第17話 2人の合図
そんなある日のことだった。
その日、レオナルドは珍しく、言葉を選んでいるみたいだった。
いつもなら勝手に喋って笑うくせに、今日はどこか言葉を探しているみたいだった。
草の上へ寝転がったまま、ぼんやり空を見ている。
「……何?」
「いや」
珍しく歯切れが悪い。
少しだけ気になって見つめていると、レオナルドは諦めたみたいに息を吐いた。
「……明日、来れない」
その言葉に、胸の奥が小さく揺れた。
「……そう」
自分でも驚くほど、素っ気ない声だった。
たった一言、それだけだったのに。
レオナルドがじっとこちらを見る。
「……なんだよ、その顔」
「え?」
「めちゃくちゃ寂しそう」
どくり、と心臓が跳ねた。
慌てて顔を逸らす。
「そ、そんなことないわ」
「いや、してる」
「してない!」
思わず声が大きくなると、レオナルドが吹き出した。
「……っ、ふはっ」
「何よ!」
「いや、分かりやすすぎて」
「分かりやすくなんかない!」
熱くなる顔を隠すように睨みつける。
なのにレオナルドは、ますます楽しそうに笑っていた。
「別に、あなたが来ても来なくても、私には関係ないわ」
「へえ」
「本当よ」
「じゃあなんでそんな顔してんだ?」
言葉に詰まる。
自分でも分からなかった。
どうして、こんなにも落ち着かないのか。
……たった一日会えないだけなのに。
「……知らない。あなたこそ、いつもなんでこんなところに来るのよ」
小さく呟くと、レオナルドは少しだけ笑みを和らげた。
そのまま身体を起こし、真っ直ぐこちらを見る。
「俺は」
さっきまで笑っていた声が、不意に静かになる。
その変化に、思わず顔を上げた。
「俺は、お前に会いたいから来てるだけだ」
「——っ」
あまりにも真っ直ぐな声音に、息が止まりそうになる。
打算も、嘘もなくて、まるでそれが当然みたいに言うから。
胸の奥が、苦しいくらい熱くなる。
「……な、何言ってるの」
ようやく絞り出した声は、情けないくらい震えていた。
レオナルドは不思議そうに首を傾げる。
「変なこと言ったか?」
「言ったわよ……!」
こんなの、ずるい。
こんなふうに言われたことなんて、一度もなかった。
必要だからでもなく。
義務だからでもなく。
——ただ、“会いたいから”。
そんな理由で、誰かが自分を求めてくれるなんて。
「だから明日も、遅くなっても来る」
「……来なくていい」
「来る」
「来ないで」
「行く」
即答され、思わず顔をしかめる。
「……強引」
「お前が頑固なんだろ」
そう言って笑ったあと、レオナルドがふと思いついたみたいに空を見上げた。
「じゃあ、合図送る」
「……合図?」
「ああ。来たって分かるように」
そう言うと、レオナルドは小さく光魔法を灯した。
淡い金色の光だった。
けれどそれは輪郭がぼやけていて、夜空ではすぐに見失ってしまいそうだった。
「それじゃ見えないわ」
思わず呟くと、レオナルドがこちらを振り返った。
「じゃあお前、なんか出せるか?」
「……は?」
「お前の魔法」
一瞬ためらう。
闇魔法を、こんなふうに誰かへ見せることに慣れていなかった。
けれどレオナルドは、急かすことなく待っている。
その視線に負けるように、小さく息を吐いた。
指先へ魔力を集める。
浮かび上がったのは、細い黒の三日月だった。
欠けているのに、なぜか完成している形。
それは夜へ溶けそうなほど淡い闇だった。
「……これじゃ、余計見えないな」
「だから言ったでしょう」
レオナルドが苦笑しつつ、興味深そうにその闇へ光を重ねた。
まるで最初から、そうするのが当然だったみたいに。
淡い金色が、黒い三日月の輪郭をなぞる。
反発すると思っていた力が、まるでパズルのピースが嵌まるように、しっくりと馴染んでしまった。
「……っ」
思わず目を見開く。
闇だけでは見えなかった形が、夜の中へふわりと浮かび上がった。
その隣へ、レオナルドがもう一つ光の三日月を描く。
向かい合う、二つの月。
「……いいかも」
どこか嬉しそうに、レオナルドが笑った。
「これなら暗くても分かるだろ?」
「……変なの」
そう返しながらも、目が離せなかった。
三日月は、成長と幸福の象徴——
昔、本で読んだことがある。
欠けたまま終わらず、少しずつ満ちていく月は幸せへ向かう印なのだと。
だから好きだった。
誰にも言ったことはないけれど。
「……グレース?」
気づけばじっと見つめていたらしい。
レオナルドが不思議そうにこちらを覗き込む。
「なんでもないわ」
慌てて視線を逸らす。
言えるわけがない。
この合図を、大切だと思ってしまったなんて。
あなたが来るのを、待ちたいと思ってしまったなんて。
そんなの、絶対に知られたくなかった。
けれどレオナルドは、向かい合う二つの三日月を見上げたまま、小さく笑う。
「……でも、いいな。これ」
「え?」
「暗くても、お前がいるって分かる」
それだけ言って、本人はそれが特別な意味だとは思っていない顔をしていた。
その言葉は、暗闇に沈んでいた私を、彼が強引に光の下へ引きずり出した宣言のようにも聞こえた。
逃げられない。
でも、見つけてもらえる。
……その事実に、胸の奥が苦しいほど跳ねた。
恐怖よりも先に、泣き出したくなるような安堵が込み上げる。
——それが“嬉しい”という感情だとは、まだ知らなかった。
夜空に浮かぶ二つの三日月は、風に揺れながら静かに光っていた。
まるで、誰にも知られない秘密みたいに。
◇
それから数日後のことだった。
白いウサギは突然現れた。
「……またきたのね」
草むらの奥で、ぴょこん、と白い耳が揺れる。
小さく目を細めると、ウサギはまるで待っていたみたいにこちらを見上げた。
「お、あいつか!最近よく会うな」
「……そうね」
グレースがそっと近づこうとした瞬間、白い影がふいに跳ねる。
「あっ」
そのまま勢いよく駆け出したウサギを、反射的に追いかける。
「おい、待て!」
後ろからレオナルドの声が飛ぶ。
けれどウサギは振り返りもせず、細い獣道の奥へ消えていった。
「……っ、速い……」
枝を避けながら走る。
普段ほとんど走ることなんてないせいで、すぐ息が上がった。
それでも不思議と、見失いたくなかった。
白い背中だけを追いかけるみたいに、夢中で足を動かす。
「グレース!転ぶぞ!」
「転ばないわよ……っ」
言った瞬間、足元の根に引っかかった。
「きゃっ——!」
身体が大きく傾ぐ。
けれど地面へ倒れ込む寸前、後ろから腕を掴まれる。
「だから言っただろ!」
「……っ」
振り返ると、全く息を切らしていないレオナルドが呆れた顔をしていた。
「ほんと危なっかしいな、お前」
「……うるさい」
反論しながらも、少しだけ息が苦しい。
こんなふうに走ったのなんて、いつぶりだろう。
けれどそのとき、ふわりと風が吹き抜けた。
「……え」
公爵家の庭の奥にある、崩れかけた古い石垣の隙間を抜けた先に、その獣道はあった。
思わず足を止める。
けれどそれも一瞬で、白い背中を追って石垣の隙間へ飛び込んだ。
すると視界が、一気に開けた。
なだらかな丘だった。
夕暮れに染まった空の下、一面に薄紫の花が揺れている。
風が吹くたび、花の波がさらさらと音を立てた。
「……すご」
後ろでレオナルドが呟く。
私は言葉を失ったまま立ち尽くしてしまった。
「……ここ、敷地の外か?」
「……さあ。こんな場所、知らなかったもの。昔の抜け道かもしれないわね」
レオナルドを振り返りながら言う。
こんな場所があるなんて知らなかった。
離れの外へ出ることなんてほとんどない。
決められた場所だけで生きてきたから。
こんなふうに、風が気持ちいい場所も。
空がこんなに広く見える場所も。
ウサギは丘の上で立ち止まり、二人を振り返る。
まるで「着いたよ」とでも言うみたいに。
「……あなたが連れてきたの?」
思わず零すと、白いウサギはぴくりと耳を揺らした。
その姿が少しだけ可笑しくて、ふっと息が漏れる。
「……笑った」
「え?」
はっとして振り返ると、レオナルドが目を丸くしていた。
「今、笑っただろ」
「……笑ってない」
「笑ってた」
「気のせいよ」
そっぽを向くけれど、頬が少し熱くなっている。
レオナルドは楽しそうに笑いながら、花畑へ足を踏み入れた。
「これ、なんの花だ?」
「……スイートピー」
「へえ」
レオナルドがしゃがみ込み、揺れる花を眺める。
「お前みたいだな」
「……は?」
「なんか、細いし」
「どういう意味よ」
思わず睨むと、レオナルドが吹き出した。
「怒るなって」
「怒ってない」
「いや怒ってるだろ」
また笑う。
その笑い声が、風の音に混ざって響いていく。
不思議だった。
こんなふうに誰かと話しているだけなのに。
どうしてこんなにも胸の奥が温かいのか分からない。
「この花、好きなのか?」
レオナルドが揺れるスイートピーを見ながら言う。
「……初めて本物を見たけど……好きよ」
私はそっと花へ触れた。
「このスイートピー、私と同じ名前なの」
「へえ」
「……少しだけ、嬉しかった」
「……なんか分かる気がする」
「え?」
レオナルドは揺れる花を見つめたまま、ぽつりと言う。
「その花、お前の瞳と同じ色だ」
「——っ」
一瞬、呼吸が止まりそうになった。
レオナルドはそんな私の様子にも気づかず、揺れる花を見つめたまま笑う。
「だから、お前っぽい」
「……」
「なのにお前、自分の名前あんま好きじゃなさそうだよな」
どきり、と胸が鳴った。
風が吹き抜け、薄紫の花々が一斉に揺れる。
その中で、レオナルドがふいに空を見上げた。
「ここ、いいな」
「……そうね」
ぽつりと落ちた声は、驚くほど優しかった。
気づけば、自然に返事をしていた。
また来たい。
ふと、そう思う。
この場所へ。
この時間へ。
その願いに気づいた瞬間、胸の奥が小さく痛んだ。
——こんなふうに思ってしまったら。
きっと、失うのが怖くなる。
「……私、ほとんど外へ出たことがないの」
「じゃあ今度、城来るか?」
「……は?」
「面白いもん何もないけど」
この後、本当に連れて行かれたのはまた別の話。
気づけば、レオナルドが来ると一緒にあの丘に行くのが当たり前になっていった。
夕暮れの風に揺れる薄紫の花は、いつも静かに二人を迎えてくれた。
夜になれば、空には向かい合う二つの三日月が浮かぶ。
——暗くても、あなたがいるって分かるように。




