第25話 悪女はこうして生まれた
隠し通路へ続く王城の奥を、私は息を潜めるように進んでいた。
レオナルドの部屋を出てから、どれほど歩いただろう。見慣れたはずの廊下が、今夜に限ってやけに長く感じられる。
唇には、まだ彼の温もりが残っていた。
『……もう一回』
嬉しそうにそうねだった声が、耳から離れない。
私が大好きだと伝えたとき、レオナルドは本当に幸せそうに笑ってくれた。
あの笑顔を、私は一生忘れないだろう。
けれど、彼はもう覚えていない。
その事実を考えるたびに足が止まりそうになり、私は胸元のハンカチを服の上から強く押さえた。
もう、振り返ってはいけない。
そう言い聞かせながら抜け道の出入り口へ辿り着いたところで、暗がりに人影があることに気づいた。
「……終わったのか」
低く、聞き慣れた声だった。
月明かりの届く窓辺に、エドガーが立っていた。腕を組み、壁へ背を預けている。私を見つめるその表情は、いつになく硬かった。
「……エドガー。どうしてここに」
「レオナルドの様子が気になってな。……それと、お前のこともだ」
彼は禁術を見つけたときから、私が何を考えているのか気づいていた。
止めようともしてくれた。
それでも結局、私は自分の決めたことを押し通したのだ。
「……ええ。終わったわ」
声が、思っていた以上に掠れた。
「これで、全部」
言い終えた途端、膝から力が抜けそうになった。
壁へ手をつき、どうにか身体を支える。
エドガーが一歩踏み出しかけたので、私は無理やり口元を持ち上げた。
「……次にレオナルドと会うときからは、最悪の『悪女』になってあげる。あなたの主君が、自分から私を遠ざけたくなるくらいにね」
いつもの調子で言えたつもりだった。
けれど、エドガーは笑わなかった。
「……グレース」
「何よ。心配しなくても大丈夫。私、嫌われるのには慣れて——」
「よくやったな」
言葉が途切れた。
エドガーは目の前に立つと、大きな手を私の頭へそっと置いた。
ぽん、と一度。
レオナルドがしてくれたのとは違う、不器用な手つきだった。
「お前がどれだけ悩んだか、全部は分からない。……こんなやり方しか残らなかったことも、俺は納得してない」
彼の声が、少しだけ低くなる。
「でも、あいつを助けるために、ずっと頑張ってたのは知ってる」
頭に置かれた手が、もう一度だけ優しく動いた。
「……頑張ったな、グレース」
「……っ」
駄目だ。
そんなこと、言わないで。
私は自分で決めたのだ。
レオナルドの記憶を奪って、私を忘れさせた。あの人から、私たちが過ごした日々を取り上げた。
だから、泣く資格なんてない。
そう思っていたのに。
「……っ、う……」
一粒、涙が零れた。
慌てて拭ったところで、次の涙が頬を伝う。
「……やだ、もう……」
止まらなかった。
レオナルドの部屋では、どうにか堪えていた。
彼の前で泣いたら、きっと手を伸ばされるから。最後まで、あの人を安心させていたかったから。
けれど、もう彼はいない。
名前を呼んでも、返事はない。
戻ったところで、私を見ても分からないのだ。
「……レオ、が……っ」
そこまで口にすると、とうとう立っていられなくなった。
しゃがみ込んで両手で顔を覆う。
「……忘れちゃった……っ」
エドガーは、何も言わなかった。
「私のこと……全部……っ」
自分でしたくせに。
あの人が生きてくれるなら、それだけでいいと思ったくせに。
こんなにも、苦しい。
「……好きなのに……っ」
子供のような声が、静かな廊下へ零れた。
もう一度、あの腕に抱きしめてほしい。
もう一度、私の名前を呼んでほしい。
もう一度だけ、「好きだ」と言ってほしい。
そんな願いを抱いてしまう自分が、どうしようもなく嫌だった。
エドガーは隣へ膝をつくと、ただ静かにいてくれた。
慰めの言葉も、無責任な約束も口にしなかった。
私が泣きやむまで、そこを離れなかった。
◇◇◇
グレースが泣いている。
エドガーは、その光景をただ見つめていた。
いつも不機嫌そうで、憎まれ口ばかり叩く少女だった。
誰かに弱みを見せるくらいなら、一人で抱え込む。
助けを求めるより先に、自分で何とかしようとする。
そんなグレースが、今は顔を覆い、声を上げて泣いていた。
親友を生かすために、その親友から自分との記憶を奪ってきたのだ。
どれほど苦しかったのか、想像することしかできない。
(……何が、頑張ったな、だ)
あんな言葉で済むはずがない。
止めることも、別の方法を見つけることもできなかった。
そもそも、グレースが禁術を選ぶ前に、自分が答えを見つけていれば。
そう思っても、今さらだった。
ふと、彼女が顔を上げた。
涙に濡れた紫色の瞳。
月明かりを受けた銀髪が、頬へ張りついている。
その姿を見た瞬間、胸の奥で何かが軋んだ。
(……反則だろ、こんなの)
目を逸らすべきだった。
親友の恋人だ。
本人が記憶を失ったからといって、その事実までなくなるわけではない。
それなのに、泣きながらレオナルドの名前を呼ぶ彼女から、どうしても目を離せなかった。
もし今、いつものレオナルドがここにいたなら。
『俺の女に何触ってんだ』
そう怒って、間違いなく自分を引き剥がしていただろう。
だが、あいつはもうグレースを覚えていない。
この涙の理由すら知らない。
エドガーは唇を噛み、震える彼女の傍らに留まった。
——あいつが忘れてしまったこの人を、俺が守る。
そう思った。
親友の代わりに、などと綺麗な理由をつけるつもりはない。
今、自分が彼女を放っておけないのは、間違いなく自分自身の気持ちだった。
その名前を、まだ口にしたくなかった。
口にしてしまえば、親友を裏切ることになる気がしたから。
だから、何も言わずに傍にいる。
グレースが求めている手は、自分のものではない。
そんなことは、誰よりも分かっていた。
◇
それから数日後。
人目を忍んで離れを訪ねてきたエドガーは、ひどく複雑な表情をしていた。
「……レオナルドが目を覚ました」
私は持っていた本を閉じた。
「……そう」
「熱も下がった。まだ経過観察は必要だが、身体の状態はかなり持ち直しているらしい。医者も驚いていた」
胸の奥から、安堵が込み上げる。
よかった。
生きている。
ちゃんと、回復へ向かっている。
「……よかったわ」
声が震えないようにするだけで、精一杯だった。
以前のように私と会い続けることは、もうない。
新たな干渉を重ねずに済めば、あとは医師のもとで回復できるかもしれない。
まだ何も保証されたわけではない。それでも、今はその報告に縋りたかった。
「ただ……」
エドガーが言葉を切る。
私は、ゆっくりと顔を上げた。
「あいつの机に、お前に関する報告書があったんだ」
「……ええ」
「それを見て、誰のものだって聞いてきた。アシュフォード公爵家に、こんな令嬢がいたのかって」
呼吸が止まった。
「……本当に、お前のことだけ綺麗に忘れてる」
分かっていた。
そうなるように、私が術をかけたのだから。
けれど実際に聞かされると、胸の奥がひどく痛んだ。
あの人は、私の家名を知っていた。
私が公爵令嬢だと打ち明けたときも、何も変わらず隣にいてくれた。
それなのに今は、報告書に書かれた私の名前を見ても、何も思い出さない。
「……そう、なのね」
俯いたまま、膝の上で手を握りしめる。
術が、成功した。
――最愛記憶消去。
あの術が私に作用したということは。
レオナルドにとって、私は確かに『最愛』だったのだ。
「……っ」
喉の奥から、変な声が漏れた。
――嬉しい。
こんな形で、そんなことを確かめたくなかった。
それでも、嬉しかった。
私はあの人に愛されていた。
私が思っていたよりも、ずっと。
「……ほんと、馬鹿……」
涙が落ちる。
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
あんなにも好きだと伝えてくれたのに、最後まで信じきれなかった私なのか。
自分の命より私との時間を選ぼうとしたレオナルドなのか。
それとも、こんな結末しか選べなかった私たち二人なのか。
エドガーは何も言わず、私が落ち着くのを待ってくれた。
やがて私は涙を拭い、無理やり顔を上げた。
「……それで、今後のことだけど」
「ああ」
「学園に入ったら、レオナルドの様子を教えてほしいの。近づかなくても分かるように」
「最初から、そのつもりだ」
あまりにも当たり前のように返され、思わず瞬きをした。
「俺が定期的に報告する。お前が一人で様子を探る必要はない」
「……いいの?」
「今さら何言ってるんだ」
エドガーは呆れたように息を吐いた。
「禁書庫まで一緒に調べたんだ。最後まで付き合う」
その言葉が、胸に染みた。
「それに、あいつの身体のことは俺だって心配だ。何か異変があれば、すぐに知らせる」
「……ありがとう」
「礼はいい」
エドガーは少しだけ視線を逸らした。
「俺が、お前の『共犯者』になってやる」
――共犯者。
その響きが、今の私にはひどく心強かった。
あの人を守るために、私一人でできることには限界がある。
それでもエドガーがいてくれれば、レオナルドの様子を知ることができる。
私が近づかなくても。
彼が、元気で生きているかどうかを。
「……頼りにしてるわ」




