。
「王太子の進退については、卒業まで保留とする。公務は変わらず励め」
「……はい」
父上が立ち上がる。
その背中を見た瞬間、胸の奥が熱くなった。
ずっと見ていてくれたのだ。俺が何のために努力していたのかは分からなくても、その努力そのものを、父上は知っていてくれた。
「ありがとうございます! ……父上」
思わず声をかけると、父上は足を止めた。
振り返ったその顔は、いつもの国王のものとは少し違っていた。
「『唯一』と定めた、たった一人の女すら幸せにできんような意気地なしの男に、この国が守れるわけなかろう。……頑張れよ」
——父上。
言葉が出なかった。
父上はそれ以上何も言わず、扉へ向かって歩き出す。その横で、母上が小さく笑った。
「ふふっ、お父様にそっくりね。私も、早くその素敵な方に会いたいわ」
「……母上」
母上は楽しそうに微笑み、父上の後を追っていった。
残された俺は、しばらくその場から動けなかった。
両親は、昔から仲が良い。
父上が母上と結ばれるまでには、国を揺るがすほどの騒動があったのだという噂まである。それがどこまで本当なのかは知らないけれど、二人が今も互いを大切にしていることだけは、傍で見てきた俺が一番よく知っている。
そんな二人に、ずっと憧れていた。
いつか自分も、たった一人の相手と、あんなふうに生きていけたら。
そう思っていたはずだった。
……その相手が、誰だったのかさえ思い出せないけれど。
「ありがとうございます。父上、母上……」
誰もいない会議室で、もう一度呟いた。
卒業まで、あと一年もない。その間に、俺は答えを見つけなければならない。
名前も、顔も。どこで出会ったのかも、どんな約束をしたのかも。
何ひとつ思い出せない。
けれど、あの人を愛していたことだけは、確かだった。
俺は上着の内側から、白いハンカチを取り出した。
小さな花と、向かい合う二つの三日月。
この刺繍に、どんな意味が込められているのだろう。誰が、どんな気持ちで縫ったものなのだろう。
指先でそっとなぞると、胸が締めつけられた。
——待っていてくれ。
今は、まだ何も分からない。
それでも、必ず見つけ出してみせる。
俺がここまで歩いてきた理由を。
王太子の座よりも、何よりも大切だと願った、たった一人の人を。
もう二度と、その手を離さないために。




