第19話 二人だけの秘密だった
グレース視点に戻ります。
翌日、エドガーは何事もなかったかのように、再び姿を現した。
アシュフォード公爵家の離れへ戻る途中、隠し通路の出口から出てきた彼を見つけ、私は思わず足を止める。
「……また来たの?」
昨日、あれだけ釘を刺したというのに。
けれどエドガーは悪びれる様子もなく、肩を竦めた。
「様子見だ」
「それを監視って言うのよ」
「違う」
返事は即答だった。
何が違うのかと問い詰めようとしたところで、背後からレオナルドが口を挟む。
「来るなと言ったはずだが」
「聞いていない」
「聞け」
「無理だ」
短いやり取りなのに、妙に息が合っていた。
言葉遣いは雑で、互いに遠慮もない。王太子と側近候補というより、昔からこうして言い合ってきた者同士のような空気が漂っている。
……変な関係。
そう思いながら、私は小さく息を吐いた。
「あなたたち、うるさいわ」
「すまない」
レオナルドが即座に謝る。
その様子を見て、エドガーがわずかに目を細めた。
「……お前、いつもそんな感じなのか」
「何がだよ」
「いや、別に」
エドガーはそれ以上何も言わなかったが、何かに納得したような顔をしている。
一方、レオナルドは気に入らなさそうに眉を寄せた。
私は二人を見比べ、もう一度ため息をつく。
どうやら、昨日で終わる話ではなかったらしい。
◇
それからというもの、これまで二人きりだった時間に、少しずつエドガーが混ざるようになった。
最初は「様子見だ」と言い張っていたくせに、気づけば当然のように姿を現す。追い返しても来るし、無視しても帰らない。
ただ、レオナルドのように勝手に話しかけてくることは少なかった。
彼は少し離れた場所に腰を下ろし、私たちのやり取りを黙って眺めていることが多い。
その視線が、最初のうちはどうにも落ち着かなかった。
大聖堂で魔力を鑑定されて以来、私は何度も似たような目を向けられてきたからだ。
何をするのか。
何ができるのか。
どれほど危険なのか。
私自身ではなく、私の中にある魔力を確かめようとする目。
エドガーも、そういう人間なのだろうと思っていた。
だからある日、私は真正面から尋ねた。
「で、何をしに来てるの」
エドガーは、読んでいた書類から顔を上げた。
「観察だ」
「嘘ね」
「……即答か」
「本当に観察だけが目的なら、もう十分でしょう。何日通うつもりなの?」
エドガーはしばらく黙っていたが、やがて書類を閉じた。
「君は危険人物とされている」
「そう」
「だが、実際は違う」
その言葉に、私は思わず彼を見つめた。
昨日の一件で、何か考えが変わったのだろうか。それとも、別の理由で警戒するようになったのか。
私は答えを急かさず、続きを促した。
「何が違うのかしら」
「合理的だ」
「…………」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
隣では、レオナルドが吹き出しかけ、慌てて咳払いをしている。
「……面白いこと言うのね」
「事実だ」
エドガーは真顔だった。
危険でも、不吉でもなく、合理的。
そんなふうに評されたのは、初めてかもしれない。
悪い気はしなかった。けれど、それだけで安心できるほど、私は人を信じるのが得意ではなかった。
「なら、質問」
私は一歩だけ距離を詰めた。
エドガーがわずかに身構える。
「あなたの『合理』は、誰のため?」
責めているわけではなかった。
この人が何を基準に判断し、何を守ろうとしているのか。ただ、それを知りたかった。
短い沈黙の後、エドガーは低い声で答えた。
「……レオナルドのためだ」
あまりにも迷いのない返事に、私は思わず小さく笑ってしまった。
「なら、不合格ね」
「……何?」
「前提が間違ってる」
エドガーの眉が寄る。
私はそのまま、隣に座るレオナルドへ視線を向けた。
「私は『危険』じゃない。私が危険になるかどうかは——」
そこで、ほんの少しだけ間を置く。
「この人次第よ」
「……俺?」
レオナルドが目を瞬かせた。
「ええ」
何が言いたいのか分からない、とでも言いたげな顔だった。
そういうところは、本当に変わらない。
私はそれ以上説明しなかった。
エドガーもすぐには口を開かず、しばらく私とレオナルドを見比べていた。
やがて、小さく息を吐く。
「……なるほどな」
「何が?」
レオナルドが尋ねる。
「お前は黙ってろ」
「なんでだよ」
また始まった。
私は呆れて本を開き直したが、口元が緩むのを止められなかった。
◇
三人で過ごす時間が増えても、エドガーは相変わらず素直ではなかった。
来る理由を尋ねれば「監視だ」と言い、レオナルドが文句を言えば平然と言い返す。
けれど、いつの間にか、彼がいることに私も慣れていた。
「また来たのか」
「邪魔か?」
「邪魔だ」
「ふふっ、素直ね」
思わず笑うと、レオナルドが不満そうにこちらを見た。
「……減らせないのか」
「減らせないな」
エドガーは即答した。
レオナルドの眉間に、さらに皺が寄る。
「諦めなさい」
私がそう言うと、今度は二人揃ってこちらを向いた。
「なぜ」
「あなたはもう関わってるから」
エドガーの問いに答えたつもりだったのに、レオナルドまで不服そうな顔をした。
まったく、どちらも面倒な人だ。
けれどエドガーは、私の言葉を否定しなかった。
少し考えるように視線を落とし、それから何事もなかったように腰を下ろす。
最初の頃、彼の視線は鋭かった。
こちらが何かを隠していないか、危険な行動を取らないか、隙なく見定めようとしているのが伝わってきた。
けれど最近は、少し違う。
レオナルドと言い合う私を見て、呆れたように息を吐くことがある。私が本へ目を落とせば、邪魔をせずに隣で自分の書類を開く。
気づけば、私も彼の前で必要以上に身構えなくなっていた。
何かを尋ねられても、答えたくなければ答えない。
気に入らないことを言われれば、遠慮なく言い返す。
それでもエドガーは、次に会ったとき、以前と変わらない態度で話しかけてくる。
……もしかして、これが『友達』というものなのだろうか。
レオナルドとは違う。
家族とも、離れの使用人たちとも違う。
名前を呼び、くだらないことで言い合い、少しずつ相手のことを知っていく。
そんな関係に、私が加わっていてもいいのだろうか。
答えは分からない。
ただ、エドガーが来るようになってから、レオナルドとの時間がつまらなくなったわけではなかった。
むしろ、二人が揃うと妙な言い合いが始まるので、退屈する暇がない。
私はまだ、人との繋がりにどんな名前をつければいいのか、ほとんど知らなかった。
けれど。
——悪くないわね。
そう思いながら、足元に咲くスイートピーへそっと触れた。
◇
その日の帰り際、私はふと思った疑問を口にした。
「……ねえ。あなたたち、仲いいの?」
「違う」
「違うな」
綺麗に声が重なった。
私は思わず吹き出しそうになる。
「……息ぴったりじゃない」
「違うって言ってるだろ」
「同意する」
「ほら」
二人は互いに顔を見合わせ、それから揃って嫌そうな顔をした。
なんだか、見ていて面白い。
「じゃあ何?」
「……側近候補?」
「そんなところだ」
レオナルドの答えに、エドガーが頷いた。
けれど、どう見てもただの主従には思えなかった。
遠慮なく言い返せるのも、相手が何を考えているかを少しの仕草で理解できるのも、長く一緒に過ごしてきたからなのだろう。
私が知らない、二人だけの時間がある。
そのことを、私は少しだけ羨ましいと思った。
「……そろそろ戻るぞ」
エドガーが立ち上がる。
「もう?」
思わず尋ねると、レオナルドがこちらを見た。
「仕事がある」
「王太子ね」
「一応な」
「一応って何よ」
呆れて笑うと、レオナルドもわずかに表情を緩めた。
エドガーは先に歩き出しかけたが、少し離れた場所で足を止める。
「……グレース」
呼ばれて、私は振り向いた。
「何?」
「また来る」
思いがけない言葉だった。
返事に迷っていると、隣からレオナルドが口を挟む。
「来なくていいぞ」
「お前には聞いてない」
「俺の話でもあるだろ」
「……あなたたち、最後までうるさいわね」
私がため息をつくと、エドガーはほんの少しだけ笑った。
それを見て、私も小さく頷く。
「……勝手にすれば」
初めてレオナルドにそう言った日のことを、ふと思い出した。
追い返したくて口にしたはずなのに、また来てほしいと思ってしまう。
あの頃の私は、そんな自分の気持ちに戸惑っていた。
今も、少しだけ似ている。
ただ、違うこともあった。
誰かが来るのを待つ時間が、もう一人分増えたのだ。
◇◇◇
グレースとエドガーが言葉を交わす様子を眺めながら、レオナルドは静かに視線を伏せた。
エドガーがここへ来るようになる前、この場所を知っていたのは自分だけだった。
丘に咲く花を眺めながら、呆れたようにため息をつく顔も。
皮肉を言いながら、わずかに口元を緩める瞬間も。
誰にも見せないように気を抜き、柔らかく笑う姿も。
そのすべてを、自分だけが知っているはずだった。
それなのに最近、グレースは以前よりよく笑うようになった。
エドガーに呆れ、時には諦めたように肩を竦め、ほんの少しだけ楽しそうに笑う。
他人を遠ざけていた彼女が、少しずつ誰かを受け入れ始めている。
本来なら、喜ばしいことだ。
しかも相手はエドガーだ。長年の付き合いがあり、能力も人柄もよく知っている。側近として、いずれ自分の傍に置くことになる人間でもある。
余計な心配をする必要など、どこにもない。
……頭では、分かっていた。
「……また来る」
そう言ったエドガーに、グレースが少し驚いた顔をした。
それから、あの懐かしい言葉を返す。
「……勝手にすれば」
レオナルドは思わず眉を寄せた。
それは、初めて会った日に自分へ向けられた言葉だった。
何度追い返されても会いに行き、ようやく受け入れてもらえたときのことを、今でも覚えている。
あのときのグレースは、もっと警戒していた。
なのに今は、エドガーにまで同じことを言う。
……面白くない。
自分だけが知っていた場所を、誰かが知っていく。
自分だけに向けられていた表情を、別の誰かも見るようになる。
彼女が笑うたびに嬉しいと思う気持ちは、確かにある。
それでも、エドガーへ向けられた笑顔を見ると、胸の奥がわずかにざわついた。
そして何より気に入らないのは、当のエドガー自身が、その視線の意味に気づいていないことだった。
無意識にグレースを目で追い、彼女が何か言えば反応する。自分へ向けられた言葉ではないと分かっていても、会話に耳を傾けている。
長年付き合ってきたからこそ、分かる。
あいつは、あんなふうに誰かを気にかける男ではなかった。
それなのに、本人はまだ、ただの様子見のつもりでいるらしい。
「……レオナルド?」
グレースに呼ばれ、レオナルドは顔を上げた。
「どうしたの? 難しい顔をして」
「……別に」
「本当に?」
「ああ」
レオナルドはいつものように笑い、彼女の隣へ歩み寄った。
グレースは少し不思議そうな顔をしたが、それ以上は尋ねてこなかった。
こんな感情を抱いていることなど、彼女はきっと気づいていない。
そして、おそらく。
エドガーの方も、まだ。
レオナルドは、二人が並んで歩く姿を一瞥し、小さく息を吐いた。
——本当に、面白くない。




