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『銀幕狂い咲き』  作者: ふりゅね
プロローグ
4/13

第一章 腐った林檎の種4

あれは、高校を中退した年の、あの冬だった。

警察署の蛍光灯は、白かった。

影がなかった。取調室の壁も、机も、向かいに座った制服の男の顔も、全部その均一な白さの中に溶けていた。恵子はパイプ椅子の上で背中を丸めたまま、机の端の染みをずっと見ていた。


「あの男はもう逃げたよ。お前は置いていかれたんだ」


向かいの警察官が言った。廊下の向こうで電話が鳴って、すぐに止んだ。パイプ椅子の冷たい脚が床を通して、じわりと腰を冷やす。恵子は何も言わなかった。男の上着は、まだパイプ椅子の背もたれにかけてあった。あの煙草の匂いも、柔軟剤の匂いも、まだそこに残っていた。

恵子は誰も見ていない隙に、その上着の袖口を、自分の小さな指先でそっと握りしめた。


女子少年院の廊下は、底冷えがした。

スリッパの薄い底越しに、コンクリートの冷たさが足の裏から這い上がってきた。恵子はその感触を、毎朝確かめるように踏みしめながら歩いた。感じていないと、自分がどこにいるのか分からなくなる気がした。


同じ部屋に、三人いた。

一人は窓際のベッドをいつも使った。もう一人は恵子の斜め向かいだった。十七歳の彼女たちは、恵子が来た最初の夜から、目を合わせなかった。合わせないのではなく、最初から恵子がそこに存在していないように動いた。食堂でも、風呂場でも、廊下でも、恵子の周囲だけ空気が薄かった。


四日目の夜だった。

消灯後、暗い部屋の中で、誰かが恵子のスリッパを隠した。翌朝、廊下の冷たさが素足に直接触れた。コンクリートが、足の裏の皮膚に貼り付くように冷たかった。恵子は何も言わなかった。黙って冷たいコンクリートを踏んで、洗面所まで歩いた。


次の日、食堂へ向かう廊下だった。

前を歩いていた窓際の女が、すれ違いざまに、わざと小さく足を突き出してきた。

恵子はそれを見ていた。

見ていて、一秒あった。


避ける間も無く、恵子の足首がその脚に引っかかった。

体が前のめりに倒れ、冷たい床に膝と両手を激しく打ち付けた。派手な音が廊下に響き、恵子の後ろにいた数人の女たちが、顔を見合わせてクスクスと低く笑った。


恵子は四つん這いのまま、自分の手のひらに赤く滲んだ擦り傷をじっと見つめていた。次の瞬間には、立ち上がって、笑っている女の髪の毛を後ろから掴んで引きずり倒していた。

女が悲鳴を上げて暴れ、恵子の顔を引っ掻いた。恵子も負けずに、相手の細い髪を力任せにむしるように引っ張り合った。すぐに職員が二人の間に割って入った。恵子は引き離されても、泣きもせず、睨みつけもせず、ただ女の抜けた髪の毛を指の間に挟んだまま、冷たい床の上に立ち尽くしていた。手が震えていた。何のせいか、自分でも分からなかった。


反省室は、四畳だった。

窓が一つ、鉄格子の嵌まった小さい窓だった。壁はコンクリートで、布団が一枚と、バケツが一つあった。蛍光灯が一本、天井の真ん中に取り付けてあって、消灯時間まで消えなかった。その光を、恵子は天井から目を逸らさずに見ていた。


まぶたを閉じると、白い残像の裏側に、古い毛布の隙間から漏れていた細い街灯の光がゆっくりと滲んできた。背中に触れていた男の胸の熱と、髪を通る指の感触だけが、反省室の冷たい空気の中に、かすかな匂いとなって蘇るようだった。恵子は布団の中で、自分の髪を男と同じように、不器用な指先で何度も梳き直した。


部屋に戻ってから、状況は変わった。

隠すのをやめて、直接やるようになった。廊下ですれ違いざまに肩を押した。夜中に水をかけた。恵子の教材に落書きをした。恵子は毎回、同じようにやり返した。肩を押されたら突き返し、髪を掴まれたら掴み返した。やり返すたびに反省室へ送られた。反省室から戻るたびに、また始まった。


やり返すことを、やめなかった。

押された肩の痛みが消える前に、もう手が出ていた。水をかけられた濡れた皮膚の冷たさが、そのまま相手の布団を濡らす動きに変わった。その後に何が起きるかを待つ時間は、恵子の中にはなかった。ただ、ぶつけられたものと同じだけの衝撃を、その瞬間に突き返すことしかできなかった。


黙ってじっと耐えていると、自分の輪郭がどこかへ溶けて、本当にこの部屋の空気になって消えてしまうような気がした。誰も目を合わせないこの場所で、恵子の体に触れてくるのは、ぶつけられる悪意の痛みだけだった。その痛みをそのまま突き返しているときだけ、恵子は自分がここにいることを、肌の裏側で確かに感じることができた。


面会には、誰も来なかった。

部屋に戻ると、壁を見た。染みを数えた。三つ、四つ。天井の隅に、じわじわと広がっている染みがあった。どこへ行っても、部屋は内側から腐っていた。


出所した日の空は、曇っていた。

頑丈な鉄の門が、背後で重い音を立てて閉まった。恵子は施設の門の前に立ったまま、しばらく動けなかった。

門の前を、見つめていた。

誰もいなかった。

風が吹いて、コートの隙間に入ってきた。排気ガスと、枯れ草の匂いが混ざった空気だった。恵子は鞄の中から、薄い封筒を取り出して指先で触った。それから、誰もいない道の先を見た。

男は、いなかった。

恵子はそれを肺に入れて、吐いた。外の空気だった。


履歴書の賞罰欄に、指が止まった。

ハローワークの窓口で渡された用紙を、膝の上に広げていた。窓口の向こうで、職員の男が事務的な声で何かを説明していたが、その言葉は恵子の耳の表面を滑って、一つも意味を結ばなかった。賞罰欄の「罰」の文字を、ペンの先でなぞった。書けなかった。これを書いたら、この後どうなるのか。出さなかったら、明日からどうなるのか。その先の順序が、頭の中でうまく結ばれなかった。見ているだけで胸の奥が苦しくなってきて、恵子は三枚目の履歴書を丸めて、目の前のゴミ箱に捨てた。


駅前のロータリーは、排気ガスと湿ったアスファルトの匂いがした。

ビルとビルの隙間から灰色の風が吹き抜けて、恵子の短いスカートの裾を揺らす。歩道に立ち尽くしたまま、鞄の紐を両手でぎゅっと握りしめていた。行くあては、どこにも思いつかなかった。


「あれ、恵子じゃん。何してんの、こんなとこで」


横から声をかけてきた男の顔を見つめた。

どこかで見た顔だった。地元の、あの男の周りにいつもいた奴だったかもしれない。男は派手な色のブルゾンを着て、煙草を指に挟んだまま、恵子の顔を上から下まで値踏みするように眺めていた。


「ハローワーク? うわ、マジで? あんなとこ行ったって、真面目な仕事なんか何もないっしょ。面接とか超だるいし、どうせ色々突っ込まれて落とされるだけだって」


男は短くなった煙草をコンクリートに放り捨て、靴の底で踏みつぶした。恵子は何も言わなかった。ただ、その踏みつぶされた吸い殻をじっと見つめていた。


「てかさ、恵子めっちゃ顔いいんだから、もっと楽に稼げるトコあるよ。履歴書とかマジで要らないし、名前も適当でいいわけ。ただお店にいて、ニコニコお酒飲んでるだけでさ、来週には何万も手に入る。服だって可愛いドレスいっぱい着れるし、誰も恵子の過去なんか気にしないから」


男の口から、甘い柔軟剤の匂いが混ざった息が流れてきた。

あの部屋の匂いに、少しだけ似ていた。


「どうする? 今から車で送ってあげよっか。オーナーに話通してあげるよ」


男の指先が、恵子の肩を軽く叩いた。

少年院の廊下でぶつけられたような、痛い衝撃ではなかった。

恵子は一歩も動かなかった。男の目が、自分の顔だけをじっと見ている。難しい書類の枠のことも、賞罰欄の文字も、ここにはなかった。


恵子は小さく、一度だけ頷いた。


キャバクラの控え室は、狭かった。

蛍光灯が横に二本、天井に並んでいた。鏡がその下に横一列に並んで、座った女たちの顔を一斉に映していた。香水の匂いが重なり合って、空気が甘く濁っていた。恵子は端の席に座って、瓶の底に少し残った安いファンデーションを指で伸ばした。隣の女が笑った。恵子は笑わなかった。ファンデーションを顎のラインまで伸ばして、刷毛でぼかして、鏡から目を逸らした。


鏡の中の顔を、まともに見たのはいつ以来か、分からなかった。

地元では一番だと言われた顔が、蛍光灯の下でそこにあった。十八になったばかりのその顔が、ここへ連れてきた。配置されただけの肉体が、ここしか残さなかった。履歴書の賞罰欄に×をつけなくていい、身元保証人が要らない、顔だけあればいい場所が、ここだった。

恵子はそれを、自分で選んだ。


控え室を出ると、薄暗い廊下の電気がチカチカと不規則に明滅していた。

その不安定な白い光が、無言で歩いていく恵子の横顔を、何度も頼りなく照らしては、闇の中に置き去りにしていた。

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