第一章 腐った林檎の種6
目が、開いた。
最初に気づくのは、空だった。
冬の、いや、違う。初夏の、白い空だった。雲が低く垂れ込めて、今にも雨が落ちてきそうな重さで、そこにあった。恵子は地面に倒れていた。背中の下にアスファルトの冷たさがあった。頬に風が当たった。排気ガスと、枯れ草と、どこか遠くの食べ物の匂いが混ざった空気が、鼻の奥に入ってきた。
肺が、勝手に動いた。
空気が入ってきた。冷たい、薄い空気が、何の引っかかりもなく気管を滑り降りていく。
恵子はパニックになりかけた。
おかしい、と思った。肺の奥の、あのじっとりと張り付いたヤニの重さがない。セメントを流し込まれたようだった肋骨の裏側が、信じられないほど滑らかに、大きく膨らみ、縮んでいる。呼吸が、何の抵抗もなくできてしまう。そのことが、かえって悍ましかった。
起き上がろうとした瞬間、身体が軽々と、音もなく持ち上がった。
「あ」
自分の口から出た声の、あまりの細さと、鈴のような軽さに耳の奥がひっくり返りそうになる。
四十代のあの、骨盤の奥から這い上がってくるようなじっとりとした重さも、首を回すたびに耳の奥で砂を噛んでいた、あの骨の軋みも、何ひとつなかった。立ち上がった視界の定位置が、記憶よりも十数センチほど低い。
手を見た。
右手を顔の前に持ち上げた。指が五本あった。爪が短かった。爪の隙間に、あの黒い汚れが、何もない。手の甲の皮膚が、薄いガラス細工のようにピンと張っている。皺がなかった。血管が、細く青く、皮膚の裏側で脈打っているのが見えた。
恵子は、その手を顔に押し当てた。
カビの匂いもしない。薬の臭いもしない。ただ、初夏の、山の青臭さを孕んだ生温かい風の匂いと、微かに若い汗の匂いだけがした。
さっきまでテレビ画面に向かって床をガリガリと掻きむしっていたはずの手が、そこにあった。爪が剥がれそうな痛みが走っていたはずの指が、五本、綺麗に揃っている。
意味が、分からなかった。
恵子は自分の両手で、狂ったように自分の顔や首筋を触り、貪るように肉の感触を確かめた。皺がない。弛みがない。触れる皮膚のすべてが、気味が悪いほど滑らかで、弾力がある。
私は、狂ったのだと思った。
死ぬ間際に脳が見せている、質の悪い走馬灯か、あるいはドラッグのオーバードーズがもたらした最悪の臨死幻覚だ。そうだ、そうでなければ説明がつかない。私は今もあのカビ臭い六畳間の床で、自分の吐瀉物に塗れて死にかけている。これは、死に損なった脳が脳内で再生しているだけの、ただの都合の良い夢だ。
脳の記憶(四十代の終わり)と、今そこにある肉体(十代の初め)の整合性が全く取れず、視界がぐにゃりと歪んだ。強すぎる視力は、遠くの電柱の錆びたボルトの形までを容赦なく網膜に叩きつけてくる。耳が、世界の雑音を拾いすぎて痛い。あまりにも軽すぎる、スカスカなプラスチックのような肉体の中に、行き場を失った「死」の重い記憶が淀んでいた。
恵子は自分の二の腕を強く噛んだ。
痛かった。皮膚が柔らかく、弾力があって、簡単に歯が食い込んだ。
そうやって激しく現実を拒絶し、世界のすべてを幻覚として処理しようとした、その瞬間だった。
遠くから、エンジンの音がした。
低い、腹に響く音だった。それから男たちの笑い声が混ざって、路地の角から流れてきた。複数の、粗い、腹の底から転がり出てくるような笑い声だった。
その音の振動が鼓膜を震わせた瞬間、恵子の背骨が、脳の思考を置き去りにしてガタガタと恐怖で強張った。
知っている声だった。
角を曲がると、バイクが三台、路地の端に並んでいた。改造したマフラーが低く唸っていた。その周りに男たちが集まって、煙草を回しながら笑っていた。革ジャンの背中、剃り込みの入った横顔、アスファルトに踏みつけられた吸い殻。
その中の一人が、顔を上げた。
「あれ」
男が言った。
恵子より三つ上だった。背が高かった。髪を後ろに撫でつけていた。笑うと目尻に深い皺が刻まれる顔を、恵子は骨の奥まで知っていた。
男がバイクから離れて、こちらへ歩いてきた。煙草を指に挟んだまま、ゆっくりと。仲間たちの笑い声が、少し遠くなった。
「恵子やん。どこ行くん」
男の声は、穏やかだった。怒っていなかった。責めていなかった。ただそこにある、という温度の声だった。その声の温度を、恵子の身体は覚えていた。
あんなに好きだった。もともと恵子の若い肉体には、外側の刺激に対して驚くほどあっけなく、無防備に境界線を明け渡してしまう素質があった。それに加えて、あの狭い六畳間で、男の手つきや重さに都合よく沿うように、反応のすべてをこの先輩によって仕込まれてもいた。ほんの少し触れられるだけで、自分の輪郭が消えて男の思い通りに塗りつぶされていくあの諦めのような心地よさを、恵子の身体は骨の髄まで記憶していた。
「今日も海まで走らせに行くけど」
男が煙草を一度吸って、煙を横に吐いた。
「後ろ、乗るか」
男の大きな背中にしがみついて、初夏のぬるい夜風を切り裂きながら、明石の海へ向かうあの時間が、恵子は好きだった。周囲を山に囲まれた、息が詰まるほど狭い奈良の田舎町で、あの先輩のバイクの後ろだけが、世界で唯一、自分の居場所の形をしていた。
恵子は答えなかった。
男の手が、恵子の頭の上に乗った。髪を撫でた。乱暴な手ではなかった。ゆっくりと、確かめるように、頭の形をなぞるように、撫でた。
その手が、嫌だった。
あんなに好きだったのに。先輩の指先にこれほど従順に馴染みきった、あんなにあっけなく境界線をなくしてしまう身体のはずなのに、なんでこんなに嫌だと思うんだろう。
これが死に際の幻覚だろうが、頭が狂った妄想だろうが、どちらでもよかった。この男の手が自分の髪に触れているという、その一点の嫌悪の生々しさだけが、恵子の五感を現実へと力任せに引き戻していた。
頭の上に乗っているその手の重さが、首の後ろを伝って、背骨の奥まで降りてきた。鳥肌が、服の下で静かに立った。
男はまだ笑っていた。
「なんか今日、雰囲気違うな」
男の親指が、恵子の髪をひと撫でした。二の腕の、柔らかい皮膚をひとなでした。
その瞬間、膝が地面を蹴っていた。
これが現実なのか、それとも死の幻覚なのか、そんな境目はどうでもよかった。ただ、あの六畳間のゴミ溜めに繋がる最初の歯車が、今、目の前で回り始めようとしている。その恐怖だけで、身体が勝手に爆発するように動いていた。男の手が空を切った。恵子は走っていた。路地を曲がった。裏道に入った。
「おい、恵子!?」
後ろで男の声が上がったが、男は追いかけてこなかった。
ちっと小さく舌を鳴らし、次の煙草に火をつけた。どうせまた、二日もすれば不貞腐れた顔で部屋のドアを叩きにくる。男の視線は、すでに手元のライターの火へと戻っていた。恵子のあの猛烈な疾走を、男はその程度の、ただのよくある不機嫌としてしか見ていなかった。
バイクのエンジン音が、後ろで一度大きくなって、それから遠くなった。男たちの声が、風の中に溶けた。
冬の、いや、初夏の生温かい空気が、肺を刺した。
走りながら、記憶が浮かんだ。
煙草と柔軟剤の匂い。鼓膜を震わせる低い謝罪。肉が爆ぜるような、頬の鈍い衝撃。気づいたら床の木目を凝視していた、あの視界。それから、また髪を梳いてくる男の、湿った指先。警察署の蛍光灯。恵子だけが残された路地。少年院の廊下の底冷えと、素足に貼り付くコンクリートの冷たさ。反省室の天井の白い光。男の上着の袖口を指先で握りしめた、あの夜。
浮かんで、消えた。
路地の出口に、光が見えた。大通りの、冷たい水銀灯の光だった。激しい車の音がした。無数の人の声がした。恵子はその濁った光へ向かって、走り続けた。
この足が、止まらなかった。




