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悪女と呼ばれる公爵令嬢のことだけ、なぜか王太子は思い出せない〜忘れているはずなのに、いつだって君だけが特別だった〜  作者: はな
第三部:追想の王太子──ときどき幼馴染

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第32話 欠けた世界の中で

エドガー→ソフィア→レオナルド視点と変わります。



 図書室は静まり返っていた。夕暮れの光が窓から差し込み、本棚の影を床へ長く伸ばしている。その薄暗がりの中で、エドガーは机に向かい、一冊の古い本を開いていた。


 けれど、ページはもう長いこと進んでいない。文字を追っているはずなのに、どうしても頭に入ってこなかった。脳裏に浮かぶのは、レオナルドの言葉ばかりだった。


『……でも、どうしてそこまで俺が頑張れたのか、それだけが思い出せないんだ』


「…………」


 あの言葉を聞いた瞬間、胸が引き裂かれるように痛んだ。理由は分からない。それでも、自分も同じなのだと、嫌というほど分かってしまった。


 何かが足りない。大切なものを、決定的に失っている。それなのに、何を失くしたのかさえ思い出せない。


「……何なんだよ、一体」


 エドガーは小さく呟き、手元の本へ視線を戻した。表紙には、古びた文字でこう記されている。


『存在消失と記憶修正について』


 昨日から何度も読み返している禁書だった。なぜこの本が気になったのか、最初のきっかけすら曖昧だ。ただ、そこに書かれている内容が、今の自分たちと無関係だとは思えなかった。


 彼はもう一度、目を引かれた一文を指でなぞった。


『強い感情は、世界修正後も“残滓”として残る場合がある』


 ——残滓。


 記憶を失ってもなお、消えずに残る感情。


 その言葉を読むたび、胸が苦しくなった。説明のつかない罪悪感。何かを守れなかったような、耐えがたい後悔。そして、レオナルドの顔を見るたびに込み上げる、どうしようもない悲しみ。


 あいつも何かを忘れている。自分も、何かを忘れている。


 だとしたら。


「……俺たちは、一体……」


 そこまで呟いたところで、頭の奥が鈍く軋んだ。エドガーは目を閉じ、こめかみを押さえる。思い出そうとするたび、何かに遮られる。それでも、もう放っておくことはできなかった。


 大切なことを忘れている。それも、自分から手放してはいけなかったはずの、何かを。


「……違う。何かがおかしい」


 低く零した、そのときだった。


 窓の外で風が吹いた。何気なく視線を向けると、図書室の庭先に淡い紫色の花が咲いている。名前も知らない、小さな花だった。


 けれど、それを見た瞬間。


『……関係ないわ』


「……っ!」


 頭の奥で、誰かの声が響いた。冷たくて、素っ気なくて、まるで自分を突き放すような少女の声。


 なのに、なぜ、こんなにも懐かしいのだろう。なぜ、そんな言い方をされても、少しも嫌ではなかったのだろう。


 むしろ、その声をもう一度聞きたくてたまらなかった。


 エドガーは椅子を引き、反射的に立ち上がった。


「……誰だ」


 声が震えた。名前が浮かばない。顔も、姿も分からない。それでも胸の奥では、どうしようもないほど確かに誰かを求めている。


「……おい」


 誰に向けたのかも分からない呼びかけが零れた。いつものように、呆れた顔で返事をしてほしかった。また無茶をするなと文句を言わせてほしかった。


 そんな考えが、何の前触れもなく浮かんでくる。


 ——俺は、誰にそんなことを言っていた?


 問いかけた途端、頬を温かいものが伝った。エドガーは目を見開く。涙だった。


 泣いている理由すら分からないまま、彼はしばらく窓の外の花を見つめていた。そこにいるはずの誰かを、探すように。


◇


 マルクス侯爵邸の一室では、ソフィアが鏡の前に座り、自分の姿を見つめていた。


 金色の髪は丁寧に整えられ、ドレスにも乱れはない。口元へ微笑みを浮かべれば、そこにはいつもどおりの、淑やかな侯爵令嬢が映る。


 何も問題はないはずだった。王太子妃候補としての立場も、家柄も、これまで積み重ねてきた実績も。レオナルドの隣に立つために必要なものは、すべて揃っている。


 それなのに。


「……どうして、私を見てくれないの」


 小さな声が零れた。


 最近のレオナルドは、明らかにおかしかった。話しかければ返事はする。礼儀正しく接してくれるし、彼女の立場を軽んじることもない。


 けれど、その瞳はいつも、どこか別の場所を見ている。隣にいるはずの自分ではなく、そこにいない誰かを探しているような、そんな顔をするのだ。


(……誰を、見ているの?)


 思い浮かべようとしても、答えはない。レオナルドの傍に、自分より親しい令嬢などいないはずだった。学園の記録を確かめても、社交界の噂を辿っても、気になるような人物は見当たらない。


 それなのに、胸の奥に引っかかるものがあった。何かを排除したような、妙な満足感。けれど、それが何だったのかを考えようとすると、途端に輪郭が曖昧になる。


「……気のせいよ」


 ソフィアは小さく呟いた。


 昔から、レオナルドの隣に立つためなら努力を惜しまなかった。礼儀作法も、学問も、王太子妃に必要とされる教養も。誰より優れていると認められるために、必死に積み重ねてきた。


 邪魔になる令嬢たちを遠ざけようと、裏で噂を流したこともある。実家の力を借り、縁談へ働きかけたこともあった。


 もちろん、そんなことを表に出すつもりはない。周囲から見れば、自分はどこまでも完璧な侯爵令嬢でなければならないのだから。


 けれど、そこまでしても、レオナルドは自分だけを見てくれなかった。


「……私が、一番のはずなのに」


 ソフィアは鏡台の上で手を握りしめた。


 いつか彼の隣に立つのは、自分だ。周囲もそう考えている。何もおかしくない。


 そう言い聞かせるたび、かえって胸の奥がざわついた。


 ふと、レオナルドがいつも持ち歩いている白いハンカチを思い出す。特別に高価なものには見えなかった。王家の紋章が入っているわけでもない。


 それなのに、彼は何度勧めても手放そうとしなかった。何の変哲もない布を、まるで宝物のように扱っている。あれが誰のものなのか尋ねても、本人にすら分からないらしい。


 それが、ひどく気に入らなかった。


「……そんなもの、どうして……」


 私が贈ったものではない。それだけは分かっている。


 ならば、誰が。


 その疑問に触れた瞬間、胸の奥へ冷たいものが走った。見えない誰かがいる。姿も名前も分からないのに、レオナルドの中には、確かに自分の入り込めない場所が残っている。


「……最初から、いなかったはずでしょう……?」


 思わず零れた言葉に、ソフィア自身が息を呑んだ。


 ——誰が?


 今、私は誰のことを言ったの?


 思い出そうとすると、頭の奥がぼんやりと霞んだ。そこにあったはずの輪郭だけが、綺麗に抜け落ちている。


 ソフィアは慌てて首を振った。馬鹿げている。存在しない誰かに怯える必要などない。


 レオナルドが自分の方を向かないのは、きっと最近の体調不良のせいだ。そう考えれば、何もおかしくないはずだった。


 けれど。


「……じゃあ、私は何に勝ったの?」


 声に出した途端、胸が冷えた。


 何かを手に入れたはずなのに、少しも満たされない。ずっと欲しかった未来が近づいているはずなのに、肝心のレオナルドは、そこにいない誰かを探している。


 ソフィアは唇を噛み、鏡へ向き直った。いつもどおりに微笑み、完璧な令嬢の顔を作る。今は、それしかできなかった。


 窓の外で風が吹いた。庭園の淡い紫の花が、一斉に揺れる。その光景がなぜかひどく目障りで、ソフィアは静かにカーテンを閉じた。


◇


 その日、俺は三度も署名を間違えた。


「……殿下?」


 側近の声に顔を上げる。視線を落とせば、書類の署名欄には途中まで書きかけた自分の名前と、滲んだインクの跡が残っていた。


「……すまない」


 新しい書類を受け取り、羽ペンを置く。内容は理解している。どこに署名すべきかも、何を決裁しているのかも分かっている。


 なのに、気づけば手が止まってしまうのだ。


 昨日、書庫で聞こえたあの声。


『……また来るの?』


 知らない少女の声だった。けれど、思い出そうとするたび、胸の奥がどうしようもなく痛む。


 誰だったのだろう。俺は、あの声に何と答えたのだろう。


 ……また来る、と言ったのか?


 そんな言葉が、ふいに浮かんだ。初めて考えたはずなのに、ひどく自然だった。


「…………」


 俺は無意識に上着の内側へ手を差し入れ、白いハンカチへ触れた。その感触を確かめると、少しだけ呼吸が落ち着いた。


 何を忘れたのかも分からない。それでも、これだけは手放してはいけない。そんな確信だけが、今も胸に残っている。


「殿下、午後はマルクス侯爵家との打ち合わせが入っております」


「……ああ」


 マルクス侯爵家。ソフィアの実家だ。


 最近、婚約の話が急に具体化し始めている。家同士の結びつきとしては申し分ない。彼女自身も、王太子妃候補として必要な教育を受けている。


 だが、婚約の話を聞くたびに、胸の奥がひどく重くなった。


 ソフィアを嫌っている、というだけでは説明できない。俺は彼女と婚約する未来を、どうしても思い描けなかった。


 ——違う。


 そんな感覚が、何度も胸の奥で繰り返される。


 何が違う? 俺は誰を探している?


 そこまで考えた瞬間だった。


「……っ!」


 頭の奥を、鋭い痛みが貫いた。羽ペンが手から滑り落ち、机の上を転がる。


「殿下!?」


 側近の声が、遠く聞こえた。視界が歪む。目の前の書類も、机も、少しずつ輪郭を失っていく。


 代わりに浮かんだのは、風に揺れる紫色の花だった。夕暮れの空。月明かり。そして、花々の向こうに立つ、小柄な少女の背中。


 顔は見えない。名前も分からない。


 けれど、その姿を見た瞬間、胸が締めつけられた。追いかけたい。手を伸ばしたい。もう二度と、置いていかれたくない。


 そんな感情が、堰を切ったように溢れてくる。


 俺は、あの背中を知っている。確かに、何度も見てきたはずだ。けれど、それがいつのことなのか思い出せない。


「……っ、あ……」


 こめかみを押さえたまま、必死に呼吸を整える。そのとき、別の記憶が浮かび上がった。


 幼い頃の自分。剣を握り、何度も訓練を繰り返している。疲れ果てても、まだ足りないと思っている。


 もっと強く。もっと優秀に。誰にも文句を言われないほど、完璧にならなければ。


 なぜ、そこまで必死だったのだろう。ずっと分からなかった、その理由。


 けれど今、幼い自分の声が、驚くほど鮮明に聞こえた。


『もっと頑張らないと——あいつが隣にいても、誰も文句を言えないくらい、俺が完璧にならないと』


 呼吸が止まった。


 ——あいつ。


 誰のことだ。思い出せない。それなのに、その呼び方だけが、ひどく懐かしかった。


 少し素っ気なくて、何でも一人で抱え込もうとして、困っているくせに助けなど要らないという顔をする。


 そんな誰かを、俺は知っていた。その隣に立ちたくて、必死に努力してきたのだ。


 王太子だから、というだけではない。その人が誰からも否定されずに、胸を張って隣にいられるように。俺自身が、誰よりも強くあろうとした。


 ——そうだ。


 俺は、誰かのために。あの人のために、ここまで頑張ってきた。


 視界の奥で、少女が振り返りかける。銀色の髪が、風に揺れた。紫色の瞳が見えた気がした。


 けれど、顔を確かめようとした瞬間、景色は再び霞んでしまう。


「……待て……」


 思わず声が零れた。


 行くな。まだ、名前も呼べていない。何を伝えたかったのかも、思い出せていない。


 それなのに、もう一度いなくなるなんて。


 俺は上着の内側で、白いハンカチを強く握りしめた。指先に、刺繍のわずかな凹凸が触れる。二つの三日月。小さな花。そして、かすかに残る甘い香り。


 胸の奥へ、温かいものが込み上げてきた。


 名前は分からない。顔も、まだはっきりと思い出せない。


 けれど、もう自分に嘘はつけなかった。


 あの人の隣に立ちたかった。あの人を守れる男になりたかった。ずっと、傍にいたかった。


 それは、義務でも、責任でもない。俺自身が、そう願ったのだ。


「……俺は——愛していた」


 声にした瞬間、胸の奥が熱くなった。


 誰を、とは答えられない。けれど、確かに愛していた。名前も顔も失くしてなお、その想いだけが、俺の中に残っていた。


 窓から風が吹き込み、机の上の書類をかすかに揺らす。俺はハンカチを握ったまま、もう一度目を閉じた。


 ——待っていてくれ。


 まだ、何も思い出せないけれど。それでも、必ず探すから。


 俺が、誰のためにここまで歩いてきたのか。その答えを、今度こそ見つけ出すために。






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