第32話 残された空白
——まただ。
目を開けた瞬間、そう思った。
視界にはすでに朝の光が満ちていた。
天蓋付きの格式高い寝台、一点の乱れもなく整えられた寝室、そしてカーテンの隙間から差し込む穏やかな陽光。
どれも見慣れた自室の風景であり、異常と呼べるものはどこにもない。
それなのに、ただひとつだけ、説明のつかない違和感が残っていた。
頬が、冷たく濡れている。
「……またか」
誰に向けるでもなく、低く呟きながら、指先で涙の跡を拭った。
ここ最近、目を覚ますたびに同じ現象が起きていた。
夢の内容はいくら思い出そうとしても、瞼を開けた瞬間に指の隙間から溢れる砂のように消えてしまう。
喉の奥に貼りついたまま離れないのは、形にならない圧倒的な喪失感だった。
何かを失ったまま、その正体にだけどうしても辿り着けない。
そんなもどかしさと恐怖だけが、確かにそこにある。
「……俺は」
ゆっくりと上体を起こしながら、レオナルドは無意識に寝室へ視線を巡らせた。
そこには誰もいない。
それなのに、世界のどこかだけが決定的に噛み合わなかった。
ここに、誰かがいた気がする。
ただの気配ではない。
確かに存在していたはずの誰かが、そこだけ綺麗に切り取られたように抜け落ちている。
その空白だけが、世界のあらゆる景色よりも異様なほど鮮明だった。
「……誰だ」
問いかけても、当然返事はない。
代わりに胸の奥が、鈍く軋んだ。
痛みとも違う。
ただ確かに、自分の一部が欠けている。
理由の分からない空白だけが、そこに残されていた。
そしてその違和感は、目覚めるたびに少しずつ濃くなっていく。
消えているのは記憶ではない。
記憶があったはずの“痕跡”だけが、取り残されているようだった。
◇
その日も、公務は山のように積まれていた。
王太子としての視察報告書の精査。
各領地から届いた嘆願書の処理。
来月に予定されている式典の細かな調整。
貴族間で起きた小さな揉め事の仲裁案。
執務室の机の上には、減る気配のない書類が静かに積み上がっている。
いつも通りだった。
これまでと何ひとつ変わらない日常のはずだった。
「殿下、こちらの確認をお願いします」
「ああ」
差し出された書類に目を落とし、内容を読み、必要な修正を淀みなく指示し、判を押す。
身体も思考も問題なく動いている。
どこか、自分だけがこの場から切り離されているような感覚が拭えなかった。
まるで、自分の人生を少し離れた客観的な場所から眺めているような、奇妙で不気味な距離感。
どれだけ完璧に政務をこなしても、生きてる実感がどこにも湧いてこないのだ。
「……殿下?」
「……いや、なんでもない」
気づけば、羽ペンの先が止まっていた。
視線が書類の上で曖昧に揺れる。
胸の奥が、また鈍く軋む。
ここ最近ずっとそうだ。
理由の分からない喪失感と、埋まらない空白。
その“何か”の輪郭だけがどうしても思い出せない。
ふと、上着の内側へと手を差し入れた。
ポケットの奥、そこにある布の感触を確かめるように。
——見覚えのない、白いハンカチ。
それだけが、今の空虚な自分にとって、唯一“確かに存在しているもの”のように思えた。
だが、これだけは失ってはいけないという確信だけが残っている。
◇
「……レオナルド」
執務室を出たところで、低い声が背後から呼び止めた。
振り返ると、幼馴染であり側近のエドガーがそこに立っていた。
「どうした」
「それはこっちの台詞だ」
エドガーの視線は、まっすぐこちらに向けられていた。
昔から、人の感情の変化には恐ろしいほど敏い男だった。
「最近、お前の様子はおかしい」
「……そうか?」
「誤魔化すな。顔色が悪い」
「寝不足なだけだ」
「お前が“寝不足程度”でそんな顔になるわけがない」
あまりの即答ぶりに、小さく息を吐く。
昔なら、もう少しうまく笑って誤魔化せただろうかと、ふと思う。
今の自分は、どんな表情をしても、どこか薄っぺらく感じられた。
「……お前こそ」
「何だ」
「最近、図書室に籠もっているらしいな」
一瞬だけ、エドガーの肩の動きが止まった。
「誰から聞いた」
「噂だ」
「くだらないな」
平静を装った声だった。
それでも、その声の奥には隠しきれない疲労と、何かに追いつめられているような焦燥が滲んでいる。
それに気づいてはいた。
そしておそらく、エドガーもこちらの異変に気づいている。
だが、互いに“核心”だけは掴めない。
まるで同じ大切なものを失っているのに、その名前だけが世界から丸ごと抜け落ちているかのように。
「……なあ、エドガー」
「なんだ」
少しだけ迷ったが、胸に溜まった澱を吐き出すように口を開いた。
「お前は、自分が何のために頑張ってきたか、考えたことはあるか」
「……は?」
「いや、変な意味じゃない」
自分でも説明できない、酷く抽象的な問いだった。
ただ、ずっと胸の奥に棘のように引っかかっていた。
「俺は昔から、王太子として必要なことは全部やってきた」
剣も、魔法も、政務も。
気づけば全てを人並み以上にこなせるようになっていたし、周囲からは期待を込めて“完璧な王子”などと呼ばれるようにもなった。
けれど。
「……どうしてそこまで俺が頑張れたのか、それだけが思い出せないんだ」
その瞬間、エドガーの表情がわずかに強張る。
その瞳が、まるで強烈な目眩に襲われたかのように大きく揺らいだ。
「…………」
「……エドガー?」
返事はない。
ただ彼は、ひどく苦しそうな、今にも泣き出しそうな顔で視線を伏せていた。
自らの胸元を、破り捨てるかのように強く握りしめている。
やがて、低く掠れた声がこぼれ落ちる。
「……やめろ」
「何がだ」
「そういう話をされると……」
そこで言葉が途切れる。
エドガーは青ざめた顔でこめかみを押さえ、小さく荒い息を吐いた。
「……頭が痛い」
その声は、決して冗談の類ではなかった。
◇
その夜、一人で王宮の書庫へ向かっていた。
ただ、行かなければならない気がしていた。
失くしたものを探すように、忘れてはいけなかった何かに、必死に手を伸ばすように。
本棚の間を進むたび、古い紙とインクの匂いが濃くなっていく。
静寂だけが支配する、誰もいない空間。
その最奥へと進もうとした瞬間——ふわりと、微かな、けれどあまりにも鮮烈な香りが鼻先を掠めた。
視線を向けると、月光の差し込む窓辺に、小さなガラスの花瓶が置かれていた。
そこに生けられていたのは、淡い紫色の花だった。
静かな書庫によく馴染む、控えめな花。
見覚えなどないはずなのに、視界に入れた瞬間、胸の奥がひどくざわつく。
——違う。
無意識に、そう思った。
これはきっと、自分が探しているものではない。
それでも、あと少しで何かを思い出せそうな感覚だけが、指先を掠めていく。
胸の奥が、理由もなく激しくざわついた。
「…………」
引き寄せられるように歩み寄り、差し伸べた指先が、その淡い花弁に触れそうになった、その時だった。
——『また来るの?』
不意に、すぐ耳元で凛とした少女の声が聞こえた気がした。
「……っ」
息が詰まる。
頭の奥を、割れるような鋭い痛みが突き抜ける。
知らない声だ。
俺の記憶には、絶対に存在しないはずの声。
それなのに、胸の奥の、あの『巨大な空白』だけが、まるで狂ったように激しく反応している。
「……誰だ」
掠れた声が零れるが、返事はない。
ただ夜風が窓から吹き込み、淡い紫の花を静かに揺らすだけだった。
しかし、その夜、初めてはっきりと理解した。
これはただの過労でも、一時的な違和感でもない。
自分は本当に、何かを忘れている。
それも、俺という人間の人生を大きく変えてしまうほど、大切な何かを。




