第二章 人喰い沼の入り口3
レッスンが始まって、二週間が経った。
朝から夕方までスタジオに籠もり、深夜はアパートの狭い風呂場でステップを復習する。そんな生活が二週間続いた。
スタジオの鏡は大きくて、四方の壁すべてに貼られていた。恵子は自分の動きを、鏡越しに何度も見る。インストラクターの動きと、自分の動きの差を、目で測った。差は、まだ大きかった。
「ミナちゃん、リズム遅れてるよ」
インストラクターの鋭い声が響く。恵子は頷いて、もう一度同じステップを繰り返した。隣で踊っている同期の女の子の方が、明らかに滑らかだった。恵子はそれを見ないようにする。ここでは誰もが「ミナちゃん」だった。名前ではなく、まだ商品にもなっていない、ただの有象無象の記号としての呼び名。
レッスンが終わると田島が迎えに来ることが多く、スタジオの前で待っていて、恵子が出てくると小さく手を挙げる。
「お疲れ様。今日はどうでしたか」
その問いかけに、恵子は素直に答えた。リズムが遅れたこと、注意されたこと、隣の子の方が上手いと思ったこと。田島は黒い手帳を持ったまま、それを全部聞いていた。途中で遮ることはしなかった。
「ミナさんはまだ二週間ですから。比べる必要、ないですよ」
田島の声には、嘘の匂いがしなかった。少なくとも恵子にはそう聞こえた。実際には、田島の言葉の中身がどこまで本当でどこから営業用の演技なのか、恵子に判別する術はなかった。ただ、この事務所の中で、自分を「ミナさん」と一人の大人のように呼んで話を聞いてくれるのは、田島だけ。それで十分だった。
ある日、レッスンの帰り道に、田島がコンビニのビニール袋を渡してきた。
「差し入れです。お腹空いてるでしょう」
袋の中に、おにぎりと缶のお茶が入っていた。恵子はそれを受け取って、道路沿いの植え込みの縁に座って食べた。隣に田島も腰を下ろし、自分の分のサンドイッチのプラスチックを静かに剥がした。
「将来、どうなりたいんですか」
田島が聞く、恵子はおにぎりを口に含んだまま少し考えた。
「女優になりたいです。テレビに出て、誰かに、ああいう人になりたいって思われたい」
「いいですね」
田島は短く言って、サンドイッチの包装を几帳面に折りたたんだ。
「俺、そういう子を見るの好きなんですよ。本気で上に行きたいって思ってる子。ミナさんはそれがあるから、絶対に伸びると思います」
その言葉が、恵子の胸の中にすとんと落ちた。地元では、誰もそんなことを言わなかった。顔が綺麗だね、とは言われたが、上に行ける、とは言われなかった。田島の言葉は、これまで誰からも与えられなかった種類の、渇きを癒やすような承認だった。
夕方の光が、アスファルトに二人の長い影を伸ばしていた。田島の横顔が、その光の中で少し優しく見えた。
数日後、レッスンの後、田島は恵子をいつもとは違う喫茶店に連れて行く。間口の狭い、薄暗い店だった。一番奥の、人目のつかないボックス席に座らされ、コーヒーが二つ運ばれてくる。田島はしばらく黒い手帳をめくりながら、何かを確認していた。
「ミナさん。来月、ちょっとしたお仕事の話があるんですけど」
田島が手帳を閉じた。
「お仕事、ですか」
「オーディションっていうか……まあ、最初の一歩、みたいなものです」
田島の言い方は、いつもより少し慎重だった。恵子は重いコーヒーカップを両手で持ったまま、田島の言葉の続きを待った。
「業界の上の人に、ミナさんを紹介する場があります。プロデューサーとか、テレビ局の人とか。そういう人たちに気に入られると、仕事が回ってくる。逆に、気に入られないと、いつまでもレッスンだけで終わってしまう」
恵子は頷く、話の筋はシンプルだった。
「で、その『気に入られる』っていうのが、まあ……一緒にご飯を食べたり、お酒の席に顔を出したり、そういうことなんですけどね」
田島はカップをソーサーに戻し、視線を少し落とした。爪が綺麗に切り揃えられた指先が、白い陶器の縁をなぞる。
「最初はそれだけです。プロデューサーの人と話して、印象を覚えてもらう。それだけで、すぐに役が決まる子もいる」
恵子は小さく頷いた。話の筋はシンプルで、お酌の席。要するにキャバクラの同伴のようなものだ。そんなもの、前世で嫌というほどやってきた恵子にとっては、何の抵抗もない日常の範疇だった。おじさんの機嫌を取るくらい、お安い御用だった。
「うん、運がいい子はそれだけで決まります」
田島はそこで言葉を切った。少し考えるような間を置く。恵子はその沈黙を、ただ待つ。
「ただ……正直に言うと、それだけじゃ終わらない場合もある」
「終わらない、って」
「……その後の、個人的な時間も、その方に合わせてあげてほしいんです。もっと踏み込んだ関係というか。そういう協力を求められることがあります」
田島の声のトーンは変わらなかった。低くも、重くもならなかった。ただの連絡事項を伝えるように平坦だった。
恵子はその「個人的な時間」という言葉を頭の中で転がした。具体的な像にする前に、もうその不穏な輪郭だけは、肌の感覚で掴めていた。要するに、体の関係だ。前世のキャバクラ時代、周りの女の子たちが小遣い稼ぎや太客キープのために割り切ってやっていたし、自分だって経験がないわけじゃない。進んでやりたいわけではないけれど、それでテレビに出られて、役や出番がもらえるならアリだな、と恵子は思った。
テレビの中の世界は、もっと遠くて綺麗な場所だと思っていたけれど、田島の口から出てくる言葉は、あの地元の埃っぽい噂話の延長線上にあるように聞こえた。先輩の誰々が、どこのヤンキーの車に乗って、何を買ってもらったというあの逃げ場のない日常のやり取り。それが少し、都会の洗練されたシステムに変わっただけだ。
「壁にあった写真の人たちも、そうやって……」
恵子は言いかけて、言葉を濁した。田島は、その先を察したように小さく頷いた。
「みんな、それぞれの形で通ってきた道だと思いますよ」
否定も肯定もしない、ただ冷徹な事実を述べるような言い方だった。それが、恵子には妙に説得力があった。誰も無償でテレビに出られるわけではない。誰かが裏で何かを払って、その対価として光の中に立っている。それなら、自分も同じ道を通ればいい。特別なことでも、汚いことでもない。ただの、通過点だ。
「ミナさんが嫌なら、断ることもできますからね」
田島はそう付け加えた。声に、押しつけがましさは一切なかった。
「やらなきゃ、上に行けないんですよね」
「全部がそうとは言わないけど……可能性は、確実に広がると思います」
「やります」
恵子は即答した。田島は驚いた様子も見せず、ただ静かにコーヒーを一口含んだ。
「無理しなくていいですよ。本当に」
「嫌じゃないです」
恵子は繰り返した。本当に嫌だとは思わなかった。レッスン代を払い続けるための、誰もが通るシステム、田島が認めてくれた自分の本気。そのすべてが、恵子の中で一本の太い線として繋がっていた。
田島はしばらく恵子の顔を見ていた。それから、小さく息をついて微笑んだ。
「ミナさんは、本当に強いですね」
その言葉が、また胸の中に深く落ちた。強い、と言われたのは生まれて初めてだった。地元では、弱い子、すぐ男に頼るだらしない子、と言われていた。
ここでは違った。ここでは、強い子、本気の子、上に行ける子、と言われていた。
喫茶店の窓の外を、夕方の人波が流れていった。誰も、店の中の二人を気に留めなかった。田島は手帳を開いて、また何かを書き込み始めた。恵子はその万年筆の先が紙の上を滑る音を、何も考えずにただ聞いていた。
次の話は今週の木曜日に投稿予定です!




