第31話 忘れたくない記憶
——おかしい。
最初にその異変へ気づいたのは、鏡の前に立った瞬間だった。
ただ顔色が悪いという、そんな生易しいものじゃない。
鏡の向こうに映る自分の輪郭が、どこか酷く薄いのだ。
光の加減によっては、まるで背後の景色へとそのまま溶け込みそうに見える瞬間さえあった。
「……気のせい、よね」
そう呟いた自分の声さえ、どこか遠い場所から響いているように錯覚する。
レオナルドの記憶が戻りかけてからというもの、私の体調は急速に悪化の一途をたどっていた。
肺の奥にのしかかる息苦しさ、鉛のように重い身体、 魔力の制御さえ難しくなっていく。
……けれど、それだけではない。
最近は時折、肉体そのものが内側から希薄になっていくような、奇妙な感覚に襲われるのだ。
まるで、この世界そのものから拒絶され始めているみたいに。
——代償。
その不吉な二文字が、脳裏をよぎる。
『もし、失われた記憶を取り戻した場合、術者には重い代償がある』
かつて貪るように読んだ禁書の一節が鮮明に蘇る。
けれど、そんなこと最初から分かりきっていたはずだった。
ただ、その対価がこれほどまでに苛烈だとは、想像すらしていなかっただけで。
けれど今の私には、それよりも焦燥を煽られる問題があった。
「……ない、どうして……」
震える指先で、私は何度も引き出しの奥を掻き回す。
肌身離さず持ち歩いていたはずの、真っ白なハンカチ。
机の中も、鞄の底も、自室の隅々までどれだけ探しても、それはどこにも見当たらなかった。
胸の奥が、ざわりと不穏に波打つ。
どうしてそこまで執着するのか、自分でも分からない。
ただ、“あれを失くしてはいけない”と、本能だけが強く警鐘を鳴らしていた。
理由なんて説明できない。
それでも、あの白いハンカチだけは、消えてしまう自分を辛うじてこの世界へ繋ぎ止めてくれる気がしていた。
せめてこの世界から消えるのなら、最後だけはレオナルドの傍にいたかった。
彼に最期を見届けてほしいなんて、そんな我儘は望まない。
ただ——あのハンカチだけは、消える瞬間まで抱きしめていたかった。
それさえも、私から奪い去ろうというのだろうか。
激しい焦燥に呼吸が浅くなる。
視界がぐらりと揺れ、私は壁へ手をついた。
指先の感覚が薄い。
自分の身体なのに、少しずつ輪郭が曖昧になっていく。
それでも、不思議と足は止まらなかった。
——あの場所へ行かなければ。
その想いだけが、消えかけた身体を辛うじて動かしていた。
気づけば私は、吸い寄せられるように中庭へ向かっていた。
肌を撫でる夜風は冷たい。
けれど恐怖はなかった。
まるで最初から、今夜ここへ辿り着く運命だったみたいに。
静かな諦めだけが、胸の奥へゆっくりと満ちていく。
青白い月明かりが、石造りの祠を静かに照らしていた。
風が吹き抜けるたび、銀色の髪がさらりと揺れる。
人気のない祠の前へ立った瞬間、不思議と胸の奥が静かになった。
ずっと暴れていた不安も恐怖も、夜の冷たさへ溶けていく。
代わりに残ったのは、逃れようのない確信だけだった。
——ああ。
これが、私の支払う代償なのだ。
ゆっくりと掌を持ち上げる。
月光に透けた指先は、向こう側の景色へ滲んでしまいそうなほど薄かった。
その瞬間、私は理解する。
禁術の代償は、“死”ではない。
——存在そのものの消失だ。
まるで最初から、この世界にいなかったみたいに。
胸の奥が、きゅうと痛んだ。
怖かった。
消えることが怖いんじゃない。
レオナルドの中から、私が完全に失われてしまうことが、どうしようもなく怖かった。
ふたりで重ねた時間も。
交わした約束も。
一緒に見つめた花も。
全部、“なかったこと”になってしまう。
「……っ」
喉の奥が小さく震える。
けれど私は、溢れそうになる感情を押し込めるように、そっと目を閉じた。
これでいい。
これで、いいの。
私の存在と引き換えにレオナルドが生きていけるなら。
もう苦しまず、二度と自分を責めずに済むのなら——それ以上の願いはない。
「……私は」
かすれた声が、夜の静寂へぽつりと落ちる。
駄目。
弱音を吐いてはいけない。
悪女の仮面を外してしまえば、もう立っていられなくなる。
その瞬間、堪えきれなかった涙がひとつ、冷えた頬を静かに伝い落ちた。
「……どうして」
震える声が夜風に溶けて消える。
忘れてもらって構わないはずなのに。
彼の平穏のためなら、記憶ごと消え去ることなんて望むところだったはずなのに。
それなのに、胸の奥が、張り裂けそうなほど痛くてたまらなかった。
そのときだった。
「……どうして、ここに」
低く響いた声に、呼吸が止まる。
ゆっくりと振り返ると、そこには月明かりの中で立ち尽くすレオナルドの姿があった。
驚いたように、けれどどこか酷く掠れた声。
夜になりきれない薄青い空と、夕暮れの残滓が混ざり合う黄昏の中で、彼が私を見つめている。
(……どうして、あなたがここにいるの?)
もう、私の存在は消えかけているはずなのに。
世界から拒絶され、誰の記憶からも薄れ始めているはずなのに。
どうしてあなたは、いつも真っ先に私を見つけてしまうの。
息をすることすら躊躇うような静寂の中、私はただ、小さく息を吐いた。
身体の内側が空っぽになっていく。
残された時間はもうない。
だから、私は決めた。
最後にひとつだけ、私の我儘を許してほしい、と。
「……お願いがあるの」
私の指先が、祠の奥、誰も近づかない細い小道の先を示す。
「……あそこに行きたいの。あなたとの……思い出の場所」
彼の中に眠る禁術の封印が、私の存在の消失に呼応して、いまにも弾けそうに軋んでいるのが分かった。
でも、最後に一度だけ、あの薄紫の花に囲まれて、彼に心の中でだけでいいから見送ってほしかった。
「……今、そんな状態じゃないだろ」
不審がる彼の声を押し切って、私はなだらかな傾斜の先にある、あの小さな丘へと歩き出す。
◇
風が吹くたび、甘い香りがふわりと漂う。
夜に溶けるような淡い紫のスイートピー。
私の細い足首に触れる花々は、私が通り過ぎると静かに元の向きへ戻っていく。
まるで、この場所さえも、私の存在を引き留めることを諦めたみたいに。
「……覚えてる?」
一輪の花に触れながら問いかける。
レオナルドの呼吸が止まるのが分かった。
——『ここ、好き』
——『また来るの?』
彼の脳裏に、かつての記憶の断片が、制御を失って溢れ出している。
「……いいの。楽しかったことだけで、いいから」
そう、楽しかったことだけでいい。
私の犯した禁術の罪も、代償の苦しみも、あなたには何も残さなくていい。
けれど、レオナルドは必死に頭を抱え、掠れた声で「何か、忘れてる気がする」と絞り出した。
その苦しげな瞳が真っ直ぐに私を映す。
「……そうね」
私はゆっくりと振り返った。
自分の輪郭が、月光に滲んで薄くなっていくのが分かる。
——もう限界だ。
「でも──それでいいの。楽しかったことだけ、覚えていれば」
消えゆく私を見つめ、彼の深海色の瞳がぞっとしたように冷たく見開かれる。
「……グレース」
彼が、私の名前を呼んだ。
もう二度と呼ばれることはないと思っていた名前を。
泣きそうになるほど嬉しくて、自然と笑みがこぼれる。
「……やっと、呼んでくれた」
同時に、私の身体から耐えていた糸がぷつりと切れた。
「……っ」
急激に襲う浮遊感。
崩れ落ちる私の身体を、レオナルドの強い腕が反射的に抱き止めた。
信じられないほどきつく、壊れそうなほど強く抱きしめられる。
けれど、衣服を通して伝わる彼の体温さえ、今の私には酷く遠い。
「……大丈夫か」
震える彼の声が聞こえて、私は腕の中から彼を見上げた。
「……ねえ、覚えてる?」
「……さあな。……でも、ここ好きだった」
強がる彼の口から、記憶にもないはずの、けれど胸が覚えている言葉が次々と零れ落ちる。
斜面を駆け上がって転んだこと。
呆れながら手を引いたこと。
「……うるさかったな、お前」
「ひどいわね」
くすり、と笑う。
本当に、楽しかった。
その瞬間、レオナルドの頭の中で決定的な音がしたのがわかった。
堰を切ったように、彼の中に全ての記憶が雪崩れ込んでいく。
——全部を、彼は思い出してしまった。
レオナルドの頬を、大粒の涙が伝っていく。
何かを言おうとしているのに、喉が引き攣ったように声にならない。
呼吸だけが浅く乱れ、震える腕で私を抱き締めていた。
「……なんで……」
掠れた声が、ようやく零れる。
「なんで、いつも……お前は……っ」
最後まで言葉にならなかった。
ただ、私を失う恐怖だけが、その深海色の瞳に剥き出しになっていた。
「……いいのよ。これで、いいの」
私は彼の震える頬に、そっと手を伸ばした。
「ふざけるな……っ!俺の記憶を勝手に……消して……!やっと……やっと思い出したんだぞ……!」
怒りと悲しみに狂うように、彼は私をさらに強く抱きしめる。
「……離して」
「離さない!君のいない人生なんて……っ、そんなものに意味なんかない……!」
その切実な叫びが胸に突き刺さり、呼吸が乱れる。
そんなふうに言われたら、消えたくないと思ってしまう。
あなたの傍にいたいと、醜く縋り付きたくなってしまう。
「……大丈夫よ。あなたは、忘れるわ」
「やめろ……」
「忘れて……ちゃんと、生きていける」
私の痕跡のすべてが、最初からなかったことになる。
「ふざけるな!!もう離さないって、言っただろ……!どこにも行くな……っ」
彼がどれほど強く抱きしめても、私の身体から淡い銀色の光が零れ始める。
そのたびに、彼の腕の中から私の重みが少しずつ失われていった。
「……っ、待て、持っていかないでくれ……俺から、彼女を奪うな……!いやだ……行くな……」
虚空を抱きしめるように必死な彼の耳元へ、私は最後の命を振り絞って、ずっと言えなかった本音を囁いた。
「……愛してるわ。誰よりも、何よりも——あなたを」
あなたが私を忘れても、世界から私の全てが消え去っても、この想いだけは本物だった。
「あなたは、私の——」
——私の、すべてだった。
「言うな……っ!それ以上、言うな……!」
彼の叫びと同時に、私の視界は眩い銀色の光に包まれ、弾けた。
最後に見たのは、月光の下、涙に濡れた彼の美しい深海色の瞳。
──さようなら、レオ。
私の温もりも、息遣いも、重さも、すべてが夜風の中へと完全に溶けて消える。
肉体を失い、意識の破片となった私は、ただ静かにその場へ崩れ落ちる彼の姿を見下ろしていた。
彼は泣いていた。
私の名前を何度も叫んでいた。
けれど丘を吹き抜けた夜風が、スイートピーを大きく揺らす。
その瞬間だった。
レオナルドの瞳から、急速に光が消える。
『……グレースって、なんだ?』
彼の口から、私の名が失われた。
『……俺は、どうしてここにいる?どうして——泣いている?』
世界が、書き換えられていく。
彼は立ち上がり、不思議そうに涙を拭う。
その足元には、私が落としたはずの、真っ白なハンカチ。
世界は、完璧に修正されていた。
グレース・アシュフォードという存在だけが、最初からどこにもいなかったかのように。
けれど、私が彼に渡したかった「ハンカチ」だけは、彼の元にただの『落とし物』としてそこに残された。
レオナルドは理由も分からないまま、その白い布を拾い上げ、どうしても手放せない様子でじっと見つめている。
(……それでいいの、レオ)
意識が闇へと遠のいていく中、私はそっと微笑んだ。
あなたは私のいない世界で、何事もなかったかのように、幸せに生きていって。
そう願った瞬間、私の意識は、完全な暗闇へと墜ちていった。
——それでも。
忘れたくない記憶だけは、最後まで消えてくれなかった。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。
グレース視点で綴られてきた物語は、ひとまずここで終わりです。
次話からは、再びレオナルド視点へ戻ります。




