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『銀幕狂い咲き』  作者: ふりゅね
プロローグ
3/13

第一章 腐った林檎の種3

あれは、中学三年の冬だった。


部屋は六畳だった。男の部屋だった。壁には何も貼っていなかった。カーテンの代わりに古い毛布が窓枠に押し込んであって、その隙間から街灯の光が細く漏れていた。


時折、外の国道をトラックが通り過ぎた。そのたびに薄いガラス戸がガタガタと小さく震え、そのかすかな振動が、畳を通して恵子の体に伝わってきた。


床には雑誌が何冊か積んであって、灰皿が一つ、吸い殻を山にして畳の上に置いてあった。部屋の隅に脱ぎ捨てたジャージが丸まっていた。それ以外には何もなかった。生活の匂いがしない部屋だった。煙草と、安い消臭スプレーと、それから何か別の匂いが混ざって、鼻の奥に張り付く。


男は煙草を指に挟んだまま、恵子の髪を梳いていた。


乱暴な手ではなかった。昼間、後輩の襟首を掴んで壁に叩きつけていたのと同じ手が、今は恵子の髪の毛一本一本を、丁寧に指の間に通していた。恵子はそれを、膝を抱えたまま受けていた。


スカートの裾から覗く、冷え切ったふくらはぎに、畳の乾いたささくれがちくちくと微かに触れていた。押し黙った部屋の冷気が、体の重みの下に敷かれた藁の匂いを、かすかに引き立たせている。


肺の腑を大きく広げることができなかった。小さく、浅く息を吐き出すたびに、下腹の奥で、じくりと熱い鈍痛が粘ついていた。

ガラス戸が鳴るたびに、部屋のなかの煙草の匂いを吸い込むたびに、その痛みがじわじわと増していくような気がした。


どこかで覚えたはずのない種類の痛みを肺から追い出すように、恵子は男の鎖骨のあたりに視線を落とす。背中が男の胸に触れていた。街灯の光が毛布の隙間から差し込んで、男の鎖骨の上に細い影を作っていた。


男の体温が、背中を通して伝わった。


それが何なのか、恵子には分からなかった。この温かさに名前をつける言葉を、恵子はまだ持っていなかった。ただ、腹の奥の鈍痛よりも、コンクリートの壁よりも、この背中に触れている熱だけが、今夜この部屋で唯一、恵子を人間の側に繋ぎとめているような気がした。


男の体温が離れていくのを恐れるように、背中をより深く男の胸に押し付けた。



「痛かったよな」


男が言った。煙草の煙が天井へ細く立ち昇っていた。灰皿の吸い殻の山から、消えかけた煙がもう一本、細く揺れていた。男の指が髪から離れて、恵子の二の腕のあたりへ移動した。薄い皮膚の上を、親指がゆっくりと撫でた。あざになりかけているのを、恵子は分かっていた。男も分かっていた。それでも男の親指は、そこを乱暴にではなく、確かめるように、何度も往復した。


「ごめんな」


それだけだった。低い声で、それだけ言って、男は黙った。


恵子は答えなかった。


窓の外で、どこかの犬が吠えた。すぐに止んだ。遠くの方で、パトカーのサイレンが細く、長く尾を引いて聞こえた。音は毛布の隙間から滑り込んで、すぐに夜の闇に吸い込まれていった。街灯の光が毛布の隙間で揺れて、灰皿の吸い殻の山に薄い影を落とした。脱ぎ捨てたジャージが部屋の隅で丸まったまま、動かなかった。


脳の奥で何かがガラスを踏み割るような音がしていたが、男の親指が二の腕のあざを撫でるたびに、その音が少しずつ遠くなった。恵子の瞳孔が、毛布の隙間の闇にじわじわと馴染んで開いていく。 昼間この部屋で起きたことの輪郭が、記憶の中でゆっくりと滲み、消えていった。


男は学校では誰も寄せ付けなかった。後輩は廊下で道を空け、同級生は目を合わせなかった。教師でさえ、この男の前では声が小さくなった。その男が、恵子の前でだけ、こういう顔をした。こういう声を出した。


「お前みたいな子、他におらんわ」


煙草を灰皿で押しつぶして、男が続けた。


「寒いか」


答える前に、男が恵子の肩に自分の上着をかけた。ずっしりと重い男の匂いが覆い被さった瞬間、恵子の肩が、びくりと小さく跳ねた。それだけのことだった。ただそれだけのことが、恵子の胸の中で、今夜起きた全てのことより大きく膨らんだ。毛布の隙間の街灯が、また細く揺れた。


街灯の光が遮られ、男の上着の暗闇に視界が完全に覆われた。


男の上着の、煙草と安い柔軟剤が混ざった匂いを、恵子は深く吸い込んだ。膝の上の手の甲に残った薄い赤い跡が、街灯の滲む光の中で、少しずつ見えなくなっていった。

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