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悪女と呼ばれる公爵令嬢のことだけ、なぜか王太子は思い出せない  作者: はな
第二部:追憶の公爵令嬢──ときどき公爵令息

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第26話 悪女はこうして生まれた



 隠し通路へ続く王城の奥を、私は息を潜めるように進んだ。


 抜け道の出入り口のところまで来たところで、暗闇の中に人影があることに気づいて、私は息を呑んだ。


「……終わったのか」


 低く、聞き慣れた声だった。

 窓辺の月明かりに照らされていたのは、腕を組んで壁に背を預けているエドガーだった。


「エドガー……。どうしてここに」

「レオナルドの様子が気になってな。……それと、お前のこともだ」


 いつもなら、彼に対しても少し突っぱねた態度を取っていただろう。

 けれど、今の私にはそんな気力さえ残っていなかった。

 張り詰めていた糸が切れたように、深く、重いため息が溢れる。


「……ええ。終わったわ。これで、全部」


 消え入りそうな声で呟き、私はその場にへたり込みそうになる足を、なんとか持ち堪えさせた。


「……明日からは私、最悪の『悪女』として、あなたの主君を徹底的に拒絶してあげる。だから安心して」


 私の言葉に、エドガーは反論しなかった。


 エドガーはそんな私をじっと見つめ、静かに距離を詰めると、その硬い表情のまま目の前に立ち止まった。


「……よくやったな」


 エドガーは大きな手で、そっと包み込むように私の頭に手を置いた。


 ぽん、と。かつてレオナルドがしてくれたのとは違う、不器用で、けれど酷く優しい温度が頭頂から伝わってくる。


「お前は、あいつのために全部を捨てた。……頑張ったな、グレース」


 アシュフォード公爵家での孤独も、闇属性としての苦しみも。

 そして、レオナルドが私にとって世界のすべてだったことも。


 ずっと近くで見てきたエドガーだからこそ、私が今、自分の命より大切なものを手放したのだと、誰より理解してくれていた。


 その不器用な温もりが、今の私にはどうしようもなく優しかった。


「っ……」


 その一言が、私の胸の奥に辛うじて残っていた防壁を、一瞬で粉々に砕いた。


 ──ダメ。泣いては、ダメなのに。


 これまで誰にも言われなかった、『頑張った』という全肯定の言葉。

 それが、私の我慢の限界だった。

 

 エドガーの手が離れるのと同時に、私の目から大粒の涙が溢れ出す。


 両手で顔を覆い、子供のように声を上げて泣きじゃくる私を、エドガーは何も言わずに、ただ私が落ち着くまで静かにそばにいてくれた。


 その不器用な沈黙の温かさが、今の私にはどうしようもなく有り難かった。


◇◇◇


 嗚咽を漏らし、小さな身体を震わせて泣き続けるグレースを、エドガーはただじっと見守っていた。


 いつも冷徹で、プライドが高くて、誰の手も借りずに生きてきたはずの少女が、親友のためにすべてを投げ出してボロボロになっている。


 もし、いつものレオナルドがここにいたら。

 『俺の女に何触ってんだ』って、間違いなく怒り狂って俺を殴り飛ばしに来ていただろう。


 だけど、あいつはもう、自分の意志でこの手を伸ばすことはない。


 グレースという存在を忘れてしまったのだから。


(……反則だろ、こんなの)


 涙に濡れた彼女の横顔が、驚くほど、痛々しいほどに美しくて。


 目を逸らさなければいけないと分かっているのに、どうしても逸らせなかった。


 そのときエドガーの胸の奥で、カチリ、と何かが音を立てた。


 ——あいつが忘れてしまうこの光を、俺が代わりに、一生かけて守る。


 親友の最愛の女性。

 もう二度と、親友と結ばれることのない、世界で一番孤独な女の子。


 この溢れそうな想いは、生涯、胸の奥底に隠し通さなければいけない。


 ——いつかその誓いが、狂おしいほどの熱量で決壊する日が来ることなど、今の彼はまだ知る由もなかった。


 それが、エドガーが生涯をかけて隠し通すと決めた、不器用で切ない恋心の始まりだった。



 それから数日後。

 人目を忍んで私に接触してきたエドガーは、ひどく複雑な表情で私に現実を告げた。


「……レオナルドが目を覚ました。高熱も完全に下がって、医者も驚いている」

「そう……よかったわ」

「だが」


 エドガーはそこで一度、言葉を詰まらせた。


「あいつの机の上にあったお前の資料を見て、『これは誰の報告書だ? アシュフォード家にこんな令嬢がいたか?』と、怪訝そうに聞いてきた。……本当に、お前のことだけを綺麗に忘れている」


 その言葉を聞いた瞬間、私の胸の奥からせり上がってくる感情に、視界が完全に奪われた。


 わかっていた。

 術が成功したなら、そうなるのだと分かっていた。


 けれど——本当に記憶が消えたということは。

 あの『最愛記憶消去』の術が、完璧に発動したということは。


 レオナルドにとって、私が『世界で誰よりも愛した唯一の存在』だったと、今、この残酷な結果によって証明されてしまったのだ。


「……っう、あ……っ、ぁ……!」


 悲しくて、胸が張り裂けそうなのに、どうしようもなく嬉しかった。


 こんな形でしか、彼の愛の深さを知れないなんて。


 私は彼を救うために記憶を奪ったのに、彼は私の想像を絶するほどの深い愛を、その心に刻んでくれていたのだ。


 こみ上げる涙を止められない私を、エドガーは静かに見守り、そして言った。


「グレース。これからは俺が定期的にあいつの様子を伝える。お前一人が悪女を背負う必要はない。俺が、お前の『共犯者』になってやる」


 ——そうして、私はレオナルドを陰から守るための『共犯者』を得た。


 あとは学園に入学し、彼の前で完璧な『悪女』を演じて彼を遠ざけるだけ。


 ……だったのだけれど。


 ここにきて、私はある重大な問題に直面していた。


「……『悪女』って、一体どうやればいいのよ」


 今までアシュフォードの離れで、まともな人間関係も築かずに孤独に育ってきた私には、「人を虐げる」とか「嫌われる」という高度な技術の正解がさっぱり分からなかった。


 悩んだ末、私はエドガーに頼んで、市井で流行っているという『悪徳令嬢が最後に没落する恋愛小説』をいくつか密かに買い集めてもらった。


 実戦のための参考書だ。


『おーっほっほ! 貴方のような身分の低い方が、殿方の隣にふさわしいとでも思って?』


 ……台詞回しが独特すぎる。


 離れの部屋で、一人で小説の台詞を真似して「おーっほっほ……」と呟いてみるけれど、どう聴いても喉に何かが詰まったような声しか出ない。


 そもそも私は扇子の正しい仰ぎ方すら知らないのだ。


「……何をしてるんだ、お前は」


 定期連絡のために隠し通路から現れたエドガーに、大真面目に高笑いの練習をしているところを見られ、もの凄く哀れみのこもった目を向けられた。


「笑わないでよ、私は必死なの! レオナルドに完璧に嫌われなきゃいけないのよ!?」

「いや、悪女はそんな変な笑い方はしない。……普通に、いつも通りツンツンして冷たく突き放せば十分あいつは傷つくから、そのままでいろ」

「それでは足りないの。……レオナルドが、自分から私を捨てたくなるくらいの“悪女”にならなきゃ意味がないの」


 闇属性というだけで、人は勝手に私を恐れ、避けていく。

 何もしなくても『不吉な公爵令嬢』だと陰で囁かれ、嫌厭されることには、もう慣れていた。


 けれど、それだけでは駄目なのだ。


「闇魔法で攻撃しても、冷たく突き放しても、レオナルドは私に近づいてきたのよ……? 普通の嫌われ方じゃ、きっとまた私を放っておいてくれなくなる」


 レオナルドが自分から私を遠ざけたくなるくらい、徹底的に嫌われなければ意味がない。


 エドガーに頭を抱えられながら呆れられたけれど、私は私なりに、レオナルドに「嫌われる努力」を必死に積み重ねていた。


 すべては、彼の命を守るために。


 ——こうして私は、盛大に方向性を間違えた『悪女修行』を重ねながら、運命の入学式を迎えることになるのだった。





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