第29話 嫌われることでしか、守れない
医務室の前まで辿り着いた私は、すぐには扉を開けられずにいた。
レオナルドが倒れてから、いったいどれほどの時間が経ったのだろう。森から運ばれていく彼の姿が、何度も脳裏に浮かんでは消えていく。
あの人は、私を庇った。
記憶を失っているはずなのに、それでも私を守ろうとしてくれた。そして、その直後に頭を押さえて倒れたのだ。
——もし、思い出しかけていたのだとしたら。
そう考えると、怖かった。けれど、彼がどうなったのか確かめずに帰ることなど、できるはずもない。
私は廊下の壁に背を預け、わずかに開いた扉の向こうへ耳を澄ませた。
『脈も安定しています。軽い魔力過負荷による失神でしょう。意識も戻られたようですし——もう問題はありません』
医務官の声が聞こえた。
「…………はぁ……」
肺の奥に詰まっていた息が、ようやく零れ落ちる。
よかった。本当に、よかった。
少なくとも、今すぐ命に関わるような状態ではないらしい。以前のような高熱に苦しんでいるわけでもない。それだけで、張り詰めていた身体から力が抜けそうになった。
けれど、安心しきることはできなかった。
医務官が診断したのは、あくまで今の身体の状態だ。失われた記憶がどこまで戻りかけているのか。あの頭痛が禁術に関係しているのか。その答えまでは、分からない。
(……大丈夫。まだ、思い出したわけじゃない)
私は、そう自分に言い聞かせた。
レオナルドは、私のことを知らない。あの頃の記憶を持たず、私に近づく理由もない。このまま忘れていてくれれば、きっと——。
『本当に……怖かったのです。あの方の魔力で、また何か起きるのではと——』
ソフィアの声が聞こえた瞬間、胸の奥が冷えた。
森で彼女が落とした粉。直後に広がった、あの甘ったるい匂い。そして、私の魔力へ責任を向けるような叫び声。
昨年の魔獣事件については、まだ確かな証拠がない。けれど、今回の異変まで偶然だと思うことは、もう難しかった。
自分で何かを仕掛けたのだとしたら。レオナルドまで危険に晒しておきながら、今も被害者の顔をしているというの?
怒りに指先が強張った、そのときだった。
『やめろ』
低い声が、ソフィアの言葉を遮った。
——レオナルド。
心臓が大きく跳ねる。
『……すまない。ただ、決めつけるのは早い』
私は扉の隙間へ視線を向けた。
どうして。
あなたは、私のことを嫌っているのでしょう?
あんなにも冷たい目を向けていたのに。それなのに、どうして今さら、私を庇うようなことを言うの。
嬉しい、と思ってしまった。
そのことが、何より怖かった。
もう期待してはいけない。何度もそう決めたのに、たった一言で、昔の私に戻りそうになる。
——この人は、やっぱり私を見つけてしまう。
扉の向こうへ目を向けたまま、私はそっと唇を噛んだ。
これ以上ここにいてはいけない。もしレオナルドが私に気づいてしまったら、また何かを尋ねてくるかもしれない。
私は音を立てないように踵を返し、その場を離れた。
◇
人目のある廊下では、いつもどおりに歩いた。背筋を伸ばし、顔を上げ、誰とも目を合わせない。そうして平静を装いながら進んでいたが、中庭へ続く廊下の角を曲がった途端、胸がどうしようもなく苦しくなった。
歩きながら、私は無意識にポケットへ手を入れた。指先に触れたのは、柔らかな白い布だった。入学式の日に渡すはずだった、刺繍入りのハンカチ。もう渡せないと分かっているのに、どうしても手放せずにいたものだ。
私はその端を、そっと握りしめた。
レオナルドは無事だった。そのことが嬉しくて、泣きたかった。けれど、彼がまた私を気にかけていたことが怖くて、同じくらい泣きたかった。
中庭の入り口へ差しかかると、私は慌てて目元を拭い、ポケットから手を引き抜いた。そのとき、布の端が指先に引っかかったような気がした。けれど、今の私にはそんなことを気にする余裕などなく、そのまま中庭へ足を踏み入れた。
人の気配が途切れたところで、ようやく足を止める。
「……っ、はぁ……」
小さく息を吐く。誰もいない。ようやく、そう思えた。
そのときだった。
「……おい。何か——」
「……っ!」
肩が跳ねた。
振り返らなくても、声の主が分かった。レオナルドだ。
どうして。さっき意識を取り戻したばかりでしょう? まだ休んでいなければいけないはずなのに。それなのに、どうして追いかけてきてしまうの。
私は慌てて息を整えた。泣きそうな顔なんて、見せられない。今の私を見られたら、きっと全部が崩れてしまう。
ゆっくりと振り返り、いつもの冷たい表情を作った。
「どうして怪我人がここにいるのかしら。言ったはずよ、私に近づくな、と」
ちゃんと、言えただろうか。
レオナルドは私をまっすぐ見つめていた。その深海色の瞳に映る自分が、ひどく頼りないものに思えた。
そんなふうに見ないで。心配そうな顔なんて、しないで。
「……心配して損した」
低く零れた言葉が、胸の奥へ突き刺さった。
——心配して、追いかけてきてくれたのね。
記憶を失っても。私のことを悪女だと思っていても。あなたは、私が一人で歩いていくのを放っておけなかったのね。
嬉しかった。本当は、ありがとうと言いたかった。
でも、駄目だ。
私は指先を強く握り込み、平然とした顔を作った。
「余計なお世話よ」
ぴしゃりと言い返すと、レオナルドの眉がわずかに寄った。その顔を見た瞬間、また胸が痛んだ。
ごめんなさい。あなたが心配してくれたこと、分かっているのよ。
でも、そんな優しさを受け取ってしまったら、私はまたあなたの傍にいたくなる。
「……本当に、分からない女だな」
吐き捨てるような声だった。
——分からなくていい。
あなたは、私を知らないままでいい。そうしていてくれれば、私も最後まで悪女でいられる。
レオナルドは小さく息を吐くと、踵を返した。
遠ざかっていく背中を見つめながら、私は追いかけたい衝動を必死に堪えた。名前を呼びたい。まだ身体が辛いでしょう、ちゃんと休んで、と昔のように小言を言いたい。
けれど、何もできなかった。
私はただ、黙ってその背中を見送った。
「……本当に、変わらないのね」
小さく零れた声は、風に紛れて消えた。
何度拒絶しても、私が傷ついていれば気づいてしまう。放っておけばいいのに、追いかけてきてしまう。
そんなところまで、あの頃のままなのね。
足音が遠ざかり、彼の姿が見えなくなった。その途端、張り詰めていたものが崩れ落ちた。
「……っ」
私は壁へ手をついた。
泣いては駄目。せっかく嫌われたのだから。あの人が自分から離れてくれたのだから。これでいいはずなのに。
「……やめてよ……」
震える声が零れる。
そんなふうに心配されたら、また期待してしまうじゃない。もう、戻れないのに。
視界が滲み、涙が一粒、膝へ落ちた。私は慌てて涙を拭おうと、ポケットへ手を入れた。けれど、指先は何にも触れない。
「……え?」
まさかと思い、もう一度ポケットの奥まで探った。反対側も確かめる。それでも、どこにもない。
「……嘘」
白いハンカチが、消えていた。
中庭へ来る途中、確かに触れたはずだった。そう思った瞬間、私は弾かれたように顔を上げる。
——まさか、あのとき?
中庭の入り口で、ポケットから手を引き抜いたときのことが脳裏によみがえった。あのとき、布の端が指に引っかかったような気がしたのだ。
「……そんな……」
探しに戻らなければならない。あれだけは、どうしても失くしたくなかった。
私は震える手を強く握りしめ、来た道を振り返った。そして、廊下の先へ続く中庭の入り口に視線を向けた。
◇
入学式に渡すつもりだった、あのハンカチ。
アシュフォード公爵家の紋章に、二人の誕生花。そして、向かい合う二つの三日月。彼に持っていてほしくて、私はひと針ずつ縫い上げた。
けれど渡せなくなってからは、私が持っていた。あの人が忘れてしまった日々を、私まで失くしてしまわないように。私たちが確かに一緒にいたことを、いつでも思い出せるように。
それなのに。
「……どこ……?」
私は震える手を握りしめ、中庭の入り口へ視線を向けた。
あのとき落としたのなら、まだ近くにあるかもしれない。
あれは、私の宝物なのに。誰にも渡せなくなってしまった、私だけの宝物なのに。
今すぐ探しに戻ろうと、一歩踏み出しかけた。
そのときだった。
「……これ、使え」
静かな声とともに、目の前へ別のハンカチが差し出された。
「……エドガー」
彼は困ったように眉を下げ、私を見つめていた。
「無理して笑うの、下手になってるぞ」
「……笑ってないわよ」
「そういうところだ」
エドガーは小さく息を吐いた。
「……悪女らしく高笑いの練習をしてた頃の方が、まだマシだった」
「……っ」
思わず顔を上げる。
覚えていたのね。小説を片手に、一人で真剣に練習していた、あの頃のことを。
『おーっほっほ……』
『やめろ、全然向いてない』
『うるさいわね、私は真剣なの!』
思い出した途端、泣いていたはずなのに、少しだけ笑いそうになった。
あの頃からずっと、エドガーは私の無茶に付き合ってくれている。呆れながら、文句を言いながら、それでも私がレオナルドを守りたいと願うことだけは、否定しなかった。
差し出されたハンカチを受け取る。
「……ありがとう」
掠れた声でそう言うと、エドガーは私の前へしゃがみ込んだ。私の手元を見て、少しだけ眉をひそめる。
「……どうした。何か失くしたのか?」
「……ハンカチ」
「それなら、今渡しただろ」
「違うの。……あの、白い方」
言葉にした途端、涙がまた溢れそうになった。
エドガーの表情が変わる。あのハンカチのことを、彼も知っている。私がどんな思いで作ったのかも、結局レオナルドに渡せなかったことも。
「……どこで落としたか、分からなくて」
笑おうとしたけれど、うまくできなかった。
「あとで探すわ。だから、大丈夫」
そう言った私を見て、エドガーは苦しそうに息を吐いた。
「……見てられない」
「え……?」
「お前が、あいつのことで泣いてるのを」
いつものエドガーとは違う声だった。低く、押し殺すような、必死に何かを堪えているような声音。
私は呆然と、彼を見つめた。
「……俺じゃ、だめか」
胸の奥が、きゅっと痛んだ。
「……エドガー」
彼は自嘲するように、小さく笑った。
「別に、あいつの代わりになれるなんて思ってない。お前が今でも見てるのが、レオナルドだけだってことくらい、分かってる」
私は何も言えなかった。
この人は、知っている。私の願いも、秘密も。レオナルドのために、私が何を手放したのかも。
全部知っているのに、こうして傍にいてくれる。
「……それでも。お前が一人で壊れていくのを、もう見てられないんだ。……だからせめて、お前を支える役くらい、俺にさせろよ」
その言葉が、まっすぐ胸へ落ちてきた。
私は唇を噛んだ。
優しい人だと思う。私なんかに、こんなにも親身になってくれる人が、レオナルド以外にもいたのだと、今さらになって思い知らされる。
けれど、私の心はずっと昔に、あの人へ持っていかれてしまっている。きっと、もう戻ってこない。
それなのに、エドガーの優しさへ甘えていいのだろうか。
「……ごめんなさい。私、あなたに甘えてばかりね……」
「それでいい」
迷いのない返事だった。
その優しさが、苦しかった。
「……ずるいわ。こんな時に、そんなこと言うなんて」
エドガーは答えなかった。
私は視線を落とし、借りたハンカチを握りしめる。
「ごめんなさい……でも——ありがとう」
それ以上は、どうしても言葉にならなかった。
エドガーが、そっと私の肩へ手を伸ばす。壊れ物に触れるような、慎重な手つきだった。
その温もりに触れた瞬間、堪えていた涙が、とうとう溢れ落ちた。
エドガーは私を、そっと抱き寄せた。
私は抵抗しなかった。彼の気持ちに応えられるわけではない。それでも今は、一人で立っていることさえ難しかった。
エドガーは何も求めなかった。ただ、私が泣きやむまで、傍にいてくれた。
——ありがとう。
声にならないまま、心の中で何度も繰り返す。
けれど、目を閉じると浮かんでくるのは、やはりあの人の顔だった。
私を忘れた、深海色の瞳。それでも追いかけてきてくれた、変わらない背中。
——レオ。
お願いだから、もう私を追いかけないで。
今度こそ、私のいない未来を歩いて。
私がどれほどあなたを愛していても、あなたには、もう二度と知られなくていいのだから。




