第二章 人食い沼の入り口1
事務所は、六本木のビルの四階にあった。
エレベーターを降りた瞬間、匂いがした。
芳香剤と煙草が混ざった、甘くて重い匂い。廊下の絨毯は深い臙脂色で、端の方が微かに毛羽立っていた。
恵子はその毛羽立ちを踏みながら、スカウトマンの背中について行く。
ドアに、事務所の名前が入ったプレートが、金色の文字。
恵子はそれを見た。それだけで、胸の中で何かが膨らんだ。
スカウトマンがドアを開けた。
中は、思ったより狭かった。デスクがいくつか並んで、電話が鳴っていて、煙草の煙が天井近くに溜まっている。事務員らしき人間が何人か、それぞれの仕事をしていた。誰も恵子を見なかった。
壁に、タレントらしき人間の写真が何枚か貼ってあった。恵子はその写真を順番に見た。三枚、見覚えがある気がした。一枚は前の人生で昼のドラマの脇役をやっていた女優。まだ若かった。もう一枚は週刊誌のグラビアで見た顔。もう一枚は、歌番組に出ていたような顔だった。
一枚だけ、はっきりと分かる顔があった。
アイドルだった。前の人生で、一時期テレビによく出ていた顔。名前も覚えていた。ある時期からぱったりと見なくなって、どうなったのかは知らない。今は無名でも、目を引く笑顔だった。この人みたいになれるのかもしれない。なれる気がした。
「社長室へどうぞ」
スカウトマンが廊下の奥へ歩き始めた。恵子はその背中についていった。事務員たちのデスクの間を抜けて、一番奥のドアの前で止まった。他のドアより一回り大きかった。木目の色が違った。恵子はそれに気づいた。この扉だけが、この事務所の他の何とも、質が違った。
スカウトマンがノックをした。三回。
「どうぞ」
中から声がした。低い声だった。スカウトマンがドアを開けた。
社長室は、廊下の臙脂色の絨毯とは別の場所だった。床に厚みのある絨毯が敷かれていた。デスクが大きかった。革張りの椅子。窓から六本木の街が見えた。壁に書がかかっていた。隅に酒棚があって、ウイスキーのボトルが何本か並んでいた。煙草の匂いは同じだったが、銘柄が違う匂いがした。
「社長、連れてきました」
スカウトマンが言った。
デスクの奥から、男が立ち上がった。五十代くらい。首が太かった。肩がスーツの縫い目を押し広げている。髪を油でなでつけていたが、それが余計に凄みを足していた。指に指輪が二本。金色だった。スーツの胸元に、同じく金色のタイピンが光っていた。顔の右頬に、古い傷跡が一本走っている。男は恵子の方へ歩いてきながら、恵子を見た。
顔。肩。胸。腰。
一秒もかからなかった。
「ふうん」
それだけだった。値踏みの結論が出たらしかった。恵子にはその結論の中身が分からない。男が自分の何を見たのかも。ただ、見られた。それだけだった。
「座って」
男が顎でソファを示した。
革張りのソファだった。座面が沈んだ。テーブルの上に灰皿があって、吸いかけの煙草が一本、細く煙を上げていた。
「芸能界、興味あるの」
質問ではなかった。確認だった。恵子はそれに気づかなかった。
「はい」
背筋を伸ばした。地元では一番だと言われた顔を、男の方へ向けた。
男は恵子の顔を見なかった。手元の書類を見ている。
「年は」
「十五です。もうすぐ十六になります」
「前科は」
恵子の背筋が、一瞬だけ固まった。
「ないです」
男が初めて恵子の顔を見た。三秒。それから視線を書類に戻した。
「うちは新人の子に色々と経験させてあげられる事務所だから」
煙草の煙が、天井に向かって細く伸びていた。経験、という言葉を頭の中で転がした。いい言葉だった。経験。女優になるための、経験。
「よろしくお願いします」
恵子は頭を下げた。
男は返事をしなかった。書類にペンを走らせている。スカウトマンが恵子の隣で小さく咳払いをした。
臙脂色の絨毯の、毛羽立った端が、恵子のパンプスの先に触れていた。




