第一章 腐った林檎の種1
部屋の雰囲気は暗く、空気はどこか甘かった。
腐敗と、長く換気されなかった空間と、どこかに転がっているはずの薬の残滓が混ざり合って、鼻の奥に張り付くような重い甘さだった。
台所の流し台には使った食器たちが並んでおり、汚れは水分を含んで無い。排水溝からは季節に関係なく何かが臭った。夏は甘く、冬は鈍く、どちらの季節にも鼻の奥に貼り付いて香る。
天井には染みが、いちばん大きいやつは去年の梅雨からじわじわと広がって、今はもう隣の小さい染みと繋がりかけている。どこかで雨漏りがしているわけでも、上の階が水を溢れさせたわけでもない。ただ、この部屋そのものが内側から腐っている。
エアコンは三年前に壊れたまま放置されている。室外機だけが残って、ベランダの端で錆を深めていった。窓の結露は冬になるたびに壁紙の端を浮かせ、今では剥がれた紙の裏に黒い染みのカビが広がっている。
それでも早川恵子はここに住み続けた。引っ越す気力がなかったのか、引っ越せる金がなかったのか、自分でも最後にはどちらか分からなくなっていた。
壁紙の柄が何だったのか、もう判別できない。花だったかもしれない。汚れと湿気が重なって、今ではただの灰色の壁だった。カレンダーが一枚、画鋲で留めてあった。五年前のものだった。
コンビニ袋が六畳の床を埋めていた。いつのものか分からない袋が重なり合って山を作り、その隙間に缶が転がり、薬の空き袋が封を切ったまま畳の上に広がっていた。ブラインドの隙間から差し込む光は午後のものにしては妙に赤く、その山を腐った飴色に染めていた。
布団の上で横になる早川恵子の右手が、畳の上に投げ出されている。
爪が伸びて、手入れされていない爪の間は汚れが溜まっている。三十代の半ばまでは、この手を褒める男がいた。細くて、綺麗で、と。今となっては何が綺麗だったのか、恵子自身には判別がつかない。鏡を見なくなって久しかった。
壁際に、割れた鏡の欠片が一枚だけ落ちていた。畳の目に引っかかって、掃除のたびに見て見ぬふりをしてきた欠片が、今は斜めに傾いて、赤い光を鈍く跳ね返している。その欠片の中に、顔が映っていた。
地元では、この顔で損をしたことがなかった。学校で一番だと言われた。商店街を歩けば男が振り返り、女が目を細めた。顔は武器だと、恵子は思っていた。笑えば男は財布を開いた。泣けば男は謝った。ただ、その武器を握っているつもりの手ごと根元から持っていかれていることには、最後まで気づかなかった。男たちが去るたびに何かが少しずつ削れた。埋めるために薬を覚えた。薬が切れると男に縋った。男に縋ると薬を渡された。その輪っかの中で、四十年が終わった。
壁の向こうから、音がする。
隣の部屋からだ。薄い壁一枚を隔てた向こう側で、子供の弾むような高い声が聞こえる。母親が夕飯の時間を告げた、子供が返事をして急いでかける音が。何かが焼ける匂いが、ほんの僅かに排気口の隙間から漂ってくるような気がした。
スッと椅子を引くような音、食器同士が当たりなる音がした。
恵子は手を伸ばした。
テレビのリモコンが、コンビニ袋の山の脇に転がっていた。指先でそれを手繰り寄せて、ボタンを押した。ブラウン管が明滅して、スタジオの喧騒が一気に部屋へ流れ込んできた。誰かが笑っていた。大きな笑い声と拍手の音が、六畳を満たした。
早川恵子の目が、ゆっくりと、画面へ動いた。
瞼が、重かった




