第27話 黄金の指輪
学園の創立記念祭の日、華やかに飾りつけられた展示室には、普段よりも多くの人が集まっていた。厳重に保管されている王家の宝具が、この日だけ特別に公開されているのだという。
私も一応見ておこうと思い、展示室へ足を運んだ。けれど、入って間もなく、胸の奥に妙な違和感を覚える。
(……何かしら)
闇の魔力が、何かを警戒しているようだった。
視線を巡らせた私は、やがて一つの展示ケースの前で足を止める。そこに収められていたのは、黄金の指輪だった。王家に代々伝わり、持ち主の魔力を増幅させる宝具だと説明されている。
けれど、私には別のものが見えていた。
金色の輝きの奥に、どす黒い魔力が絡みついている。まるで、何かを待ち構えているかのように。
(……嘘)
私は息を呑んだ。
あれは、ただの魔力増幅の宝具ではない。王家の魔力へ向けられた、恐ろしく濃い呪いだ。
いつ、誰が仕込んだものなのかは分からない。けれど、あの呪いが宝具に紛れていることだけは間違いなかった。
そして、そんな指輪へ近づいている人物がいた。
金色の髪。深海色の瞳。
見間違えるはずもない。レオナルドだった。
彼は指輪を見つめながら、ゆっくりと手を伸ばそうとしている。その表情には、どこか不自然なほどの集中が浮かんでいた。
——駄目。
胸の奥が凍りつく。
あの指輪に触れれば、彼の光属性の魔力が呪いへ取り込まれるかもしれない。最悪の場合、魔力回路そのものが傷つく可能性だってある。
せっかく元気になったのに。私を忘れて、ようやく何の憂いもなく生きられるようになったのに。
そんなものに、また未来を奪われるなんて。
絶対に嫌だった。
私は考えるより先に、彼と指輪の間へ割り込んでいた。
「──汚い手で触らないでくださる?」
冷たく言い放つと同時に彼の手を遮り、展示ケースから指輪を取り上げる。
間に合った。少なくとも、レオナルドが呪いへ触れることだけは防げた。
そう思ってほっとしかけた、そのときだった。
「グレース・アシュフォード……」
名前を呼ばれ、心臓が跳ねる。
顔を上げると、レオナルドが呆然と私を見つめていた。あの夜、最後まで私の名前を呼ぼうとしてくれた人。
けれど今、その瞳にかつてのような親しみはない。
……そうよね。
私はもう、あなたにとって何でもない人間なのだから。
込み上げかけた感情を押し殺し、私は指輪を持ち上げた。
「気に入ったわ。……私の方が、この輝きに相応しいと思いませんこと?」
できる限り傲慢に微笑みながら、彼の目の前で指輪を嵌める。
——っ!
その瞬間、冷たいものが指先から流れ込んできた。指輪の奥に潜んでいた呪いが、私の魔力を捉えようとしている。
私は即座に闇の魔力を流し込み、呪いの進行を押しとどめた。ぱちり、と黒い火花が散る。
痛い。冷たい。
指先から腕の奥へ、鋭い痛みが駆け上がってくる。けれど、ここで顔を歪めるわけにはいかなかった。
レオナルドに気づかれれば、きっと何が起きたのか確かめようとする。そうなれば、せっかく遠ざけた指輪へ、再び彼の注意を向けてしまう。
私は唇の端を持ち上げ、何でもないことのように微笑んだ。
「……お前が触れていいものじゃない。……軽々しく扱うな」
レオナルドの声だった。冷たく、突き放すような声。
分かっている。王家の宝具を無断で持ち出したのだから、当然の反応だ。彼には、私がただの強欲な悪女に見えているのだろう。
それでいい。
そうなるように、私が仕向けたのだから。
……なのに。
胸の奥が、指輪の呪いよりも鋭く痛んだ。
以前のレオナルドなら、私の様子がおかしいことに気づいただろう。顔を覗き込んで、何があったのか尋ねてくれたはずだ。そしてきっと、私が何を隠していても、最後には手を伸ばしてくれた。
けれど今は、違う。
私は痛みを隠したまま、あっさりと頷いてみせた。
「ええ、そうですわね」
レオナルドの瞳が、わずかに揺れた気がした。けれど、もう見ていられなかった。
私は指輪を嵌めたまま、彼へ背を向ける。
呼び止められたら、どうしよう。今度こそ、何かを問いただされたら。
そんなことを考えながら歩いたけれど、背後から声がかかることはなかった。
……これでいい。
王太子に相応しくない、強欲な悪女。あの人にとって、私はそれでいい。
ただ、人混みに紛れて展示室を出るまで、右腕を襲う痛みは少しも治まらなかった。
◇
廊下の角を曲がり、レオナルドの視界から完全に外れたところで、私は壁へ手をついた。
「……っ、あ……!」
堪えていた声が漏れる。
指輪を嵌めた左手から、黒い痣が腕を這い上がっていた。凍りつくような冷たさと、魔力回路を内側から引き裂かれるような激痛が、全身を駆け巡る。
私は奥歯を噛み締め、指輪へ魔力を流し込み続けた。
展示室で流し込んだ闇は、呪いを押さえつけていただけだ。まだ、完全には消えていない。
このまま指輪を戻せば、また誰かが触れてしまう。そして、次に触れるのがレオナルドだったら——。
「……そんなの、絶対に……っ」
私は壁に肩を預け、残っていた魔力を指輪へ集中させた。
呪いが抵抗するたびに、左腕が激しく痛む。それでも、少しずつ黒い魔力を削り取っていく。
もう少し。あと少しだけ。
「……グレース!」
聞き慣れた声が響いた。
顔を上げると、エドガーがこちらへ駆け寄ってくるところだった。
「お前、何を——」
彼の視線が、私の左腕で止まる。
「……っ、何だ、その腕……!」
「……大丈夫、よ」
「どこが大丈夫なんだ!」
珍しく声を荒らげられたけれど、返事をする余裕はなかった。今、魔力を途切れさせるわけにはいかない。
エドガーもそれに気づいたのか、私の手元へ視線を落とした。
「……その指輪、まさか」
私は小さく頷く。
「……呪いが、かかってるの」
「呪い?」
「レオナルドが……触れようとしてたから……」
エドガーの表情が強張った。
私の闇が、指輪の奥に残っていた呪いへ食い込んでいく。最後の抵抗のように、黒い魔力が腕を締めつけた。
「……っ!」
「グレース!」
呼ばれても、止められなかった。ここで手を離せば、すべてが無駄になる。
私は残った魔力を一気に流し込んだ。
指輪の奥で、何かが砕けるような感覚がした。次の瞬間、まとわりついていた黒い気配が、ふっと消える。
そこに残ったのは、ただの金色の指輪だった。もう、先ほどまでの禍々しい魔力は感じられない。
「……終わった……」
そう呟いた途端、膝から力が抜けた。床へ崩れ落ちかけた身体を、エドガーが抱きとめる。
「……馬鹿か、お前は……!」
ひどく怒った声だった。
「呪具だと気づいてたなら、なぜ俺に言わなかった! 事前に分かっていれば、他の対策だって……!」
「……無理、よ……」
私は息を整えようとしたけれど、うまくいかなかった。
「レオナルドが……手を伸ばしてたの。……間に合わなくなる、ところだったから……」
エドガーは何も言わなかった。ただ、私の左腕を見つめる表情が、ますます険しくなる。
「……あの人の魔力回路に、もしものことがあったら……嫌だもの」
「……っ」
「もう、あの人から……何も奪いたくないの」
ようやくレオナルドは、元気になった。私を忘れて、以前のように生きている。
あの人が積み上げてきたものも、これから手にするはずの未来も、もう二度と私の目の前で壊れてほしくなかった。
「……お前の頭の中には、あいつのことしかないのかよ」
エドガーが、絞り出すように言った。
私は顔を上げる。彼は唇を噛み締め、ひどく悔しそうな顔をしていた。
「……壊れていくお前を、見ているしかできない俺の気持ちはどうなるんだよ」
その言葉に、思わず目を瞬く。
エドガーはいつも冷静で、私がどれだけ無茶をしても、最後には呆れながら助けてくれる人だった。そんな彼が、今は怒っている。
……私のために。
「……ごめんなさい」
そう答えると、エドガーは苦しそうに顔を歪めた。
「謝ってほしいわけじゃない」
「……分かってる、けど……」
今は、それしか言えなかった。
私は彼に支えられながら、指輪へ視線を落とす。呪いは消えている。あとは、元の場所へ戻せばいい。
「……これ、展示室に返してきて……」
エドガーが眉をひそめた。
「……今からか?」
「ええ。……私は、飽きたから捨てたって……そう伝えて」
少しだけ笑ってみせる。
「王家の宝具を勝手に持ち出して、飽きたら放り出す……。完璧な悪女でしょう?」
「……お前なぁ」
「『没落令嬢セシリアの憂鬱』でも、悪女は王家の宝を盗んで不敬罪になるのよ……」
「だからって、参考にするところがおかしいだろ……!」
呆れた声だった。それでも私は、少しだけ満足していた。
レオナルドの目には、私がただの強欲な女として映ったはずだ。彼は、私が何をしていたのか知らない。
知らなくていい。
……あの人が、無事なら。
「……完璧な悪女ムーブだわ……」
何とかそう呟くと、エドガーは深いため息を吐いた。
「……本当に、馬鹿な女だ」
彼の手が、私の額に滲んだ汗をそっと拭う。その手のひらが、ひどく温かかった。
「いいから、もう喋るな。お前のくだらない悪女ごっこには、最後まで付き合ってやる」
「……くだらないとは、失礼ね……」
「こんな状態でも言い返すのかよ」
エドガーは呆れたように言いながら、私を横抱きに抱え上げた。
恥ずかしいから下ろしてと言いたかったけれど、もう声を出す気力も残っていなかった。彼は人目を避けながら、私を保健室へ急いで運んでいく。
遠ざかる意識の中で、私はそっと目を閉じた。
——レオに、傷がつかなくてよかった。
それだけが、胸の奥に残っていた。
◇
翌日、指輪は展示室へ戻された。もちろん、もう呪いは残っていない。
エドガーが取り計らってくれたおかげで、私が「飽きたから捨てた」という形になったらしい。
それを聞いたレオナルドは、
『どこまで人を馬鹿にすれば気が済むんだ』
と、吐き捨てたそうだ。
エドガーからそう報告されたとき、私は思わず胸を押さえた。
……そう。
嫌ってくれたのね。
これなら、きっと大丈夫。もう、私に関わろうとは思わないでしょう。
そう考える一方で、あの人が指輪へ手を伸ばしたときの表情が、どうしても気になっていた。何かに引き寄せられているような、あの不自然な眼差し。
呪いが消えた今となっては、確かめようもない。ただ、あの指輪に二度とレオナルドが触れることはない。
それだけは、確かだった。
◇
それから、レオナルドとは一度もまともに言葉を交わせないまま、一年生は終わった。
廊下ですれ違っても、彼は私を避ける。私もまた、彼と目が合えば冷たい顔をして通り過ぎるようになっていた。
これでいい。もう、余計な接触はしない。
私が悪女でいる限り、あの人は私を遠ざけてくれる。
……そう、思っていた。
けれど、進級して間もなく発表された、二年生最初の合同演習の班分けを見た瞬間、私は思わず目を疑った。
掲示板に貼り出された名前の中に、レオナルドと私、そしてエドガーとソフィアの名が並んでいたのだ。
よりにもよって、同じ班だった。
(……最悪だわ)
合同演習となれば、嫌でも一緒に行動することになる。これまでのように、遠くから嫌われているだけでは済まない。
私は悪女の仮面を被り直すように、そっと背筋を伸ばした。
隣では、同じ掲示板を見ていたエドガーが、小さく息を吐く。
「……面倒なことになったな」
その横顔は、わずかに強張っていた。
私は小さく頷く。
——今度こそ、ボロを出すわけにはいかない。
あの人が私を忘れたまま、幸せに生きていけるように。
私は、もっと完璧な悪女にならなくてはならないのだから。




