第23話 その幸せが毒だと知らずに
秋が深まるにつれて、レオナルドの体調は少しずつ崩れ始めた。
最初は、本当に些細なものだった。
「……っ、げほ」
不意に咳き込む。
それだけ。
「風邪?」
「んー、たぶん疲れ」
本人も気にしていなかったし、私も最初はそう思っていた。
王太子は忙しい。
季節の変わり目でもある。
だから、少し疲れているだけなのだと。
◇
「……また隈できてる」
「寝てないだけ」
「寝なさいよ」
「お前に会いに来る時間減る」
「減らしなさい」
「それは無理」
その即答に、呆れながらも私はどこか安心していた。
いつも通りだ、と。
けれどレオナルドは、時折ふっと顔色を失うようになっていった。
抱きしめる腕に力が入らない日がある。
触れた指先が、驚くほど冷たい日がある。
「……レオ?」
名前を呼ぶと、レオナルドはいつものように嬉しそうに笑うだけで。
「大丈夫」
その笑顔が、少し無理をしているように見えて。
胸の奥が、妙にざわついた。
◇
冬に入った頃には、隠せないほどになっていた。
「お前、今日はやけに静かだな」
「……別に」
本当は気づいていた。
最近のレオナルドは、ここへ来るだけで疲れている。
座った瞬間、小さく息を吐く回数が増えた。
それでも、会いに来る。
「……来なくてもいいのに」
「なんで」
「休んだ方がいいわ」
「嫌だ。お前に会えない方が無理」
レオナルドは、少しだけ困ったように笑った。
そう言って、当たり前みたいに私を抱き寄せる。
胸の奥が、苦しくなる。
嬉しいはずなのに。
どうしてか、不安が消えない。
◇
ある日。
いつものように隠し通路から現れたレオナルドは、顔を見るなりその場で壁に手をついた。
「……っ」
「レオナルド!?」
慌てて駆け寄るも、顔色が真っ白だった。
「……何これ、熱……!」
「大丈夫、ちょっと立ちくらんだだけ」
「全然大丈夫じゃないでしょう!」
触れた身体は熱いのに、指先だけが異様に冷たい。
思わず眉を寄せると、レオナルドは苦笑した。
「……そんな顔するな」
「するに決まってるでしょ……!」
怒ったように言い返しながら、胸の奥では別の感情が膨らんでいた。
——怖い。
理由も分からないまま、少しずつ何かが壊れていくみたいで。
◇
それでもレオナルドは来るのをやめなかった。
咳き込む日も。
熱を隠して笑う日も。
顔色が悪い日も。
「……今日は来ちゃダメだったんじゃないの」
「会いたかった」
それだけで押し切ろうとする。
まるで、私に会えない方が耐えられないみたいに。
そんな日々が、ひと月以上続いた。
雪が降り始めても、レオナルドは来るのをやめなかった。
咳を隠して笑って。
苦しそうに息を吐いて。
それでも、私を抱きしめる腕だけは離さない。
まるで——ここだけが、自分の生きる場所だと言うみたいに。
そしてある日、ついにレオナルドは来なかった。
隠し通路は、どれだけ待っても開かない。
胸騒ぎがした。
落ち着かない。
嫌な予感がする。
——その翌日。
現れたのは、レオナルドではなくエドガーだった。
「……エドガー?」
隠し通路の前に立つ彼は、珍しく表情が硬かった。
「レオナルドは——」
「倒れた」
問いかけるより先に、エドガーが低く答える。
——心臓が、嫌な音を立てた。
「は……?」
「昨日の夜、高熱で意識失った」
頭が真っ白になる。
「……うそ」
「今は医師が診てる」
エドガーはそこで一瞬だけ言葉を切った。
「お前の名前、呼んでた」
息が止まる。
「行くか」
その一言に、私は反射みたいに頷いていた。
◇
扉の前で、足が止まった。
「このままでは、命に関わります」
エドガーは隣で静かに息を殺した。
体調が悪いと聞いたからお見舞いに来ただけ。
それだけのはずだったのに。
中から聞こえてきた声に、手をかけることができなかった。
——息が、止まった。
何を言っているのか、一瞬理解できなかった。
「原因は明確です。……最近、頻繁に接触されていた闇属性の令嬢についても、陛下より報告を受けています」
ドクン、と心臓が跳ねる。
「年齢を重ねるにつれ魔力が増えるものはいます。でも——あの令嬢の闇属性魔力は、あまりにも強大すぎる。殿下の光属性と干渉し続ければ——いずれ、身体が耐えきれなくなります」
視界が、ぐらりと揺れた。
一拍の沈黙のあと、レオナルドが口を開いた。
「……どのくらいだ」
聞き慣れてるはずのレオナルドの声が、やけに遠く感じる。
「個人差はありますが……このまま接触を続ければ、数年。早ければ、それよりも前に」
——嘘。
そんなはず、ない。
だって、今までずっと一緒にいた。
何も、なかったのに。
「……そうか」
静かな声だった。
あまりにも、あっさりしていて。
それが逆に、怖かった。
「では、今後は距離を置かれることを——」
「断る」
その即答に、思考が止まる。
「殿下——!」
「距離を置け? ふざけるな。そんなもの——死ぬのと同じだ」
低く、怒りを押し殺した声に、医師が息を呑む気配がした。
けれどレオナルドは、迷いなく、静かに続ける。
「……あいつの隣でだけ、俺は呼吸ができるんだ」
王太子としてではなく。
誰かに期待される“光”としてでもなく。
ただ一人の人間として。
「グレースの前だけなんだよ。俺が、ちゃんと俺でいられるのは」
胸が、締めつけられる。
呼吸が、うまくできない。
「……彼女は、それを望まないでしょう」
「だから言わない」
——え。
「知らなければ、あいつは普通に笑う。……あいつ、変に勘がいいからな。気づいたら、絶対に離れようとする」
苦笑混じりの優しい声だった。
どうしようもなく、優しい。
「そんなの、認めるわけないだろ」
——やめて。
「俺の居場所は、あいつの隣だ。それは何があってもかわらない——たとえ、それで死ぬことになっても」
その静かな断言を聞いて、視界が滲む。
「……殿下」
「この話は終わりだ」
それ以上、何も言わせない声音だった。
その瞬間、足が震え、立っていられなくなる。
——なんで。
なんで、そんなこと言うの。
なんで、そんな顔で笑うの。
私は——あなたに、生きていてほしいだけなのに。
気づけば、扉から離れていた。
音を立てないように。
息を殺して。
その場から、逃げるように。
「……グレース」
背後から、エドガーの低く、ひどく傷ついたような声が聞こえた気がした。
けれど今の私には、それを振り返る余裕なんて、ひとかけらも残っていなかった。
……ダメだ。
このままじゃ、ダメ。
私が、離れればいい。
私が、いなければ——この人は、生きられる。
胸の奥で、何かが静かに決壊した。
……私は、存在しているだけで、この人を傷つけるのね
◇
離れの部屋には、明かりを灯さなかった。
今の私には、この冷たくて暗い闇こそがお似合いだ。
——あの方の魔力は、あまりにも強すぎる。
——いずれ、身体が耐えきれなくなります。
耳の奥で、医師の言葉が何度も、何度も、鋭い刃のように私の心を削っていく。
「……あは、は……」
暗闇の中で、乾いた笑いがこぼれた。
可笑しくてたまらない。
私は、レオナルドを守りたかった。
家族にさえ疎まれ、闇属性という忌むべき力を背負った私を、彼だけが『お前がいい』と、優しく抱きしめてくれたから。
それなのに——私の存在そのものが、彼を殺す毒だったなんて。
『そんなもの、死ぬのと同じだ』
……どうしてそんなに優しいの。
私を失うことが死ぬことだなんて、そんなこと、言わないで。
あなたが明日も、その先も。
眩しい太陽の下で生きていてくれるなら、私は何千回だって死ねるというのに。
あなたが笑う未来に、私は必要ない。
いいえ、私がいてはいけない。
「……決めたわ」
けれど、ただ離れるだけでは意味がないことを、私は知っていた。
レオナルドは、絶対に諦めない。
どれだけ拒絶しても。
どれだけ嫌われるような態度を取っても。
あの人はきっと、笑って手を伸ばしてくる。
——だから決めた。
このままでは、駄目だと。




