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悪女と呼ばれる公爵令嬢のことだけ、なぜか王太子は思い出せない〜忘れているはずなのに、いつだって君だけが特別だった〜  作者: はな
第二部:追憶の公爵令嬢──ときどき公爵令息

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20/53

第20話 俺が欲しいのは



 季節外れのスイートピーが、丘一面で静かに揺れていた。風に運ばれてくる甘い香りを感じながら、私は膝の上に開いた本へ視線を落としていた。


 最近のレオナルドは、以前にも増して忙しそうだった。その日も、隠し通路から姿を現したのは、いつもより少し遅い時間だった。


「悪い、待たせた」

「別に」


 本から顔を上げて答えると、彼は苦笑しながら私の隣へ腰を下ろした。


 いつもならすぐに何か話し始めるのに、今日は肩の力を抜き、空を見上げて小さく息を吐く。その横顔が妙に疲れて見えて、私は思わず眉を寄せた。


「……疲れてるの?」

「最近、周りがうるさくてな」


 返ってきた声には、露骨な嫌気が滲んでいた。


「王太子は大変ね」


 少し他人事のように返すと、レオナルドがちらりとこちらを見た。


「お前も無関係じゃないぞ」

「……は?」

「半年後には学園だろ」


 確かに、貴族にとって学園への入学は義務だ。私も例外ではない。けれど、それが彼の忙しさとどう関係するのだろう。


「それが何?」

「何って……婚約者探しの時期だ」

「……婚約者?」

「貴族はだいたい学園で相手を決めるだろ。まあ、昔から決まってるやつもいるけど」


 私は思わず瞬きをした。そんなこと、初めて聞いた。


 社交界に出る機会はほとんどなく、屋敷の中でも孤立していた。貴族令嬢たちが普段どんな話をしているのかなど、知るはずもなかった。


「……そういうものなの」

「お前、本当に知らなかったのか?」

「……知らないわよ、そんなの」


 思わず視線を逸らす。驚かれると、知らなかった自分が余計に惨めに思えた。


 レオナルドもそれを察したのか、少しだけ声を落とした。


「……悪い」

「別に」


 謝られる方が嫌だった。


 私は本へ目を戻したが、もう文字は頭に入ってこなかった。半年後、学園へ入れば、レオナルドの周囲には今より多くの令嬢が集まる。


 王太子妃候補。未来の婚約者。いずれ彼の隣に立つ、誰か。


 それはきっと、明るくて、美しくて、誰からも愛されるような令嬢なのだろう。少なくとも、私ではない。


 そう思った瞬間、胸の奥が嫌なふうに痛んだ。


 知らない令嬢と並んで笑うレオナルド。彼女へ向けられる優しい声。私の知らない場所で、自然に触れ合う指先。


 想像しただけで、息が苦しくなる。


(……何、これ)


 怒っているわけではない。彼が王太子である以上、いつか婚約者を選ぶ日が来ることくらい、分かっていたはずなのに。


 それなのに、嫌だと思ってしまった。


 自分以外の誰かが、彼の隣にいることを。


 そのくせ、レオナルドがこちらを見て笑うだけで、張り詰めていた胸が簡単に緩む。彼が来れば嬉しくて、帰ると少し寂しい。声を聞きたくて、顔を見たくて、夕方になると無意識に隠し通路の方を見てしまう。


 ずっと、気づかないふりをしてきた。認めてしまえば、今までどおりではいられなくなる気がしたから。


 ——好きなのだと。


 そう認めることが、怖かった。


 闇属性の、公爵家の厄介者。家族からさえ疎まれてきた私が、王太子を好きになっていいはずがない。


 それなのに、彼が婚約者候補の話を嫌そうにするたび、安心してしまう自分がいた。


 ああ、もう。私はとっくに、手遅れだったのだ。


「それで? 王太子殿下は大変そうね」


 胸の内を悟られたくなくて、わざと軽い口調で尋ねる。


「何が?」

「婚約者候補。みんな必死なんでしょう?」


 するとレオナルドは、露骨に嫌そうな顔をした。


「ああ。最近ひどい」

「……そんなに?」

「茶会を開けば令嬢が増えるし、廊下を歩けば偶然を装って話しかけられるし、父親連中は娘を推してくるし」


 その光景が、容易に想像できてしまった。知らない令嬢たちに囲まれるレオナルド。彼の隣に並ぼうとする、美しい人たち。


 胸がちくりと痛む。


「ふふっ」

「笑い事じゃない」

「でも、人気者なのは事実でしょう?」

「いらない人気だな」


 本気で嫌そうな顔だった。


 レオナルドは膝に肘をつき、少しだけ視線を落とす。


「みんなが見てるのは『王太子』だろ」

「……」

「肩書きとか、立場とか、利用価値とか。そんなのばっかりだ。俺自身を見てくるやつなんて、ほとんどいない」


 その声には、聞き慣れない諦めが混じっていた。


 私は何も言えなくなった。レオナルドが王太子として扱われることを窮屈に思っているのは、知っていた。けれど、それほどまでに周囲の視線に疲れているとは思わなかった。


「……まあ、王太子だもの。欲しいものは何でも手に入る立場でしょう? 仕方ないわ」


 半分冗談のつもりだった。けれど、レオナルドはすぐに眉を寄せた。


「仕方なくない。欲しいものが簡単に手に入るなら、俺はこんなに苦労してない」

「……は?」

「毎日会いに来て、機嫌取って、囲い込んで、必死にアピールしてるのに」


 そこで少し拗ねたように口を尖らせる。


「肝心のお前には、全然伝わってないしな」


 私は固まった。


 ……お前?


「……だから、俺の中ではとっくに決まってるんだよ」

「そうなの……」

「なのに周りだけが勝手に騒いでる」

「でも、選ばなきゃいけないんでしょう?」

「選ぶ相手は決まってる」


 あまりにも自然に言われて、理解が追いつかなかった。


「……は?」

「だから、決まってるって言った」


 彼は当たり前のように続ける。


 その言葉に、胸がざわついた。もう誰かを選んでいるのだろうか。それとも、王家の中では相手が決まっているのだろうか。


 気になって仕方がないのに、聞く勇気はなかった。


「まあ、王太子なら選びたい放題だものね」

「何が?」

「王太子妃候補でしょ?」


 できるだけ軽く言ったつもりだった。けれど、レオナルドはじっと私を見つめた。


「……何だそれ」

「何って、そのままの意味よ」

「お前、まさか……学園に行ったら俺が誰か選ぶと思ってるのか?」

「普通はそうなのでしょう?」

「普通じゃない」


 その即答に、私は目を瞬かせた。


 そういえば、初めて会った頃も同じようなことを言っていた気がする。普通は来ないと告げた私に、平然と「俺、普通じゃないからな」と返した少年。


 あれから何度も、何度も。彼は私の予想を裏切って、会いに来てくれた。


 そのレオナルドが、今度はまっすぐ私を見て言った。


「俺は、お前を離す気ないぞ」

「……は?」


 風が止まった気がした。


「な、何言って——」

「そのままの意味」


 彼は不思議なくらい落ち着いていた。


「学園に行こうが何しようが、俺の隣にいるのはお前だ」

「……っ」


 心臓が、大きく跳ねる。そんなことを、どうして平然と言えるのだろう。


「意味、分かって言ってる?」

「分かってる」

「私は闇属性よ」

「ああ」

「評判だって最悪」

「知ってる」

「性格も悪いし」

「それは今さらだな」

「……喧嘩売ってるの?」

「違う」


 レオナルドは小さく笑った。それから、ふっと真面目な顔になる。


「全部知った上で言ってる。……お前が自分をどう思ってるかも、だいたい分かる」


 その眼差しから、目を逸らせなかった。


「お前さ、自分のことになると本当に鈍いよな」

「……何よ、それ」

「周りが見えてないの、お前の方だぞ」

「……分かったようなこと言わないで」

「分かるよ」


 静かなのに、迷いのない声だった。


「お前、自分が愛される側だと思ってないだろ」


 胸の奥を、正確に突かれた気がした。


 否定しようと口を開いたのに、何も言えない。


 愛される側。そんなふうに自分を考えたことなど、一度もなかった。


 誰かに好かれようとする前に、嫌われない方法を考える。何かを欲しがる前に、諦める理由を探す。そうしていれば、これ以上傷つかずに済むと思っていた。


 レオナルドは、困ったように息を吐いた。


「俺、わりと頑張ってたんだけどな」

「……は?」

「気づいてないの、お前だけだぞ」

「何に——」

「好きでもない相手のところに、毎日来るわけないだろ」


 その言葉に、心臓が止まりそうになった。


「え……?」

「隠し通路まで使って、お前に会いに来てたんだぞ」


 初めて会った日から、ずっと。


 来ないでと言っても、何度でも来た。私が一人でいるときには隣へ座り、名前を教えたときには、あんなに嬉しそうに笑ってくれた。


 その理由を、私はずっと考えないようにしていた。考えてしまえば、期待してしまうから。


「お前、俺がどれだけ囲い込んでると思ってる」

「……は?」

「お前の周りに男を寄せつけないようにするの、わりと大変なんだけど。……まあ、一番大変だったのは、エドガーのやつを遠ざけることだったけどな」

「……え? エドガー?」


 思わず聞き返した。


 エドガーが? あの、監視だと言い張っていたエドガーが?


「いや、何でもない。あいつの話はいい。今はどうでもいいだろ」

「……なにそれ」


 最近のレオナルドがエドガーへ妙に冷たい理由は、それなのだろうか。


 けれど、私が男性と知り合う機会など、これまでほとんどなかった。彼が言うほど誰かを遠ざける必要があったとも思えない。


 不思議に思っていると、レオナルドは少し不貞腐れたように続けた。


「学園なんか入ったら、絶対面倒になるだろ」

「意味分からないわ」

「分かれ」


 子供みたいな言い方だった。


 思わず笑いそうになった、そのとき。レオナルドは、まっすぐ私を見つめて口を開いた。


「俺が欲しいのは、お前だよ」


 呼吸が止まった気がした。


 冗談でも、気まぐれでもない。その声には、少しの迷いもなかった。


「俺は、お前がいい」


 重ねられた言葉が、胸の奥へ深く落ちていく。


 私はずっと、誰かに選ばれるような人間ではないと思っていた。闇属性の令嬢。公爵家の厄介者。家族からさえ疎まれてきた存在。


 それが自分だったはずなのに。


 レオナルドは、そんな私を見つめたまま、少しだけ笑った。


「お前が俺を守ろうとするところも。面倒そうな顔をして、結局放っておけないところも。本当は優しいところも——全部知ってる」


 胸が苦しかった。この人は、私が隠してきたものまで、どうしてそんなふうに見つけてしまうのだろう。


 ウサギを守ろうとしていたことも。一人でいることに慣れたふりをしていたことも。誰かが来るのを待つようになったことも。


 全部、知っている。


 それなのに、私がいいと言う。


 好きにならない方が、無理だった。


「だから——俺の恋人になってくれ」


 風に揺れていたスイートピーの音が、急に遠くなった。


「……っ」


 何か答えなければいけないのに、うまく言葉にならない。


 嬉しい。怖い。信じたい。けれど、こんな幸せを自分が受け取っていいのか分からない。


 ぐちゃぐちゃになった気持ちの中で、ようやく一つだけ、言葉を見つけた。


「……後悔しても、知らないわよ」


 情けないくらい、声が震えていた。


 レオナルドは少しも迷わず答える。


「しない」


 その即答に、視界が滲んだ。


「……ばか」


 何とかそれだけ言うと、彼は一瞬、信じられないものを見るような顔をした。それから、ふっと表情を崩す。


 今まで見たことがないくらい、嬉しそうな笑顔だった。


「それ、肯定ってことでいいか?」

「……知らない」


 顔を逸らしたまま答えると、レオナルドが堪えきれないように笑った。


「今、たぶん人生で一番嬉しい」

「……大袈裟よ」

「大袈裟じゃない」


 そう言って、彼は少しだけ腕を広げた。


 私はそれを見つめ、ためらってから、ほんの小さく頷いた。


 次の瞬間、優しく抱き寄せられる。


「グレースが公爵令嬢でよかったよ。……やっと抱きしめられる」


 耳元で響いた声に、心臓が大きく跳ねた。


 私が公爵令嬢であることを、彼は知っていたのだ。けれど、そんなことは今さらだった。


 この人はずっと、私をグレースと呼んでくれた。家名を知る前も、知った後も、態度を変えなかった。


 だからこそ、今もこうして腕の中にいられるのだと思えた。


 包み込む体温が、冷えていた身体へゆっくりと馴染んでいく。私はそっと、彼の背中へ手を回した。


 レオナルドが小さく息を呑む。


「……グレース?」

「……何よ」

「いや。嬉しくて」

「……ばか」


 今度は少しだけ、笑いながら言えた。


 いつか彼が来なくなる日を想像するたび、怖かった。誰かを好きになっても、きっと報われないと思っていた。


 それなのに今、彼はここにいる。私を抱きしめ、離したくないと言ってくれている。


 その温かさを、もう少しだけ信じてみたかった。


 ——私は、この人の恋人になった。







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