第30話 忘れたくない記憶
翌朝、廊下ですれ違ったレオナルドを見た瞬間、私は思わず足を止めかけた。
昨日、エドガーの腕の中で泣いてしまったことが、まだ頭から離れない。優しくしてくれる彼に、私は結局、何も返せなかった。それなのに、視線の先にレオナルドの金色の髪を見つけた途端、胸が締めつけられる。
……本当に、どうしようもないわね。
私は顔を伏せ、何事もなかったかのように通り過ぎようとした。けれど、そのとき、喉の奥から短い咳が漏れた。
「……っ、げほ……」
思わず口元を押さえる。昨夜から身体が妙に重く、魔力の巡りも悪かった。息を吸うだけで、胸の奥が軋むように痛む。それでも、足を止めるわけにはいかなかった。すぐ近くに、レオナルドがいるのだから。
「おい——」
聞き慣れた声が背後から届き、私は肩を強張らせた。
やめて。今は、声をかけないで。
レオナルドが一歩近づいた、その瞬間だった。周囲の空気が、ぴしりと軋んだ。
「……っ」
自分の魔力が、ひどく乱れている。普段なら抑えられるはずの闇が身体の内側で波打ち、指先から零れ出そうになっていた。
「……来ないで」
俯いたまま、どうにか声を絞り出す。
「……大丈夫か」
それでもレオナルドは足を止めなかった。
どうして。お願いだから、分かって。
あなたが近づくと、私の魔力が反応してしまう。それに——。
「来ないでって言ってるでしょう……っ!」
思わず顔を上げると、レオナルドがはっと息を呑んだ。その深海色の瞳を見た瞬間、胸の奥で何かが強く脈打つ。
——嫌な予感がした。
彼が頭を押さえ、私は反射的に後ずさった。
「……近づくなって、言ったはずよ……」
これ以上、私を見ないで。失った記憶を、探さないで。
そう願ったのに、急に足元から力が抜けた。
「——っ!」
倒れかけた身体を、レオナルドが支える。肩へ触れた手は、昔と少しも変わらず温かかった。
……ああ。
この手を、知っている。
何度も握ってもらった。泣いているときも、怒っているときも、いつだって私を一人にしなかった手だ。
けれど、その温もりに触れた瞬間、身体の奥から何かが引き抜かれるような感覚に襲われた。
「……っ、あ……!」
胸が苦しい。息ができない。
レオナルドの目が、何かを思い出そうとするように見開かれている。
——駄目。
「……触らないで!」
私は彼の手を振り払った。レオナルドは、呆然と立ち尽くす。
そんな顔をしないで。あなたが悪いんじゃない。ただ、私が——。
「……お願いだから……」
それ以上は、声にならなかった。
離れた場所から、エドガーが私の名前を呼ぶ。
「……グレース……」
振り返ることはできなかった。今、誰かに顔を見られたら、きっと泣いてしまう。
私はその場から逃げるように駆け出した。廊下を曲がる直前、自分の指先から淡い銀色の光が零れた気がしたが、振り返って確かめる勇気はなかった。
◇
それから、日に日に身体の調子は悪くなっていった。
咳は増え、少し歩くだけで息が切れるようになった。魔力を抑えることさえ、以前より難しくなっている。
レオナルドと顔を合わせるたび、彼は何かを言いたそうに私を見つめた。けれど、私が目を逸らせば、それ以上近づいてくることはなかった。
……よかった。
これなら、きっと大丈夫。
そう思いながらも、彼が立ち止まってくれるたび、寂しいと思ってしまう自分がいた。
エドガーも、何度か様子を見に来てくれた。
「……医務室へ行け」
「大げさね。ただの疲れよ」
「お前の『ただの疲れ』は、もう信用しない」
そう言いながら、彼は私の顔を覗き込む。以前なら憎まれ口を返せたはずなのに、最近はそれさえ億劫だった。
エドガーは何かを言いかけ、結局、口を閉じた。私も、あの日の「俺じゃ、だめか」については何も言わなかった。
彼の気持ちを知らなかったことにはできない。けれど、どう答えればいいのかも分からなかった。
今の私には、誰かの手を取ることさえ、ひどく難しい。
それでもエドガーは、いつもどおり傍にいてくれた。
……本当に、優しい人ね。
心の中でそう呟くたび、申し訳なさは増していった。
◇
異変をはっきりと自覚したのは、ある日の夕方だった。
鏡の前に立った私は、そこに映った自分を見て、息を止めた。
「……何、これ……」
顔色が悪い。それだけではなかった。
鏡の向こうに映る自分の輪郭が、どこか薄い。目を凝らすと、肩の端が背後の景色へ滲んで見えた。
慌てて腕を持ち上げると、指先も同じだった。皮膚の向こうに、窓から差し込む光が透けているように見える。
「……気のせい、よね」
呟いた声が、ひどく遠く聞こえた。
もう一度、鏡へ近づく。けれど、それは見間違いではなかった。
私の身体は、少しずつ、確かに薄くなっていた。
——代償。
あの禁書に記されていた一文が、脳裏をよぎる。
『失われた記憶を対象者が取り戻した場合、術者には重い代償が生じる』
何を支払うのかは、書かれていなかった。だから、覚悟したつもりだった。
命を削ることも、魔力を失うことも。レオナルドが生きていてくれるなら、受け入れられると思っていた。
けれど。
「……私、消えるの……?」
声に出した途端、足元が揺らいだ。
世界の中から、私という存在だけが薄くなっていく。
もし、このまま消えてしまったら。レオナルドの記憶だけではなく、私がここにいたという事実まで、なくなってしまうのだろうか。
その答えは分からなかった。ただ、どうしようもなく怖かった。
私は胸元を押さえ、ゆっくりと息を吸った。そのとき、ふいに白いハンカチのことを思い出した。
「……あれ……」
まだ、見つかっていない。
あの日、中庭の入り口へ戻って探した。廊下も、植え込みの傍も、何度も確かめた。それなのに、どこにもなかった。
私は引き出しを開け、もう一度奥まで手を伸ばした。鞄の中も、机の下も、ないと分かっている場所まで探してしまう。
「……どうして……」
震える声が零れた。
あのハンカチには、アシュフォード公爵家の紋章と、二人の誕生花。そして、向かい合う二つの三日月を刺繍した。
入学式の日に、レオナルドへ渡すはずだったもの。結局、一度も渡せなかったもの。
私の中にだけ残された思い出を、形にしたものだった。
——あれだけは、失くしたくなかったのに。
私は机の縁を掴んだ。指先の感覚が、少しずつ薄くなっている。まるで、私自身がこの部屋から消えかけているようだった。
こんなとき、レオナルドなら何と言っただろう。大げさだと笑うかしら。それとも、私が泣きそうなのを見つけて、何も聞かずに隣へ座ってくれたかしら。
……駄目。
思い出したら、会いたくなる。もう会ってはいけないのに。
「……レオ……」
名前を呼ぶと、胸が締めつけられた。
会いたい。もう一度、あの人に会いたい。
忘れていてほしいと願ったのは、私だ。それなのに、最後くらいは名前を呼んでほしいと思ってしまう。
自分でも、どうしようもない我儘だと思った。けれど、その願いだけは消えてくれなかった。
◇
気づけば、私は中庭へ向かっていた。
夕暮れの名残が、まだ空に残っている。薄青い空には細い月が浮かび、木々の間から冷たい風が吹き抜けていた。
人気のない祠の前へ辿り着いたところで、私は足を止めた。
ここは、なぜだか落ち着く。少しでも、この乱れが治まればいい。そう思って来たはずだった。
けれど、祠の傍へ立っても、身体の奥から何かが零れ続けるような感覚は消えなかった。
私はゆっくりと掌を持ち上げた。向こう側の景色が、指先を透かして見える。
「……ああ……」
もう、誤魔化せなかった。
これが、私の支払う代償なのだ。
——存在そのものの消失。
命が尽きるのとは違う。私が、私という存在ごと、この世界から失われようとしている。
膝から力が抜けそうになり、祠へ手をついた。
覚悟していた。そう思っていたのに。
「……嫌……」
小さな声が零れた。
消えたくない。まだ、生きていたい。
レオナルドの隣にいたかった。何でもないことで言い合って、呆れた顔をされて。また明日ね、と約束をして、あの人が迎えに来てくれるのを楽しみに待っていたかった。
……でも。
私が傍にいれば、あの人の身体を蝕んでしまう。
あの夜の高熱も、苦しそうな呼吸も、忘れることなどできなかった。
私は両手で顔を覆った。
「……どうして……」
どうして、こんなことになってしまったのだろう。
好きな人と一緒にいたかっただけなのに。彼に生きていてほしかっただけなのに。
どちらか一つしか、願ってはいけなかったのだろうか。
涙が頬を伝った。拭おうとして、もう白いハンカチがないことを思い出す。そのことまで、ひどく悲しかった。
……レオ。
せめて、あの場所へ行きたい。
二人で何度も過ごした、小さな丘へ。薄紫の花が咲く、あの場所へ。
そこで最後にもう一度だけ、あなたのことを思い出してもいいかしら。
そう思ったときだった。
「……どうして、ここに」
低い声が響いた。
私は息を止め、ゆっくりと振り返った。祠の向こうに、レオナルドが立っている。
……嘘。
どうして、あなたがここにいるの。
さっきまで、会いたいと思っていた。でも、実際に姿を見ると、胸の奥が怖いほど跳ねた。
彼は私をまっすぐ見つめている。私の身体が薄くなりかけていることにも、気づいているのだろうか。
そんなふうに見られると、また泣いてしまいそうだった。
逃げなければ。いつもなら、冷たく突き放すところだ。
けれど、もう足が動かなかった。
……最後に、一つだけ。
一つだけ、我儘を言ってもいいだろうか。
「……お願いがあるの」
「お願い?」
レオナルドが聞き返す。
私は祠の奥へ視線を向けた。そこには、学園の裏手へ続く細い小道がある。
「あそこに行きたいの。あなたとの……思い出の場所」
彼の表情が、わずかに揺れた。
言ってはいけないことだったのかもしれない。あの場所へ行けば、また何かを思い出すかもしれない。
それが分からないほど、私は愚かではない。
それでも、もう時間がないのだとしたら、最後に一度だけ、あの花の中に立ちたかった。
「……今、そんな状態じゃないだろ」
レオナルドは私の顔を覗き込む。その眼差しに、胸が痛んだ。
あなたは何も覚えていないのに、また私を心配するのね。
「今じゃないと、だめなの」
私は小さく首を振った。
レオナルドはしばらく黙っていたが、やがて小道へ視線を向けた。
「……分かった。行こう」
思わず顔を上げる。
……いいの?
こんな我儘を、聞いてくれるの?
ありがとう、と言いかけたけれど、声にはならなかった。
私は小さく頷き、彼と一緒に歩き出した。
◇
小道を抜けると、風に乗って甘い花の香りが漂ってきた。
——スイートピー。
薄紫の花が、小さな丘の斜面を埋め尽くしている。夕暮れの残光と、昇り始めた月の光。その両方を受けて、花々が静かに揺れていた。
――懐かしい。
ここへ来ると、いつだってそう思う。
幼い頃、レオナルドと何度も歩いた場所。彼が私を見つけては、帰れと言われても帰らなかった場所。
いつも、ここで笑っていた。
私は一輪の花へ指先を伸ばした。
「……覚えてる?」
振り返らずに尋ねると、レオナルドはしばらく答えなかった。風に揺れる花々の音だけが聞こえる。
「……分からない」
やがて、掠れた声が返ってきた。
「……そう」
私は小さく頷いた。
分からなくていい。そう思った。
けれど本当は、少しだけ寂しかった。
この場所がどれほど大切だったか。ここで、どんな話をしたか。私だけが覚えていることが、ひどく寂しかった。
風が吹き抜ける。花の香りを吸い込んだ瞬間、幼い日の声が胸に蘇った。
『……ここ、好き』
『また来るの?』
『来る』
『来なくていいって言ってるでしょ』
『じゃあ毎日来る』
『……勝手にしなさい』
思い出して、口元が緩む。
本当に、しつこい人だった。
来なくていいと言っても、必ずやって来る。私が嫌な顔をすれば、面白そうに笑う。
そうして気づけば、彼が来る時間を待つようになっていた。
レオナルドが、こちらを見ている気配がした。
「……ここ、よく来てたの」
私は花々を見つめたまま、ぽつりと呟いた。
「……ひとりで?」
「違うわ」
その先は、言えなかった。
あなたと一緒だったのよ。何度も、何度も。
そう言ってしまえば、きっと泣いてしまうから。
「……風、強いな」
「そうね。いつも、こうだった」
――いつも。
何でもない言葉だった。けれど、彼が足元の斜面へ視線を落とした瞬間、胸の奥がひどくざわついた。
「……転んでたな、お前」
私は、思わず振り返った。
レオナルド自身も驚いた顔をしている。
……覚えているの?
「……そうね。よく見てたのね」
「笑ってたな。転んでるくせに」
「だって……楽しかったもの」
私は小さく笑った。
本当に、楽しかった。
転んで泥だらけになっても。レオナルドに呆れられても。あの人が隣にいてくれるだけで、何もかもが嬉しかった。
彼の表情が、少しずつ変わっていく。何かを探すように、私を見つめている。
「……何か、忘れてる気がする」
その声に、胸が冷たくなった。
——駄目。
ここへ連れてきたのは、私だ。思い出すかもしれないと、分かっていた。
それなのに、いざ彼が記憶へ近づこうとすると、怖くて堪らなかった。
「……そうね」
「だったら、教えてくれ。俺はここで、お前と何を——」
「それでいいの」
言葉を遮ると、レオナルドが息を呑んだ。
私はゆっくりと振り返り、彼を見つめる。
「楽しかったことだけ、覚えていれば」
それだけでいい。
私が術を使ったことも。あなたから記憶を奪ったことも。そのために何を失おうとしているのかも。
何も知らなくていい。
「……お前は、それでいいのかよ」
返事ができなかった。
よくなんて、ない。
本当は、全部思い出してほしい。私たちが一緒にいたことを。私を好きだと、何度も言ってくれたことを。最後に交わしたキスのことも。
……でも。
思い出してしまえば、あなたはまた私を追いかけてしまう。
だから、私は困ったように笑うことしかできなかった。
レオナルドが、こちらへ視線を向ける。
月明かりに照らされた私の身体が、少しずつ薄くなっている。もう、隠しきれないのだろう。
「……おい」
彼の声が、わずかに震えた。
私は何も答えなかった。答えようとしても、うまく息が吸えなかった。
「……グレース」
名前を呼ばれた。
その声を聞いた瞬間、胸の奥で何かがほどけた。
これまでも、レオナルドは何度か私の名前を呼んでいた。けれど、今の声は違った。
ただ公爵令嬢の名を呼ぶのではなく、目の前の私を失いたくないと願うような声だった。
「……やっと、呼んでくれた」
自然と笑みが零れた。
ああ。私は、ずっと待っていたのね。
もう一度、そんなふうに呼んでもらえることを。
嬉しかった。嬉しくて、泣きそうだった。
けれど、次の瞬間、身体からふっと力が抜けた。
足元が揺らぐ。倒れると気づいたときには、レオナルドが駆け寄ってきていた。
「グレース!」
強い腕が、私を抱きとめる。
久しぶりに触れた、あの温もり。けれど、その感覚はどこか遠かった。
「……大丈夫か。どこか痛むのか?」
レオナルドが顔を覗き込む。
私はゆっくりと目を開けた。
深海色の瞳。ずっと、会いたかった人。その人が今、私を抱きしめている。
……夢みたい。
「……ねえ、覚えてる?」
掠れた声で尋ねると、レオナルドは苦しそうに眉を寄せた。
「……全部は、まだだ」
その返事に、胸が痛んだ。
「でも、この場所は知ってる気がする。お前と何度も来て……くだらないことで言い合ってたんだろ」
私は小さく頷いた。
そうよ。何度も来たの。
「……お前、よく転んでたな」
「……ひどいわね」
「本当のことだろ。転んだくせに、いつも笑って……」
レオナルドの声が止まった。
いつも。
その言葉に、自分でも何かを感じたのだろう。
私は彼を見上げた。
「……そうね。楽しかったわ」
言い終えた途端、胸の奥がきゅっと痛んだ。
この人と過ごした時間は、本当に幸せだった。だから、失うのが怖い。
それでも私は、彼の腕の中で笑っていたかった。
「……なんで、言わなかったんだよ」
レオナルドの声が震える。
私は答えなかった。どう答えればいいのか、分からなかった。
あなたが好きだったから。あなたに、生きていてほしかったから。
そんな理由で記憶を奪ったと知ったら、きっと怒るでしょう。
私を抱く彼の腕に、わずかに力がこもる。
「……俺、ここが好きだったんだな」
「……そうよ」
私は頷いた。
レオナルドの頬を、涙が伝った。
「……なんでだよ」
何が起きているのか、彼にはまだ分からない。それでも、何かを失おうとしていることだけは感じ取っているのだろう。
「……お前、何をしたんだよ」
私は何も言えなかった。
「何が起きてるのか、ちゃんと教えてくれ。俺はまだ、何も——」
言葉が途切れた。
レオナルドが、頭を押さえる。
私は息を呑んだ。
——思い出してしまう。
その確信が、胸を貫いた。
彼の瞳に、次々と感情が浮かぶ。驚き、懐かしさ、そして、どうしようもないほどの悲しみ。
失われた記憶が、繋がっていく。
私たちが過ごした日々。交わした約束。あの夜のキス。
彼の中から消えていた私が、戻っていく。
その瞬間、身体の奥で何かが切れたような感覚がした。
——ああ。
全部、思い出してしまったのね。
「……グレース」
彼が、もう一度名前を呼んだ。
今度は、間違いなく、あの頃のレオナルドの声だった。
私は泣きそうになりながら微笑む。
「……ふふっ。よかった……」
「何が、よかったんだよ……!」
彼の声が震えた。
「俺の記憶を勝手に消して……こんなになるまで一人で抱え込んで……! やっと、やっと思い出したんだぞ……!」
その言葉に、胸が締めつけられる。
ごめんなさい。
そう言いたかった。けれど、もう声がうまく出なかった。
レオナルドが私を強く抱きしめる。
離れたくなかった。本当は、ずっとこうしていたかった。
けれど、私の身体から零れる銀色の光が、少しずつ増えている。
「……離して」
小さく呟くと、彼の腕が強張った。
「……嫌だ」
震える声だった。
「もう離さない。君のいない人生なんて……そんなものに、意味なんかない」
——そんなこと、言わないで。
そんなふうに言われたら、消えたくないと思ってしまう。あなたの傍にいたいと、縋りつきたくなってしまう。
私だって、同じなのに。
私はどうにか微笑んだ。
「……大丈夫よ。あなたは、忘れるわ」
レオナルドの顔から、血の気が引いた。
「……やめろ」
「忘れて……ちゃんと、生きていける」
「そんなわけないだろ……!」
私の頬へ触れようとした彼の手が、震えていた。
私はその手に、そっと自分の指先を重ねる。
……冷たい。
私の手が、もうあの温もりをうまく感じ取れなくなっている。
「もう離さないって、言っただろ……」
レオナルドの声が、ひどく掠れた。
「どこにも行くな。頼むから……俺の前から、いなくならないでくれ」
涙が頬を伝った。
——私も、行きたくない。
まだ、ここにいたい。レオナルドと一緒に、生きていたい。
けれど、言えなかった。言ってしまったら、本当に離れられなくなる。
私の肩から、淡い銀色の光が零れ始める。
レオナルドが息を呑んだ。
「……グレース?」
彼は慌てて腕に力を込めた。
「待て……待ってくれ……!」
その腕の中から、私の重みが少しずつ失われていく。
離れたくない。けれど、もう身体が言うことを聞かなかった。
私は最後の力を振り絞り、彼の胸元へ額を寄せた。
ああ。やっぱり、この人が好き。
何も覚えていないときも。私を悪女だと睨みつけていたときも。こうして全部を思い出し、泣きながら抱きしめてくれる今も。
ずっと。
「……愛してるわ」
耳元で囁くと、レオナルドの呼吸が止まった。
「誰よりも、何よりも——あなたを」
ようやく、言えた。
あの夜は、大好きだと何度も伝えた。けれど、もう一度だけ、今のあなたにちゃんと伝えたかった。
「……言うな。そんな、最後みたいに……言わないでくれ……」
私は微笑んだ。
泣きたかった。けれど、最後に見る私が泣き顔では、きっとこの人はもっと苦しくなる。
「あなたは、私の——」
「グレース……!」
最後まで言えなかった。
身体から溢れていた銀色の光が、一気に強く輝く。
レオナルドの腕が、私を抱きしめる。その温もりを、最後まで覚えていたかった。
——さようなら、レオ。
私の、大好きな人。
◇
ふっと、身体の重みが消えた。
痛みも、冷たさも、何もない。ただ、意識だけが、まだほんの少し残っていた。
眼下には、スイートピーの咲く丘が見える。その真ん中で、レオナルドが膝をついていた。
腕の中には、もう誰もいない。
「……グレース……」
私の名前を呼ぶ声が聞こえた。
彼は泣いていた。何度も名前を呼んでいた。
伝えたいことが、まだあったのに。私も、言いたいことがたくさんあったのに。
……ごめんね。
そう思った、そのときだった。
丘を風が吹き抜ける。薄紫の花が、一斉に揺れた。
レオナルドの表情が変わる。さっきまで剥き出しだった悲しみが、急速に困惑へ変わっていった。
「……俺は、どうしてここに……?」
彼が辺りを見回す。頬の涙を拭い、何が起きたのか分からないという顔をする。
——ああ。
私のことを、また忘れたのね。
そう思った瞬間、胸が痛んだ。
けれど、彼は生きている。今は、苦しそうに頭を押さえてもいない。
私のいない世界で、また歩き出せる。
……それで、いい。
そのときだった。
レオナルドが立ち上がろうとして、足元へ視線を落とした。
そこには、一枚の白い布があった。彼の上着の胸元から滑り落ちたらしい。
月明かりを受けた布の隅に、見覚えのある刺繍が見えた。
アシュフォード公爵家の紋章。二人の誕生花。そして、向かい合う二つの三日月。
——嘘。
私は息を呑んだ。
あのハンカチ。失くしたと思って、ずっと探していたもの。
どうして、レオナルドが持っているの。
彼は白い布を拾い上げ、四隅の刺繍を見つめた。
もう、誰が縫ったものなのかも分からないはずなのに、その手は布を離そうとしなかった。
「……どうして、泣いてるんだ……?」
レオナルドが呟く。
涙が、また頬を伝った。
私の名前も。私たちの約束も。全部、忘れてしまったのに。
あのハンカチだけは、まだ彼の手の中にあった。
……よかった。
渡せなかったはずの贈り物が、ようやくあなたの元へ届いていたのね。
私はもう、触れられない。どれだけ手を伸ばしても、あなたの頬を拭うことはできない。
けれど、その白い布が、あなたの涙を拭ってくれたらいい。
いつか、理由も分からないまま見つめたその刺繍に、少しでも温かいものを感じてくれたらいい。
——それだけで、いい。
意識が、少しずつ遠のいていく。
最後に見えたのは、ハンカチを握りしめたまま、誰もいない丘を見渡すレオナルドの姿だった。
忘れても、なお。
あなたは、私が贈りたかったものを手放さないでいてくれる。
……ありがとう、レオ。
そして、さようなら。
私の意識は、静かな暗闇へと沈んでいった。
——それでも。
忘れたくない記憶だけは、最後まで消えてくれなかった。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。
グレース視点で綴られてきた物語は、ひとまずここで終わりです。
次話からは、再びレオナルド視点へ戻ります。




