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悪女と呼ばれる公爵令嬢のことだけ、なぜか王太子は思い出せない〜忘れているはずなのに、いつだって君だけが特別だった〜  作者: はな
第三部:追想の王太子──ときどき幼馴染

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第31話 残された空白



 ——まただ。


 目を開けた瞬間、そう思った。


 カーテンの隙間から差し込む朝日が、見慣れた寝室を穏やかに照らしている。天蓋付きの寝台も、整然と並ぶ調度品も、昨日までと何ひとつ変わらない。


 それなのに、頬だけが冷たく濡れていた。


「……またか」


 指先で拭ってみれば、それは涙だった。


 ここ最近、目を覚ますたびにこうなる。何か夢を見ていた気はするのだが、内容を思い出そうとした途端、夢は霧の向こうへ遠ざかってしまう。顔も、声も、何が起きたのかさえ分からない。


 ただ、胸の奥に残る感覚だけは、妙にはっきりしていた。


 何かを失った。


 それも、二度と取り戻せないほど大切なものを。


「……何なんだよ」


 誰に聞かせるでもなく呟き、俺はゆっくりと身体を起こした。


 寝室には誰もいない。当たり前だ。一人で眠ったのだから、目覚めたときに誰もいないのは当然のことだった。


 なのに、その当たり前の光景が、どうしようもなく寂しい。


 気づけば、寝台の傍らへ手を伸ばしていた。まるで、そこにいるはずの誰かを探すような仕草だった。


「…………」


 伸ばした手を見つめ、俺は眉を寄せる。


 何をしようとしたのだろう。


 ここに誰かがいた覚えなどない。それなのに、手の届く場所に何かがあるはずだと思ってしまう。確かにあったはずのものが、そこだけ綺麗に切り取られているような感覚だった。


 忘れているだけなら、思い出せばいい。


 けれど、何を忘れたのかさえ分からない。探そうにも、名前も、顔も、手がかりになるものも何一つ浮かんでこなかった。


 ただ胸の奥に空いた穴だけが、朝を迎えるたびに深くなっていく。


「……誰だ」


 掠れた声が、静かな寝室へ落ちた。


 答える者は、いなかった。


◇


 その日も、王太子としての仕事は山のように積まれていた。


 視察報告書の精査に、各領地から届いた嘆願書への対応。来月の式典に向けた調整や、貴族間の揉め事に関する報告もある。


 何もかも、いつもどおりだった。


 必要な書類に目を通し、問題があれば修正を指示し、決裁を済ませる。頭も身体も、以前と何ら変わらず動いている。


「殿下、こちらの確認をお願いします」

「ああ」


 差し出された書類を受け取り、内容を確かめる。判断に迷うような案件ではなかった。必要な箇所へ署名し、次の書類へ手を伸ばす。


 その途中で、ふと羽ペンが止まった。


「……殿下?」

「……いや、何でもない」


 そう答えながら、書類へ視線を戻す。


 仕事が嫌になったわけではない。王太子として果たすべき責務は理解しているし、これまで積み上げてきたものを投げ出すつもりもない。


 ただ、何のためにここまで頑張ってきたのだったか。そんな考えが、最近になって頭を離れなくなっていた。


 剣も、魔法も、学問も、政務も。


 幼い頃から、誰よりも努力してきた自負はある。自分が王太子である以上、求められるものに応えなければならないと思っていた。


 周囲からは、いつしか『完璧な王子』などと呼ばれるようになった。そのために何をしてきたのかも、ちゃんと覚えている。


 なのに。


(……何か、足りない)


 王太子としての責任だけでは、説明のつかないほど必死だった気がするのだ。


 もっと強く。もっと優秀に。誰にも文句を言わせないほど、揺るぎない存在になろうとした。


 まるで、そうならなければ守れない何かがあったかのように。


「……っ」


 胸の奥が鈍く軋んだ。


 考えるな。


 そう言い聞かせるように、俺は羽ペンを置いた。


 ふと、上着の内側へ手を差し入れる。指先に、柔らかな布の感触が触れた。


 ——白いハンカチ。


 なぜ、これを持っているのだろう。


 どこで手に入れたものなのか、はっきりと思い出せない。自分の物ではないはずなのに、気づけばいつも身につけている。


 以前、何度も四隅の刺繍を確かめた気がした。小さな花と、向かい合う二つの三日月。


 その形を見ると、理由もなく胸が苦しくなる。それでも、手放そうとは思えなかった。むしろ、失くしてはいけないと強く感じる。


 自分でも説明できない、奇妙な確信だった。


 俺は布をそっと握りしめ、やがて元の場所へしまった。


「……続きを頼む」


 傍らの側近へ声をかける。


 仕事へ戻れば、余計なことを考えずに済むはずだった。けれど、胸の奥に空いた場所は、何をしていても埋まらなかった。


◇


「……レオナルド」


 執務室を出たところで、背後から呼び止められた。


 振り返ると、エドガーが立っている。


「どうした」

「それはこっちの台詞だ」


 彼は眉を寄せ、俺の顔を覗き込んだ。


「最近、お前の様子はおかしい」

「……そうか?」

「誤魔化すな。顔色が悪い」

「寝不足なだけだ」

「お前が『寝不足程度』でそんな顔になるわけがない」


 即答だった。


 思わず苦笑しそうになったが、うまく笑えなかった。エドガーは昔から、こういうところだけ妙に鋭い。


 ……昔から。


 そう考えた途端、また胸の奥が引っかかった。


 俺たちは、いつからこんな関係だったのだろう。


 幼馴染で、親友で、側近。それは間違いない。


 けれど、二人で過ごしたはずの時間を思い返そうとすると、どこか噛み合わない感覚があった。


 俺だけではないのかもしれない。最近のエドガーも、明らかにおかしかった。


「……お前こそ」

「何だ」

「最近、図書室に籠もっているらしいな」


 一瞬だけ、彼の動きが止まった。


「誰から聞いた」

「噂だ」

「……くだらないな」


 そう言って視線を逸らしたものの、その顔には疲労の色が滲んでいる。


 何かを調べているのだろうか。


 尋ねようとしたが、今のエドガーは、俺以上に自分のことで手一杯のように見えた。


 しばらく、二人とも口を開かなかった。


「……なあ、エドガー」

「なんだ」


 迷った末に、胸の奥で燻っていた疑問を口にした。


「お前は、自分が何のために頑張ってきたか、考えたことはあるか」

「……は?」

「いや、変な意味じゃない」


 自分でも、うまく説明できなかった。何かが引っかかっている。けれど、それが何なのか分からない。


「俺は昔から、王太子として必要なことは全部やってきた」


 エドガーは黙って聞いていた。


「剣も、魔法も、政務も。誰にも文句を言われないように、必死に努力してきた。何をしてきたのかは覚えてるし、そこに後悔もない」


 俺は自分の掌へ視線を落とした。


「……でも、どうしてそこまで俺が頑張れたのか、それだけが思い出せないんだ」


 その瞬間、エドガーの表情が変わった。


「…………」

「……エドガー?」


 返事がない。


 彼はひどく苦しそうに胸元を握りしめていた。まるで、俺の言葉が、何か見えない傷に触れてしまったかのようだった。


「……やめろ」


 やがて、低い声が零れた。


「何がだ」

「そういう話をされると……」


 言葉が途切れる。


 エドガーはこめかみを押さえ、小さく息を吐いた。


「……頭が痛い」


 冗談ではなかった。顔色が悪く、額には薄く汗まで滲んでいる。


「おい、大丈夫か」

「……ああ。少し、休めば」


 そう答えたものの、彼の表情は晴れなかった。


 俺は何も言えず、親友の顔を見つめる。


 ――同じだ。


 そう思った。


 理由も分からないまま、何かを探している。見つからないものに手を伸ばし、そこへ辿り着こうとするたび、胸が痛む。


 エドガーもまた、そんな顔をしていた。


 ——俺たちは、一体何を忘れたんだ?


 問いかけても、答えは見つからなかった。


◇


 その夜、俺は一人で王宮の書庫へ向かった。


 何かを調べようと、明確な目的があったわけではない。ただ、行かなければならない気がしたのだ。


 失くしたものを探すように。忘れてはいけなかった何かへ、手を伸ばすように。


 古い紙とインクの匂いが漂う書庫には、人の気配がなかった。


 棚の間をゆっくりと進みながら、並んだ背表紙へ目を向ける。何を探しているのかさえ分からないのに、足だけが奥へ向かっていた。


 やがて、月光の差し込む窓辺で足を止める。


「……?」


 小さなガラスの花瓶が置かれていた。そこには、淡い紫色の花が生けられている。


 風に揺れる、細い花弁。ふわりと漂う、甘い香り。


 見たことのない花のはずだった。


 それなのに。


「……っ」


 胸が強く締めつけられた。


 知っている。


 この香りを、俺は知っている。


 そう思った途端、無意識に上着の内側へ手を伸ばしていた。


 白いハンカチ。布に残る、かすかな花の香り。


 まったく同じなのかどうかも分からない。けれど、窓辺の花を見ていると、どうしてもあの布を手放せなくなった。


 ……違う。


 これを探していたわけではない。花そのものが欲しいわけでもない。


 もっと別の、何か。


 この香りの向こうにあるものへ、どうしても辿り着きたかった。


 俺は花瓶へ近づき、そっと指先を伸ばした。


 花弁へ触れようとした、そのときだった。


『……また来るの?』


「……っ!」


 息が止まった。


 すぐ耳元で、少女の声が聞こえた気がした。幼い、少しだけ素っ気ない声。


 けれど、その声音を聞いた瞬間、胸の奥がどうしようもなく熱くなった。


 ——知っている。


 俺は、この声を知っている。


 そう思った途端、頭の奥を鋭い痛みが貫いた。


「……っ、あ……!」


 慌てて本棚へ手をつく。


 目を閉じると、何かが浮かびかけた。


 夕暮れ。風に揺れる、淡い紫の花。そして、誰かがいる。


 そこまでだった。


 顔を確かめようとすると、景色は霧に呑まれるように消えてしまう。


「……誰だ」


 掠れた声が、書庫へ落ちた。


 返事はない。


 ただ、開いた窓から吹き込む夜風が、花瓶の花を静かに揺らしていた。


 俺はしばらく、その場から動けなかった。


 今の声は何だったのか。なぜ、こんなにも懐かしかったのか。どうして、思い出せないだけで泣きたくなるのか。


 何ひとつ分からなかった。


 それでも、一つだけ確かなことがあった。


 これは、ただの寝不足でも、疲れでもない。


 俺は本当に、何かを忘れている。


 それも、俺という人間の人生を大きく変えてしまうほど、大切な何かを。


 上着の内側にあるハンカチを、もう一度握りしめる。


 名前も、顔も、何も思い出せない。


 けれど。


「……何なんだよ、これ……」


 こんなにも会いたいと思う相手がいたことだけは、もう否定できなかった。






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