第20話 俺が欲しいのは
季節外れのスイートピーが、丘一面で静かに揺れていた。風に運ばれてくる甘い香りを感じながら、私は膝の上に開いた本へ視線を落としていた。
最近のレオナルドは、以前にも増して忙しそうだった。その日も、隠し通路から姿を現したのは、いつもより少し遅い時間だった。
「悪い、待たせた」
「別に」
本から顔を上げて答えると、彼は苦笑しながら私の隣へ腰を下ろした。
いつもならすぐに何か話し始めるのに、今日は肩の力を抜き、空を見上げて小さく息を吐く。その横顔が妙に疲れて見えて、私は思わず眉を寄せた。
「……疲れてるの?」
「最近、周りがうるさくてな」
返ってきた声には、露骨な嫌気が滲んでいた。
「王太子は大変ね」
少し他人事のように返すと、レオナルドがちらりとこちらを見た。
「お前も無関係じゃないぞ」
「……は?」
「半年後には学園だろ」
確かに、貴族にとって学園への入学は義務だ。私も例外ではない。けれど、それが彼の忙しさとどう関係するのだろう。
「それが何?」
「何って……婚約者探しの時期だ」
「……婚約者?」
「貴族はだいたい学園で相手を決めるだろ。まあ、昔から決まってるやつもいるけど」
私は思わず瞬きをした。そんなこと、初めて聞いた。
社交界に出る機会はほとんどなく、屋敷の中でも孤立していた。貴族令嬢たちが普段どんな話をしているのかなど、知るはずもなかった。
「……そういうものなの」
「お前、本当に知らなかったのか?」
「……知らないわよ、そんなの」
思わず視線を逸らす。驚かれると、知らなかった自分が余計に惨めに思えた。
レオナルドもそれを察したのか、少しだけ声を落とした。
「……悪い」
「別に」
謝られる方が嫌だった。
私は本へ目を戻したが、もう文字は頭に入ってこなかった。半年後、学園へ入れば、レオナルドの周囲には今より多くの令嬢が集まる。
王太子妃候補。未来の婚約者。いずれ彼の隣に立つ、誰か。
それはきっと、明るくて、美しくて、誰からも愛されるような令嬢なのだろう。少なくとも、私ではない。
そう思った瞬間、胸の奥が嫌なふうに痛んだ。
知らない令嬢と並んで笑うレオナルド。彼女へ向けられる優しい声。私の知らない場所で、自然に触れ合う指先。
想像しただけで、息が苦しくなる。
(……何、これ)
怒っているわけではない。彼が王太子である以上、いつか婚約者を選ぶ日が来ることくらい、分かっていたはずなのに。
それなのに、嫌だと思ってしまった。
自分以外の誰かが、彼の隣にいることを。
そのくせ、レオナルドがこちらを見て笑うだけで、張り詰めていた胸が簡単に緩む。彼が来れば嬉しくて、帰ると少し寂しい。声を聞きたくて、顔を見たくて、夕方になると無意識に隠し通路の方を見てしまう。
ずっと、気づかないふりをしてきた。認めてしまえば、今までどおりではいられなくなる気がしたから。
——好きなのだと。
そう認めることが、怖かった。
闇属性の、公爵家の厄介者。家族からさえ疎まれてきた私が、王太子を好きになっていいはずがない。
それなのに、彼が婚約者候補の話を嫌そうにするたび、安心してしまう自分がいた。
ああ、もう。私はとっくに、手遅れだったのだ。
「それで? 王太子殿下は大変そうね」
胸の内を悟られたくなくて、わざと軽い口調で尋ねる。
「何が?」
「婚約者候補。みんな必死なんでしょう?」
するとレオナルドは、露骨に嫌そうな顔をした。
「ああ。最近ひどい」
「……そんなに?」
「茶会を開けば令嬢が増えるし、廊下を歩けば偶然を装って話しかけられるし、父親連中は娘を推してくるし」
その光景が、容易に想像できてしまった。知らない令嬢たちに囲まれるレオナルド。彼の隣に並ぼうとする、美しい人たち。
胸がちくりと痛む。
「ふふっ」
「笑い事じゃない」
「でも、人気者なのは事実でしょう?」
「いらない人気だな」
本気で嫌そうな顔だった。
レオナルドは膝に肘をつき、少しだけ視線を落とす。
「みんなが見てるのは『王太子』だろ」
「……」
「肩書きとか、立場とか、利用価値とか。そんなのばっかりだ。俺自身を見てくるやつなんて、ほとんどいない」
その声には、聞き慣れない諦めが混じっていた。
私は何も言えなくなった。レオナルドが王太子として扱われることを窮屈に思っているのは、知っていた。けれど、それほどまでに周囲の視線に疲れているとは思わなかった。
「……まあ、王太子だもの。欲しいものは何でも手に入る立場でしょう? 仕方ないわ」
半分冗談のつもりだった。けれど、レオナルドはすぐに眉を寄せた。
「仕方なくない。欲しいものが簡単に手に入るなら、俺はこんなに苦労してない」
「……は?」
「毎日会いに来て、機嫌取って、囲い込んで、必死にアピールしてるのに」
そこで少し拗ねたように口を尖らせる。
「肝心のお前には、全然伝わってないしな」
私は固まった。
……お前?
「……だから、俺の中ではとっくに決まってるんだよ」
「そうなの……」
「なのに周りだけが勝手に騒いでる」
「でも、選ばなきゃいけないんでしょう?」
「選ぶ相手は決まってる」
あまりにも自然に言われて、理解が追いつかなかった。
「……は?」
「だから、決まってるって言った」
彼は当たり前のように続ける。
その言葉に、胸がざわついた。もう誰かを選んでいるのだろうか。それとも、王家の中では相手が決まっているのだろうか。
気になって仕方がないのに、聞く勇気はなかった。
「まあ、王太子なら選びたい放題だものね」
「何が?」
「王太子妃候補でしょ?」
できるだけ軽く言ったつもりだった。けれど、レオナルドはじっと私を見つめた。
「……何だそれ」
「何って、そのままの意味よ」
「お前、まさか……学園に行ったら俺が誰か選ぶと思ってるのか?」
「普通はそうなのでしょう?」
「普通じゃない」
その即答に、私は目を瞬かせた。
そういえば、初めて会った頃も同じようなことを言っていた気がする。普通は来ないと告げた私に、平然と「俺、普通じゃないからな」と返した少年。
あれから何度も、何度も。彼は私の予想を裏切って、会いに来てくれた。
そのレオナルドが、今度はまっすぐ私を見て言った。
「俺は、お前を離す気ないぞ」
「……は?」
風が止まった気がした。
「な、何言って——」
「そのままの意味」
彼は不思議なくらい落ち着いていた。
「学園に行こうが何しようが、俺の隣にいるのはお前だ」
「……っ」
心臓が、大きく跳ねる。そんなことを、どうして平然と言えるのだろう。
「意味、分かって言ってる?」
「分かってる」
「私は闇属性よ」
「ああ」
「評判だって最悪」
「知ってる」
「性格も悪いし」
「それは今さらだな」
「……喧嘩売ってるの?」
「違う」
レオナルドは小さく笑った。それから、ふっと真面目な顔になる。
「全部知った上で言ってる。……お前が自分をどう思ってるかも、だいたい分かる」
その眼差しから、目を逸らせなかった。
「お前さ、自分のことになると本当に鈍いよな」
「……何よ、それ」
「周りが見えてないの、お前の方だぞ」
「……分かったようなこと言わないで」
「分かるよ」
静かなのに、迷いのない声だった。
「お前、自分が愛される側だと思ってないだろ」
胸の奥を、正確に突かれた気がした。
否定しようと口を開いたのに、何も言えない。
愛される側。そんなふうに自分を考えたことなど、一度もなかった。
誰かに好かれようとする前に、嫌われない方法を考える。何かを欲しがる前に、諦める理由を探す。そうしていれば、これ以上傷つかずに済むと思っていた。
レオナルドは、困ったように息を吐いた。
「俺、わりと頑張ってたんだけどな」
「……は?」
「気づいてないの、お前だけだぞ」
「何に——」
「好きでもない相手のところに、毎日来るわけないだろ」
その言葉に、心臓が止まりそうになった。
「え……?」
「隠し通路まで使って、お前に会いに来てたんだぞ」
初めて会った日から、ずっと。
来ないでと言っても、何度でも来た。私が一人でいるときには隣へ座り、名前を教えたときには、あんなに嬉しそうに笑ってくれた。
その理由を、私はずっと考えないようにしていた。考えてしまえば、期待してしまうから。
「お前、俺がどれだけ囲い込んでると思ってる」
「……は?」
「お前の周りに男を寄せつけないようにするの、わりと大変なんだけど。……まあ、一番大変だったのは、エドガーのやつを遠ざけることだったけどな」
「……え? エドガー?」
思わず聞き返した。
エドガーが? あの、監視だと言い張っていたエドガーが?
「いや、何でもない。あいつの話はいい。今はどうでもいいだろ」
「……なにそれ」
最近のレオナルドがエドガーへ妙に冷たい理由は、それなのだろうか。
けれど、私が男性と知り合う機会など、これまでほとんどなかった。彼が言うほど誰かを遠ざける必要があったとも思えない。
不思議に思っていると、レオナルドは少し不貞腐れたように続けた。
「学園なんか入ったら、絶対面倒になるだろ」
「意味分からないわ」
「分かれ」
子供みたいな言い方だった。
思わず笑いそうになった、そのとき。レオナルドは、まっすぐ私を見つめて口を開いた。
「俺が欲しいのは、お前だよ」
呼吸が止まった気がした。
冗談でも、気まぐれでもない。その声には、少しの迷いもなかった。
「俺は、お前がいい」
重ねられた言葉が、胸の奥へ深く落ちていく。
私はずっと、誰かに選ばれるような人間ではないと思っていた。闇属性の令嬢。公爵家の厄介者。家族からさえ疎まれてきた存在。
それが自分だったはずなのに。
レオナルドは、そんな私を見つめたまま、少しだけ笑った。
「お前が俺を守ろうとするところも。面倒そうな顔をして、結局放っておけないところも。本当は優しいところも——全部知ってる」
胸が苦しかった。この人は、私が隠してきたものまで、どうしてそんなふうに見つけてしまうのだろう。
ウサギを守ろうとしていたことも。一人でいることに慣れたふりをしていたことも。誰かが来るのを待つようになったことも。
全部、知っている。
それなのに、私がいいと言う。
好きにならない方が、無理だった。
「だから——俺の恋人になってくれ」
風に揺れていたスイートピーの音が、急に遠くなった。
「……っ」
何か答えなければいけないのに、うまく言葉にならない。
嬉しい。怖い。信じたい。けれど、こんな幸せを自分が受け取っていいのか分からない。
ぐちゃぐちゃになった気持ちの中で、ようやく一つだけ、言葉を見つけた。
「……後悔しても、知らないわよ」
情けないくらい、声が震えていた。
レオナルドは少しも迷わず答える。
「しない」
その即答に、視界が滲んだ。
「……ばか」
何とかそれだけ言うと、彼は一瞬、信じられないものを見るような顔をした。それから、ふっと表情を崩す。
今まで見たことがないくらい、嬉しそうな笑顔だった。
「それ、肯定ってことでいいか?」
「……知らない」
顔を逸らしたまま答えると、レオナルドが堪えきれないように笑った。
「今、たぶん人生で一番嬉しい」
「……大袈裟よ」
「大袈裟じゃない」
そう言って、彼は少しだけ腕を広げた。
私はそれを見つめ、ためらってから、ほんの小さく頷いた。
次の瞬間、優しく抱き寄せられる。
「グレースが公爵令嬢でよかったよ。……やっと抱きしめられる」
耳元で響いた声に、心臓が大きく跳ねた。
私が公爵令嬢であることを、彼は知っていたのだ。けれど、そんなことは今さらだった。
この人はずっと、私をグレースと呼んでくれた。家名を知る前も、知った後も、態度を変えなかった。
だからこそ、今もこうして腕の中にいられるのだと思えた。
包み込む体温が、冷えていた身体へゆっくりと馴染んでいく。私はそっと、彼の背中へ手を回した。
レオナルドが小さく息を呑む。
「……グレース?」
「……何よ」
「いや。嬉しくて」
「……ばか」
今度は少しだけ、笑いながら言えた。
いつか彼が来なくなる日を想像するたび、怖かった。誰かを好きになっても、きっと報われないと思っていた。
それなのに今、彼はここにいる。私を抱きしめ、離したくないと言ってくれている。
その温かさを、もう少しだけ信じてみたかった。
——私は、この人の恋人になった。




