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第二章 人喰い沼の入り口4

次は土曜日に投稿予定!

その夜、恵子が着せられたのは、淡いサクラ色のワンピースだった。

田島があらかじめ用意していたもので、15歳の恵子の白い肌にはよく映えた。だが、生地の薄さと、胸元がわずかに広く開いているデザインが、仕立ての良さとは裏腹に、どこか明確な夜の街の匂いを漂わせていた。


「よく似合っていますよ、ミナさん」

西麻布の、看板のない地下の高級和食店へと続く階段を降りながら、田島が背後から静かに言った。階段の壁は湿気を含んだコンクリートで、踏みしめる一歩ごとに、地下特有の冷えた空気が足元から這い上がってくる。田島の声はいつも通り平坦で、まるでこれから普通の打ち合わせにでも向かうかのようだった。


引き戸を開けると、芳香剤の代わりに高級な香木の匂いが鼻を突いた。奥の個室、磨き上げられた白木のテーブルの向こうに座っていたのが、テレビ局のプロデューサー、田中だった。五十代くらい。首の太い社長とは違い、線が細く、声がやわらかかった。だが、仕立てのいい上着の隙間から覗く肌の艶には、特権階級の男だけが持つ、欲の深さが張り付いている。


「お、田島くん。これが噂の新人?」

田中の声には、育ちの良さと、この場所に慣れきった大人の余裕が滲んでいた。田島が小さく頭を下げ、恵子の背中を促す。

「早川ミナです。よろしくお願いします」

恵子は背筋を伸ばし、15歳らしい初々しい笑みを浮かべた。

席につくと、すぐに冷えたビール瓶とグラスが運ばれてきた。恵子は体に染みついた手慣れたルーティンに従い、瓶を持ち、田中のグラスにビールを注いだ。泡の立ち方は少し雑だったが、田中はそれすらも少女の初々しさとして受け取ったのか、細い目をさらに細めて喜んだ。

恵子は微笑みを崩さず、タイミングを合わせて相槌を打った。

運ばれてくる見たこともない高級な刺身の脂を喉に通しながら、田中の自慢話に耳を傾ける。前世の店で、殿方の話をただ聞き流していた時間と、構造は全く同じだった。年上の殿方の機嫌を取るくらい、恵子にとっては日常の範疇だった。


「ミナちゃんはさ、今度秋から始まる深夜ドラマ、ちょっとした生徒役探してるんだけど、興味ある?」

田中が、恵子のグラスにウーロン茶を注ぎ足しながら、やわらかい、けれど値踏みするような視線を送ってきた。

「本当ですか? ぜひやりたいです」

恵子は声を弾ませた。

もしかしたら、このままお酌に付き合い、殿方の機嫌を取るだけで、ワンチャン役がもらえるのではないか。頭のどこかで、そんな都合のいい算段を立てていた。前世の店なら、これだけ機嫌を取っても大した見返りもなかったのに、ここでは少しお酒に付き合うだけで、テレビの仕事が手に入る。システムとしては、むしろ夜の街より割が良いとさえ思っていた。



田島は、そんな二人のやり取りを、少し離れた席から静かに見守っていた。黒い手帳を開くこともなく、ただ時折、満足そうに頷くだけだった。その視線の意味を、恵子はまだ半分も理解していなかった。


二時間が過ぎ、店を出ると、夜の西麻布の空気は少し冷たかった。大通りの脇に、黒塗りのハイヤーがハザードランプを点滅させて止まっている。田島は一歩下がった場所で「よろしくお願いいたします」と田中に深く一礼した。


ハイヤーのドアが開く直前、田島が恵子にだけ聞こえる声で囁いた。

「ミナさん。ここからが、昼間話した『協力』の時間です。頑張ってきてください」

田島の瞳には、やはり軽蔑も同情もなかった。ただ、投資の回収を待つビジネスマンの、冷たく澄んだ目だった。

「はい」

恵子は即答し、ハイヤーのふかふかとしたシートに滑り込んだ。隣に田中が座り、ドアが重い音を立てて閉まる。車内は、大人の殿方が好むタバコと高級な香水が混ざった独特の匂いで満ちていた。逃げ場のない密室の匂いだった。

ハイヤーが向かったのは、港区にある高層ホテルの地下駐車場だった。

専用のエレベーターに乗り、カードキーをかざして最上階のスイートルームへ入る。田中がドアを開けた先には、東京タワーと無数のビルの光が、まるで宝石を撒き散らしたようにガラス越しに広がっていた。


「綺麗……」

恵子は思わず息を呑み、窓辺へと駆け寄った。前世の安っぽい夜の街とは何もかもが違っていた。吸い込まれそうなほどに高く、きらびやかな都会の夜景が足元に広がっている。その圧倒的な美しさに、胸の奥が純粋な歓喜で満たされていく。これほど見事な景色を独占できる場所に自分が立っているという事実が、たまらなく嬉しかった。やはり、この場所へ来て正解だったのだと、窓ガラスに額を押し付けんばかりに夜景を見つめた。


田中は背広を脱いで白いシャツ姿になり、そんな恵子の様子を満足そうに眺めながら、やわらかい声で部屋の中へ招き入れた。広い客室の明かりが落とされ、都会の無数の光だけが、室内に静かに満ちていく。

テーブルの上にはワインボトルとグラスが二つ用意されていた。田中は恵子をソファへ促すと、その隣に腰を下ろした。


「ミナちゃんは、女優になりたいんだって」


「はい」


「いいよ、応援する。来期の枠、一つ空けさせるから」


男の手が、グラスを置いたテーブルの上から、恵子の膝の方へ伸びてきた。綺麗に整えられた大人の手だった。恵子はそれを、特に驚くことなく見ていた。


男の手が、グラスを置いたテーブルの上から、恵子の膝の方へ伸びてきた。綺麗に整えられた大人の手だった。

――ああ、これだ。

頬の内側を、軽く噛んだ。逃げるつもりはなかった。料亭での甘い算段は一瞬で弾けて消え、喉の奥に苦い鉄の味が広がった。芸能界もまた、前世の夜の街と地続きだった。身体という明確な対価。差し出す順番が回ってきただけのことだ。これで出番がもらえるなら、十分に割に合う取引だった。


窓の外で、ビルの灯りが一定の速さで点滅していた。誰かのオフィスの、消し忘れの電気かもしれなかった。恵子はそれをぼんやりと眺めながら、グラスの底に残ったワインを静かに飲み終えた。


男の手が、サクラ色のワンピースの裾を静かに押し上げ、15歳の滑らかな肌に触れた。そのまま、背後から抱き寄せられる。酒の匂いが混ざった息が首筋にかかった。


その瞬間、恵子の身体の奥が、冷水を浴びせられたように硬直した。

割り切れるはずだった。前世の擦り切れた身体なら、こんな殿方の愛撫なんて、心のスイッチをオフにすれば何ともないただの作業に過ぎなかった。

けれど、今の自分の肉体は、生まれてから一度も男を知らない、硬くて純粋な15歳の身体だった。


指先が触れた場所から、皮膚の熱さや、かすかな脂の匂いが、逃げ場のない生々しさを持って脳に直接突き刺さってくる。さっきまで眺めていた部屋の美しさは一瞬で吹き飛び、若い肉体が本能的な困惑と、皮膚の裏側から生じる奇妙な震えに支配されていく。


もともと、快楽の誘惑には脆い身体だった。男の指先が這うにつれて、肉体のどこかが確かに熱を帯び、かすかな痺れを返してしまう。だが、その快さの裏側から、同時に全く別の冷たい強張りがせり上がってくる。この身体が感じている震えが、本能的な恐怖なのか、それとも肉体がもたらす単なる過敏な反応なのか、恵子自身にも判別がつかなかった。ただただ、世界が妙に生々しく迫ってくる感覚が、奇妙で、息苦しかった。


田中はそのかすかな強張りを、15歳らしい初々しい緊張として捉えたのだろう。いっそ愛おしむような手つきで、恵子をベッドへと促した。


天井の、薄暗い間接照明を見上げながら、恵子は心の中で息をついた。ここで首を振れば、あの田島に見捨てられる。レッスンの二週間も無駄になる。テレビの出番もなくなる。ドラマの役さえもらえれば、すべては帳消しになる。


恵子はそのまま、ゆっくりと男の腕の中に身を委ねた。


指示された通りの、前世で覚えた殿方が一番喜ぶ「従順な少女」の目をして、静かに瞳を閉じた。

窓の外では、都会の光が平坦に、ただ冷たく輝き続けていた。

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