第29話 思い出さないで
「……レオナルド、もうやめろ。彼女に関わるなと言ったはずだ」
俺は、またしてもグレースの去り際を見つめて立ち尽くすレオナルドに、冷ややかな声をかけた。
本当は叫び出したかった。
——これ以上、彼女に近づくな、と。
かつて術を施す前、グレースは俺に言った。
『——もし失われた記憶を取り戻した場合、術者には重い代償があるとだけ記されていたの』
それが何を意味するのか、俺にも正確には分からない。
ただ一つだけ確かなのは——それは、彼女にとって決して軽いものではないということだ。
だから俺は、親友が彼女を「悪女」だと罵るたびに、胸を痛めながらも安堵していた。
最低だ。
俺は、彼女が嫌われることを望んでいる。
彼女を守るために。
だが最近、レオナルドの様子がおかしい。
「……エドガー。俺は、彼女を悪女だとは思えないんだ」
そう言って、レオナルドは自分の掌を見つめる。
あの日、無理やり彼女を助けようとした時の、彼女の震え。
その冷たさの奥にあった、どうしようもない必死さ。
レオナルドは、その「正体」を確かめようとしている。
「彼女が何を隠しているのか、俺が暴く。……このまま放っておけるわけがないだろう」
その瞳には、かつてグレースを見つめていた時と同じ、真っ直ぐな光が戻りつつあった。
それは本来なら、喜ぶべき変化だ。
だが俺は、それを素直に喜べなかった。
「……お前のその『正義感』が、誰かを追い詰めることもあるんだぞ」
思わず、棘のある言葉が漏れた。
レオナルドは驚いたように俺を見る。
俺だって、彼女を助けたい。
彼女の隣に立ちたい。
——いっそ、レオナルドから奪ってしまえたならと、何度思ったことか。
だが、彼女が命を懸けて守っているのは、俺じゃない。
自分を忘れ、自分を疎む、この「親友」なんだ。
「……とにかく、余計な詮索はするな。それは彼女の望みじゃない」
俺は踵を返し、先に医務室へ向かったグレースの後を追う。
ボロボロになった腕に包帯を巻くのは、いつも俺の役目だ。
だがその瞳が求めているものは、分かっている。
包帯を巻く俺の手ではない。
(レオナルド……お前が彼女を救おうとすればするほど、彼女は“壊れていく”)
俺は、この地獄のような状況を、ただ見ていることしかできない。
親友への裏切りと、想っている彼女の痛み。
その狭間で、俺は“何も知らないふりをする者”でいることしかできない。
たとえ彼女に「あなたは、私のたった一人の共犯者ね」と微笑まれるたびに、心が粉々に砕け散ったとしても。
◇◇◇
——最悪の班分けだった。
2年生になって初めての合同演習。
掲示板に貼り出された名前を見た瞬間、思わず目を疑ったくらいには。
王太子レオナルド・ヴァレンティア。
エドガー・ハーウェル。
グレース・アシュフォード。
そして──ソフィア・マルクス。
学園中の視線を集めるような高位貴族ばかりを集めた、あまりにも歪な第四班。
しかも、その中心にいるのが、よりにもよって私とレオナルドだなんて。
(……本当に最悪だわ)
思わず胸の内で呻いた。
この一年。
私は必死に、レオナルドから距離を取り続けてきた。
嫌われるために。
憎まれるために。
彼を私から遠ざけるために、ずっと“悪女”を演じ続けてきたのに。
合同演習なんて始まれば、嫌でも近くにいなければならない。
しかも──。
「……信じられませんわ。あのような『闇』の力を持つ方と同じ班になるなんて。レオナルド様、わたくし怖くてたまりませんの」
可憐に眉を下げ、ソフィアがレオナルドの腕にそっと縋り付く。
潤んだ瞳に震える声。
そしてか弱く怯えた少女そのものの仕草。
(……本当にお上手ですこと)
私は内心で、素直に感心してしまっていた。
流れるように自然に、男の庇護欲を刺激する角度まで計算し尽くされているような所作だった。
——なるほど。
こういう女が、本物の『悪女』なのだろう。
私なんて、「冷たい顔で睨む」「高圧的に言い放つ」「小説の悪女の台詞を丸暗記する」くらいしかしていないのに。
レベルが違う。
(この班分けだって、もしかして彼女が裏で動かしたのかしら……?)
いや、でも侯爵令嬢にそこまでできるの?
王妃様のお気に入りだし、あり得なくはない……のかしら。
……分からない。
けれど少なくとも、彼女は“自分をどう見せれば男が喜ぶのか”を完璧に理解している。
その点、私は——
(……ふふん。でも悪名の広まり方なら、私の圧勝だわ)
学園中に浸透した『不吉な闇の公爵令嬢』という噂。
冷酷。
高慢。
傲慢。
残忍。
ここまで綺麗に悪女像を築き上げたのだ。
私のバイブル、『没落令嬢セシリアの憂鬱』の研究成果が、ついに花開いたと言っていい。
そう、これは誇るべき成果。
本来なら満足するべきなのに。
──どうして少しだけ、胸が痛むのかしら。
レオナルドがソフィアに腕を掴まれている姿を見た瞬間、胸の奥がチクリと軋んだ。
嫌われるのは、望んだことのはずなのに。
彼が別の誰かを守ろうとする姿を見ると、どうしようもなく苦しくなる。
(……本当に、未練がましいわね)
私は小さく息を吐き、感情を押し殺した。
今はそんなことより、もっと重要な問題がある。
——ソフィア・マルクス。
エドガーから事前に聞かされていた。
『マルクス侯爵家が、学園内に妙な薬を持ち込んでいるらしい。お前を陥れる証拠を掴むまでは泳がせる。だから絶対に単独で動くな』
そして今——私の闇属性魔力は、ソフィアの懐に隠された“それ”を、はっきりと感知していた。
魔力誘発剤。
魔獣を興奮状態へ導く禁制品。
(……本当に持ち込んでいたのね)
私は目を細めた。
王妃のお気に入り。
侯爵家の令嬢。
可憐で優しく、将来の王太子妃候補。
周囲からはそう見えている少女の懐に、そんな危険物が隠されている。
レオナルドは気づいていない。
光属性持ちの彼には、闇寄りの魔力の気配を読むことができないから。
「……レオ、あまりこちらを見すぎるな。ソフィアが不安がっているだろう」
エドガーが低く割って入った。
わざと冷淡に。
わざと私を疎ましく扱うように。
レオナルドの注意を、私から逸らすための言葉だ。
そのまま自然に私の隣へ並び、すれ違いざまに小さく囁く。
『──グレース。ソフィアの手元を見ろ。来るぞ』
私は無言で頷いた。
空気が重い。
森の魔力の流れが、不自然にざわついている。
そして、目的地である『癒やしの泉』まであと少しというところで、ソフィアの指先が動いた。
何かを払うような仕草で、粉末状の魔力誘発剤が、風に溶ける。
(──来たわね)
次の瞬間だった。
「きゃああっ! 魔物が……グレース様の魔力に引き寄せられて……!」
悲鳴と同時に、森の奥からハウンド型魔獣が飛び出した。
鋭い牙に、血走った目。
完全に興奮状態だ。
ソフィアはレオナルドの背へ隠れるように身を寄せながら、ちらりとこちらを見る。
その目が、一瞬だけ笑った。
(……なるほど)
これが彼女の狙い。
闇属性の私に魔獣暴走の責任を押し付けるつもりなのだ。
——ならば、好都合。
ここで私が“暴走した闇魔法”で魔獣を叩き潰せば、ソフィアの不始末は完全に隠れる。
私はさらに嫌われる。
レオナルドは私から離れていく。
完璧な流れだ。
私は即座に掌へ闇を凝縮した。
「どいて」
黒い霧が渦を巻く。
これで終わらせる。
そう思った──その瞬間。
「──下がっていろ!」
「……え?」
眩い光が視界を切り裂き、思考が止まる。
光の剣を抜き放ち、魔獣へ斬りかかったのは——レオナルドだった。
どうして。
どうしてあなたが、前に出るの。
私を嫌っているはずでしょう。
「なっ……レオナルド様!? なぜそちらを助けるのですか!?」
ソフィアの悲鳴が響くが、レオナルドは振り返らずに真っ直ぐ、私だけを見る。
その深海色の瞳が、まるで昔みたいに私を映していて。
胸が苦しくなった。
「……なぜ」
震える声が漏れる。
お願いだから近づかないで。
そんなところに立たないで。
あなたの光が、私の闇に触れてしまう。
「近寄らないでと言ったでしょう! あなたは──っ!」
喉が詰まる。
脳裏に蘇るのは、幼い頃に聞いた医師の言葉。
『あの令嬢の闇属性魔力は、あまりにも強大すぎる。殿下の光属性と干渉し続ければ──いずれ、身体が耐えきれなくなります』
だから離れたのに。
だから忘れさせたのに。
なのに。
「……分からない。だが」
苦しそうに眉を寄せたまま、それでもレオナルドは私から目を逸らさなかった。
「君を傷つけてはいけないと、身体が勝手に動いたんだ」
心臓が止まりそうになった。
やめて。
そんなこと言わないで。
思い出さないで。
しかしその言葉を聞いた瞬間、胸の奥がひどく不規則に跳ねた。
(……っ)
一瞬だけ息が詰まり、思わず手を胸元に当てる。
心臓が、やけにうるさい。
理由は分からない。
ただ、ほんの一瞬だけ、何か大切なものに触れかけたような──そんな感覚だけが残っていた。
(……気のせい、よね)
私は小さく息を吐き、無理やりその違和感を押し込めた。
しかし次の瞬間。
「ぐっ……あ……っ!」
レオナルドが頭を押さえて膝をついた。
「レオナルド様!」
「レオナルド!」
ソフィアとエドガーが駆け寄る。
——動けなかった。
伸ばしかけた右手を、血が滲むほど強く握り締める。
今すぐ駆け寄りたい。
抱きしめたい。
大丈夫かと叫びたい。
でも、できない。
私が触れれば、私の闇が彼を壊すかもしれない。
(だめ……思い出さないで……)
お願いだから。
——私なんか忘れて。
幸せになって。
——私のいない場所で。
激痛に耐える彼を見つめながら、私は必死に悪女の仮面を貼り付け続けた。
泣きそうになる顔を隠して。
何も感じていないふりをして。
そして胸の奥では、別の感情が静かに煮えたぎっていた。
——ソフィア・マルクス。
あなたの浅はかな悪意のせいで、レオナルドが危険に晒された。
記憶を思い出しかけて、苦しんでいる。
(──あなたを、彼の隣には置いておけない)
たとえどれだけ嫌われてもいい。
化け物だと蔑まれても構わない。
私は静かに目を閉じた。
──レオナルドを壊すものを、絶対に許さない。




