第16話 2人の合図
その日のレオナルドは、いつもと少し様子が違っていた。
普段なら、抜け道から姿を現すなり、こちらの都合などお構いなしに話しかけ、勝手に笑い、私が本を読んでいても当然のように隣へ腰を下ろす。けれど今日は、草の上に寝転がったまま、何かを考えるように空ばかり見上げていた。
「……何?」
私が尋ねると、レオナルドは短く「いや」と答えた。珍しく歯切れが悪い。
本へ視線を戻してみても、彼が何か言いたそうにしているのが気になって、文字がまるで頭に入ってこない。しばらくして、私はとうとう本を閉じた。
「言いたいことがあるなら、言えばいいでしょう」
そう告げると、レオナルドは諦めたように息を吐いた。
「……明日、いつもの時間には来れない」
「……そう」
思ったよりも素っ気ない声が出た。
仕方のないことだ。彼は第一王子なのだから、毎日のようにこんな場所へ通っている方がおかしい。そう分かっているのに、本の頁を押さえる指先には、無意識のうちに力が入っていた。
「……なんだよ、その顔」
「え?」
「めちゃくちゃ寂しそう」
心臓が跳ねた。
「そ、そんなことないわ」
「いや、してる」
「してない!」
思わず声を上げると、レオナルドが吹き出した。
「……っ、ふはっ」
「何よ!」
「いや、分かりやすすぎて」
「分かりやすくなんかない!」
顔が熱くなる。どうしてこの人は、こういうことばかり気づくのだろう。
「別に、あなたが来ても来なくても、私には関係ないわ」
「へえ」
「本当よ」
「じゃあ、なんでそんな顔してんだ?」
返す言葉が見つからず、私は本で顔を隠した。
たった一日、いつもの時間に会えないだけだ。それなのに、明日の夕方、この場所に彼がいないことを想像すると、どうにも落ち着かなかった。
「……知らない。あなたこそ、いつもなんでこんなところに来るのよ」
誤魔化すように尋ねると、レオナルドの笑い声がふいに止んだ。
不思議に思って本を少し下げると、彼は身体を起こし、まっすぐこちらを見ていた。
「俺は、お前に会いたいから来てるだけだ」
「——っ」
あまりにも当たり前のことのように言われて、息が詰まった。
王子としての用事があるからでも、誰かに命じられたからでもない。ただ、私に会いたいから。
そんな理由で誰かが来てくれることなど、考えたこともなかった。
「……な、何言ってるの」
「変なこと言ったか?」
「言ったわよ……!」
レオナルドは本当に分かっていないらしく、不思議そうに首を傾げている。
ずるい人だと思った。私がどんな気持ちになるのかも知らずに、そんなことを簡単に口にするのだから。
「だから明日も、遅くなっても来る」
「……来なくていい」
「来る」
「来ないで」
「行く」
そうしてまた、いつもの押し問答が始まった。
「……強引」
「お前が頑固なんだろ」
レオナルドは笑った。それから、ふと思いついたように空を見上げる。
「じゃあ、合図送る」
「……合図?」
「ああ。来たって分かるように」
彼は指先へ魔力を集め、小さな光を灯した。淡い金色の光が、夕闇の中へふわりと浮かび上がる。けれど形はぼんやりとしていて、少し離れれば周囲の明るさに紛れてしまいそうだった。
「……それじゃ、見えないわ」
「じゃあ、お前はなんか出せるか?」
「……は?」
「お前の魔法」
差し出された手を見つめ、私はためらった。
闇魔法を人に見せるのは好きではない。使えば怯えられ、隠していても、知られれば遠ざけられる。そんな経験ばかりを重ねてきた。
けれどレオナルドは、急かすことなく待っていた。初めて会った日に私が魔法を撃ったことさえ、もう忘れてしまったかのような顔で。
「……変なことになっても知らないわよ」
「分かってるって」
私は小さく息を吐き、指先へ魔力を集めた。
浮かび上がったのは、細い黒の三日月だった。夜へ溶けてしまいそうな、淡い闇。
「……これじゃ、余計見えないな」
「だから言ったでしょう」
少しむっとして消そうとすると、レオナルドがその三日月へ手を伸ばした。
「待てよ」
彼の指先から零れた金色の光が、黒い三日月の輪郭をそっとなぞる。
「……っ」
思わず目を見開いた。
反発すると思っていた二つの魔力は、目の前で一つの形を描いていた。闇の輪郭が金色に縁取られ、夕暮れの空にはっきりと浮かび上がっている。
レオナルドはそれをしばらく眺めた後、隣へもう一つ、光の三日月を描いた。
向かい合う、二つの月。
「……いいかも」
彼は満足そうに笑った。
「これなら暗くても分かるだろ?」
「……変なの」
そう返しながらも、私は空から目を離せなかった。
三日月は、成長と幸福の象徴。昔、本で読んだことがある。欠けたままでは終わらず、少しずつ満ちていく月は、幸せへ向かう印なのだと。
だから、好きだった。誰にも言ったことはないけれど。
その月が、今は二つ並んでいる。私の闇と、レオナルドの光でできた月が。
「……グレース?」
呼ばれて顔を上げると、彼が不思議そうにこちらを覗き込んでいた。
「なんでもないわ」
慌てて視線を逸らす。
この光を大切だと思ってしまったことも、これから彼の帰りを待つときに見上げたいと思ったことも、知られたくなかった。
けれど、何も言わずにいるのも惜しくて、私はそっと彼の指先へ手を伸ばした。
「……いい? これが私と、あなたの合図」
触れた指を、ほんの少しだけ絡める。
レオナルドは一瞬驚いた顔をした。それから空に浮かぶ月を見上げる。
「三日月が二つ……これなら、暗い夜でも寂しくないな」
からかうような調子ではなかった。その言葉が嬉しくて、胸の奥がきゅっとなる。
「これなら、離れていても同じ月を見てるってわかるだろ?」
「……そうね」
声が小さくなったのは、きっと夕風のせいだ。
レオナルドは繋いだ指を軽く揺らし、もう一度、二つの三日月を見上げた。
「……でも、いいな。これ」
「何が?」
「暗くても、お前がいるって分かる」
その言葉を聞いた途端、顔を上げられなくなった。
私がここにいることを、誰かが見つけてくれる。暗い場所にいても、誰にも気づかれないと思っていても、レオナルドは私がいると分かるのだと言う。
「……大げさね」
ようやく返すと、彼は笑った。
「そうか?」
「そうよ」
けれど私は、まだ指を離せなかった。
空には二つの三日月が浮かんでいる。いつか彼が来るのを待つ夜に、あの光が見えたなら、きっと私は、それだけで嬉しくなってしまうのだろう。
◇
それから数日後、あの白いウサギが再び姿を見せた。
「……また来たのね」
草むらの奥で、白い耳がぴょこんと揺れる。傷はすっかり癒えたらしく、以前のように怯えた様子はなかった。
「お、あいつか! 最近よく会うな」
「……そうね」
そっと近づこうとすると、ウサギは私たちを見上げた後、ふいに駆け出した。
「あっ」
思わず後を追う。
「おい、待て!」
背後からレオナルドの声が聞こえたが、ウサギは細い獣道の奥へ消えていった。
枝を避けながら走る。普段ほとんど走らないせいですぐに息が上がったが、それでも白い背中を見失いたくなかった。
「グレース! 転ぶぞ!」
「転ばないわよ……っ」
言った途端、足元の根に靴が引っかかった。
「きゃっ——!」
身体が前のめりになる。地面に倒れる寸前、後ろから伸びてきた手が私の腕を掴んだ。
「だから言っただろ!」
レオナルドに引き戻され、何とか足を踏ん張る。
振り返ると、彼はまったく息を切らしていなかった。
「ほんと危なっかしいな、お前」
「……うるさい」
言い返したものの、息が上がって、それ以上は続かなかった。
レオナルドは私が立てるのを確かめてから手を離す。そのとき、ふわりと風が吹いた。
顔を上げると、古い石垣の向こうに細い獣道が続いていた。公爵家の庭の奥に、こんな場所があっただろうか。
白いウサギは石垣の隙間を抜けていく。
「……待って」
私たちも、その後を追った。
狭い道を抜けた瞬間、視界が開けた。
「……え」
そこには、なだらかな丘が広がっていた。
夕暮れに染まった空の下、一面に薄紫の花が揺れている。風が吹くたび、花の波がさらさらと音を立て、甘い香りが漂ってきた。
「……すご」
隣でレオナルドが呟く。
私も、すぐには言葉が出なかった。屋敷の敷地から少し離れただけで、こんな場所があるなんて知らなかった。
こんなに空が広く見えることも、風が気持ちいいと思える場所があることも。
丘の上で、ウサギが立ち止まった。私たちを振り返り、長い耳をぴくりと動かす。
「……あなたが連れてきたの?」
思わず問いかけると、ウサギは答える代わりに草むらへ跳び込んでいった。
その後ろ姿が何だか可笑しくて、私は小さく笑ってしまう。
「……笑った」
「え?」
振り返ると、レオナルドがこちらを見ていた。
「今、笑っただろ」
「……笑ってない」
「笑ってた」
「気のせいよ」
そっぽを向くと、彼は楽しそうに笑いながら花畑へ足を踏み入れた。
「これ、なんの花だ?」
「……スイートピー」
「へえ」
私は彼の隣へしゃがみ込み、薄紫の花にそっと触れた。薄い花びらが、指先で柔らかく揺れる。
「この花、好きなのか?」
「……初めて本物を見たけど、好きよ」
レオナルドがこちらを見る。
私はもう一度、花へ視線を落とした。
「このスイートピーはね、私と同じ名前なの」
「へえ」
「本で見たことがあるの。……少しだけ、嬉しかった」
自分の名前を好きだと思ったことは、あまりなかった。けれど、同じ名前を持つ花があると知ったときだけは、少し違った。
レオナルドは揺れる花を眺めてから、私の顔を覗き込んだ。
「その花、お前の瞳と同じ色だ」
「——っ」
「だから、お前っぽい」
あまりにも自然に言われて、返事に困った。この人は、どうしてそんなことを平気で言えるのだろう。
「……花の方が、ずっと綺麗でしょう」
「そうか?」
「そうよ」
「俺は似てると思うけどな」
レオナルドはそう言って、また花へ視線を戻した。
それ以上言い返せず、私も黙ってスイートピーを見つめる。風が吹き、薄紫の花々が一斉に揺れた。
「……ここ、好き」
気づけば、そんな言葉が零れていた。
レオナルドが顔を上げる。
「俺も。ここ、いいな」
その返事が嬉しくて、私は小さく頷いた。
また来たい。この丘に。この人と一緒に。
そう思った瞬間、少しだけ怖くなった。
好きな場所ができることも、誰かと過ごす時間を楽しみにすることも、いつか失うものが増えるということだから。
けれど、今は帰りたくなかった。
夕暮れの空が、少しずつ夜の色へ変わっていく。隣に立つレオナルドを見上げ、私はぽつりと尋ねた。
「……また来るの?」
「来る」
「来なくていいって言ってるでしょ」
「じゃあ毎日来る」
「……勝手にしなさい」
いつもの言い合いだった。けれど今度はもう、来ない方がいいなんて少しも思っていなかった。
「……私、ほとんど外へ出たことがないの」
何となく口にすると、レオナルドがこちらを見た。
「じゃあ今度、城来るか?」
「……は?」
「面白いもん何もないけど」
王子にしては、ずいぶんな言い方だった。
私は呆れて彼を見上げる。レオナルドは、またいつものように笑っていた。
この人となら、まだ知らない場所へ行けるのだろうか。
そんなことを考えながら、私はもう一度、丘いっぱいに広がる花を見渡した。
それから、レオナルドが来るたびに、私たちはあの丘へ行くようになった。
夕暮れの風に揺れる薄紫のスイートピーは、いつも変わらず私たちを迎えてくれた。夜が近づけば、光と闇で描いた二つの三日月を空へ浮かべる。
暗くても、お互いがここにいると分かるように。
それが、私たちだけの秘密だった。
——ちなみに、この後、本当に王城へ連れて行かれたのはまた別の話。




