第22話 その幸せが毒だと知らずに
秋が深まるにつれて、レオナルドの体調は少しずつ崩れ始めた。
最初は、本当に些細な変化だった。
ある日、私が本を読んでいる隣で、彼が不意に咳き込んだ。
「……っ、げほ」
「……風邪?」
「んー、たぶん疲れ」
レオナルドは、何でもないことのように答えた。
王太子としての仕事は忙しい。半年後に控えた学園への入学に向けて、準備も増えているのだという。季節の変わり目でもあるし、疲れが出たのだろう。私も初めは、そう思っていた。
「無理しないでよ」
「分かってるって」
そう言って、彼はいつものように笑った。
その笑顔を見ると、不思議と安心してしまう。きっと大丈夫。明日もまた、こうして二人で過ごせるのだと、そう信じていた。
◇
けれど、日が経つにつれて、見過ごせない変化が増えていった。
「……また隈ができてる」
「寝てないだけ」
「寝なさいよ」
「お前に会いに来る時間が減るだろ」
「減らしなさい」
「それは無理」
即答され、私は呆れてため息をついた。相変わらず、言うことを聞かない人だ。
それでも、そんなやり取りができることに、どこか安心していた。いつもどおりだと思えたからだ。
ただ、以前なら休む間もなく話しかけてきた彼が、隣へ座ってもしばらく黙り込む日が増えた。笑っていたかと思えば、ふっと顔色を失うこともある。抱きしめてくれる腕に、いつもの力がない。指先に触れると、驚くほど冷たい日さえあった。
「……レオ?」
名前を呼ぶと、彼は決まって嬉しそうな顔をする。
「大丈夫」
そして、いつもそう答えるのだ。
以前なら、私もその言葉を信じられた。けれど最近は、その笑顔の奥に疲れを隠しているように見えて、胸の奥が落ち着かなかった。
私の手を握るレオナルドの指へ、そっと触れ返す。
かつて二人で作った、光と闇の三日月。あのときは、彼の光が私の闇を優しく縁取ってくれた。
そんな小さな魔法さえ、最近は使わなくなっていた。レオナルドが疲れているなら、わざわざ魔力を使う必要はない。そう思っていたからだ。
ただ隣にいられれば、それでよかった。
◇
冬に入る頃には、もう見過ごすことなどできなくなっていた。
レオナルドは、隠し通路を抜けて丘へ来るだけでも疲れるらしい。私の隣に腰を下ろすと、気づかれないように小さく息を吐く。それでも、会いに来ることだけはやめなかった。
「お前、今日はやけに静かだな」
「……別に」
本へ視線を落としたまま答える。本当は、彼の顔を見ているのが怖かった。今日こそ、昨日より悪くなっているのではないか。そんなことばかり考えてしまう。
「……来なくてもいいのに」
「なんで?」
「休んだ方がいいわ」
「嫌だ。お前に会えない方が無理」
レオナルドは少し困ったように笑い、当たり前のように私を抱き寄せた。
その腕の温もりが嬉しかった。なのに、どうしてこんなにも不安なのだろう。
「……頑固」
「お互い様だろ」
いつものように言い返され、私は彼の肩へそっと額を寄せた。こうしていれば、いつもどおりに思える。彼の腕の中にいると、私まで何も考えなくてよくなる。
けれど、その胸元から聞こえる呼吸は、以前よりも少しだけ浅かった。
「……今日は早く帰って」
「もう少し」
「駄目」
「じゃあ、あと少しだけ」
「同じこと言ってるじゃない」
呆れたように返すと、レオナルドは小さく笑った。私も笑おうとしたけれど、うまくできなかった。
◇
ある日、隠し通路の出口で待っていると、レオナルドが壁に手をつきながら姿を現した。
「……っ」
「レオナルド!?」
慌てて駆け寄る。彼は顔を上げようとしたが、すぐに目を伏せた。唇に血の気がなく、息も浅い。
額へ触れた瞬間、私は息を呑んだ。
「……何これ、熱……!」
「大丈夫。ちょっと立ちくらんだだけ」
「全然大丈夫じゃないでしょう!」
肩を支えると、身体はひどく熱かった。それなのに、私の手を握り返した指先だけが異様に冷たい。
「……そんな顔するな」
レオナルドが苦笑する。
「するに決まってるでしょ……!」
怒っているような声になった。けれど、本当は怖かった。どうしてこんなに熱があるのか。なぜ、休んでもよくならないのか。理由が分からないまま、少しずつ何かが壊れていくような気がした。
「今日は帰って。お願いだから、ちゃんと休んで」
そう言うと、レオナルドは少しだけ寂しそうな顔をした。
そんな顔をしないでほしかった。私だって、帰ってほしくなどない。ただ、元気でいてほしかった。
「……分かった」
珍しく素直な返事だった。そのことが、かえって不安を大きくした。
◇
それでも、レオナルドは来るのをやめなかった。
咳き込む日も、熱を隠して笑う日も、顔色が悪い日も、彼は丘へやって来た。
「……今日は来ちゃ駄目だったんじゃないの」
「会いたかった」
その一言で、いつも私を黙らせようとする。まるで、会えない方が耐えられないとでもいうように。
そんな日々が、ひと月以上続いた。
雪が降り始めても、彼は丘へ通ってきた。苦しそうに息を吐きながらも、私の顔を見ると笑う。抱きしめる腕に力が入らない日でさえ、離れようとはしなかった。
以前なら、その頑固さに呆れるだけで済んだ。けれど今は、笑って見送ることさえ難しかった。
そして、ある日。
レオナルドは、とうとう来なかった。
夕方になっても、隠し通路の扉は開かない。いつもより遅いだけかもしれない。仕事が長引いているのだろう。そう自分に言い聞かせながら待ったが、空がすっかり暗くなっても、聞き慣れた足音はしなかった。
明日には来る。いつもなら、そう信じられたはずなのに、胸騒ぎが消えなかった。
翌日、隠し通路から姿を現したのは、レオナルドではなくエドガーだった。
「……エドガー?」
彼は私を見つけても、いつものように皮肉を言わなかった。その表情を見た瞬間、嫌な予感が形を持った。
「レオナルドは——」
「倒れた」
問い終えるより早く、低い声が返ってきた。
「……は?」
「昨日の夜、高熱で意識を失った。今は医師が診てる」
頭の中が、真っ白になった。
倒れた。意識を失った。
言葉は聞こえているのに、意味がうまく繋がらない。
「……うそ」
エドガーは否定しなかった。ただ、少しだけ言いづらそうに視線を落とす。
「……お前の名前、呼んでた」
息が止まった。
「行くか」
私は、反射的に頷いていた。
◇
王城に着くまで、何を考えていたのかよく覚えていない。
エドガーの後ろを歩き、案内された部屋の前で、ようやく足が止まった。扉の向こうから、声が聞こえたのだ。
「このままでは、命に関わります」
医師の声だった。
差しかけた手が、扉に触れる直前で止まる。隣のエドガーも息を殺していた。
体調が悪いと聞いたから、お見舞いに来た。ただ、それだけのはずだったのに。
「原因は明確です。最近、頻繁に接触されていた闇属性の令嬢についても、陛下より報告を受けています」
——闇属性の、令嬢。
心臓が嫌な音を立てた。
「成長に伴って魔力量が増えること自体は珍しくありません。しかし、あの令嬢の闇属性魔力は、あまりにも強大すぎる」
視界が、ぐらりと揺れた。
何を言っているのだろう。
「これまで長く接触を重ねたことで、殿下の光属性との間に強い共鳴が生じています。互いの魔力が触れ合うたびに干渉が起こり、殿下の身体に負担が蓄積しているのです」
——私の、魔力が。
レオナルドの身体に?
「現在は、その影響が接触していない間にも残る状態です。休養だけでは、十分に回復できません」
そんなはずはない。
今までずっと一緒にいた。初めて二人で魔法を使った日には、光と闇で三日月を描いた。あんなに綺麗だったのに。あんなに、嬉しかったのに。
どうして、今になって。
「……どのくらいだ」
扉の向こうから、レオナルドの声がした。聞き慣れたはずの声が、ひどく遠く感じる。
「個人差はありますが……今までと同じように接触を続ければ、数年。早ければ、それよりも前に」
——嘘。
そんなの、嘘だ。
「……そうか」
レオナルドの返事は、あまりにも静かだった。まるで、自分の命についての話ではないみたいに。
「まずは距離を置き、これ以上の干渉を避けなければなりません。殿下ご自身の魔力が回復する時間を——」
「断る」
即答だった。
「殿下——!」
「距離を置け? ふざけるな。そんなもの——死ぬのと同じだ」
低い声に、医師が息を呑む気配がした。けれどレオナルドは、少しも迷わなかった。
「……あいつの隣でだけ、俺は呼吸ができるんだ」
胸が、締めつけられる。
「グレースの前だけなんだよ。俺が、ちゃんと俺でいられるのは」
王太子としてではなく、誰かに期待される光としてでもなく。ただ、レオナルドとして。
彼が私の前で笑ってくれた理由を、今になって聞かされているようだった。
嬉しいはずの言葉なのに、息が苦しくてたまらない。
「……彼女は、それを望まないでしょう」
「だから言わない」
頭が真っ白になった。
「知らなければ、あいつは普通に笑う。……あいつ、変に勘がいいからな。気づいたら、絶対に離れようとする」
困ったように笑う声がした。その声が、どうしようもなく優しかった。
「そんなの、認めるわけないだろ」
——やめて。
心の中で、何度も繰り返す。
そんなこと、言わないで。
「俺の居場所は、あいつの隣だ。それは何があっても変わらない。——たとえ、それで死ぬことになっても」
視界が滲んだ。
レオナルドは、本気なのだ。自分の身体が蝕まれていると知っても、私と一緒にいることを選ぼうとしている。
「……殿下」
「この話は終わりだ」
それ以上は何も言わせない声音だった。
私は扉に触れないまま、一歩後ずさった。足が震えて、うまく立っていられない。
——なんで。
なんで、そんなことを言うの。
私は、あなたに生きていてほしいだけなのに。
気づけば、その場を離れていた。音を立てないように、息を殺して。レオナルドに気づかれないように。
「……グレース」
背後から、エドガーの声が聞こえた。ひどく傷ついたような、低い声だった。
けれど、振り返ることはできなかった。今、誰かに顔を見られたら、きっと崩れてしまう。
私が離れればいい。私がいなければ、レオナルドは生きられる。
そう考えた瞬間、胸の奥で何かが静かに決壊した。
……私は、存在しているだけで、この人を傷つけるのね。
◇
離れの部屋へ戻っても、明かりを灯す気にはなれなかった。
暗闇の中で、私はただ座り込んでいた。
——あの令嬢の闇属性魔力は、あまりにも強大すぎる。
——殿下の身体に負担が蓄積しているのです。
医師の言葉が、何度も耳の奥で繰り返される。
「……あは、は……」
乾いた笑いが漏れた。可笑しくてたまらない。
私は、レオナルドを守りたかった。
闇属性というだけで遠ざけられてきた私を、彼だけは怖がらなかった。初めて会った日に魔法を撃っても、また来た。私の名前を聞いて、いい名前だと笑ってくれた。
誰にも見つけてもらえないと思っていた暗闇の中で、私を見つけるための合図まで、一緒に作ってくれた。
そして、私がいいと言ってくれた。私を選んで、抱きしめてくれた。
それなのに。
その幸せを重ねるほど、私は彼を傷つけていたのだ。
机の上には、入学式に渡そうと思っていた白いハンカチが置いてある。向かい合う二つの三日月。それぞれの誕生花。そして、アシュフォード公爵家の紋章。
彼に持っていてほしくて、ひと針ずつ縫ったものだった。
——あなたには、私がいる。
そう伝えたかった。
けれど今は、その言葉さえ残酷に思えた。
『そんなもの、死ぬのと同じだ』
——どうして、そんなに優しいの。
私を失うことが死ぬことだなんて、言わないで。
あなたが明日も、その先も、眩しい太陽の下で生きていてくれるなら、私は何千回だって死ねるというのに。
頬を伝う涙を、拭う気にもなれなかった。
あなたが笑う未来に、私は必要ない。
いいえ。
私がいてはいけない。
「……決めたわ」
声に出すと、少しだけ呼吸ができた。
けれど、ただ離れるだけでは意味がないことも分かっていた。
レオナルドは、絶対に諦めない。どれだけ拒絶しても、どれだけ嫌われるような態度を取っても、あの人はきっと、また手を伸ばしてくる。
初めて会ったあの日から、ずっとそうだったのだから。
だから、決めた。
このままでは、駄目だと。
私は、あの人が私のいない未来を選べる方法を、見つけなければならない。




