第一章 腐った林檎の種2
静かな部屋にテレビの音だけが広がる。
恵子の耳には、その音が遠く感じた。スタジオの喧騒が六畳を満たしているのに、まるで恵子が水の中にあるのかのように澱んで聴こえた。
映像は記者会見だった。
横に長いテーブルに何人かが並んで座り、マイクが林立し、フラッシュが絶え間なく弾けている。恵子は布団の上に転がったまま、目だけを動かした。テロップが流れていた。新作映画の公開を告知する文字が、画面の下端をゆっくりと横切っていく。
記者らしき人間が立ち上がって、マイクを向ける。
「今回の役を演じるにあたって、最も難しかった部分はどこでしょうか」
カメラが、美しい佇まいの女を捉える。
恵子の目が、そこで止まった。瞼の重さが、消えた。
女は少し首を傾け、考えるような間があった。その間も、フラッシュは止まらない。何十というカメラが一斉に女の顔を切り取ろうとしているのに、女は瞬きひとつ乱さない。ただ静かに、自分の言葉を探していた。
「感情を、出さないことです」
女が口を開く、音量を上げたテレビの粗末なスピーカーから、その声は不思議なほど粒立って聞こえた。
絹を滑る銀鈴の、最も澄んだ響きだけを耳の奥に流し込まれるような声。一言喋るたびに、ブラウン管の向こうの安っぽいスタジオの空気までが、高級な香水のように冷たく洗練されていく錯覚を抱かせる。それは恵子の喉に絡みつく喘鳴や、カビ臭い部屋の澱みとは対極にある、淀みのない天性の響きだった。
「この役の女性は、どれだけ追い詰められても泣かない人なんです。私は割とすぐ泣いてしまうので——」
会場から、笑いが起きた。記者たちが、隣同士で顔を見合わせて笑っていた。女も微かに口元を緩める。その笑い方が、どこか少女のようで、しかし目の奥だけは少しも笑っていなかった。
「監督に、何度も止められました。泣くな、と」
また笑いが起きた。
フラッシュが一斉に弾ける。その瞬間の女の顔を、恵子は見ていた。光の中に浮かんだ横顔が、一瞬だけ何かを堪えるように見えた。それがカメラへの計算なのか、本物の感情なのか、恵子には分からなかった。
コンビニ袋が、恵子の頬のそばに転がっていた。
いつから空なのか分からない袋が、淀んだ空気の中で微かに揺れていた。台所の排水溝から漂う腐臭が、鼻の奥にまとわりついていた。壁の染みが、赤い午後の光の中で、じわりと滲んで見えた。
別の記者が立ち上がっていた。
「共演者の皆さんについては、いかがでしたか」
女が、また少し考える。
「皆さんに、支えていただきました」
静かな声だった。言葉の粒が、冷たく洗練された響きのまま恵子の耳を打つ。女が、隣に座った老いた男優の名前を挙げた。その名を口にする瞬間、画面越しの瞳が柔らかく細くなる。
女の顔立ちそのものは、よく見れば広い世界にはいくらでも転がっている「綺麗な子」に過ぎない。自分とそう変わらない、ありふれた美人の枠を出ないはずだった。なのに、本物にしか見えなかった。濁りのない感情。自分には、人前でこんな風に誰かを真っ直ぐに思いやることはできない。あの程度の顔立ちの、あんな綺麗な目をして、あんな風に笑ってみたかった。私だって、本当は——。
叶うはずのない淡い願望が、胸の奥でひっそりと煤吹いた。
フラッシュが、また弾けた。
テレビの音が部屋を満たしていたが、それは恵子の耳にはもう、どこか遠い異界の音だった。ジメジメしたカビ臭い六畳の闇の中で、眩い画面の中だけが、酷く鮮明だった。
画面の中の女が、最後にカメラを正面から見据える。
その、どこにでもいるはずの綺麗な顔に、一瞬、底の抜けたような虚無の瞳が映った気がした。
畳の上に投げ出した恵子の右手が、放り出されたまま、赤い砂嵐の光の中で二度と動かなかった。




