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悪女と呼ばれる公爵令嬢のことだけ、なぜか王太子は思い出せない  作者: はな
第三部:追想の王太子──ときどき幼馴染

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第33話 欠けた世界の中で

エドガー→ソフィア→レオナルド視点と変わります。



 図書室は静かだった。


 夕暮れの赤い光が窓から差し込み、並び立つ本棚の影を床へと長く引き伸ばしている。

 その静寂の中で、エドガーは一冊の古い本を開いたまま、机の前でほとんど動かずに座っていた。


 ページは、もう長いこと進んでいない。

 視線は確かに文字を追っているはずなのに、どうしても頭に入ってこないのだ。


 脳裏に浮かぶのは、昼間に交わしたレオナルドの言葉ばかりだった。


『どうしてそこまで俺が頑張れたのか、それだけが思い出せないんだ』


「…………」


 その言葉を思い出すだけで、胸の奥が、裂けるように痛んだ。


 同じだった。

 自分も、レオナルドと全く同じなのだ。


 何かが足りない。

 何かを決定的に失っている。


 それも、この命を賭してでも、決して失ってはいけなかった最も大切な何かを。


「……何なんだよ、一体」


 低く呟くが、静まり返った図書室に答える者はいない。

 ただ、視線の先に置かれた一冊の禁書だけが、すべてを知っているかのように静かにそこにあった。


『存在消失と記憶修正について』


 エドガーはその題名をじっと見つめる。

 昨日から、何度も、何度も同じページを読み返していた。


『強い感情は、世界修正後も“残滓”として残る場合がある』


 その一文を目にするたびに、喉が詰まり、呼吸が苦しくなる。


 理由のない罪悪感。

 埋まることのない喪失感。


 そして——レオナルドの顔を見るたびに俺を襲う、引き裂かれるような激しい悲しみ。


「……違う。……何かがおかしい」


 ぽつりと、掠れた声が零れた、その瞬間だった。


 ふいに、窓の外で冷たい風が吹き抜けた。

 意識を引き戻されるように、視線が揺れる。


 夕暮れに染まる図書室の庭先に、ひっそりと淡い紫色の花が咲いていた。


 名前は知らない。

 見たこともない花のはずだった。


 けれど、それを見た瞬間、頭の奥で誰かの声が鮮烈に響いた。


『……関係ないわ』


 冷たくて、素っ気なくて、突き放すような少女の声。

 なのに、どうしてこんなにも愛おしく、愛に満ちて聞こえるのだろう。


「っ……!」


 エドガーは椅子を蹴立てるように、反射的に立ち上がった。

 心臓が、耳障りなほどの速さで脈打っている。


「……誰だ」


 掠れた声が落ちる。


 思い出せない。

 顔も、名前も、声の主の輪郭さえも。


 それなのに、俺の目からは、大粒の涙が静かに頬を伝って床へと零れ落ちていた。


◇◇◇


 ——どうして。


 その問いは、けっして声にならなかった。


 マルクス侯爵邸の一室。

 贅を尽くし、完璧に整えられた空間の中で、ソフィアは静かに椅子へ腰掛けていた。


 何も乱れていない部屋。

 何も失われていない世界。


 ——そのはずだった。


 鏡の中に映る自分の姿は、いつも通り完璧だ。

 気品ある金の髪は一筋も乱れず、化粧も崩れていない。

 次期王妃としてふさわしい、淑やかな微笑みさえ、そこには確かにあった。


 ——なのに。


「……どうして、私を見てくれないの」


 小さすぎて、誰の耳にも届かない声だった。


 レオナルドの瞳が、自分に向けられることはない。

 次期王妃の最有力候補としてどれだけ隣に並んでいても、彼の視線はまるで、別の場所を見つめているかのように虚ろだった。


 そこに“誰か”がいるのだと、確信だけがあった。

 けれど、それは名前のないものだった。形も、証拠も、学園の記録にも、誰の会話の中にも残っていない。


 あるはずがない。

 ——だから、存在しない。

 そう、世界はそのように正しく修正されているはずだった。


「最初から……いなかったのよ」


 ソフィアはゆっくりと、自分に強く言い聞かせるように呟く。


 誰もあの女のことを話さない。完璧で、どこにも“欠け”なんてない現実。

 なのに、レオナルドの視線だけが、そこにいない“何か”を今も必死に探している。

 その事実だけが、どうしようもなく正しくない。


「……どうして、まだ残っているの」


 ふと視線が落ち、自分の指先を見ると、不自然に震えていた。


 怒りでもなく、悲しみでもない。

 正体のわからない、薄気味悪い不安のせいで。


 そのとき、ふいに思い出す。

 レオナルドが、いつも肌身離さず手放さない白い布。

 古く、何の価値もないはずの、あのハンカチ。

 ただの布きれなのに彼は、それだけは絶対に手放そうとしない。


 まるで——それがこの世界で唯一の“正しいもの”であるかのように。


「……おかしいわ」


 思わずぽつりと呟く。

 おかしいのは、レオナルド様のはずだ。

 エドガー様もおかしい。

 なのに、正常であるはずの自分だけが、息が詰まるほど苦しい。


 胸の奥に、小さなひびが入っている。

 音はしない。

 誰の目にも見えない。


 ただ、確実にそこにある。


 ソフィアは唇を血がにじむほど噛み締めた。

 ここまで来るために、自分がどれだけのものを切り捨て、泥を被ってきたと思っているのだろう。


 レオナルドへ近づこうとした身の程知らずの少女たち。

 王妃候補として名を挙げられた邪魔な令嬢たち。


 裏で噂を流し、縁談を潰し、時には実家の力を借りて圧力をかけたこともある。

 誰にも知られないように、決して自分の手が見えないように、そうして一人ずつ、丁寧に排除してきたのだ。


 それなのに、駄目だった。

 どれだけ完璧な令嬢として隣に立っても、彼の瞳は自分だけを見てはくれなかった。


 だから、心の底から願ったのだ。

 あの上不遜な、目障りな彼女さえいなければ、と。


 全部、全部レオナルドを手に入れるためだった。


「……私が、勝ったのよ」


 そうでなければいけない。

 レオナルドは私のものになる。

 あんなモノは、最初から存在しなかった。


 世界は正しい。

 そうなったはずなのに——レオナルドだけが、今も何かを探している。


 まるで、何かを失ったまま、魂を抜かれたように生きているみたいに。


 ソフィアはゆっくりと立ち上がり、窓の外を見た。

 空はどこまでも晴れ渡っていて、いつもと何も変わらない朝。


 世界は、正しい——正しいはずなのに。


「……じゃあ、私は何に勝ったの?」


 その問いだけが、心の奥底に重く落ちたまま消えない。

 それが一番正しいことだと分かっているのに、誰も答えをくれない。


 指先が、そっと自分の胸元に触れる。何もないのに、そこだけが氷のように冷たかった。


 まるでそこに、本来あったはずの心臓が——最初から抜け落ちているかのように。


「……気のせいよ」


 そう呟いた瞬間、ほんの少しだけ視界が不自然に揺れた。

 けれどそれは、すぐに“正しい世界”の強制力によって元へと戻されていく。


 何も欠けていない、完璧な世界へ。

 ただ一人だけが、その不気味な違和感を抱えたまま。

 それでもソフィアは、鏡に向かって完璧な王妃の笑みを浮かべる。


 ——見えない何かに、自分が確かに惨敗しているとも知らずに。


 そのとき窓の外で風が吹き、庭園の紫の花が一斉に揺れた。


 ——まるで、誰かが私の滑稽さを笑ったみたいに。


◇◇◇


 その日、レオナルドは三度も書類の署名を間違えた。


「……殿下?」


 側近の困惑した声に、ようやく我に返る。

 視線を落とせば、重厚な羊皮紙の署名欄には、途中まで書きかけた自分の名前と、大きく滲んだインクの跡。


「すまない」


 短く告げ、紙を新しいものに差し替える。

 普段の俺ならあり得ない失態だった。


 集中できていない。

 いや、違う。

 頭は酷く冷静だ。


 書類の内容も完全に理解している。

 なのに、何か別の強烈な情報が、思考の奥底をずっと激しく掻き乱していた。


 昨日、書庫で見たあの紫の花。

 そして、あの瞬間に脳裏に響いた声。


『また来るの?』


 知らない少女の声。

 知らないはずなのに、その声を思い出そうとするだけで、胸が千切れるほどに痛む。


「…………」


 無意識に、上着のポケットの上から白いハンカチを強く押さえる。

 すると、暴れていた呼吸が不思議と少しだけ落ち着いた。

 まるで、その名もなき白い布だけが、壊れかけた自分をこの現実に繋ぎ止めてくれているみたいだった。


「殿下、午後はマルクス侯爵家との打ち合わせが入っております」

「……ああ」


 その名前に、わずかに眉が動く。

 マルクス——つまり、ソフィア。


 最近、やたらと周囲を巻き込んで婚約の話を急速に進めようとしてくる相手だ。


 彼女が悪いわけではない。

 むしろ王太子妃候補としては、家柄も、本人の能力も、立ち居振る舞いも非の打ち所がない。


 それなのに、どうしても心が、身体が、彼女を受け入れることを拒絶していた。

 名前を聞くだけで、胸の奥に悍ましいほどの違和感が生まれる。


 違う、そうじゃない。

 そんな女じゃない。


 そんな感覚だけが、理由もなく心の奥底で激しく警鐘を鳴らし続けていた。


(俺は——)


 そこまで考え、深く記憶の深淵に潜ろうとした、その瞬間だった。


「っ……!」


 頭の奥を、落雷のような鋭い激痛が貫いた。

 思わず額を押さえてよろめけば、手から滑り落ちた羽ペンが、机の上で乾いた音を立てて転がる。


「殿下!?」


 周囲から慌てた側近たちの声が聞こえるが、今の俺にはそれすらひどく遠く感じられた。


 歪む視界の奥で、何かが激しく揺れている。


 風に揺れる紫色の花と、静かな夜風。

 冷たい月明かり。


 そして——そこに佇む、ひとりの背中。


 細い肩をした、小柄な少女の背中だった。


 顔は見えない。

 名前も分からない。


 それなのに、その姿を見た瞬間、胸が押し潰されるほど愛おしく締め付けられる。


 どうしてだろう。

 どうしてこんなにも、その背中から目を離せない。


 追いかけたいと思った。

 手を伸ばしたいと思った。

 置いていかれたくないと、子供のように強く願った。


 その濁流のような感情に触れた瞬間、胸の奥から、次々と『記憶にもならないはずの感覚』が溢れ出してくる。


 学問も、剣も、魔法も、政務も。

 気づけば、いつだって誰よりも血を吐くような努力を重ねていた。


 もっと強く、もっと優秀に、もっと完璧に。

 誰にも文句を言わせないほど、揺るがない存在になれるように。


 それは、自分が王太子だからという義務感からではなかった。


 不意に、脳裏の奥底から、幼い頃の自分の必死な声が響き渡る。


『もっと頑張らないと——あいつが隣にいても、誰も文句を言えないくらい、俺が完璧にならないと』


 呼吸が、止まった。


 あいつ——。


 その呼び方だけが、ひどく自然に、血の通った温かさを持って馴染んだ。

 問いかけるより先に、俺の胸の奥が、その答えを完全に知っていた。


 鮮やかな、銀色の髪。

 吸い込まれそうな、紫の瞳。


 不器用なくせに優しくて。

 誰よりも強くあろうとして——けれど、本当は誰よりも傷つきやすかった、俺の、最愛の人。


「……あ」


 思い出せない。

 顔の細部も、名前も、何ひとつ。


 それなのに、会いたかった。

 どうしようもなく、今すぐその名前を呼んで抱き締めたかった。


 胸の奥に空いた巨大な空洞が、主を求めて激しく悲鳴を上げる。


 無意識にポケットの中の白いハンカチを壊れそうなほど握り締めた、その時。

 ふわりと、あの甘い花の香りが鼻先を掠めた。

 優しくて、懐かしくて——泣きたくなるほど愛しい、あの人の香り。


 レオナルドは静かに目を閉じた。

 そして、世界がどれほど拒もうとも、胸の奥から溢れ出した絶対の真実を、ようやく言葉にする。


「……俺は——愛していた」


 その想いだけは、世界がどれだけ書き換わろうとも、今も、これからも、絶対に変わらない。




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