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悪女と呼ばれる公爵令嬢のことだけ、なぜか王太子は思い出せない〜忘れているはずなのに、いつだって君だけが特別だった〜  作者: はな
第二部:追憶の公爵令嬢──ときどき公爵令息

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第30話 忘れたくない記憶



 翌朝、廊下ですれ違ったレオナルドを見た瞬間、私は思わず足を止めかけた。


 昨日、エドガーの腕の中で泣いてしまったことが、まだ頭から離れない。優しくしてくれる彼に、私は結局、何も返せなかった。それなのに、視線の先にレオナルドの金色の髪を見つけた途端、胸が締めつけられる。


 ……本当に、どうしようもないわね。


 私は顔を伏せ、何事もなかったかのように通り過ぎようとした。けれど、そのとき、喉の奥から短い咳が漏れた。


 「……っ、げほ……」


 思わず口元を押さえる。昨夜から身体が妙に重く、魔力の巡りも悪かった。息を吸うだけで、胸の奥が軋むように痛む。それでも、足を止めるわけにはいかなかった。すぐ近くに、レオナルドがいるのだから。


 「おい——」


 聞き慣れた声が背後から届き、私は肩を強張らせた。


 やめて。今は、声をかけないで。


 レオナルドが一歩近づいた、その瞬間だった。周囲の空気が、ぴしりと軋んだ。


 「……っ」


 自分の魔力が、ひどく乱れている。普段なら抑えられるはずの闇が身体の内側で波打ち、指先から零れ出そうになっていた。


 「……来ないで」


 俯いたまま、どうにか声を絞り出す。


 「……大丈夫か」


 それでもレオナルドは足を止めなかった。


 どうして。お願いだから、分かって。


 あなたが近づくと、私の魔力が反応してしまう。それに——。


 「来ないでって言ってるでしょう……っ!」


 思わず顔を上げると、レオナルドがはっと息を呑んだ。その深海色の瞳を見た瞬間、胸の奥で何かが強く脈打つ。


 ——嫌な予感がした。


 彼が頭を押さえ、私は反射的に後ずさった。


 「……近づくなって、言ったはずよ……」


 これ以上、私を見ないで。失った記憶を、探さないで。


 そう願ったのに、急に足元から力が抜けた。


 「——っ!」


 倒れかけた身体を、レオナルドが支える。肩へ触れた手は、昔と少しも変わらず温かかった。


 ……ああ。


 この手を、知っている。


 何度も握ってもらった。泣いているときも、怒っているときも、いつだって私を一人にしなかった手だ。


 けれど、その温もりに触れた瞬間、身体の奥から何かが引き抜かれるような感覚に襲われた。


 「……っ、あ……!」


 胸が苦しい。息ができない。


 レオナルドの目が、何かを思い出そうとするように見開かれている。


 ——駄目。


 「……触らないで!」


 私は彼の手を振り払った。レオナルドは、呆然と立ち尽くす。


 そんな顔をしないで。あなたが悪いんじゃない。ただ、私が——。


 「……お願いだから……」


 それ以上は、声にならなかった。


 離れた場所から、エドガーが私の名前を呼ぶ。


 「……グレース……」


 振り返ることはできなかった。今、誰かに顔を見られたら、きっと泣いてしまう。


 私はその場から逃げるように駆け出した。廊下を曲がる直前、自分の指先から淡い銀色の光が零れた気がしたが、振り返って確かめる勇気はなかった。


 ◇


 それから、日に日に身体の調子は悪くなっていった。


 咳は増え、少し歩くだけで息が切れるようになった。魔力を抑えることさえ、以前より難しくなっている。


 レオナルドと顔を合わせるたび、彼は何かを言いたそうに私を見つめた。けれど、私が目を逸らせば、それ以上近づいてくることはなかった。


 ……よかった。


 これなら、きっと大丈夫。


 そう思いながらも、彼が立ち止まってくれるたび、寂しいと思ってしまう自分がいた。


 エドガーも、何度か様子を見に来てくれた。


 「……医務室へ行け」

 「大げさね。ただの疲れよ」

 「お前の『ただの疲れ』は、もう信用しない」


 そう言いながら、彼は私の顔を覗き込む。以前なら憎まれ口を返せたはずなのに、最近はそれさえ億劫だった。


 エドガーは何かを言いかけ、結局、口を閉じた。私も、あの日の「俺じゃ、だめか」については何も言わなかった。


 彼の気持ちを知らなかったことにはできない。けれど、どう答えればいいのかも分からなかった。


 今の私には、誰かの手を取ることさえ、ひどく難しい。


 それでもエドガーは、いつもどおり傍にいてくれた。


 ……本当に、優しい人ね。


 心の中でそう呟くたび、申し訳なさは増していった。


 ◇


 異変をはっきりと自覚したのは、ある日の夕方だった。


 鏡の前に立った私は、そこに映った自分を見て、息を止めた。


 「……何、これ……」


 顔色が悪い。それだけではなかった。


 鏡の向こうに映る自分の輪郭が、どこか薄い。目を凝らすと、肩の端が背後の景色へ滲んで見えた。


 慌てて腕を持ち上げると、指先も同じだった。皮膚の向こうに、窓から差し込む光が透けているように見える。


 「……気のせい、よね」


 呟いた声が、ひどく遠く聞こえた。


 もう一度、鏡へ近づく。けれど、それは見間違いではなかった。


 私の身体は、少しずつ、確かに薄くなっていた。


 ——代償。


 あの禁書に記されていた一文が、脳裏をよぎる。


 『失われた記憶を対象者が取り戻した場合、術者には重い代償が生じる』


 何を支払うのかは、書かれていなかった。だから、覚悟したつもりだった。


 命を削ることも、魔力を失うことも。レオナルドが生きていてくれるなら、受け入れられると思っていた。


 けれど。


 「……私、消えるの……?」


 声に出した途端、足元が揺らいだ。


 世界の中から、私という存在だけが薄くなっていく。


 もし、このまま消えてしまったら。レオナルドの記憶だけではなく、私がここにいたという事実まで、なくなってしまうのだろうか。


 その答えは分からなかった。ただ、どうしようもなく怖かった。


 私は胸元を押さえ、ゆっくりと息を吸った。そのとき、ふいに白いハンカチのことを思い出した。


 「……あれ……」


 まだ、見つかっていない。


 あの日、中庭の入り口へ戻って探した。廊下も、植え込みの傍も、何度も確かめた。それなのに、どこにもなかった。


 私は引き出しを開け、もう一度奥まで手を伸ばした。鞄の中も、机の下も、ないと分かっている場所まで探してしまう。


 「……どうして……」


 震える声が零れた。


 あのハンカチには、アシュフォード公爵家の紋章と、二人の誕生花。そして、向かい合う二つの三日月を刺繍した。


 入学式の日に、レオナルドへ渡すはずだったもの。結局、一度も渡せなかったもの。


 私の中にだけ残された思い出を、形にしたものだった。


 ——あれだけは、失くしたくなかったのに。


 私は机の縁を掴んだ。指先の感覚が、少しずつ薄くなっている。まるで、私自身がこの部屋から消えかけているようだった。


 こんなとき、レオナルドなら何と言っただろう。大げさだと笑うかしら。それとも、私が泣きそうなのを見つけて、何も聞かずに隣へ座ってくれたかしら。


 ……駄目。


 思い出したら、会いたくなる。もう会ってはいけないのに。


 「……レオ……」


 名前を呼ぶと、胸が締めつけられた。


 会いたい。もう一度、あの人に会いたい。


 忘れていてほしいと願ったのは、私だ。それなのに、最後くらいは名前を呼んでほしいと思ってしまう。


 自分でも、どうしようもない我儘だと思った。けれど、その願いだけは消えてくれなかった。


 ◇


 気づけば、私は中庭へ向かっていた。


 夕暮れの名残が、まだ空に残っている。薄青い空には細い月が浮かび、木々の間から冷たい風が吹き抜けていた。


 人気のない祠の前へ辿り着いたところで、私は足を止めた。


 ここは、なぜだか落ち着く。少しでも、この乱れが治まればいい。そう思って来たはずだった。


 けれど、祠の傍へ立っても、身体の奥から何かが零れ続けるような感覚は消えなかった。


 私はゆっくりと掌を持ち上げた。向こう側の景色が、指先を透かして見える。


 「……ああ……」


 もう、誤魔化せなかった。


 これが、私の支払う代償なのだ。


 ——存在そのものの消失。


 命が尽きるのとは違う。私が、私という存在ごと、この世界から失われようとしている。


 膝から力が抜けそうになり、祠へ手をついた。


 覚悟していた。そう思っていたのに。


 「……嫌……」


 小さな声が零れた。


 消えたくない。まだ、生きていたい。


 レオナルドの隣にいたかった。何でもないことで言い合って、呆れた顔をされて。また明日ね、と約束をして、あの人が迎えに来てくれるのを楽しみに待っていたかった。


 ……でも。


 私が傍にいれば、あの人の身体を蝕んでしまう。


 あの夜の高熱も、苦しそうな呼吸も、忘れることなどできなかった。


 私は両手で顔を覆った。


 「……どうして……」


 どうして、こんなことになってしまったのだろう。


 好きな人と一緒にいたかっただけなのに。彼に生きていてほしかっただけなのに。


 どちらか一つしか、願ってはいけなかったのだろうか。


 涙が頬を伝った。拭おうとして、もう白いハンカチがないことを思い出す。そのことまで、ひどく悲しかった。


 ……レオ。


 せめて、あの場所へ行きたい。


 二人で何度も過ごした、小さな丘へ。薄紫の花が咲く、あの場所へ。


 そこで最後にもう一度だけ、あなたのことを思い出してもいいかしら。


 そう思ったときだった。


 「……どうして、ここに」


 低い声が響いた。


 私は息を止め、ゆっくりと振り返った。祠の向こうに、レオナルドが立っている。


 ……嘘。


 どうして、あなたがここにいるの。


 さっきまで、会いたいと思っていた。でも、実際に姿を見ると、胸の奥が怖いほど跳ねた。


 彼は私をまっすぐ見つめている。私の身体が薄くなりかけていることにも、気づいているのだろうか。


 そんなふうに見られると、また泣いてしまいそうだった。


 逃げなければ。いつもなら、冷たく突き放すところだ。


 けれど、もう足が動かなかった。


 ……最後に、一つだけ。


 一つだけ、我儘を言ってもいいだろうか。


 「……お願いがあるの」

 「お願い?」


 レオナルドが聞き返す。


 私は祠の奥へ視線を向けた。そこには、学園の裏手へ続く細い小道がある。


 「あそこに行きたいの。あなたとの……思い出の場所」


 彼の表情が、わずかに揺れた。


 言ってはいけないことだったのかもしれない。あの場所へ行けば、また何かを思い出すかもしれない。


 それが分からないほど、私は愚かではない。


 それでも、もう時間がないのだとしたら、最後に一度だけ、あの花の中に立ちたかった。


 「……今、そんな状態じゃないだろ」


 レオナルドは私の顔を覗き込む。その眼差しに、胸が痛んだ。


 あなたは何も覚えていないのに、また私を心配するのね。


 「今じゃないと、だめなの」


 私は小さく首を振った。


 レオナルドはしばらく黙っていたが、やがて小道へ視線を向けた。


 「……分かった。行こう」


 思わず顔を上げる。


 ……いいの?


 こんな我儘を、聞いてくれるの?


 ありがとう、と言いかけたけれど、声にはならなかった。


 私は小さく頷き、彼と一緒に歩き出した。


 ◇


 小道を抜けると、風に乗って甘い花の香りが漂ってきた。


 ——スイートピー。


 薄紫の花が、小さな丘の斜面を埋め尽くしている。夕暮れの残光と、昇り始めた月の光。その両方を受けて、花々が静かに揺れていた。


 ――懐かしい。


 ここへ来ると、いつだってそう思う。


 幼い頃、レオナルドと何度も歩いた場所。彼が私を見つけては、帰れと言われても帰らなかった場所。


 いつも、ここで笑っていた。


 私は一輪の花へ指先を伸ばした。


 「……覚えてる?」


 振り返らずに尋ねると、レオナルドはしばらく答えなかった。風に揺れる花々の音だけが聞こえる。


 「……分からない」


 やがて、掠れた声が返ってきた。


 「……そう」


 私は小さく頷いた。


 分からなくていい。そう思った。


 けれど本当は、少しだけ寂しかった。


 この場所がどれほど大切だったか。ここで、どんな話をしたか。私だけが覚えていることが、ひどく寂しかった。


 風が吹き抜ける。花の香りを吸い込んだ瞬間、幼い日の声が胸に蘇った。


 『……ここ、好き』

 『また来るの?』

 『来る』

 『来なくていいって言ってるでしょ』

 『じゃあ毎日来る』

 『……勝手にしなさい』


 思い出して、口元が緩む。


 本当に、しつこい人だった。


 来なくていいと言っても、必ずやって来る。私が嫌な顔をすれば、面白そうに笑う。


 そうして気づけば、彼が来る時間を待つようになっていた。


 レオナルドが、こちらを見ている気配がした。


 「……ここ、よく来てたの」


 私は花々を見つめたまま、ぽつりと呟いた。


 「……ひとりで?」

 「違うわ」


 その先は、言えなかった。


 あなたと一緒だったのよ。何度も、何度も。


 そう言ってしまえば、きっと泣いてしまうから。


 「……風、強いな」

 「そうね。いつも、こうだった」


 ――いつも。


 何でもない言葉だった。けれど、彼が足元の斜面へ視線を落とした瞬間、胸の奥がひどくざわついた。


 「……転んでたな、お前」


 私は、思わず振り返った。


 レオナルド自身も驚いた顔をしている。


 ……覚えているの?


 「……そうね。よく見てたのね」

 「笑ってたな。転んでるくせに」

 「だって……楽しかったもの」


 私は小さく笑った。


 本当に、楽しかった。


 転んで泥だらけになっても。レオナルドに呆れられても。あの人が隣にいてくれるだけで、何もかもが嬉しかった。


 彼の表情が、少しずつ変わっていく。何かを探すように、私を見つめている。


 「……何か、忘れてる気がする」


 その声に、胸が冷たくなった。


 ——駄目。


 ここへ連れてきたのは、私だ。思い出すかもしれないと、分かっていた。


 それなのに、いざ彼が記憶へ近づこうとすると、怖くて堪らなかった。


 「……そうね」

 「だったら、教えてくれ。俺はここで、お前と何を——」

 「それでいいの」


 言葉を遮ると、レオナルドが息を呑んだ。


 私はゆっくりと振り返り、彼を見つめる。


 「楽しかったことだけ、覚えていれば」


 それだけでいい。


 私が術を使ったことも。あなたから記憶を奪ったことも。そのために何を失おうとしているのかも。


 何も知らなくていい。


 「……お前は、それでいいのかよ」


 返事ができなかった。


 よくなんて、ない。


 本当は、全部思い出してほしい。私たちが一緒にいたことを。私を好きだと、何度も言ってくれたことを。最後に交わしたキスのことも。


 ……でも。


 思い出してしまえば、あなたはまた私を追いかけてしまう。


 だから、私は困ったように笑うことしかできなかった。


 レオナルドが、こちらへ視線を向ける。


 月明かりに照らされた私の身体が、少しずつ薄くなっている。もう、隠しきれないのだろう。


 「……おい」


 彼の声が、わずかに震えた。


 私は何も答えなかった。答えようとしても、うまく息が吸えなかった。


 「……グレース」


 名前を呼ばれた。


 その声を聞いた瞬間、胸の奥で何かがほどけた。


 これまでも、レオナルドは何度か私の名前を呼んでいた。けれど、今の声は違った。


 ただ公爵令嬢の名を呼ぶのではなく、目の前の私を失いたくないと願うような声だった。


 「……やっと、呼んでくれた」


 自然と笑みが零れた。


 ああ。私は、ずっと待っていたのね。


 もう一度、そんなふうに呼んでもらえることを。


 嬉しかった。嬉しくて、泣きそうだった。


 けれど、次の瞬間、身体からふっと力が抜けた。


 足元が揺らぐ。倒れると気づいたときには、レオナルドが駆け寄ってきていた。


 「グレース!」


 強い腕が、私を抱きとめる。


 久しぶりに触れた、あの温もり。けれど、その感覚はどこか遠かった。


 「……大丈夫か。どこか痛むのか?」


 レオナルドが顔を覗き込む。


 私はゆっくりと目を開けた。


 深海色の瞳。ずっと、会いたかった人。その人が今、私を抱きしめている。


 ……夢みたい。


 「……ねえ、覚えてる?」


 掠れた声で尋ねると、レオナルドは苦しそうに眉を寄せた。


 「……全部は、まだだ」


 その返事に、胸が痛んだ。


 「でも、この場所は知ってる気がする。お前と何度も来て……くだらないことで言い合ってたんだろ」


 私は小さく頷いた。


 そうよ。何度も来たの。


 「……お前、よく転んでたな」

 「……ひどいわね」

 「本当のことだろ。転んだくせに、いつも笑って……」


 レオナルドの声が止まった。


 いつも。


 その言葉に、自分でも何かを感じたのだろう。


 私は彼を見上げた。


 「……そうね。楽しかったわ」


 言い終えた途端、胸の奥がきゅっと痛んだ。


 この人と過ごした時間は、本当に幸せだった。だから、失うのが怖い。


 それでも私は、彼の腕の中で笑っていたかった。


 「……なんで、言わなかったんだよ」


 レオナルドの声が震える。


 私は答えなかった。どう答えればいいのか、分からなかった。


 あなたが好きだったから。あなたに、生きていてほしかったから。


 そんな理由で記憶を奪ったと知ったら、きっと怒るでしょう。


 私を抱く彼の腕に、わずかに力がこもる。


 「……俺、ここが好きだったんだな」

 「……そうよ」


 私は頷いた。


 レオナルドの頬を、涙が伝った。


 「……なんでだよ」


 何が起きているのか、彼にはまだ分からない。それでも、何かを失おうとしていることだけは感じ取っているのだろう。


 「……お前、何をしたんだよ」


 私は何も言えなかった。


 「何が起きてるのか、ちゃんと教えてくれ。俺はまだ、何も——」


 言葉が途切れた。


 レオナルドが、頭を押さえる。


 私は息を呑んだ。


 ——思い出してしまう。


 その確信が、胸を貫いた。


 彼の瞳に、次々と感情が浮かぶ。驚き、懐かしさ、そして、どうしようもないほどの悲しみ。


 失われた記憶が、繋がっていく。


 私たちが過ごした日々。交わした約束。あの夜のキス。


 彼の中から消えていた私が、戻っていく。


 その瞬間、身体の奥で何かが切れたような感覚がした。


 ——ああ。


 全部、思い出してしまったのね。


 「……グレース」


 彼が、もう一度名前を呼んだ。


 今度は、間違いなく、あの頃のレオナルドの声だった。


 私は泣きそうになりながら微笑む。


 「……ふふっ。よかった……」

 「何が、よかったんだよ……!」


 彼の声が震えた。


 「俺の記憶を勝手に消して……こんなになるまで一人で抱え込んで……! やっと、やっと思い出したんだぞ……!」


 その言葉に、胸が締めつけられる。


 ごめんなさい。


 そう言いたかった。けれど、もう声がうまく出なかった。


 レオナルドが私を強く抱きしめる。


 離れたくなかった。本当は、ずっとこうしていたかった。


 けれど、私の身体から零れる銀色の光が、少しずつ増えている。


 「……離して」


 小さく呟くと、彼の腕が強張った。


 「……嫌だ」


 震える声だった。


 「もう離さない。君のいない人生なんて……そんなものに、意味なんかない」


 ——そんなこと、言わないで。


 そんなふうに言われたら、消えたくないと思ってしまう。あなたの傍にいたいと、縋りつきたくなってしまう。


 私だって、同じなのに。


 私はどうにか微笑んだ。


 「……大丈夫よ。あなたは、忘れるわ」


 レオナルドの顔から、血の気が引いた。


 「……やめろ」

 「忘れて……ちゃんと、生きていける」

 「そんなわけないだろ……!」


 私の頬へ触れようとした彼の手が、震えていた。


 私はその手に、そっと自分の指先を重ねる。


 ……冷たい。


 私の手が、もうあの温もりをうまく感じ取れなくなっている。


 「もう離さないって、言っただろ……」


 レオナルドの声が、ひどく掠れた。


 「どこにも行くな。頼むから……俺の前から、いなくならないでくれ」


 涙が頬を伝った。


 ——私も、行きたくない。


 まだ、ここにいたい。レオナルドと一緒に、生きていたい。


 けれど、言えなかった。言ってしまったら、本当に離れられなくなる。


 私の肩から、淡い銀色の光が零れ始める。


 レオナルドが息を呑んだ。


 「……グレース?」


 彼は慌てて腕に力を込めた。


 「待て……待ってくれ……!」


 その腕の中から、私の重みが少しずつ失われていく。


 離れたくない。けれど、もう身体が言うことを聞かなかった。


 私は最後の力を振り絞り、彼の胸元へ額を寄せた。


 ああ。やっぱり、この人が好き。


 何も覚えていないときも。私を悪女だと睨みつけていたときも。こうして全部を思い出し、泣きながら抱きしめてくれる今も。


 ずっと。


 「……愛してるわ」


 耳元で囁くと、レオナルドの呼吸が止まった。


 「誰よりも、何よりも——あなたを」


 ようやく、言えた。


 あの夜は、大好きだと何度も伝えた。けれど、もう一度だけ、今のあなたにちゃんと伝えたかった。


 「……言うな。そんな、最後みたいに……言わないでくれ……」


 私は微笑んだ。


 泣きたかった。けれど、最後に見る私が泣き顔では、きっとこの人はもっと苦しくなる。


 「あなたは、私の——」

 「グレース……!」


 最後まで言えなかった。


 身体から溢れていた銀色の光が、一気に強く輝く。


 レオナルドの腕が、私を抱きしめる。その温もりを、最後まで覚えていたかった。


 ——さようなら、レオ。


 私の、大好きな人。


 ◇


 ふっと、身体の重みが消えた。


 痛みも、冷たさも、何もない。ただ、意識だけが、まだほんの少し残っていた。


 眼下には、スイートピーの咲く丘が見える。その真ん中で、レオナルドが膝をついていた。


 腕の中には、もう誰もいない。


 「……グレース……」


 私の名前を呼ぶ声が聞こえた。


 彼は泣いていた。何度も名前を呼んでいた。


 伝えたいことが、まだあったのに。私も、言いたいことがたくさんあったのに。


 ……ごめんね。


 そう思った、そのときだった。


 丘を風が吹き抜ける。薄紫の花が、一斉に揺れた。


 レオナルドの表情が変わる。さっきまで剥き出しだった悲しみが、急速に困惑へ変わっていった。


 「……俺は、どうしてここに……?」


 彼が辺りを見回す。頬の涙を拭い、何が起きたのか分からないという顔をする。


 ——ああ。


 私のことを、また忘れたのね。


 そう思った瞬間、胸が痛んだ。


 けれど、彼は生きている。今は、苦しそうに頭を押さえてもいない。


 私のいない世界で、また歩き出せる。


 ……それで、いい。


 そのときだった。


 レオナルドが立ち上がろうとして、足元へ視線を落とした。


 そこには、一枚の白い布があった。彼の上着の胸元から滑り落ちたらしい。


 月明かりを受けた布の隅に、見覚えのある刺繍が見えた。


 アシュフォード公爵家の紋章。二人の誕生花。そして、向かい合う二つの三日月。


 ——嘘。


 私は息を呑んだ。


 あのハンカチ。失くしたと思って、ずっと探していたもの。


 どうして、レオナルドが持っているの。


 彼は白い布を拾い上げ、四隅の刺繍を見つめた。


 もう、誰が縫ったものなのかも分からないはずなのに、その手は布を離そうとしなかった。


 「……どうして、泣いてるんだ……?」


 レオナルドが呟く。


 涙が、また頬を伝った。


 私の名前も。私たちの約束も。全部、忘れてしまったのに。


 あのハンカチだけは、まだ彼の手の中にあった。


 ……よかった。


 渡せなかったはずの贈り物が、ようやくあなたの元へ届いていたのね。


 私はもう、触れられない。どれだけ手を伸ばしても、あなたの頬を拭うことはできない。


 けれど、その白い布が、あなたの涙を拭ってくれたらいい。


 いつか、理由も分からないまま見つめたその刺繍に、少しでも温かいものを感じてくれたらいい。


 ——それだけで、いい。


 意識が、少しずつ遠のいていく。


 最後に見えたのは、ハンカチを握りしめたまま、誰もいない丘を見渡すレオナルドの姿だった。


 忘れても、なお。


 あなたは、私が贈りたかったものを手放さないでいてくれる。


 ……ありがとう、レオ。


 そして、さようなら。


 私の意識は、静かな暗闇へと沈んでいった。


 ——それでも。


 忘れたくない記憶だけは、最後まで消えてくれなかった。




ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。


グレース視点で綴られてきた物語は、ひとまずここで終わりです。

次話からは、再びレオナルド視点へ戻ります。

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