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悪女と呼ばれる公爵令嬢のことだけ、なぜか王太子は思い出せない〜忘れているはずなのに、いつだって君だけが特別だった〜  作者: はな
第二部:追憶の公爵令嬢──ときどき公爵令息

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第24話 さようならのキス



 夜は、やけに静かだった。


 王城の廊下には人の気配がなく、窓から差し込む月明かりだけが、磨かれた床を淡く照らしている。私は足音を殺しながら、何度も通った道を進んでいた。


 昼間、レオナルドの部屋を訪れたときには、まだ熱があった。それでも彼は、私を見るなり嬉しそうに笑い、「また来る?」と尋ねたのだ。


 私は、また来ると答えた。


 嘘ではない。こうして、もう一度会いに来たのだから。


 ただ、きっとあの人が思っていたのとは、違う意味になってしまうけれど。


 服の上から、胸元にしまった白いハンカチへ触れる。入学式の日に渡すはずだった贈り物。何度も針を刺し直しながら、向かい合う二つの三日月を縫い込んだものだ。


 あれほど幸せな気持ちで縫っていたのに、今は握りしめることさえ苦しかった。


 ——これでいいのよね。


 心の中で問いかけても、返事はどこからも返ってこない。それでも、足を止めるわけにはいかなかった。


 やがて私は、レオナルドの部屋の前に立った。息を整え、音を立てないように扉を開く。


◇


 室内は暗く、窓から差し込む月明かりが、ベッドの輪郭をぼんやりと浮かび上がらせていた。


 レオナルドは横になっている。寝息は聞こえない。苦しそうではないだろうかと、そっと近づいた、そのときだった。


「……グレース?」


 聞き慣れた声に、心臓が跳ねた。


 彼はゆっくりと瞼を開き、私の姿を認めると、驚いたように目を瞬いた。


「どうした、こんな時間に」


 声にはまだ熱の名残があった。それなのに、私を見つめる表情には、隠しきれない喜びが滲んでいる。


 その顔を見た瞬間、決めてきたはずの覚悟が崩れそうになった。


「……少しだけ、話がしたくて」

「話?」

「ええ。……駄目?」


 レオナルドは一瞬きょとんとしたあと、困ったように笑った。


「お前が会いに来て、断る理由なんてないだろ」


 いつもと同じ言葉。いつもと同じ、優しい声。


 私は何とか笑ってみせ、ベッドの端へ腰を下ろした。こんなに近くにいるのに、もう二度と会えない人を見ているようだった。


「……最近、どうした?」


 不意に尋ねられ、指先が強張る。


「何が?」

「お前、ずっと様子がおかしい」

「気のせいよ」

「嘘だな」


 静かな即答だった。責めるような声ではない。ただ、私のことをよく知っている人の声だった。


「何もなければ、お前がそんな顔するはずない」


 どんな顔をしているのか、自分では分からなかった。


 隠し通路を歩いている間に、何度も練習したのだ。いつもどおりに笑って、少しだけ憎まれ口を叩いて、彼が何かを察する前に魔法をかける。それだけのはずだった。


 けれど、レオナルドに見つめられると、用意してきた言葉は何一つ出てこなかった。


「……グレース?」


 彼が心配そうに身を起こしかける。


「起きないで。まだ熱があるでしょう」

「いや、お前が——」

「いいから」


 思わず強く言ってしまった。


 レオナルドは少し驚いた顔をしたが、私が肩に手を添えると、大人しく枕へ頭を戻した。その素直さが、今は苦しかった。


「……ごめんなさい」


 気づけば、声が零れていた。


「何が?」

「……何でもない」


 そんなはずがないと分かっていながら、私は首を振った。


 謝りたいことなら、いくらでもある。あなたが苦しんでいる原因が私であること。それを知っていながら、今日も会いに来てしまったこと。そして、何も知らないあなたから、これから大切なものを奪おうとしていること。


 けれど、そのどれも口にできない。


 事情を話してしまえば、レオナルドは絶対に止めるから。私が泣いて頼んでも、きっと自分の身体より私を選んでしまうから。


「……そんなに心配するなよ」


 沈黙を破ったのは、彼の方だった。


「ちゃんと休んでる。医者にも診てもらってるし。すぐ元気になるって」


 安心させるように笑いながら、彼は続けた。


 ——うそつき。


 あなたは知っているくせに。休むだけでは治らないことも、このままでは命に関わることも。


 それでも私には何も言わず、こんなふうに笑うのね。


 唇を噛むと、レオナルドが不思議そうにこちらを見つめた。


「……泣くなよ」

「泣いてない」

「泣きそうな顔してる」

「あなたの目がおかしいのよ」

「そうか?」


 少し笑った彼が、私へ手を伸ばす。


 いつもなら、迷わずその手を取っていた。けれど今夜は、指先が触れる直前で動けなくなった。


 私の魔力が、また彼を傷つけるかもしれない。そう思った途端、怖くなったのだ。


 そんな私の躊躇いをどう受け取ったのか、レオナルドは手を止めた。


「……嫌だったか?」


 その声に、胸の奥が軋んだ。


 嫌なわけ、ないでしょう。あなたに触れられることが、どれほど嬉しかったと思っているの。


「……違うわ」


 私は首を振った。


 今だけは。最後の一度だけは、怖がらずに触れたかった。


「……ねえ、レオ」

「ん?」

「触れても、いい?」


 レオナルドが目を見開いた。それから、少しだけ照れたように笑う。


「……今さらだろ」


 そう言って、私の方へ頬を寄せてくれた。


 私はそっと手を伸ばした。指先が触れた瞬間、胸がいっぱいになる。


 温かい。熱のせいで、いつもより少しだけ高い体温。それでも、確かにここにいる。生きて、私の名前を呼んでくれる。


 この温もりを失いたくなかった。


 私は彼の頬を両手で包み、そっと顔を近づけた。


◇


 唇が触れた瞬間、レオナルドの動きが止まった。


 自分からキスをしたのは、初めてだった。


 驚いたように目を見開いた彼が、やがてゆっくりと瞼を閉じる。私はほんの一瞬だけ触れて離れるつもりだったのに、身を引こうとした途端、背中へ回された腕に引き止められた。


「……レオ?」


 問いかける間もなく、もう一度唇が重なる。


 今度は、彼の方からだった。


 先ほどよりもずっと強く抱き寄せられ、思わず彼の服を掴む。


 いつものレオナルドなら、きっと嬉しそうに笑って、私をからかっていただろう。


 けれど今は、何も言わない。


 背中を抱く腕に力がこもり、後頭部へ添えられた手が、私を逃がさないようにそっと支えている。


 唇が離れかけるたび、確かめるようにもう一度触れてくる。


 私も離れたくなくて、その背中へ腕を回した。


 ——ああ、駄目。


 こんなことをしたら、もっと離れられなくなる。


 頭では分かっているのに、彼の温もりに触れるたび、決めてきたはずの覚悟が揺らいでしまう。


 レオナルドの腕が、ほんの少し震えた。


 最近の私が何かを隠していることに、この人は気づいている。何があったのかは知らないまま、それでも今、私が離れていかないように抱きしめている。


 まるで、これが最後になることを、どこかで感じ取ってしまったみたいに。


 ——お願い。


 そんなふうに、引き止めないで。


 私だって、本当は離れたくないのだから。


 胸の奥が苦しくなり、堪えきれずに彼の服を握る手へ力を込めた。


 するとレオナルドは、私の気持ちに応えるように、さらに強く抱きしめてくれた。


 優しいのに、必死だった。


 何度も、何度も。


 離れかけては、また唇が重なる。


 嬉しくて、幸せで、泣きたくて。


 このまま時間が止まってしまえばいいのにと思った。


 けれど、いつまでもこうしているわけにはいかない。


 私は名残惜しさを押し殺し、彼の胸元へそっと手を添えた。


 レオナルドはすぐには離れなかった。


 最後にもう一度だけ、確かめるように唇へ触れてから、ようやく腕の力を緩める。


 ゆっくりと唇が離れた。


 すぐ近くに、深海色の瞳がある。


「……どうしたんだよ、今日」

「……何が?」

「いや、嬉しいけど」


 その言葉が胸に刺さる。


「すげぇ嬉しいけど……お前、何か隠してるだろ」


 本当に、どうしてこの人は。


 自分のことにはあんなに無頓着なのに、私のこととなると、すぐに気づいてしまうのだろう。


 私は返事の代わりに、彼の胸元へ額を寄せた。すぐ近くで、心臓の音が聞こえる。


 少し速い。それが熱のせいなのか、私のせいなのかも分からない。


 ただ、この音が止まらないでほしいと願った。

 レオナルドが私の髪を撫でる。


「……グレース。無理して言わなくてもいいからな」


 その一言で、涙が溢れそうになった。


 言わなくてもいい。隠していることがあってもいい。この人はきっと、今夜も私を許してしまう。


 ——だから、もう。


 私はそっと身体を起こした。


 月明かりの中で、レオナルドと目が合う。できることなら、この顔をずっと覚えていたかった。


 名前を呼んだときに嬉しそうに笑う顔も。少し拗ねた顔も。私を見つめる、どうしようもなく優しい瞳も。


 全部、全部。


「……レオ」

「ん?」


 彼が穏やかに応える。


 私は涙を堪え、今度こそ、ちゃんと言葉にした。


「……大好きよ」


 レオナルドの瞳が大きく揺れた。


 初めてだった。こんなふうに、自分から伝えたのは。


 彼は一瞬言葉を失い、それから信じられないほど嬉しそうに笑った。


「……もう一回」


 そのお願いに、私も少しだけ笑ってしまう。


「欲張りね」

「だって、今の……」


 言いかけた彼の声が、照れたように小さくなる。


 私はもう一度、その顔を目に焼きつけた。


「大好き」


 そして、続けた。


「……さようなら」


 囁くように告げると同時に、胸の奥へ集めていた闇の魔力を解放した。


◇


 静かな部屋を、淡い闇色の魔力が満たしていく。


 禁書庫で見つけた、あの術。


 ——最愛記憶消去。


 レオナルドの瞳が、驚きに見開かれた。


「……グレース?」


 伸ばしかけた手が止まる。


 術式が彼の魔力に触れた瞬間、胸の奥がひどく痛んだ。


 彼の中にある、私と結びついた記憶。一緒に過ごした丘。季節外れのスイートピー。二人で浮かべた、向かい合う三日月。何度も呼んでくれた私の名前。


 その一つ一つが、術式の向こう側でほどけていく感覚がした。


 やめて、と心のどこかで叫んでいた。こんなこと、したくない。忘れてほしくない。私を見つけて、好きだと言ってくれたことを、なかったことになんてしたくない。


 けれど、ここで止めれば、彼はまた私に手を伸ばす。自分の命が削られていくことなど、少しも気にせずに。


「……っ、グレ……」


 レオナルドが必死に何かを言おうとする。


 けれど、その声は途中で途切れた。


 私を見つめていた瞳から、少しずつ焦点が失われていく。伸ばされた手が、力なくシーツの上へ落ちた。


「……ごめんね」


 その手を取ることは、できなかった。取ってしまえば、離せなくなるから。


 やがて闇色の光が静かに収まり、レオナルドの瞼が閉じた。


 彼は穏やかに眠っている。呼吸もある。


 私は震える指で、そっとその頬へ触れた。


「……レオ?」


 返事はない。ただ、規則正しい寝息だけが聞こえていた。


 術は発動した。


 けれど、これで本当に彼の身体が回復するのかは分からない。すでに蓄積した負担も、すぐに消えるとは限らない。


 それでも、私を追って無理を重ねることは、もうなくなるはずだった。医師のもとで休み、少しずつ回復するための時間ができる。


 そう信じるしかなかった。


 私は彼の髪へ、最後に一度だけ触れた。


 いつもなら、すぐに笑ってこちらを見てくれるのに。今は、何も返ってこない。


 ——もう、私のことを知らないのね。


 胸の奥が、音もなく崩れ落ちた。


◇


 部屋を出ようとして、足が止まった。


 振り返れば、ベッドの上には愛しい人が眠っている。


 今、彼の名前を呼んだら。今、もう一度手を握ったら。もしかしたら、目を覚ましてくれるのではないか。


 いつものように笑って、『まだ帰るなよ』と言ってくれるのではないか。


 そんな期待が、どうしても消えなかった。


 私は胸元に手を当てる。服の内側には、白いハンカチがある。渡せなかった贈り物。私だけが覚えている、二人の約束。


 これを見せたら、何かを思い出してくれるだろうか。


 ——駄目。


 何のために、ここまでしたの。


 私はハンカチを取り出さず、扉へ向き直った。


「……おやすみなさい、レオ」


 返事はなかった。


 そっと扉を閉めると、廊下の冷たい空気が頬を撫でた。


 王城は、何も変わっていない。明日も朝が来て、王太子は目を覚ますのだろう。私のことなど、何も知らないまま。


 その未来を望んだのは、ほかでもない私だった。


 なのに。


 どうして、こんなにも苦しいのだろう。


 私は唇を噛み、涙を堪えながら、隠し通路へと歩き出した。




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