第15話 普通じゃない人
最初は、ただの気まぐれだと思っていた。
約束した翌日、レオナルドは本当にやって来た。けれど、その次の日には姿を見せず、さらに翌日になっても現れなかった。
やっぱり、もう飽きたのだろう。
そう思い始めていた三日目の夕方、彼は何食わぬ顔で抜け道から姿を現した。
「よう」
「……また来たの?」
「来るって言っただろ」
昨日も一昨日も来なかったくせに、ずいぶん堂々とした言い方だった。
「本当に暇なのね」
「お前、毎回それ言うな」
むっとした顔をされ、私は少しだけ可笑しくなった。けれど、笑いそうになったことを悟られたくなくて、手元の本へ視線を落とす。
レオナルドはそんな私を気にする様子もなく、隣の草の上へ腰を下ろした。
「今日は何してたんだ?」
「別に」
「また本読んでたのか?」
「……読んでたけど」
答えると、彼は興味深そうに本の表紙を覗き込んだ。
「お前、難しい本好きだよな」
「好きというか、他にやることがないだけよ」
「遊べばいいだろ」
「誰と?」
何気なく聞き返すと、レオナルドは黙り込んだ。
別に、困らせるつもりはなかった。ここで誰かと遊んだことなどないのだから、私にとっては当たり前の問いだった。
けれど彼は、少し気まずそうに視線を逸らした後、ぽつりと言った。
「……俺とか」
「……は?」
「いや、お前いつも一人だし」
あまりにも自然に言われて、私は返事ができなかった。
この人は、自分が何を言ったのか分かっているのだろうか。
私と遊ぶ。
そんなことを、わざわざ口にする人がいるなんて。
「……変なの」
ようやくそれだけ返すと、レオナルドは不満そうに眉を寄せた。
「何がだよ」
「何でもないわ」
私は本を開き直した。文字を追っているふりをしながら、隣に座る彼の気配ばかりを意識してしまう。
やがて、以前から気になっていたことを思い出した。
「……そういえば、あなた、王子なの?」
「は?」
「前に言っていた名前。第一王子と同じでしょう」
「あー……」
レオナルドは面倒そうに頭をかいた。
「まあ、そうだけど」
「……本当に?」
「疑ってたのかよ」
疑っていなかったと言えば嘘になる。
王子というものは、もっと遠い場所にいる人間だと思っていた。少なくとも、勝手に公爵家の抜け道から入り込み、草の上へ座り、初対面の相手に魔法を撃たれてもまた来るような人ではないはずだ。
「だって、王子っぽくないもの」
「それ褒めてる?」
「全然」
即答すると、レオナルドが吹き出した。
「王子って、もっと偉そうなものだと思ってたわ」
「俺、偉そうだろ」
「ええ。すごく」
「……お前なあ」
呆れたように言いながらも、彼は笑っていた。その笑い声が、妙に耳へ残る。
「……偽物かもしれないし」
「傷つくな、それ」
「本物なら、どうしてこんなところにいるのよ」
尋ねると、レオナルドは少しだけ空を見上げた。
「……まあ、色々あるんだよ」
「王子にも?」
「王子にも」
詳しく話すつもりはないらしい。
私にも、聞かれたくないことはたくさんある。だから、それ以上は尋ねなかった。
代わりに本を閉じ、彼の隣で夕暮れの空を見上げる。
その日も、レオナルドはしばらく他愛のない話をしてから帰っていった。
そして数日後、またやって来た。
最初は三日に一度ほどだった訪問が、いつの間にか二日に一度になり、気づけば、ほとんど毎日のように顔を合わせるようになっていた。
「……また?」
「また、とは失礼だな」
そう言って笑う彼に、私はいつも呆れたふりをした。
けれど夕方になると、無意識に抜け道の方を見ている自分がいた。風が草を揺らす音に顔を上げ、足音が聞こえれば本から目を離す。それがレオナルドではないと分かると、なぜか少しだけ落ち着かなくなった。
そんな自分を認めたくなくて、今日も私は本を読むふりをしていた。
「また難しい顔してる」
「放っておいて」
「目、悪くなるぞ」
「ならないわよ」
隣から覗き込まれ、思わず本で顔を隠す。すると、レオナルドが楽しそうに笑った。
「お前、最近ちょっと丸くなったよな」
「……何よ、それ」
「最初はすぐ撃ってきた」
「あなたが不審者だったからでしょう」
「今は?」
少し考える。
不審者であることに変わりはない。王子だと分かった今でも、勝手に抜け道から現れるのだから。
それでも、もう彼へ魔法を向けようとは思わなかった。
「……少しだけ、マシになったんじゃない」
そう答えると、レオナルドはどこか嬉しそうに笑った。
その顔を見て、胸の奥がまた落ち着かなくなる。
どうしてなのかは、まだ分からなかった。
◇
離れで過ごす時間は、昔から静かなものだった。
午前中には家庭教師がやって来る。勉強だけは必要だからと、与えられた時間だった。
それが終われば、私はほとんど一人になる。
使用人たちは必要以上に近づかず、用事があっても、できるだけ短い言葉で済ませようとする。
——闇属性。
私が生まれ持った魔力は、それだけで人を怯えさせた。
昔、大勢の人を殺した魔術師が闇属性だったらしい。
私がその魔術師に会ったことなどないし、同じことをしたわけでもない。
それでも、人々にとっては十分な理由なのだろう。
だから離れに置かれたことも、不思議ではなかった。
一人でいることには慣れている。
そう思っていた。
「おい?」
不意に声をかけられ、私ははっと顔を上げた。
レオナルドが目の前で首を傾げている。
「……何」
「いや、ぼーっとしてたから」
彼はそれ以上聞かず、何でもないことのように笑った。
私の魔力が黒いと知っていても、その態度は少しも変わらない。
そんな当たり前ではないことが、いつしか私にとって、夕方の当たり前になり始めていた。
◇
ある日、書庫で本を探してから離れへ戻ると、建物の近くに見慣れた金髪が見えた。
「……なんでこっちにいるの」
思わず眉を寄せると、レオナルドは悪びれもなく肩を竦めた。
「探した」
「は?」
「いつものところにいなかったから」
あまりにも当然のように言われ、私は言葉に詰まった。
抜け道で会えなければ帰ればいいのに、どうしてわざわざ探しに来るのだろう。
「……今日は書庫にいたのよ」
「書庫?」
「ええ」
短く答えて歩き出すと、レオナルドも隣についてきた。
「お前、本好きなんだな」
「他にやることがないもの」
そう返すと、彼は少しだけ黙った。
「お前、学園は?」
「……まだ」
「そっか」
「行かなくても、困らないもの」
何でもないことのように言ったつもりだった。
けれど、胸の奥がかすかに強張る。
普通なら、ここで理由を聞かれる。そして闇属性だと知った途端、相手の態度が変わるのだ。
そんな反応には慣れているはずなのに、レオナルドにも同じ顔をされるのかと思うと、なぜか怖かった。
「家庭教師が来てるから?」
返ってきたのは、予想していなかった言葉だった。
思わず足を止める。
「……そうよ」
「ふーん」
それだけだった。
腫れ物に触れるような気遣いも、怯えた視線もない。彼にとっては、本当にただの会話だったらしい。
「……聞かないの?」
「何を?」
「……その、闇属性とか」
口にした途端、私は後悔した。わざわざ確かめなければ、今までどおり話していられたかもしれないのに。
けれど、レオナルドはきょとんとした顔で私を見た。
「なんで?」
「……普通、嫌がるでしょう」
彼は少し考えるように視線を逸らし、それからあっさりと言った。
「別に?」
「……は?」
「お前が嫌なやつなら嫌だけど」
その言葉に、息が詰まりそうになった。
私が闇属性だからではなく、私自身がどんな人間なのか。彼は、そんなことで好き嫌いを決めると言うのだ。
「……変なの」
「なんでだよ」
「普通は、もっと怖がるもの」
「怖がられるようなことしたのか?」
「……したかもしれないわ」
初対面で彼の足元へ魔法を撃ったことを思い出し、私は小さく笑った。レオナルドも、つられたように笑う。
「じゃあ俺は平気」
簡単に言われたその一言が、胸の奥へ深く残った。
この人は、本当に普通じゃない。
そう思うのに、嫌ではなかった。
「……あなた、本当に変」
「さっきからそればっかだな」
「だって、普通じゃないもの」
レオナルドは不満そうに眉を寄せた後、ふと思い出したように言った。
「じゃあ、お前は?」
「……何が?」
「名前。俺ばっか呼ばれて不公平だろ」
心臓が、小さく跳ねた。
今まで、何度も聞かれてきた。そのたびに誤魔化していたのは、名前を知られるのが怖かったからだ。
名前を教えることは、自分を知ってもらうことと同じだった。
そして、知った相手が離れていくのを、私はもう見たくなかった。
けれど、目の前の少年は闇魔法を見ても逃げなかった。私がウサギを守ろうとしていたことを知っても笑わず、何度追い返そうとしても、また来た。
この人になら。
そう思ってしまった。
「……グレース」
「ん?」
「私の名前よ」
レオナルドが目を瞬かせる。
それから、ふっと嬉しそうに笑った。
「やっと教えた」
「……うるさい」
「グレース。いい名前だな」
何度も聞いてきたはずの自分の名前が、初めて聞く言葉のように響いた。
忌まわしい魔力と結びつけられ、呼ばれるたびに身構えていた名前。
それを彼は、何のためらいもなく、いい名前だと言った。
「……そうかしら」
「そうだろ」
レオナルドは当然のように頷く。
その声で、もう一度呼んでほしい。
そんな願いが胸に浮かび、私は慌てて視線を逸らした。
この人が来ることを、当たり前だと思ってはいけない。
いつか来なくなる日があるかもしれないのだから。
それでも、今日初めて名前を呼んでもらえたことだけは、きっと忘れないと思った。
読んでいただきありがとうございます!




