↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
悪女と呼ばれる公爵令嬢のことだけ、なぜか王太子は思い出せない〜忘れているはずなのに、いつだって君だけが特別だった〜  作者: はな
第二部:追憶の公爵令嬢──ときどき公爵令息

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
29/53

第29話 嫌われることでしか、守れない



 医務室の前まで辿り着いた私は、すぐには扉を開けられずにいた。


 レオナルドが倒れてから、いったいどれほどの時間が経ったのだろう。森から運ばれていく彼の姿が、何度も脳裏に浮かんでは消えていく。


 あの人は、私を庇った。


 記憶を失っているはずなのに、それでも私を守ろうとしてくれた。そして、その直後に頭を押さえて倒れたのだ。


 ——もし、思い出しかけていたのだとしたら。


 そう考えると、怖かった。けれど、彼がどうなったのか確かめずに帰ることなど、できるはずもない。


 私は廊下の壁に背を預け、わずかに開いた扉の向こうへ耳を澄ませた。


『脈も安定しています。軽い魔力過負荷による失神でしょう。意識も戻られたようですし——もう問題はありません』


 医務官の声が聞こえた。


「…………はぁ……」


 肺の奥に詰まっていた息が、ようやく零れ落ちる。


 よかった。本当に、よかった。


 少なくとも、今すぐ命に関わるような状態ではないらしい。以前のような高熱に苦しんでいるわけでもない。それだけで、張り詰めていた身体から力が抜けそうになった。


 けれど、安心しきることはできなかった。


 医務官が診断したのは、あくまで今の身体の状態だ。失われた記憶がどこまで戻りかけているのか。あの頭痛が禁術に関係しているのか。その答えまでは、分からない。


(……大丈夫。まだ、思い出したわけじゃない)


 私は、そう自分に言い聞かせた。


 レオナルドは、私のことを知らない。あの頃の記憶を持たず、私に近づく理由もない。このまま忘れていてくれれば、きっと——。


『本当に……怖かったのです。あの方の魔力で、また何か起きるのではと——』


 ソフィアの声が聞こえた瞬間、胸の奥が冷えた。


 森で彼女が落とした粉。直後に広がった、あの甘ったるい匂い。そして、私の魔力へ責任を向けるような叫び声。


 昨年の魔獣事件については、まだ確かな証拠がない。けれど、今回の異変まで偶然だと思うことは、もう難しかった。


 自分で何かを仕掛けたのだとしたら。レオナルドまで危険に晒しておきながら、今も被害者の顔をしているというの?


 怒りに指先が強張った、そのときだった。


『やめろ』


 低い声が、ソフィアの言葉を遮った。


 ——レオナルド。


 心臓が大きく跳ねる。


『……すまない。ただ、決めつけるのは早い』


 私は扉の隙間へ視線を向けた。


 どうして。


 あなたは、私のことを嫌っているのでしょう?


 あんなにも冷たい目を向けていたのに。それなのに、どうして今さら、私を庇うようなことを言うの。


 嬉しい、と思ってしまった。


 そのことが、何より怖かった。


 もう期待してはいけない。何度もそう決めたのに、たった一言で、昔の私に戻りそうになる。


 ——この人は、やっぱり私を見つけてしまう。


 扉の向こうへ目を向けたまま、私はそっと唇を噛んだ。


 これ以上ここにいてはいけない。もしレオナルドが私に気づいてしまったら、また何かを尋ねてくるかもしれない。


 私は音を立てないように踵を返し、その場を離れた。


◇


 人目のある廊下では、いつもどおりに歩いた。背筋を伸ばし、顔を上げ、誰とも目を合わせない。そうして平静を装いながら進んでいたが、中庭へ続く廊下の角を曲がった途端、胸がどうしようもなく苦しくなった。


 歩きながら、私は無意識にポケットへ手を入れた。指先に触れたのは、柔らかな白い布だった。入学式の日に渡すはずだった、刺繍入りのハンカチ。もう渡せないと分かっているのに、どうしても手放せずにいたものだ。


 私はその端を、そっと握りしめた。


 レオナルドは無事だった。そのことが嬉しくて、泣きたかった。けれど、彼がまた私を気にかけていたことが怖くて、同じくらい泣きたかった。


 中庭の入り口へ差しかかると、私は慌てて目元を拭い、ポケットから手を引き抜いた。そのとき、布の端が指先に引っかかったような気がした。けれど、今の私にはそんなことを気にする余裕などなく、そのまま中庭へ足を踏み入れた。


 人の気配が途切れたところで、ようやく足を止める。


「……っ、はぁ……」


 小さく息を吐く。誰もいない。ようやく、そう思えた。


 そのときだった。


「……おい。何か——」


「……っ!」


 肩が跳ねた。


 振り返らなくても、声の主が分かった。レオナルドだ。


 どうして。さっき意識を取り戻したばかりでしょう? まだ休んでいなければいけないはずなのに。それなのに、どうして追いかけてきてしまうの。


 私は慌てて息を整えた。泣きそうな顔なんて、見せられない。今の私を見られたら、きっと全部が崩れてしまう。


 ゆっくりと振り返り、いつもの冷たい表情を作った。


「どうして怪我人がここにいるのかしら。言ったはずよ、私に近づくな、と」


 ちゃんと、言えただろうか。


 レオナルドは私をまっすぐ見つめていた。その深海色の瞳に映る自分が、ひどく頼りないものに思えた。


 そんなふうに見ないで。心配そうな顔なんて、しないで。


「……心配して損した」


 低く零れた言葉が、胸の奥へ突き刺さった。


 ——心配して、追いかけてきてくれたのね。


 記憶を失っても。私のことを悪女だと思っていても。あなたは、私が一人で歩いていくのを放っておけなかったのね。


 嬉しかった。本当は、ありがとうと言いたかった。


 でも、駄目だ。


 私は指先を強く握り込み、平然とした顔を作った。


「余計なお世話よ」


 ぴしゃりと言い返すと、レオナルドの眉がわずかに寄った。その顔を見た瞬間、また胸が痛んだ。


 ごめんなさい。あなたが心配してくれたこと、分かっているのよ。


 でも、そんな優しさを受け取ってしまったら、私はまたあなたの傍にいたくなる。


「……本当に、分からない女だな」


 吐き捨てるような声だった。


 ——分からなくていい。


 あなたは、私を知らないままでいい。そうしていてくれれば、私も最後まで悪女でいられる。


 レオナルドは小さく息を吐くと、踵を返した。


 遠ざかっていく背中を見つめながら、私は追いかけたい衝動を必死に堪えた。名前を呼びたい。まだ身体が辛いでしょう、ちゃんと休んで、と昔のように小言を言いたい。


 けれど、何もできなかった。


 私はただ、黙ってその背中を見送った。


「……本当に、変わらないのね」


 小さく零れた声は、風に紛れて消えた。


 何度拒絶しても、私が傷ついていれば気づいてしまう。放っておけばいいのに、追いかけてきてしまう。


 そんなところまで、あの頃のままなのね。


 足音が遠ざかり、彼の姿が見えなくなった。その途端、張り詰めていたものが崩れ落ちた。


「……っ」


 私は壁へ手をついた。


 泣いては駄目。せっかく嫌われたのだから。あの人が自分から離れてくれたのだから。これでいいはずなのに。


「……やめてよ……」


 震える声が零れる。


 そんなふうに心配されたら、また期待してしまうじゃない。もう、戻れないのに。


 視界が滲み、涙が一粒、膝へ落ちた。私は慌てて涙を拭おうと、ポケットへ手を入れた。けれど、指先は何にも触れない。


「……え?」


 まさかと思い、もう一度ポケットの奥まで探った。反対側も確かめる。それでも、どこにもない。


「……嘘」


 白いハンカチが、消えていた。


 中庭へ来る途中、確かに触れたはずだった。そう思った瞬間、私は弾かれたように顔を上げる。


 ——まさか、あのとき?


 中庭の入り口で、ポケットから手を引き抜いたときのことが脳裏によみがえった。あのとき、布の端が指に引っかかったような気がしたのだ。


「……そんな……」


 探しに戻らなければならない。あれだけは、どうしても失くしたくなかった。


 私は震える手を強く握りしめ、来た道を振り返った。そして、廊下の先へ続く中庭の入り口に視線を向けた。


◇


 入学式に渡すつもりだった、あのハンカチ。


 アシュフォード公爵家の紋章に、二人の誕生花。そして、向かい合う二つの三日月。彼に持っていてほしくて、私はひと針ずつ縫い上げた。


 けれど渡せなくなってからは、私が持っていた。あの人が忘れてしまった日々を、私まで失くしてしまわないように。私たちが確かに一緒にいたことを、いつでも思い出せるように。


 それなのに。


「……どこ……?」


 私は震える手を握りしめ、中庭の入り口へ視線を向けた。


 あのとき落としたのなら、まだ近くにあるかもしれない。


 あれは、私の宝物なのに。誰にも渡せなくなってしまった、私だけの宝物なのに。


 今すぐ探しに戻ろうと、一歩踏み出しかけた。


 そのときだった。


「……これ、使え」


 静かな声とともに、目の前へ別のハンカチが差し出された。


「……エドガー」


 彼は困ったように眉を下げ、私を見つめていた。


「無理して笑うの、下手になってるぞ」

「……笑ってないわよ」

「そういうところだ」


 エドガーは小さく息を吐いた。


「……悪女らしく高笑いの練習をしてた頃の方が、まだマシだった」

「……っ」


 思わず顔を上げる。


 覚えていたのね。小説を片手に、一人で真剣に練習していた、あの頃のことを。


『おーっほっほ……』

『やめろ、全然向いてない』

『うるさいわね、私は真剣なの!』


 思い出した途端、泣いていたはずなのに、少しだけ笑いそうになった。


 あの頃からずっと、エドガーは私の無茶に付き合ってくれている。呆れながら、文句を言いながら、それでも私がレオナルドを守りたいと願うことだけは、否定しなかった。


 差し出されたハンカチを受け取る。


「……ありがとう」


 掠れた声でそう言うと、エドガーは私の前へしゃがみ込んだ。私の手元を見て、少しだけ眉をひそめる。


「……どうした。何か失くしたのか?」

「……ハンカチ」

「それなら、今渡しただろ」

「違うの。……あの、白い方」


 言葉にした途端、涙がまた溢れそうになった。


 エドガーの表情が変わる。あのハンカチのことを、彼も知っている。私がどんな思いで作ったのかも、結局レオナルドに渡せなかったことも。


「……どこで落としたか、分からなくて」


 笑おうとしたけれど、うまくできなかった。


「あとで探すわ。だから、大丈夫」


 そう言った私を見て、エドガーは苦しそうに息を吐いた。


「……見てられない」

「え……?」

「お前が、あいつのことで泣いてるのを」


 いつものエドガーとは違う声だった。低く、押し殺すような、必死に何かを堪えているような声音。


 私は呆然と、彼を見つめた。


「……俺じゃ、だめか」


 胸の奥が、きゅっと痛んだ。


「……エドガー」


 彼は自嘲するように、小さく笑った。


「別に、あいつの代わりになれるなんて思ってない。お前が今でも見てるのが、レオナルドだけだってことくらい、分かってる」


 私は何も言えなかった。


 この人は、知っている。私の願いも、秘密も。レオナルドのために、私が何を手放したのかも。


 全部知っているのに、こうして傍にいてくれる。


「……それでも。お前が一人で壊れていくのを、もう見てられないんだ。……だからせめて、お前を支える役くらい、俺にさせろよ」


 その言葉が、まっすぐ胸へ落ちてきた。


 私は唇を噛んだ。


 優しい人だと思う。私なんかに、こんなにも親身になってくれる人が、レオナルド以外にもいたのだと、今さらになって思い知らされる。


 けれど、私の心はずっと昔に、あの人へ持っていかれてしまっている。きっと、もう戻ってこない。


 それなのに、エドガーの優しさへ甘えていいのだろうか。


「……ごめんなさい。私、あなたに甘えてばかりね……」

「それでいい」


 迷いのない返事だった。


 その優しさが、苦しかった。


「……ずるいわ。こんな時に、そんなこと言うなんて」


 エドガーは答えなかった。


 私は視線を落とし、借りたハンカチを握りしめる。


「ごめんなさい……でも——ありがとう」


 それ以上は、どうしても言葉にならなかった。


 エドガーが、そっと私の肩へ手を伸ばす。壊れ物に触れるような、慎重な手つきだった。


 その温もりに触れた瞬間、堪えていた涙が、とうとう溢れ落ちた。


 エドガーは私を、そっと抱き寄せた。


 私は抵抗しなかった。彼の気持ちに応えられるわけではない。それでも今は、一人で立っていることさえ難しかった。


 エドガーは何も求めなかった。ただ、私が泣きやむまで、傍にいてくれた。


 ——ありがとう。


 声にならないまま、心の中で何度も繰り返す。


 けれど、目を閉じると浮かんでくるのは、やはりあの人の顔だった。


 私を忘れた、深海色の瞳。それでも追いかけてきてくれた、変わらない背中。


 ——レオ。


 お願いだから、もう私を追いかけないで。


 今度こそ、私のいない未来を歩いて。


 私がどれほどあなたを愛していても、あなたには、もう二度と知られなくていいのだから。





評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。