第一章 腐った林檎の種5
テレビの音が、部屋を満たしていた。
記者会見はまだ続いていた。画面の中で誰かが質問をして、女が答えて、無数のフラッシュが白い火花のように弾けていた。スタジオの喧騒が六畳に流れ込んでいたが、恵子の耳にはもう届いていなかった。
恵子は動かなかった。
薄汚れたスウェットの袖口から覗く右手の、伸び放題になった爪の隙間には黒い汚れが詰まっていた。かつて男たちが綺麗だと褒めた面影は、もうどこにもない。
布団の上に転がったまま、腹の奥が、冷えたセメントを流し込まれたように重かった。腕が、動かなかった。瞼が、鉛のように沈んでいた。散らばったコンビニ袋の山が、テレビの赤い光の中で不気味に輪郭を失い、天井の隅の染みが、じわりと湿って広がっていくように見えた。薬の甘い、腐った果実のような匂いが、恵子の喉に絡みつく喘鳴とともに、喉の奥にへばりついて離れなかった。
それでも、焦点の合わない目だけは、画面の光を離さなかった。
女が、カメラを正面から見据えた。
その瞬間だった。
恵子の視界の端が、白く弾けた。脳の奥の、まだかろうじて動いている部分に、ちりちりと青い火がついた。
あの顔立ちは、広い世界にはいくらでも転がっている綺麗な顔だ。自分とそう変わらない、ありふれた美人の枠を出ない顔だ。それは分かっていた。
なのに、画面の中の女は、スタジオの照明を全部その肌に吸い取ってそこにいた。
同じ年だった。同じ冬の空気を吸っていたはずの女だった。
なぜ、あっちの顔だけが光っているのか。
脳の奥で、何かが静かに、決定的に傾いた。
どこかで、何かが違った。どこかで。ただ、それがどこなのか、恵子の濁った頭ではもう手繰り寄せられなかった。
画面の中の女が、また笑った。
「……かえしてよ」
恵子の乾いた唇が動いた。カサカサに割れた唇の隙間から、小さく、けれど確かな人間の言葉がこぼれ落ちた。
「かえして、それ、わたしの……」
言いかけた時だった。画面のフラッシュがさらに激しく弾け、白い光が網膜を焼きにきた。その光が引き金になったように、喉の奥の筋肉が突然、不規則に跳ねた。言葉の形を結ぼうとしていた舌が強張る。
「わた……、う、ぅく」
言葉が、意味を持たないただの肉の塊になって喉に詰まった。
脳の奥の回路が次々に焼き切れていく。もう、次の言葉の紡ぎ方が分からなかった。ずるい、も、返して、も、すべてがドロドロに溶けて、肺の底からせり上がってくるのは、低く湿った唸り声だけになった。自分の獲物を横取りされた獣が、暗闇の中で歯を剥き出すときの、地鳴りのような拒絶。
画面の中の女が、また笑った。
恵子の口が割り裂けたように大きく開き、乾いた喉からヒィ、と引きつった獣の呼気が漏れた。
畳に転がったままの身体は、もう言うことを聞かなかった。指一本、自分の肉体ではないようだった。それでも、獲物を見つめる獣の執着だけが、麻痺した肉体を無理やり動かした。右手の指先が、痙攣しながら畳の上を狂ったように這い始めた。押し潰されたコンビニ袋をカサカサと引きちぎるように押しのけて、テレビ画面の、女の顔の方へ。届くわけがない距離を、それでも指を丸め、爪を立て、床をガリガリと激しく掻きむしった。爪が剥がれそうな痛みが走っても、指の蠢きは止まらなかった。
狂ったように蠢いていた指先が、テレビの脚に届く手前で、ぴたりと硬直した。
テレビの音が、部屋を激しく揺らしていた。スタジオの乾いた笑い声が、六畳を満たしていた。けれど恵子の耳には、それらはすべて薄いガラスの向こうの、異界の音だった。
あの控え室のチカチカと明滅する蛍光灯も、ハローワークで丸めた白い紙も、少年院の廊下の底冷えも、男の上着から消えなかった煙草の匂いも、全部この六畳の甘い匂いの中に溶けて、恵子の身体の底に、重い澱となって沈んでいく。
画面の中の女が、また、正面を向いて笑った。
恵子の意識のコードが、ぷつりと切れた。




