第18話 エドガーは見た②
「……随分と、楽しそうだな」
軽く投げかけたつもりだった。だが、自分でも分かるほど、その声には棘が混じっていた。
レオナルドは俺とグレースの間に立つように身じろぎし、露骨に眉をひそめる。
「……お前には関係ないだろ」
「関係ないで済む話か?」
「これは——」
言いかけたレオナルドは、そこで口を閉ざした。
いつもなら、面倒そうに言い返してくるはずだ。それなのに今は、何をどう説明すればいいのか迷っているように見える。
その様子を見て、俺はようやく理解した。
——ああ、本気なのか。
単なる気まぐれでここへ通っているわけではない。誰にも知られたくないほど、大切にしている時間なのだ。
「……言い訳はいい」
俺は視線をグレースへ戻した。
彼女は一歩も退かず、こちらをじっと見つめている。逃げるつもりはないらしい。だが、警戒を解く気もなさそうだった。
「……誰?」
「エドガーだ。レオナルドの……将来、側近になる予定の人間だ」
少し言葉を選んで答えると、グレースの紫の瞳がわずかに細められた。
俺がどのような立場でここにいるのか、理解したのだろう。
「……帰って。これ以上、踏み込まない方がいいわ」
その言葉は、レオナルドではなく俺に向けられていた。
「それは無理だな。もう見た」
「……だから?」
「見た以上、放置はできない」
レオナルドが何か言いかける。
「エドガー——」
「安心しろ。今すぐ誰かに言いふらすつもりはない。ただし、説明はしてもらう」
側近候補として、王太子が誰と会い、どこへ出入りしているのかを気にかけるのは当然のことだった。まして相手は、闇属性の魔力を持つアシュフォード公爵令嬢なのだから。
けれど、グレースは俺の言葉に怯えもしなかった。
むしろ、わずかにため息をつくと、レオナルドが口を開くより早く一歩前へ出た。
「……面倒なことになったわね」
「……で? 説明することなんてないけど?」
「王太子が護衛もつけず、秘密の通路を使って外へ出ている。それだけで十分問題だ」
「報告するつもり?」
「必要ならな」
「……誰に?」
「上に。王太子の行動として」
グレースは黙って俺を見つめた。
風が吹き抜け、足元の草が揺れる。その静けさに、レオナルドが耐えきれなくなったらしい。
「え、それ俺の話してる?」
「……今の流れで分からないか?」
「いや、分かるけど……なんか急に重くなったな」
のんきに頭をかくレオナルドを見て、グレースが深いため息をついた。
「あなたは黙ってて」
「え、俺空気?」
「そうよ」
「ひどい」
……こいつ、本当に王太子か。
俺の知るレオナルドは、少なくともこんな場面で呑気なことを言う男ではなかった。いや、昔から妙なところはあったが、ここまで遠慮なく扱われている姿を見るのは初めてだ。
しかも本人は、それを嫌がっていない。
「確認するだけだ。問題がないと分かれば——」
「問題しかないわよ」
「……何?」
「その『問題』って、何を基準にしているの?」
グレースの声音は落ち着いていた。だが、こちらの答えを曖昧なまま見逃すつもりはないらしい。
「王太子の行動だ。公的な責任が——」
「その『公的』って、どこから?」
言葉に詰まった。
俺が知りたいのは、レオナルドが秘密裏に公爵令嬢と会っている理由だ。だが、それを問題だと決めつけるには、二人の関係をほとんど知らない。
グレースは俺の沈黙を見て、静かに続けた。
「……私たち、二年前から会ってるの」
「……は?」
思わず聞き返した。
「昨日今日の話じゃないわ。あなたが見ているのは、今の私たちだけでしょう」
二年前。
頭の中で、その長さを繰り返す。
授業を終えると、いつもどこかへ姿を消していたレオナルド。最近になって気づいたつもりでいたが、俺が知らなかっただけで、もっと以前から続いていたのか。
「そんな記録は——」
「まあ、残ってないでしょうね」
グレースはさらりと言った。
記録がないからといって、存在しなかったことにはならない。
そう言われた気がした。
「え、俺そんな昔から来てたの?」
横からレオナルドが首を傾げた。
「今気づいたの?」
「いや、感覚的には……最近」
「それが問題なのよ」
呆れたように返すグレースを見て、レオナルドは少し考え込んだ。
「じゃあ俺、結構頑張ってた?」
「「そういう話じゃない」」
思わず、グレースと声が重なった。
……勘弁してくれ。
俺は額を押さえ、ゆっくり息を吐いた。
だが、顔を上げたとき、グレースはもう笑っていなかった。
「報告するなら、止めないわ」
「……」
「ただし、その報告が『正しいもの』になるとは限らない」
静かな声だった。
俺が見たのは、王太子と公爵令嬢が親しく会っている光景。それは事実だ。
しかし、なぜ会っているのか、何を話してきたのか、その間に何があったのか。
俺は何一つ知らない。
そして彼女は、俺の知らない二年間を、レオナルドと共に過ごしてきたのだ。
「……なるほどな」
ようやく、少しだけ見えてきた。
グレースは、自分が疑われることよりも、レオナルドの立場が悪くなることを警戒している。
王太子が秘密裏に会っていた令嬢。
その事実が誰かの都合のいいように扱われれば、彼にどんな影響が及ぶか分からない。
だからこそ、俺を簡単に近づけようとしないのだろう。
守られているだけの少女だと思っていた。
けれど、どうやら違う。
この子もまた、自分の意思でレオナルドを守ろうとしている。
「……面倒だな」
思わず本音が漏れた。
グレースは小さく笑う。
「そう思うなら、関わらなければいい」
「できないな。……見た以上は」
俺の答えに、彼女はそれ以上何も言わなかった。
レオナルドが、また横から口を挟む。
「見たら駄目だったやつ?」
「あなたは黙ってて」
「はい」
……本当に、何なんだ。この二人は。
俺は小さく息を吐き、踵を返した。
「報告は保留だ」
「……賢明ね。次に来るなら、『決めてから』来なさい」
背後から聞こえた声に、足を止める。
「……検討する」
そう答えて振り返りかけたとき、レオナルドと目が合った。
つい先ほどまでグレースに言い負かされていた少年の顔は、もうそこにはなかった。
静かに整えられた表情。
感情を表に出さず、それでもこちらへ明確な意思を伝える、王太子の目だった。
レオナルドは何も言わない。ただ一度だけ目を細め、視線を隠し通路の方へ向ける。
——執務室へ来い。
言葉にされなくても分かった。
俺はわずかに頷き、今度こそ丘を後にした。
背後では、もう普段どおりの声が聞こえている。
「で、さっきの続きだけどさ」
「続いてない」
「え、冷た」
グレースのため息を背中で聞きながら、俺は通路へ足を踏み入れた。
やがて二人の声が届かなくなる。
すると、不思議なことに、さっきまであれほど騒がしく感じていたやり取りが、妙に耳へ残った。
あの少女が笑うところを、俺は初めて見た。
そして、その笑顔を引き出したのがレオナルドだということも。
それだけは、忘れられそうになかった。
◇
王城へ戻ってからも、俺はすぐにはレオナルドの執務室へ向かわなかった。
まずは、頭の中を整理したかった。
大聖堂で見た少女。教えられてきた闇属性への警戒。そして、今日目にした二人の姿。
どれも事実なのに、うまく一つに繋がらない。
報告書に何を書けばいいのか考えていると、レオナルドから呼び出しがかかった。
王太子の執務室へ向かい、扉を叩く。
「入れ」
返ってきたのは、よく知る落ち着いた声だった。
部屋へ入ると、レオナルドは机に向かって書類を広げていた。
先ほどまで丘で笑っていた少年と同じ人物だとは思えないほど、いつもどおりの姿だった。
「……で、どういうつもりだ」
顔を上げたレオナルドが、静かに問う。
「それは俺が聞きたい」
「報告は?」
「例の件か」
「ああ」
レオナルドは書類を閉じた。
「やめておけ」
「……何故」
「彼女の件だ」
その声を聞いて、今度こそ確信した。
レオナルドは、グレースの闇属性について知った上で、あの場所へ通っている。
「……知っていたのか」
「最初からではない。だが、今は知っている」
彼は静かに答え、ペンを置いた。
「グレース・アシュフォード。公爵令嬢だ」
「……今日、初めて知ったように見えたが」
「ああ」
悪びれもせず頷かれ、俺は眉をひそめた。
「……ああ?」
「グレース本人から聞いたわけじゃないからな」
「……お前、知っていてとぼけたのか?」
「本人が名乗ってないのに、俺が先に言う必要もないだろ」
当然のように返され、俺は言葉に詰まった。
つまり、彼女が家名を伏せていたことも承知の上で、何も知らないふりをしていたということか。
……相変わらず、妙なところで気が回る男だ。
少なくとも、俺の前ではあんな間の抜けた顔など見せないくせに。
「それに、俺が会っていたのはグレースだ。公爵令嬢だからじゃない」
レオナルドはそう告げると、机上の書類へ視線を落とした。
「話はすでに通してある」
「……は?」
「父上に」
思考が止まった。
レオナルドは俺の反応など気にすることなく続ける。
「婚約者候補として、内密に扱う方向だ」
「……」
「だから、お前の報告は遅い」
……こいつ。
俺があの丘から戻って、どう報告すべきか悩んでいる間に、先回りしていたどころではなかった。
俺が二人の関係に気づくより前から、すでに動いていたのだ。
「公爵家の令嬢と王太子が個人的に接触している。それが問題にならないと?」
「問題にしないために、先に話を通したんだ」
レオナルドは椅子の背に身体を預けた。
「まだ正式に何かが決まったわけじゃない。だが、彼女との関係を誰かの都合で勝手に扱わせるつもりもない」
淡々とした言葉の奥に、揺るがない意思があった。
あの丘では、グレースに言い負かされてばかりいた男だ。
それが彼女のいない場所では、ここまで抜け目なく動いている。
グレースは、この顔を知っているのだろうか。
「……本人は知っているのか?」
「何を?」
「婚約者候補として話を通していることだ」
「まだ言ってない」
レオナルドはあっさり答えた。
「……お前な」
「今は、それを話すために会っているわけじゃないからな」
そう言ったときだけ、彼の表情がわずかに柔らかくなった。
あの丘で見せていた、少年らしい顔に少しだけ近づく。
けれど、次に俺を見据えたときには、もう王太子の表情へ戻っていた。
「ひとつ、訂正しておく」
「……何を」
「闇属性だから危険?」
思わず、息が詰まった。
「それとも、公爵令嬢だから利用価値があるとでも思っているのか」
「……」
「本気でそう考えているなら、お前は見誤っている」
レオナルドは立ち上がった。
怒鳴っているわけではない。だが、普段の軽口とは違う、冷えた声だった。
「彼女を『属性』で語るな」
反論しようとして、言葉が出なかった。
頭に浮かんだのは、大聖堂で見た少女の姿だった。
あの頃の彼女は、誰とも目を合わせず、ただ静かに立っていた。
けれど今日、俺が見たグレースは違った。
レオナルドに呆れ、皮肉を言い、ときには笑う。
そして、自分よりも先に立って、あいつを守ろうとしていた。
「……闇属性で、魔力量が多い。それは危険だと教えられていた」
気づけば、そう口にしていた。
レオナルドが小さく息を吐く。
「教えられたままか」
責めるような言い方ではなかった。
だからこそ、返す言葉が見つからない。
「なら聞くが、お前は今日、彼女を見て、本当に『危険な人間』だと思ったのか?」
俺は答えられなかった。
魔力の性質について、懸念すべきことがあるのは確かだ。王太子の立場を考えれば、慎重になる必要もあるだろう。
だが、それだけで彼女自身を危険だと決めつけていいのか。
もう一度、丘で見た光景を思い返す。
レオナルドの肩を軽く押し、呆れたように笑っていた少女。
こちらの正体を知ると、怯える代わりにレオナルドを庇うように前へ出た少女。
あれは、俺が教えられてきた言葉だけでは説明できない姿だった。
「……いや、違う。ただの……」
言いかけて、止まる。
ようやく、答えが見つかった。
「……ただの少女にしか見えなかった」
レオナルドの表情が、ほんのわずかに緩んだ。
「なら、それでいい」
そして、すぐにいつもの静かな顔へ戻る。
「余計な評価も、余計な監視もいらない。気になることがあるなら、俺に聞け」
「……婚約者候補、か」
「そうだ」
レオナルドは視線を逸らさなかった。
「だからといって、今までどおり会うのをやめるつもりもない」
あの丘で、グレースはレオナルドを守ろうとしていた。
そして今、レオナルドもまた、彼女を守ろうとしている。
どちらか一方が庇護されているのではない。
互いの知らないところで、互いのために動いているのだ。
「……分かった」
ようやくそう答えると、レオナルドは背を向けた。
「もし彼女に何かあれば——どうなるか分かっているな」
静かな声だった。
それでも、その一言には王太子としての威厳があった。
俺は短く一礼し、執務室を後にした。
廊下へ出て、ゆっくり息を吐く。
「……面倒なことになったな」
思わず呟いたが、もう報告書を書く気にはなれなかった。
レオナルドは本気だ。
しかも、あの丘で見せていた顔より、ずっと先のことまで考えている。
そして、その本気の中心にいるグレース本人は、おそらくまだ何も知らない。
あの少女がこれを知ったら、どんな顔をするだろう。
今日見たように呆れて、レオナルドへ何か言い返すのか。
それとも——。
そこまで考えて、俺は首を振った。
俺が想像したところで、仕方のないことだ。
ただ一つ、確かなのは。
今後、あいつを見失ったときに探す場所が、一つ増えたということだった。




