第23話 最愛を辞める
それから私は、毎日王城へ通うようになった。
本当なら、会わない方がいい。近づけば近づくほど、レオナルドの身体を蝕んでしまうのだから。
医師から告げられた言葉は、今も耳の奥に残っている。長い時間をかけて重なり合った光と闇の魔力が干渉し、その負担が彼の身体に蓄積しているのだという。
これ以上、私が近づいてはいけない。
そう分かっているのに、熱に浮かされながらも、私に会うためだけに隠し通路を抜けようとする彼の姿を想像すると、どうしても放っておけなかった。
私が行かなければ、きっとレオナルドは来る。止めたところで、あの人が素直に聞き入れるはずもない。
だからせめて、これ以上あの長い通路を歩かずに済むように。少しでも長く、王宮医の目が届く場所で休んでいられるように。
私は、自分から会いに行くことにした。
矛盾していることくらい、自分でも分かっている。けれど今の私には、彼を突き放すことも、何も知らないふりをして抱きしめることもできなかった。
◇
「……また来たのか」
レオナルドの部屋の前に立っていたエドガーが、呆れたように声を漏らした。
「悪い?」
「悪くはないが」
そう言いながらも、彼は慣れた手つきで周囲を確認する。
王太子の私室へ、未婚の令嬢を毎日のように通すなど、本来なら問題どころではない。こうして人目を避けて会えているのは、エドガーが取り計らってくれているからだった。
「今日は少し熱が下がったらしい」
「……そう」
胸の奥が、ほんの少しだけ軽くなる。
けれどエドガーは、そんな私をじっと見つめていた。
「お前の方が顔色悪いぞ」
「気のせいよ」
「寝てないだろ」
「……」
否定できなかった。
最近、家にいる時間のほとんどを私は書庫で過ごしている。アシュフォード公爵家に残された古い魔導書や、闇属性保持者たちの記録、属性干渉に関する文献を読み漁っていた。
読み尽くしたはずの本まで引っ張り出し、何度も頁をめくった。それでも、欲しい答えだけが見つからない。
黙り込んだ私を見て、エドガーが小さく息を吐く。
「まだ調べてるのか」
「……解決方法が見つからないの。闇属性の増幅を止める方法も、干渉を弱める方法も……どこにも書いてない。このままじゃ、レオナルドは——」
最後まで言葉にすることはできなかった。
エドガーはしばらく黙っていたが、やがて静かに口を開いた。
「……アシュフォード家の書庫だけじゃ限界があるな」
予想していなかった言葉に、私は顔を上げた。
「王城の禁書庫なら、もっと深い資料がある」
「でも、許可なんて——」
「陛下には俺から掛け合う」
きっぱりと言い切られ、私は息を呑んだ。
「王宮医の報告はもう上がってる。レオナルドの状態も、陛下は把握してる」
胸が痛んだ。やはり、もう誤魔化せる段階ではないのだ。
「属性干渉の資料を調べたいと事情を話せば、閲覧の許可は下りるはずだ。俺も手伝う」
「……エドガー」
「ただし、レオナルドには内緒だ」
すぐさま釘を刺される。
「あいつが知ったら、絶対に止める。お前が無理をするくらいなら自分が我慢するとか、言い出すに決まってる」
容易に想像できてしまい、私は黙り込んだ。
するとエドガーは、呆れたように息を吐いた。
「お前たち、本当に面倒くさいな」
「……何よ、それ」
「互いのために無茶してるところがそっくりだって話だ」
ぴくりと指先が揺れた。
「似たもの同士だな、お前たちは」
その言葉が、ひどく苦しかった。
レオナルドも、私も、ただ相手に生きていてほしいと願っているだけなのに。どうしてこんなにも、うまくいかないのだろう。
◇
「グレース? ……また来てくれたのか」
部屋へ入った瞬間、レオナルドが目を見開いた。
その声が本当に嬉しそうで、胸が痛くなる。
「今日は俺が行くつもりだったのに」
「馬鹿なの? 言ったでしょ。来るなって」
「会いたかった」
「子供みたいなこと言わないで」
ベッドへ身体を預けたまま、それでも彼は嬉しそうに笑った。
顔色は、以前より明らかに悪い。額へ触れると、まだ熱があった。
「……ちゃんと休んでる?」
「休んでるって」
「嘘。絶対に仕事してたでしょう」
「……少しだけ」
「少しだけじゃない顔をしてるわよ」
呆れて言い返すと、レオナルドが私の手を捕まえた。
「……お前、冷たくて気持ちいい」
そう言って、私の手へ頬を寄せる。
胸の奥が、きゅっと痛んだ。
その手を引けば、彼は寂しそうな顔をするのだろう。けれど、このまま触れていることも怖い。
私はほんの少し迷った末、そっと手を抜いた。
「……ちゃんと寝て」
レオナルドの視線が、離れた私の手を追う。
「お前が来ないと寝られない」
「重い」
「今さら」
少し掠れた声で、彼は笑った。
その声さえ愛おしくて、苦しかった。
「……最近、よく来てくれるな」
彼は枕へ頭を戻しながら、小さく呟いた。
「来ちゃ駄目だった?」
「いや。嬉しい」
心底安心したような笑顔だった。
そのたった一言で、泣きたくなるほど胸が締めつけられる。
——ねえ、レオ。
私も嬉しいのよ。あなたに会えて、声を聞けて、今日もちゃんと生きていてくれることが。
それなのに私はもう、あなたを抱きしめることさえ怖い。
「……今日はもう帰るわ」
「え、もう?」
「休む時間を減らしちゃ意味ないでしょう」
レオナルドは不満そうだったが、引き止めはしなかった。その代わり、私をじっと見つめる。
「……また来る?」
それは、かつて私が彼に何度も尋ねた言葉だった。
来なくていいと言いながら、本当は来てほしくて。返事を聞くたびに、私は安心していた。
今度は、私が答える番なのだ。
「……ええ」
何とか笑ってみせる。
「また来るわ」
その約束が、いつまで守れるのかも分からないまま。
◇
禁書庫の閲覧許可が下りてから、私はますます眠らなくなった。
公爵家へ戻れば自室の書庫に籠もり、王城へ来ればエドガーと資料を調べる。レオナルドの見舞いを終えた後も、日が暮れるまで禁書庫から出ない日が続いた。
属性の干渉を弱める方法。増え続ける魔力を抑える方法。共鳴してしまった二つの魔力を、安全に切り離す方法。
探しているのは、どちらか一人が消えずに済む未来だった。
けれど文献を読み進めるほど、希望は遠ざかっていった。
光と闇は、決して共存できないわけではない。ただ、私の魔力量があまりにも大きすぎるのだ。
幼い頃、二人で描いた三日月を思い出す。あの小さな魔法が綺麗だったことも、あのとき私たちが幸せだったことも、嘘ではない。
けれど、長い時間を重ねたことで生じた共鳴が、今は彼の身体を蝕んでいる。
すでに負担は蓄積し、会わない時間にも影響が残る状態だと医師は言っていた。
私が離れるだけで、今すぐすべてが元に戻るわけではない。だからこそ、これ以上悪くなる前に、何かを見つけなければならなかった。
「……お前、本当に倒れるぞ」
机へ突っ伏した私の頭上から、エドガーの声が降ってきた。
「……起きてる」
「説得力ねぇよ」
「少し考えてただけ」
「その姿勢でか?」
返す言葉がなく、私は顔を上げた。
エドガーも最近は、私と同じくらい資料を読んでいる。いつもより疲れた顔をしていた。
「……あなたこそ休みなさいよ」
「お前にだけは言われたくない」
そう言って、彼は別の棚から取り出した本をめくった。
何冊目になるだろう。もう、数えるのもやめていた。
そのときだった。
「……なんだ、これ」
ぱらり、と古い紙の音が響く。
顔を上げると、エドガーが一冊の薄い本を見つめていた。
他の本とは違い、表紙には題名すらない。黒い革装丁はひどく古びていて、触れるだけで嫌な冷たさが伝わってきそうだった。
「貸して」
掠れた声で言うと、エドガーは無言で本を渡した。
頁を開く。
闇属性には、人の心や記憶へ干渉する魔法が多い。その中で、一つだけ目を引く術があった。
『最愛記憶消去』
指先が止まった。
対象者にとって、最も愛する人物に関する記憶だけを消し去る禁術。
名前も、声も、共に過ごした時間も。その人に結びつく記憶を、対象者の中から失わせる。
「……っ」
息が詰まった。
あまりにも残酷な魔法だった。
ただ忘れさせるのではない。誰よりも大切に想っている相手だからこそ、その人の記憶だけが選ばれるのだ。
頁をめくると、さらに注意書きが続いていた。
――失われた記憶を対象者が取り戻した場合、術者には重い代償が生じる。
けれど、その代償が具体的に何なのかは記されていなかった。
「……グレース?」
エドガーに呼ばれ、私はようやく我に返った。
「何か見つけたのか」
「……ええ」
私は本を見つめたまま答えた。
これなら、レオナルドは私を忘れられる。
私に会うために無理をすることも、具合の悪い身体を引きずって隠し通路を歩くこともなくなる。
新たな干渉を重ねず、医師の治療を受けて、回復するための時間を作れる。
ただし——。
記憶を消せば、すでに生じている魔力の共鳴まで確実に断ち切れるのか。それは、どこにも書かれていなかった。
この術だけで彼の身体が治ると、保証されているわけではない。
それでも、今のレオナルドは、私がどれだけ離れようとしても必ず追いかけてくる。
私を忘れない限り、あの人は自分の命より、私に会うことを選んでしまう。
ならば、私との記憶を奪うしかない。
「……おい。何を考えてる」
私は答えなかった。答えてしまえば、きっと止められる。
けれどエドガーは本を覗き込むと、すぐに眉をひそめた。
「……これを使うつもりか」
「まだ、決めてないわ」
口にした途端、自分でも嘘だと分かった。
エドガーはしばらく黙り込み、それから静かに言った。
「記憶を消したところで、あいつの身体が必ず治るとは限らないぞ」
「……分かってる」
「代償も分からない」
「それも、分かってるわ」
「なら——」
「でも、今のままじゃ駄目なのよ」
思わず声が大きくなった。
エドガーが口を閉じる。
私は握り締めていた本へ視線を落とした。
「何度も調べたの。私の魔力を抑える方法も、干渉を弱める方法も。二人とも今までどおりでいられる方法が、どこかにあるんじゃないかって」
声が震える。
「でも、見つからないの。調べている間にも、レオナルドは苦しんでる」
「…………」
「あの人、私が何も知らないと思ってるのよ。知らなければ普通に笑うからって。……自分が死ぬかもしれないことまで、隠して」
そこまで言うと、もう顔を上げられなかった。
エドガーは何も言わない。ただ、私の言葉を待っていた。
「……私、あの人に生きていてほしいの」
それだけだった。
私の隣でなくてもいい。私を忘れても、嫌っても。
明日も、その先も、生きていてほしかった。
◇
禁書庫から戻った夜、私は自室の机へ白いハンカチを広げた。
入学式の日に、レオナルドへ渡すつもりで作ったものだった。
アシュフォード公爵家の紋章。私とレオナルド、それぞれの誕生花。そして、向かい合う二つの三日月。
——私たちだけの合図。
暗くても、お互いがここにいると分かるように。離れていても、同じ月を見ていると分かるように。
彼に持っていてほしくて、一針ずつ縫った。
——あなたには、私がいる。
そう伝えたかった。
けれど、もう渡せない。
私は震える指で、二つの三日月をそっとなぞった。
ただ記憶を消すだけでは、きっと足りない。
私の顔を見て何かを思い出しかけたら? もう一度、理由も分からないまま私に手を伸ばしてきたら?
あの人は、そういう人だ。
忘れても、きっと放っておいてくれない。
ならば、記憶を失ったレオナルドの前に、最悪の『悪女』として立とう。
傲慢で、強欲で、卑劣で。関わるだけで嫌な思いをするような、そんな女になるのだ。
彼が自分から、私を遠ざけたくなるように。
あの人が私の顔を見るたび、不快そうに眉をひそめ、一刻も早く離れたいと思うように。
——大丈夫。
私は一度だけ、彼の恋人になれた。
彼の腕の中で、世界で一番幸せな女の子になれた。私の名前を呼んで、嬉しそうに笑ってくれた。
その記憶は、私の中に残る。
たとえレオナルドが全部忘れても、私まで忘れるわけではない。
あの日々が確かにあったことを、私だけは覚えていられる。
それさえあれば、この先どれほど長い孤独の夜が続いても、きっと耐えられる。
……そう思わなければ、立っていられなかった。
ハンカチを丁寧に畳み、胸元へ抱きしめる。
「……さようなら、レオ」
声に出した瞬間、涙が零れた。
彼に愛された記憶を抱えたまま、私は彼の「最愛」を辞める。
あなたが私を嫌いになっても。
あなたが私の名前を聞いて、顔をしかめるようになっても。
私は、世界で一番あなたを憎むふりをしながら、世界で一番あなたを愛し続けるわ。
たとえ、あなたに気づかれずに守り続けることしか許されなくても。
——それが、今の私に選べる、唯一の愛の形だから。




