第二章 人喰い沼の入り口4.5
ホテルを出たのは、まだ夜が明け切らない時間だった。
ロビーのソファに田島がいた。足を組んで新聞を読んでいたが、恵子が近づくと、新聞をさっと畳んで立ち上がった。
「お疲れ様でした」
それだけだった。深くは聞いてこなかった。恵子も、特に話すことはなかった。
タクシーに乗り込むと、田島はすぐ隣に滑り込んできた。
窓の外、夜明け前の青白い街並みがゆっくりと流れていく。車内には、明け方特有の冷えた空気と、湿った合皮の匂いが充満していた。田島は無言のまま黒い手帳を開き、万年筆の先で機械的に数字を弾いている。カリカリ、という乾いた金属音だけが、恵子の耳の奥に響いていた。
信号待ちの瞬間、音が止まった。田島が手帳を閉じ、距離を詰めるように肩を寄せてくる。
「田中さんから、さっき連絡があったんですよ」
恵子は顔を上げた。
「来期のドラマ、生徒役の枠が一つ空いたそうです。台詞は一言か二言だけど、顔がしっかり映るって。いやあ、僕が粘って交渉した甲斐がありました」
田島は、恵子の頭をあやすようにポンポンと軽く叩いて、満足そうに頷いた。けれど、その言葉は真っ直ぐに恵子の胸の中にゆっくりと染み込んでいく。台詞がある。顔が映る。テレビの中に、自分の顔が映る。田島が裏でどれほど動いてくれたのかは分からないけれど、彼が自分のために勝ち取ってくれたのだと、恵子はただ純粋に思った。
「本当ですか」
声が、少し震えた。
「本当です。あと、今期の現場、見学に来てもいいと。本番がどういう感じか、見ておいた方がいいですから良かったですね」
タクシーが信号で止まったまま、田島の横顔に朝の薄明かりが当たっていた。恵子はその横顔を見つめながら、両手を膝の上で握った。爪が、手のひらに食い込むくらい強く。
「ありがとうございます」
田島は「ミナさんの頑張りが、ちゃんと伝わったんだと思いますよ」と言って、今度は恵子の背中を優しく二、三度さすってから、また窓の外を見た。
その一言と、シャツ越しに伝わる温かい手のひらの感触が、夜の出来事すべてに意味を与えていく。あの部屋の天井、オフィスの消し忘れた光。すべてが今この瞬間のために必要だった。自分の切り売りしたものは、間違っていなかった。そう信じ込むための熱が、恵子の膝の上で硬く握られた両の拳に、じわりと宿っていく。
見学の日は、晴れていた。
スタジオは、想像していたよりずっと広かった。天井が高く、何本もの照明が吊り下げられていて、その光が一つのセットだけを強く照らしている。木造の、古い日本家屋を模したセットだった。畳の質感まで作り込まれていて、本物の家のように見えた。
田島に背中を軽く押されるようにして、スタジオの隅、関係者用の折りたたみ椅子に座らされた。田島は少し業界人ぶった仕草で、周囲のスタッフに軽く挨拶を交わしたり、髪を気にしたりしている。時折、椅子の背もたれに回した田島の腕が恵子の肩に触れたが、恵子はそんな彼の様子には目もくれず、撮影の様子をじっと見ていた。
カチンコの音がした。スタッフの声が響いて、一瞬で空気が変わった。さっきまで雑談していた役者たちが、表情を切り替える。台詞が始まる。照明の光が、役者の顔の輪郭を白く際立たせていた。
恵子は、その切り替わりの瞬間を見ていた。雑談していた人間の顔から、別の人間の顔への変化。その境目が、どこにあるのか分からなかった。一瞬で、別の人間になっていた。
「カット」
監督らしき男の声がした。空気が緩む。役者たちが、また元の顔に戻る。スタッフが慌ただしく動き回り、誰かが台本を確認している。
恵子の隣で、一人の若い女優が控えていた。年齢は恵子より少し上に見えた。マネージャーらしき女性が、その女優の額の汗をタオルで丁寧に押さえていた。女優は鏡を見ながら、台詞を小さく口の中で繰り返している。恵子はその様子を、瞬きもせずに見ていた。
「あの人、主演なんです。今、一番来てる子」
田島が恵子の耳元に顔を寄せ、小声で囁いた。恵子はその名前を聞いて、頷いた。聞いたことがある名前だった。前世でも、見た顔だった気がした。
照明が再びセットを照らし、カチンコの音が響く。女優の表情が、また切り替わった。さっきまでタオルで汗を押さえられていた顔が、今は別人だった。涙ぐむ演技を、一発で決めていた。
監督が小さく頷いた。
「OK、次のカット行きましょう」
その一言で、現場全体の空気がまた動き出す。恵子はその一連の流れを、ただ目で追っていた。指先が、膝の上で微かに動いていた。
自分も、いつかあの場所に立つ。あの照明の下で、別人になる瞬間を、誰かに見せる。台詞が一言でもいい。今はそれだけでいい。
セットの隙間から見える天井の照明が、恵子の頬の上に白く反射していた。田島が時計をちらりと見て、恵子の二の腕を軽く引きながら、「そろそろ行きましょうか」と声をかけた。恵子は立ち上がりながら、もう一度だけ、セットの中の光を見た。
その光が、自分の身体の奥にまだ残っている冷たさを、一瞬だけ忘れさせた。




