第21話 続くと思ってた幸せ
秋の終わりが近づき、丘を渡る風にも、少しずつ冷たさが混じり始めていた。
それでもレオナルドは、毎日のように私のもとへやって来る。
「……今日も来たの」
「恋人に会いに来るのは普通だろ」
隠し通路から姿を現した彼は、当然のようにそう答えると、私が何か言い返すより早く、迷いなく腕を広げた。
「……っ、ちょっと」
「ただいま」
「毎回抱きつかないで」
「無理」
即答だった。
呆れて眉を寄せる私をよそに、レオナルドは満足そうに息を吐く。
「やっぱ落ち着く」
「……意味が分からないわ」
「お前にだけだから、いいだろ」
耳元で囁かれた声があまりにも自然で、私は返す言葉に詰まった。
——恋人。
そうなったばかりだというのに、レオナルドはまるで、ずっと前から決まっていたことのように振る舞っている。けれど私は、いまだにその響きに慣れずにいた。
「……暇なの?」
「暇じゃない。めちゃくちゃ忙しい」
「じゃあ仕事しなさいよ」
「だから癒やされに来た」
さらりと言われ、私はますます何も言えなくなった。
恋人になってから、彼は明らかに遠慮がなくなった。隣に座るのも、髪に触れるのも、こうして抱きしめるのも、何もかもが自然すぎて困ってしまう。
少し前まで、指先が触れるだけで驚いていたというのに。
「……お前さ」
ようやく腕を緩めたレオナルドが、私の顔を覗き込んできた。
「また顔赤い」
「赤くない」
「赤い」
「うるさい」
軽く睨むと、彼は楽しそうに笑った。
「ほんと分かりやすくなったな」
「誰のせいよ」
「俺」
「自覚あるのね」
「ある」
迷いのない返事に、思わず唇を尖らせる。そういうところが、ずるい。
私は彼から少し離れ、いつもの場所へ腰を下ろした。持ってきた本を開いてみたものの、隣からじっと見つめられている気配がして、文字を追うどころではない。
「……何?」
「いや、恋人だなって」
「意味分からないわ」
「好きな子が隣にいる」
「……っ」
そんなことを平然と言わないでほしい。
慌てて本へ視線を落とすと、レオナルドが少し身を屈め、こちらを覗き込んだ。
「なあ」
「……何よ」
「顔、隠すなよ」
「誰のせいだと思ってるの」
「俺だろ?」
分かっているくせに。
恨めしく見上げると、彼はますます嬉しそうに笑った。
「毎回そういうこと言うの、やめて」
「なんで?」
「……恥ずかしいから」
小さく答えた途端、レオナルドの目が見開かれた。
しまった、と思ったときにはもう遅い。
「……今の反則だろ」
「何が」
「可愛い」
「黙って」
本で顔を隠すと、その上から笑い声が降ってきた。
本当に、調子が狂う。
以前なら、どれほどからかわれても言い返す余裕があったはずなのに、最近はレオナルドが笑うだけで胸が落ち着かなくなる。しかも彼は、そんな私の変化を一つも見逃してくれない。
「なあ。一回だけでいいからさ」
ふいに声の調子が変わった。妙に期待のこもった響きに、嫌な予感がする。
「……何?」
「レオって呼んで」
頁をめくろうとしていた指が止まった。
「嫌」
「即答!?」
「恥ずかしい」
「恋人なのに!?」
「だからよ!」
思わず声が大きくなる。
レオナルドはわざとらしく肩を落とし、いかにも傷ついたような顔をした。
「ショックだ……」
「大袈裟」
「俺、めちゃくちゃ頑張ってるのに」
「それは知ってる」
「じゃあ、ご褒美ほしい」
「軽いわね……」
呆れてため息をついても、彼はまったく諦めなかった。
「一回だけ」
「嫌」
「お願い」
「断る」
「グレース」
「……なによ」
「レオ」
「嫌」
「レオ」
「子供なの?」
「恋人に名前呼ばれたい男心を理解してくれ」
真顔で言われ、私は思わず視線を逸らした。そんな顔をされると、断りづらい。
呼びたくないわけではない。むしろ、何度も口にしてみたいと思っている。ただ、本人を前にすると、どうしても恥ずかしくなってしまうのだ。
「……気が向いたら」
「え、それ未来ある?」
「知らない」
そっぽを向くと、隣のレオナルドがぱっと顔を明るくした。
「よし、希望見えた」
「単純ね……」
「好きな子関連だと単純になる」
また、そういうことを言う。
私は誤魔化すように咳払いをした。けれど、自分のたった一言で、彼がこんなにも喜んでくれることが、少しだけ嬉しかった。
◇
しばらく本を読んでいると、不意に腰へ腕が回った。
「……っ!? ちょっと、何して——」
「恋人っぽいこと」
当然のように言いながら、レオナルドは私を引き寄せる。肩が触れ合い、彼の体温が伝わってきた。
「離れて」
「嫌」
「即答しないで」
「最近ようやく触らせてくれるようになったのに」
「許可した覚えないわ」
「逃げなくなった」
そう言われると、返す言葉がなかった。
確かに、以前なら触れられた瞬間に身を引いていたはずだ。けれど今は、こうして抱き寄せられても、本気で嫌だとは思わない。むしろ、その腕の中にいると、少しだけ安心してしまう。
「お前、無意識にこっち寄ってくるよな」
「……そんなことない」
「ある」
レオナルドは楽しそうに笑い、私の髪へそっと頬を寄せた。
「会うたび抱きしめても怒られなくなったし」
「慣れただけよ」
「それを世間では絆されてるって言う」
「言わない」
即答すると、彼が吹き出した。
「でも、帰るとき毎回抱きしめ返してくれる」
「……っ」
図星だった。
初めの頃は、別れ際に抱きしめられるたび心臓がうるさくて、彼の顔をまともに見られなかった。それなのに最近は、腕を離される瞬間が少しだけ名残惜しい。
自分から抱きしめ返していることにも、気づいてはいた。ただ、知らないふりをしていただけだ。
「……グレース」
「何よ」
「好き」
「毎回言わないで」
「いつも思ってるから」
近くで笑う声に、私は顔を伏せた。
「……ずるい」
「うん」
否定しない。そんなところまで、ずるかった。
やがてレオナルドが時計を確かめ、小さく息を吐いた。
「じゃあ、俺そろそろ戻る」
「……そう」
仕事があるのだから、仕方がない。分かっているのに、返事は少しだけ小さくなった。
彼は立ち上がりかけた私を、もう一度ふわりと抱き寄せる。
「……また?」
「恋人だから」
耳元で笑われ、私は呆れたように息を吐いた。けれど、もう腕を振り払おうとは思わなかった。
代わりに、彼の背中へそっと手を回す。
レオナルドの腕に、ほんの少しだけ力がこもった。その温かさが、ひどく心地よかった。
◇
その頃から、私はこっそり刺繍を始めるようになった。
入学式の日に、レオナルドへ渡すためのハンカチ。白い布地を広げ、夜になると少しずつ針を進めていく。
刺繍するのは、アシュフォード公爵家の家紋と、私とレオナルド、それぞれの誕生花。そして、向かい合う二つの三日月。
——私たちだけの合図。
夕暮れの空に、二人で初めて浮かべた月。あのときのレオナルドの言葉を、今でも覚えている。
暗くても、お前がいるって分かる。
離れていても、同じ月を見ていると分かる。
だから、この模様だけは、どうしても入れたかった。
本当は、何かを贈るつもりなどなかった。けれど、学園へ入れば、レオナルドの周囲には今よりも多くの令嬢が集まるのだろう。
王太子妃候補。未来の婚約者。美しくて、優秀で、誰からも好かれるような令嬢たち。
そんな中で、私がどれほど不利なのかは分かっている。愛想もなければ、可愛げもない。彼の「好き」に、素直に同じ言葉を返すことさえできないのだから。
レオナルドは、そんな私を好きだと言ってくれる。毎日のように会いに来て、私の名前を呼び、何度でも想いを伝えてくれる。
それなのに私は、まだ一度も、ちゃんと答えられていない。
好きだと。
隣にいたいと。
あなたは、私にとって誰よりも特別なのだと。
だから、せめて形にしたかった。
——あなたには、私がいる。
そう伝えられるものを、彼に持っていてほしかった。
針を進めるたび、少しずつ模様が浮かび上がっていく。一針ごとに、言えなかった言葉を縫い込んでいくようだった。
完成したら、入学式の日に渡そう。そのときこそ、ちゃんと伝えられるだろうか。
そんなことを考えては、一人で顔を熱くしながら、私はまた針を動かした。
◇
それから、ある日のことだった。
いつもの丘で並んで過ごしていると、ふと会話が途切れた。けれど、沈黙は少しも苦しくなかった。
花を揺らす風の音が聞こえ、隣にはレオナルドがいる。それだけで、十分だった。
私は本を閉じ、何気なく彼の方を向いた。
「……レオ」
呼んでから、自分が何を口にしたのかに気づいた。
ぽつりと零れた、本当に小さな声だった。けれど、レオナルドの動きがぴたりと止まる。
「……今」
「聞き間違いじゃない?」
「もう一回」
「嫌」
即座に顔を逸らした。耳が熱い。きっと、今ものすごく赤くなっている。
けれど隣から聞こえてきたのは、からかう声ではなかった。
「……やばい。今、たぶん人生で一番幸せ」
あまりにも嬉しそうな声だった。
恐る恐る顔を向けると、レオナルドは私を見つめたまま、心から幸せそうに笑っていた。
「大袈裟」
「違う。俺、これだけで一年頑張れる」
「燃費どうなってるのよ……」
呆れたように返しながらも、胸の奥がじんわりと温かくなる。
私が名前を呼んだ。ただ、それだけのことで、この人はこんな顔をしてくれる。
もう一度呼んでほしそうに見つめてくるのが恥ずかしくて、私はまた本で顔を隠した。それでも、口元が緩むのは止められなかった。
毎日、彼が来るのを待っている。
会えれば嬉しくて、帰るときには少しだけ寂しい。彼の腕の中は温かくて、その声で名前を呼ばれるたび、私は自分がここにいてもいいのだと思える。
そんな日々が、いつの間にか当たり前になっていた。
明日もきっと、レオナルドは来る。
私はまた、呆れたふりをして彼を迎えるのだろう。そして入学式の日には、あのハンカチを渡す。
今度こそ、ちゃんと想いを伝えるために。
——どうして私は、この幸せがずっと続くと思ってしまったのだろう。




