第25話 さようならのキス
夜は、やけに静かだった。
窓の外にはいつもと変わらない星空が広がっているはずなのに、その静けさはどこか現実離れしていて、まるで世界そのものが終わりを迎える直前のような錯覚を覚えさせた。
足音を殺しながら廊下を進む。
何度も通ったはずの道なのに、今日に限ってやけに遠く感じるのは、自分の中にある迷いのせいなのかもしれない。
扉の前で立ち止まる。
——これでいいのよね。
問いかけても、答えはすでに決まっている。
決めたのは自分自身だ。
それでも一瞬だけ躊躇ってしまうのは、まだ心のどこかで抗っているからなのか、それともただ未練なのか、自分でも分からなかった。
ゆっくりと扉に手をかけると、わずかな軋みとともに中へと開いた。
部屋は暗く、静まり返っている。
窓から差し込む微かな月明かりだけが、ベッドの上に横たわる人影をぼんやりと照らしていた。
その姿を見た瞬間、胸の奥がひどくきしむ。
——ああ、やっぱり好きだ。
こんな状況でもなおそう思ってしまう自分が、どうしようもなく愚かで、苦しい。
そっと近づき、顔を覗き込む。
眠っていると思っていたその瞳が、ふと静かに開いた。
「……グレース?」
驚きと、そして明らかな安堵と喜びが混じった声だった。
「どうして、ここに……」
その表情を見た瞬間、用意していたはずの言葉が一気に崩れ落ちそうになる。
「……少しだけ、話がしたくて」
なんとかそれだけを絞り出すと、彼はわずかに瞬きをしてから、困ったように笑った。
「こんな時間にか?」
「ええ。……だめ?」
一瞬の沈黙のあと、レオナルドは小さく息を吐くように笑う。
「……お前が来て、断る理由なんてないだろ」
その言葉が、ひどく優しく響いてしまう。
胸の奥が痛いのは、嬉しいからなのか、それとも別の理由なのか分からないまま、私はベッドの端に腰を下ろした。
距離が近い。
近すぎる。
「……最近、どうした?様子がおかしい」
不意にそう言われて、心臓が跳ねた。
視線を逸らす。
「別に、いつも通りよ」
「……嘘だな」
静かな声だった。責めるでもなく、ただ確信だけがあった。
「何もなければ、お前がそんな顔するはずない」
その言葉に、息が詰まる。
どんな顔をしているのか、自分ではもう分からない。
笑おうとした。
いつものように冷たく、突き放すように。
けれどそれは、喉の奥で崩れて消えた。
だんだんだと、視界が滲む。
「……っ」
「おい……?」
戸惑う声がすぐ近くで聞こえる。
だめだと思った。
ここで泣いてはいけないと分かっているのに、それでも感情は止まらなかった。
「……ごめんなさい」
零れた声に、彼が目を見開く。
「……なんで、お前が謝る」
分からない。
謝る理由なんて、本当はどこにもないのかもしれない。
ただ、この時間が終わることが怖かった。
これ以上、何かを失うのが怖かった。
そっと手を伸ばす。
「……触れても、いい?」
一瞬だけ驚いたように止まり、それからレオナルドは小さく笑った。
「今さらだろ」
その言葉に、胸が強く締めつけられる。
頬に触れた瞬間、レオナルドの肩がわずかに揺れる。
——温かい。
生きて、ちゃんとここにいる。
それだけで十分なはずだったのに、どうしてもそれ以上を求めてしまいそうになる自分がいた。
「……レオ」
「ん?」
名前を呼ぶと、彼は穏やかに応える。
そのまま引き寄せられるように唇が触れた。
その瞬間、彼の動きが止まる。
一瞬の静寂のあと、確かめるみたいに壊れそうなくらい慎重に応え始める。
——驚いているのに、離さない。
気づけば後頭部を掴まれていた。
「……っ、ん……」
呼吸が重なって、混ざっていく。
どこまでが自分で、どこからが彼なのか分からなくなる。
初めて触れる熱に、指先まで震えてしまう。
ただ彼に縋るように目を閉じた。
呼吸の乱れが、そのまま距離の詰め方に変わっていく。
拒む余地はどこにもないのに、主導権はいつの間にか彼の側に傾いていた。
深くなる。
ゆっくりと、逃げ道を失わせるみたいに。
「……っん……はっ……」
「んっ……」
——離さない。
それだけが、やけに強く伝わってきた。
まるで、このキスが最後になると、本能で気づいているみたいに。
言葉にする余裕なんて、最初からない。
ただ、必死に掴んでいるだけだった。
私を、失わないように。
この人は今、私を失わないことしか考えていない。
その自覚すらないまま、ただ必死に繋ぎ止めているようだった。
それはとても優しくて。
あたたかくて。
——残酷だった。
離れたくない。
離したくない。
それでも、私はもう決めていた。
息継ぎの仕方すら分からず苦しくなったところで、ようやく解放された。
短く息をしながら顔を上げれば、至近距離で熱のこもった深海のような碧の瞳と視線が絡む。
もう——こんな距離で、彼を見つめるのはきっと最後だ。
そう思ったとき、言葉が自然と溢れた。
「……大好きよ」
囁くと、彼の瞳がわずかに揺れる。
「……どうした、急に——」
「さようなら」
その言葉と同時に、胸の奥に閉じ込めていた呪わしい魔力を、一気に解放した。
淡く揺れる闇色の魔力が、静かに部屋を満たしていく。
禁書庫で見つけた、あの残酷な魔法。
淡い闇色の魔力が彼の身体に触れるたび、レオナルドの脳裏から『私』の存在が、パズルのピースが零れ落ちるように消えていくのが分かった。
「……っ、グレース……?」
意識が揺らぐ中でも、彼は必死に手を伸ばそうとする。
伸びてくる手が、少しだけ震えていた気がした。
その唇が、今さっきまで私の名前を呼んでいたのに。
伸ばしてくるその手が、もうすでに私を忘れかけているのだと思うと、胸が引き裂かれそうだった。
それでも私は、その手を取らなかった。
「……ごめんね」
彼の中から、私と過ごしたすべての時間が消え去り——瞳がゆっくりと閉じていく。
その瞬間、胸の奥で何かが切れた音がした。
崩れ落ちそうになる身体を必死に支えながら、私はその場に立ち尽くす。
泣いてはいけない。
ここで泣けば、すべてが終わってしまう。
「……これで、いいの」
誰に言うでもなく、そう言い聞かせる。
彼が生きる未来に、私はいない。
それでいいはずだ。
それで——いいはずなのに。
視界が歪む。
それでも私は、最後まで振り返らなかった。
扉を閉じると、廊下の冷たい空気が現実を突きつけてくる。
夜は、変わらず静かだった。
まるで、何もなかったかのように——




