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悪女と呼ばれる公爵令嬢のことだけ、なぜか王太子は思い出せない〜忘れているはずなのに、いつだって君だけが特別だった〜  作者: はな
第二部:追憶の公爵令嬢──ときどき公爵令息

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第30話 嫌われることでしか、守れない



 医務室の扉が、わずかに開いている。


 その前で、私はただ壁へ背を預けたまま、中から聞こえてくる声に耳を澄ませていた。


『脈も安定しています。もう問題はありません』


 医務官の落ち着いた声を聞いた瞬間、肺の奥に詰まっていた息が、ようやくゆっくりと零れ落ちる。


「…………はぁ……」


 力が抜けそうになるのを、どうにか堪えた。


 ——よかった。


 本当に。


 レオナルドは無事だった。

 術の影響も、今のところ表面化していない。

 記憶が戻った気配もない。


 それだけで十分だった。


 もし、あのまま彼が思い出していたら。

 もし記憶まで辿り着いてしまっていたら。


 きっと彼はまた、自分を犠牲にしようとする。


 そして私は——もう一度、彼を壊してしまう。


(……だから、これでいい)


 胸の奥で何度も言い聞かせる。


 忘れたままでいい。

 私を嫌ったままでいい。

 もう二度と、昔みたいに笑いかけてもらえなくても。


 それでも、生きていてくれるなら——。


 ぎゅっと腕を抱き締める。


 ソフィアへの怒り。

 レオナルドが苦しんでいた光景。

 記憶を取り戻しかけたあの瞬間の恐怖。


 押し殺していた感情が、限界を迎えかけていた。


 そんな時だった。


『本当に……怖かったのです。あの方の魔力で、また何か起きるのではと——』


 医務室の中から聞こえたソフィアの声に、胸の奥がすっと冷える。


(……あなた)


 自分で誘発剤を撒いておきながら。


 レオナルドを危険に晒した張本人のくせに、それでもなお被害者の顔をするつもりなのね。


 静かな怒りが胸の底で燃え上がる。


 だが次の瞬間。


『やめろ』


 鋭く遮った声に、私は息を呑んだ。


 ——レオナルド。


 一瞬、心臓が大きく跳ねる。

 張り詰めた沈黙のあと、低く押し殺した声が続いた。


『……すまない。ただ、決めつけるのは早い』


 胸が痛かった。


 どうして。

 どうして、そんなふうに庇うの。


 嫌っているはずでしょう。

 関わりたくないはずでしょう。


 それなのに、あなたは昔から——誰より先に、私を見つけてしまう。


 これ以上ここにいたら、本当に期待してしまう。


 胸の奥で膨らみかけた感情に蓋をするように、私は逃げるようにその場を後にした。


 静かな廊下に、自分の足音だけが淡く響いていく。


 ——ここなら、誰もいない。


 人気のない中庭にきてホッとした、その時だった。


「……おい。何か——」


 不意に聞こえたその声に、心臓が大きく跳ね上がった。


「……っ」


 反射的に肩が震える。

 振り返らなくても分かった。


 レオナルドだ。


 どうして。


 意識が戻ったばかりで、まだ安静にしていなければならないはずなのに。


 それなのに、どうして追いかけてきてしまうの。


 頭の中が真っ白になる。


 泣きそうな顔なんて、見せられるわけがなかった。

 今の自分を見られたら、きっと全部が壊れてしまう。


 私は慌てて息を飲み込み、込み上げそうになる感情を無理やり押し殺した。


 そしてゆっくりと振り返る。


 いつもの“グレース・アシュフォード”という仮面を貼り付けるように。


「どうして怪我人がここにいるのかしら。言ったはずよ、私に近づくな、と」


 ちゃんと冷たく言えただろうか。

 胸の奥では、今も鼓動が暴れている。


 レオナルドはそんな私を、深海みたいに静かな青い瞳でまっすぐ見つめていた。


 その中に映る自分が、ひどく脆いものに見えて、息が詰まりそうになる。


 そんなふうに見ないで。

 そんな顔をしないで。

 あなたは、私を嫌っていればいい。


「……心配して損した」


 低く零れた言葉に、胸の奥が鋭く痛んだ。


 ——心配して、追いかけてきてくれた。


 記憶を失っても。

 私を悪女だと思っていても。

 それだけで、胸の奥がひどく揺れた。


 ——だから、だめなのに。


 期待してはいけない。

 もう、戻れないのだから。


 私は爪が食い込むほど強く指を握り締めながら、どうにか平然とした顔を作った。


「余計なお世話よ」


 ぴしゃりと言い返す。


 そうでもしなければ、本当に泣いてしまいそうだった。


 本当は違う。


 “心配してくれて嬉しかった”


 ただ、それだけなのに。

 なのに口から出るのは、こんな言葉ばかりだった。


 レオナルドの眉がわずかに寄る。

 傷ついたような、苛立ったような表情だった。

 その顔を見るだけで、また胸が苦しくなる。


(……お願い)


 これ以上、優しくしないで。


「……本当に、分からない女だな」


 吐き捨てるような声が落ちる。


 その言葉に、喉の奥がきゅっと締め付けられた。


 分からないでしょうね。

 分からなくていい。


 あなたが思い出してしまったら、全部無駄になる。


 あなたを守るために、私は——。


 そこまで考えたところで、レオナルドは小さく息を吐き、踵を返した。


 遠ざかっていく背中を見つめながら、私は唇を強く噛み締めた。


 追いかけたかった。

 名前を呼びたかった。


 けれど、そんなことはできない。


 今の私は、彼に嫌われることでしか、彼を守れないのだから。


 ただ黙って、その背中を見送るしかなかった。


 夕暮れの風が静かに吹き抜け、銀の髪を揺らしていく。

 やがてレオナルドの背中が視界の向こうへ消えかけた、その瞬間。


「……本当に、変わらないのね」


 胸の奥から零れ落ちた声は、自分でも驚くほど小さかった。


 誰にも届かない。

 届いてはいけない独り言。


 やがて足音が遠ざかり、その気配が完全に消えた瞬間——張り詰めていたものが、一気に崩れ落ちた。


「っ……」


 膝から力が抜ける。


 その場に座り込みそうになるのを、どうにか壁へ手をついて堪えた。


 どうして。

 あんなふうに冷たく突き放したのに。

 関わるなと言ったのに。

 どうしてあの人は、追いかけてきてしまうの。


 記憶を失っても。

 嫌われても。

 拒絶されても。


 泣いていれば必ず見つけてしまう。

 一人で抱え込もうとすれば、放っておいてくれない。


 まっすぐで、優しくて——だからこそ、苦しい。


「……やめてよ……」


 震える声が、ぽつりと零れた。


 そんなふうに心配されたら、また期待してしまいそうになる。


 もう、戻れないのに。


 滲んだ視界の向こうで、ぽろりと涙が膝へ落ちる。


 だめ。

 泣いたら、仮面が剥がれる。


 私は慌てて顔を拭おうとして——そこで初めて、いつもポケットに入れていた感触がないことに気づいた。


「……っ」


 いつも持ち歩いていたはずの感触が、どこにもない。


 入学式の日に渡すつもりだった、刺繍入りの白いハンカチ。


 結局、渡せないままになったそれを、私はずっと手放せずにいた。


 レオナルドとの記憶まで消えてしまわないように。


 幸せだった時間が、確かに存在していたのだと忘れないために。


 ——壊れそうになる心を、繋ぎ止めるみたいに。


「……どこ、で……」


 指先が震える。


 いつ落としたのかも分からない。

 ただ、その存在がなくなっただけで、胸の奥まで空っぽになっていく気がした。


「……これ、使え」


 不意に降ってきた静かな声に、私ははっと顔を上げた。


「……エドガー」


 そこには、困ったように眉を下げたエドガーが立っていた。


「無理して笑うの、下手になってるぞ」


 困ったように眉を下げながら、エドガーが小さく息を吐く。


「……悪女らしく高笑いの練習をしてた頃の方が、まだマシだった」

「……っ」


 思わず、息が詰まった。


 ——覚えている。


 隠し通路の前で。

 小説を片手に、“悪女らしい笑い方”を真剣に研究していた私を、エドガーは呆れた顔で見ていた。


『おーっほっほ……』

『やめろ、全然向いてない』

『うるさいわね、私は真剣なの!』


 あの頃からずっと。


 この人は、私の無茶も、強がりも、全部知っていた。


 本当は止めたかったはずなのに。


 それでも、“レオナルドを守りたい”という私の願いだけは否定しなかった。


 呆れたようなその声が、ひどく優しい。

 胸の奥がまた痛んだ。


 エドガーは昔から、こういうところだけ妙に鋭い。


 差し出されたハンカチを受け取ると、彼は私の前へしゃがみ込み、苦しげに息を吐いた。


「……見てられない」

「え……?」

「お前が、あいつのことで泣いてるのを」


 低く押し殺した声だった。

 いつもの冷静なエドガーじゃない。

 必死に感情を押さえ込んで、それでも隠しきれなくなったみたいな声音だった。


「……俺じゃ、だめか」


 掠れたその言葉に、私は呆然と彼を見つめた。

 エドガーは苦しげに眉を寄せ、自嘲するように小さく笑う。


「別に、あいつの代わりになれるなんて思ってない」


 静かな声だったけれど、その奥に滲む痛みが、嫌というほど伝わってくる。


「お前が今でも見てるのが、レオナルドだけだってことくらい、分かってる」

「エドガー……」

「……それでも」


 彼は一歩だけ近づいた。


「お前が一人で壊れていくのを、もう見てられないんだ。……だからせめて、お前を支える役くらい、俺にさせろよ」


 低い声が、まっすぐ胸へ落ちてくる。

 あまりにも切実な声だった。


 胸の奥が、きゅっと締め付けられる。


 この人はずっと、私の味方でいてくれた。


 どれだけ振り回しても。

 どれだけ迷惑をかけても。


 それでも変わらず、傍にいてくれた。


 だからこそ、苦しい。


「……ごめんなさい。私、あなたに甘えてばかりね……」


 震える声で呟くと、エドガーは迷いなく答えた。


「それでいい」

「……ずるいわ。こんな時に、そんなこと言うなんて」


 かすれた声が漏れる。

 視線を落とし、ぎゅっと胸元を押さえる。


 もう、とっくに答えなんて決まっていた。


 私の心は、ずっと昔にあの人へ持っていかれてしまっている。


 きっと、もう戻ってこない。


「ごめんなさい……でも——ありがとう」


 その先は、どうしても言葉にならなかった。

 これ以上優しくされたら、本当に泣いてしまう。


 エドガーは何も言わなかった。


 ただ、壊れ物に触れるみたいに、そっと私の肩へ手を伸ばした。


 その温もりに触れた瞬間、堪えていた涙が、とうとう静かに溢れ落ちた。



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