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『銀幕狂い咲き』  作者: ふりゅね
プロローグ
7/12

第一章 腐った林檎の種7


夜行バスを降りたのは、夜明け前だった。

バスターミナルの蛍光灯が、白く滲んでいた。少年院の反省室の天井と、同じ白さだった。


奈良の、山陰にある停留所でバスを待っていたときの、暗闇と凍えるような静寂が、いまだに耳の奥に張り付いたまま残っていた。母親の財布から抜いた札を握りしめ、追っ手が来るのではないかと、エンジンの音が聞こえるたびに心臓が跳ね上がった。


乗り込んだバスの座席は狭く、リクライニングを倒すことすら躊躇われた。カーテンの隙間から高速道路の水銀灯が規則正しく差し込むたび、誰かに見つかったのではないかと息を潜めた。


当時はまだ、手元で温度調整などできない大雑把な集中冷房だった。天井のダクトから噴き出す、フロンガスと機械油の混ざった強烈な冷気が一晩中じりじりと肌を刺し、逃げ場がなかった。隣に座った中年の男の、安酒と汗の混ざった重い息遣いが耳元で響き続けて、背中と腰はコンクリートのように固まっていた。


男が降りていき、恵子も重い鞄を抱えて後に続いた。足がしびれていた。それでも地面を踏んだ瞬間、この足が先輩の路地から、あの閉塞した関西の田舎町から遠くなったことだけが、骨の奥でじわりと確かになった。


後ろめたさは、バスが箱根の山を越えた辺りで消えた。

ターミナルの外へ出た瞬間、網膜が焼き切れるかと思った。



昭和の終わり、夏が始まってすぐの新宿は、夜明け前だというのに、空がビルの原色のネオンで不自然に白く爆発していた。巨大な手書きの映画看板が闇の中に浮かび上がり、どこを向いても、見たこともない肩パッドの入った上質なスーツや、派手な服を着た人間が溢れていた。

けれど、大通りから一歩路地へ目を向けると、そこにはビルの隙間の、湿った、凍りついた影がひっそりと潜んでいた。光が強ければ強いほど、その足元にある影の底は、地元のどの田舎道よりも深く、不気味に濁って見えた。

まだ規制の緩いディーゼル車の黒煙と、ガソリンの焦げた匂いが、初夏の強い日差しに熱せられて、ねっとりと柔らかくなったアスファルトの黒い油臭さと混ざり合い、重く沈殿している。


夜行バスの冷房で芯まで冷え切っていた恵子の身体に、東京の、その生温かい湿気と牙を剥くような日差しが容赦なく突き刺さる。

怒鳴り声、クラクション、どこかの店から漏れてくる有線の歌謡曲。恵子は人波の中で立ち止まったまま、息を整えた。頬が、熱気で赤くなっていた。

誰も恵子を見なかった。見ても、すぐに目を逸らした。地元では商店街を歩くだけで男が振り返った。この街では、恵子は人波の中の、ただの一つの輪郭だった。


腹が、鳴った。

鞄の中を探った。財布があった。中身は薄かった。恵子はその薄さを指先で確かめて、それから顔を上げた。どこへ行けばいいのか、分からなかった。

人がいるのに、誰もいない冷たさだった。



「ちょっといいかな」

声が、した。

恵子は顔を上げた。

男が立っていた。三十代くらいだった。清潔な夏物のスーツを着ていた。髪が整っていた。薄い手帳を持っていた。笑っていた。人波の中で、この男だけが恵子を真っ直ぐに見ていた。

「芸能事務所の者なんですけど」

男が続けた。


声が、穏やかだった。威圧がなかった。先輩の声とも、少年院の職員の声とも、ハローワークの窓口の男の声とも、違った。


その声の温度に触れた瞬間、恵子の衣服の下の、初夏の熱気で汗ばんだ皮膚が、あっけなく弛緩した。外側のじっとりとした空気に対して、境界線がするすると溶けて、男の持つ冷ややかな、清潔な匂いに吸い寄せられていくような感覚があった。


恵子は男の顔を見た。男も恵子の顔を見ていた。

ただ、男の視線は恵子の顔だけを見ているわけではなかった。

一瞬で、上から下まで流れた。触れられてもいないのに、薄い衣服の裏側の肉体の厚みまでを指先でなぞられるような、すべてを透かす視線だった。鞄の薄さを見た。靴の汚れを見た。頬の赤さを見た。息の乱れを見た。どのくらいの距離から来たのか。どのくらい腹が空いているのか。どのくらい追い詰められているのか。それだけのことが、一秒もかからなかった。


大型ビジョンの大音量の広告が、恵子の頭の上で割れた。大型トラックの、黒い排気ガスの焦げた匂いが、突風とともに二人の間を吹き抜けていく。東京の、巨大で冷酷な雑踏のノイズが、男のその一秒の値踏みを完全に掻き消していた。

「良かったら、お話だけでも」

男が微笑んだ。


恵子の視界の奥で、あのカビ臭い天井の染みが、一瞬で真っ白に吹き飛んだ。夜行バスのあの忌々しい冷房の冷えも、山に囲まれた田舎から追われる恐怖も、自分の身体の貧しさも、すべてがこの都会の眩い光の中に融解していく。


この眩しい世界に、今、自分のための特等席が差し出されたのだと思った。地獄のようなあの日々は、すべてこの瞬間のためにあったのだと、喉の奥が熱くなるような全能感が皮膚を突き破って溢れ出していた。

男が名刺を差し出した。恵子は両手で受け取った。指が、微かに震えていた。熱気のせいだと、恵子は思った。名刺の文字を読もうとしたが、興奮で頭に入ってこなかった。


男はまだ笑っていた。

穏やかな、温かい笑顔だった。均整の取れたその目元の奥には、ただ新宿のネオンの光だけが平坦に反射していて、それ以外のものは何も映っていなかった。

男が、ゆっくりと背を向け、歩き出した。

恵子の位置からは、もう男の背中しか見えない。仕立ての良い、汚れひとつない上質なスーツの背中が、人波の隙間へと滑らかに滑り込んでいく。

けれど、男が雑踏へと完全に身体を転じ、恵子から視線を外したその一瞬。


男の顔から、あの穏やかな笑みが、音もなく、削ぎ落とされるようにして消えた。目元にも、口元にも、何の感情も残っていない。ただ、今しがた手に入れた新しい書類の束の数を頭の中で数えているような、事務的で、無機質な横顔がそこにあった。

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