第21話 俺が欲しいのは
季節外れのスイートピーが、丘一面で静かに揺れていた。
甘く淡い香りが、風に乗って広がっていく。
最近のレオナルドは以前にも増して忙しそうで、その日も隠し通路の向こうから姿を現したのは、いつもより少し遅い時間だった。
「悪い、待たせた」
聞き慣れた声に、本へ落としていた視線をゆっくりと上げる。
「別に」
素っ気なく返すと、レオナルドは苦笑しながら私の隣へ腰を下ろした。
そのまま軽く肩の力を抜き、小さく息を吐く。
その仕草が妙に疲れて見えて、思わず眉間に皺がよる。
「……疲れてるの?」
問いかけると、レオナルドは空を見上げたまま、少し面倒そうに口を開いた。
「最近、周りがうるさくてな」
「王太子は大変ね」
その声音には、露骨な嫌気が滲んでいた。
どこか他人事のように返せば、レオナルドがちらりとこちらへ視線を向けた。
「お前も無関係じゃないぞ」
「……は?」
「半年後には学園だろ」
意味が分からず、思わず眉間に皺がよる。
たしかに、貴族は学園に行くのは義務だ。
それは私も例外ではない。
「それが何?」
「何って……婚約者探しの時期だ」
一瞬、言葉の意味が理解できなかった。
「……婚約者?」
「貴族はだいたい学園で相手決めるだろ。まあ昔から決まってるやつもいるけど」
初めて聞いた。
そんな“当たり前”を、自分は知らなかったのだと、その瞬間ようやく理解する。
「……そういうものなの」
「お前、本当に知らなかったのか?」
「……知らないわよ、そんなの」
少しだけ驚いたような声に、思わず視線を逸らした。
社交界にもほとんど出ない。
屋敷でも孤立している。
貴族令嬢同士の話題など、知る機会もなかった。
その沈黙だけで察したのか、レオナルドは小さく息を吐いた。
「……悪い」
「別に」
謝られる方が嫌だった。
惨めになる。
だから私は、それ以上その話を広げないよう視線を落とす。
けれど、一度知ってしまった以上、考えずにはいられなかった。
半年後。
学園へ入れば、レオナルドの周囲にはさらに多くの令嬢が集まる。
王太子妃候補。
未来の婚約者。
王太子の隣に立つ、誰か。
それはきっと、もっと明るくて。
もっと美しくて。
誰からも愛されるような令嬢なのだろう。
——少なくとも、自分ではない。
そう思った瞬間、なぜか息が苦しくなった。
レオナルドが誰かと並んで笑う姿を想像してしまったから。
知らない令嬢へ向ける優しい声。
自然に触れる指先。
自分には向けられない笑顔。
想像しただけで、胸の奥が嫌に痛んだ。
(……何、これ)
自分でも分からなかった。
苛立ちとは違う。
怒りでもない。
ただ、胸の奥をじわじわと焼くような感覚だ。
そのくせ、レオナルドが自分を見て笑うだけで、簡単に安心してしまう。
隣に来るだけで嬉しくなって。
声を聞くだけで、張り詰めていたものが緩んでいく。
そんな自分に気づくたび、見て見ぬふりをしていた。
認めてしまえば、終わる気がしたから。
——好きなのだと。
そんなこと、認められるわけがなかった。
闇属性。
公爵家の厄介者。
家族からさえ疎まれてきた自分が、王太子を好きになっていいはずがない。
なのに、レオナルドが“王太子妃候補”の話題を嫌そうにするたび、少しだけ安心してしまう自分がいた。
そして同時に、気づいてしまった。
ああ、自分はもう、とっくに手遅れなのだと。
その感情から逃げるように、わざと軽い口調で言った。
「それで? 王太子殿下は大変そうね」
「何が」
「婚約者候補。みんな必死なんでしょう?」
軽く言ったつもりだったけれど、レオナルドは、露骨に嫌そうな顔をした。
「ああ。最近ひどい」
「……そんなに?」
「茶会開けば令嬢が増えるし、廊下歩けば偶然装って話しかけられるし、父親連中は娘推してくるし」
その光景を想像してしまった瞬間、胸の奥がちくりと痛んだ。
知らない令嬢たちに囲まれるレオナルド。
楽しそうに笑いかけられて、隣に並ばれる。
——嫌だ、と。
一瞬そう思ってしまった自分に、内心で戸惑う。
だから誤魔化すように、小さく笑った。
「ふふっ」
「笑い事じゃない」
「でも人気者なのは事実でしょう?」
「いらない人気だな」
本気で嫌そうな顔だった。
思わず首を傾げると、レオナルドは小さく息を吐く。
「みんな見てるのは“王太子”だろ」
「……」
「肩書きとか、立場とか、利用価値とか。そんなのばっかりだ。俺自身を見てくるやつなんて、ほとんどいない」
どこか諦めたような声だった。
その言葉に、一瞬だけ言葉を失う。
「……まあ、王太子だもの。欲しいものは、何でも手に入る立場でしょう? 仕方ないわ」
半分冗談みたいに言ったはずだった。
けれどレオナルドは、すぐに眉を寄せる。
「仕方なくない。欲しいものが簡単に手に入るなら、俺はこんなに苦労してない」
「……は?」
「毎日会いに来て、機嫌取って、囲い込んで、必死にアピールしてるのに」
そこで少し拗ねたみたいに口を尖らせる。
「肝心のお前には、全然伝わってないしな」
何を言われているのか、本気で分からない。
それが顔に出てきたのか、レオナルドは呆れたように息を吐いた。
「……だから、俺の中ではとっくに決まってるんだよ」
「そうなの……」
「なのに周りだけが勝手に騒いでる」
「でも、選ばなきゃいけないんでしょう?」
「選ぶ相手は決まってる」
あまりにも自然に言われて、一瞬反応できなかった。
「……は?」
「だから、決まってるって言った」
レオナルドは当然のように続ける。
「なのに周りが勝手に騒いでるだけだ」
胸が、妙にざわつく。
けれど、それが自分に関係ある話だとは思わなかった。
「まぁ、王太子なら選びたい放題だものね」
「何が?」
「王太子妃候補でしょ?」
なるべく軽く言ったつもりだった。
なのに、レオナルドはじっとこちらを見る。
「……何だそれ」
「何って、そのままの意味よ」
「お前、まさか……学園行ったら誰か選ぶと思ってるのか?」
「普通はそうなのでしょう?」
「普通じゃない」
その答えに目を瞬かせる。
レオナルドは真っ直ぐこちらを見たまま、静かに言った。
「俺は、お前を離す気ないぞ」
「……は?」
風が止まった気がした。
間の抜けた声が漏れる。
何を言われたのか、一瞬理解できなかった。
「な、何言って——」
「そのままの意味」
レオナルドは妙に落ち着いた顔で続ける。
「学園行こうが何しようが、俺の隣にいるのはお前だ」
「……っ」
心臓が、大きく跳ねた。
そんなこと、平然と言わないでほしい。
「意味分かって言ってる?」
「分かってる」
「私は闇属性よ」
「ああ」
「評判だって最悪」
「知ってる」
「性格も悪いし」
「それは今さらだな」
「……喧嘩売ってるの?」
「違う」
レオナルドは少しだけ笑って、それから不意に真面目な顔になった。
「全部知った上で言ってる。……お前が自分をどう思ってるかも、だいたい分かる」
返す言葉が出なかった。
レオナルドは小さく息を吐き、少し困ったように笑う。
「お前さ、自分のことになると本当に鈍いよな」
「……何よ、それ」
「周り見えてないの、お前の方だぞ」
意味が分からず眉を寄せる私に、レオナルドは呆れたように肩を竦めた。
「……分かったようなこと言わないで」
「分かるよ」
静かなのに、不思議なくらい迷いがない声だった。
「お前、自分が愛される側だと思ってないだろ」
その一言が、胸の奥を正確に抉った。
言葉が出ない。
否定も、できない。
そんな私を見て、レオナルドは困ったように小さく息を吐く。
「俺、わりと頑張ってたんだけどな」
「……は?」
「気づいてないの、お前だけだぞ」
意味が分からず眉を寄せると、レオナルドは呆れたように続けた。
「好きでもない相手のところに、毎日来るわけないだろ」
その言葉に心臓が、止まりそうになる。
「え……?」
「隠し通路まで使って、お前に会いに来てたんだぞ」
「……っ」
言葉を失う私を見て、レオナルドは肩を竦めた。
「お前、俺がどれだけ囲い込んでると思ってる」
「……は?」
「お前の周り、男寄せつけないようにするの、わりと大変なんだけど。……まぁ、一番大変だったのは、エドガーのやつを遠ざけることだったけどな」
ふと零された言葉に、思わず目を瞬かせる。
「……え? エドガー?」
「いや、なんでもない。……あいつの話はいい。今はどうでもいいだろ」
「……なにそれ」
本気なのか冗談なのか分からない。
エドガーのことは置いておいても、貴族として交流の機会なんて、今まで片手で数えられるくらいしかないし、そんな感じではなかった。
けれどレオナルドは平然と続ける。
「学園なんか入ったら、絶対面倒になるだろ」
「意味分からないわ」
「分かれ」
少し不貞腐れたような声音だった。
レオナルドはまっすぐ私を見つめたまま、静かに口を開く。
「俺が欲しいのは、お前だよ」
その瞬間、呼吸が止まった気がした。
まるで逃げ道を塞ぐように向けられる視線から、目を逸らせない。
冗談でも、気まぐれでもない。
その声は驚くほど真剣で、迷いがなかった。
けれどそれがあまりにも自然で。
まるでずっと前から決まっていたことみたいで。
胸の奥が、どうしようもなく熱くなる。
こんなふうに真っ直ぐ欲しいと言われたことなんて、一度もなかった。
闇属性の令嬢。
厄介者。
家族からさえ疎まれてきた存在。
それが、自分だったはずなのに。
「俺は、お前がいい」
重ねられた言葉が、胸の奥へ深く落ちていく。
どうしてそんなふうに言えるのか分からない。
どうして自分を選べるのかも、理解できない。
それでも。
その眼差しが、自分だけを見ているのだと分かってしまって——もう、逃げられなかった。
「お前が俺を守ろうとするところも。面倒そうな顔して、結局放っておけないところも。本当は優しいところも—— 全部知ってる」
そこでレオナルドは少しだけ笑った。
胸が苦しい。
こんなの、ずるい。
好きにならない方が、無理だった。
そんな私を見つめながら、レオナルドは静かに言う。
「だから——俺の恋人になってくれ」
風が、止まった気がした。
世界が静かになる。
「……っ」
喉が震える。
何か言わなきゃいけないのに、言葉にならない。
だって——こんなこと、一度も言われたことがなかった。
必要だと。
隣にいてほしいと。
自分が選ばれるなんて、思ったこともなかった。
「……後悔しても、知らないわよ」
やっと絞り出した声は、情けないくらい震えていた。
けれどレオナルドは迷いなく答える。
「しない」
即答したその声が、あまりにも真っ直ぐで。
気づけば、視界が滲んでいた。
「……ばか」
ほんの一瞬、信じられないものを見るような顔をして——。
次の瞬間、ふっと表情が崩れた。
今まで見たことがないくらい、嬉しそうに笑う。
「それ、肯定ってことでいいか?」
「……知らない」
顔を逸らしたまま答えると、レオナルドは堪えきれないみたいに笑った。
「今、たぶん人生で一番嬉しい」
「……大袈裟よ」
「大袈裟じゃない」
そのまま、引き寄せられる。
気づけば、優しく抱きしめられていた。
「グレースが公爵令嬢でよかったよ。……やっと抱きしめられる」
耳元で低く響いた声に、心臓が大きく跳ねる。
包み込んでくれる彼の体温は、私の冷え切った身体に驚くほど優しく馴染んで、じんわりと胸が熱くなった。
まるで、ずっと我慢していた願いが、ようやく叶ったみたいに。
レオナルドは壊れ物を扱うみたいに、優しくグレースを抱きしめていた。




