第二章 人喰い沼の入り口2
しばらくして、またドアが開いた。
「おはようございます」
男の声、昨日案内してくれたスカウトマンとは違う声だった。
驚いて顔を上げると、そこには背が高く、紺のジャケットを着て手帳を小脇に挟んだ、清潔な格好の男が立っていた。三十代の前半か、もう少し手前か。男は恵子の乱れた髪や、半分床に落ちた毛布を一瞬だけ見ると、表情を変えないまま、ポケットから安っぽいプラスチックの櫛と、一枚の白い紙、柔軟なボールペンをテーブルに置いた。
「髪、少し乱れてるね。洗面所で直しておいで。それから、その履歴書に簡単でいいから名前と生年月日、連絡先を書いて。社長が待っているから、準備ができたら行きましょう」
自己紹介も、名乗りもしなかった。ただ、促すように顎で廊下を示す。
恵子は言われた通り洗面所に行き、口を漱いだ。口の中が少しだけ潤った。部屋に戻り、手渡されたプラスチックの櫛で髪を整えながら、長机の上の履歴書に向かう。
乾いた白い紙に、ボールペンで『早川恵子』と、自分の名前を書き込んでいく。15歳。
何故か、母親の財布から抜いてきたあの薄い札の束の感触が、まだ指先に残っているような気がした。
書き終えると、男はそれを無言で回収し、先に立って歩き出した。
男の背中について、昨日通った廊下を歩いていく。臙脂色の絨毯の毛羽立ちを、今日も踏んでいく。芳香剤と煙草の匂いが、昨夜より濃く感じた。それとも自分の感覚が鋭くなっているだけかもしれなかった。昨夜は緊張で鼻が利かなかったのだ。
一番奥のドア。昨日と同じ三回のノック。男がドアを開けた。
「社長、連れてきました」
社長室は、昨日と同じだった。厚みのある絨毯。大きなデスク。六本木の街が窓から見えていた。ただ、昨日より光が強かった。朝の日差しが窓から差し込んで、ウイスキーのボトルが並んだ酒棚の表面を白く光らせていた。
社長が椅子から立ち上がった。昨日と同じ、首の太い男。右頬の傷跡に、朝の光が斜めに落ちている。男は歩み寄りながら、紺のジャケットの男から恵子の履歴書を受け取った。
男は恵子を見た。昨日と同じ、一秒もかからない視線だった。上から下まで。それから、手元の履歴書に目を落とす。
「ほら、社長に自己紹介して」
横に立つ紺のジャケットの男が、静かに、助け船を出すようなトーンで恵子の背中を促した。恵子は息を吸い、背筋を伸ばして社長の目をまっすぐに見つめた。
「早川恵子です。十五歳です。よろしくお願いします」
社長は恵子の声を聞きながら、もう一度履歴書の名前をじっと見つめた。
「早川恵子か……」
声に出して、男は呟いた。低く、地響きのような声だった。男は灰皿の縁で煙草を押し消した。細く上がっていた煙が、静かに途切れた。
「座って」
低く、有無を言わせない平熱の声だった。
革張りのソファに腰を下ろした。昨夜と同じ場所に同じように沈む感触があった。テーブルの上の灰皿には、新しい吸い殻が増えていた。
社長はデスクの前には戻らず、ソファの前に立ったまま、腕を組んで恵子を見下ろした。
「早川レイコ、ミナ、アスカ……」
唐突に、男は思いつく名前をいくつか、口の中で転がすように低い声で呟いた。いくつかの音が部屋の空気の中に消えていく。男はふっと視線を恵子の顔に戻し、言い切った。
「響きがいいから、早川ミナが芸名。芸名は苗字は変わらず下の名前だけカタカナでミナ。それで」
早川ミナ。ミナ。
恵子は口の中でその名前を繰り返した。恵子、という音がするすると後退していくような感覚があった。自分の名前が別の何かに塗り替えられていく、その境目を舌の上で確かめるような感覚。悪くなかった。むしろ、胸の奥のどこかが軽くなった。早川恵子という名前に張り付いていた田舎の匂いが、一枚だけ剥がれ落ちたような気がした。
「はい」
恵子は頷いた。
社長はそれ以上、恵子を見ようともしなかった。ただデスクに戻ると、そこに立っていた紺のジャケットの男に「あとは任せた」とだけ告げた。
男は「失礼します」と短く応じ、「じゃあ、別室に行こうか」と恵子に向かって言った。
事務員たちのデスクの間を抜けて、廊下の途中にある小さなドアの前で止まった。社長室よりずっと小さなドアを男が開けた。
中は会議室で、長机が一つパイプ椅子が四脚。壁には何も飾っていなく、天井の蛍光灯が昨夜過ごしたあの窓のない部屋と同じ白さで部屋を満たしていた。
「掛けてください」
男が椅子を引き、恵子はそれに腰を下ろした。
男は向かいの椅子に腰を下ろし、ようやく脇に挟んでいた手帳を長机の上に開いた。ページが几帳面な文字で埋まっていた。そこで初めて、男の表情がわずかに和らいだ。笑顔、と呼んでいいのかどうか分からない、微かな変化だった。
「――遅くなりました。今日から君の担当マネージャーになりました、田島です。さっきは挨拶もせず連れ回しちゃってごめんね。よろしく、ミナさん」
声が落ち着いていた。さっきまでの事務的な冷たさも、社長室での絶対的な威圧感も全くなかった。
恵子は、あの朝一番にプラスチックの櫛と履歴書をくれた男の指先を思い出しながら、張り詰めていた肩の力が抜けるのを感じて、小さく会釈した。
「これから色々と説明しますね」
まずレッスンのこと。
週に三回、ダンスと歌と、演技の基礎。
場所は事務所から歩いて十分のスタジオで、時間は午後から夕方にかけて。
それから費用のこと。レッスン代、写真撮影代、プロフィール作成費。
田島は数字を一つずつ並べていった。
並べられた大きな数字を、恵子は頭の中で足し算した。当然、鞄の底のあの薄い札の束では到底足りない。
「……ミナさん。レッスン代の数字を見て、ちょっとびっくりしましたか?」
田島は手帳をパタンと閉じ、椅子の背もたれに体を預けて恵子の目をまっすぐに見つめた。その瞳には、社長のような品定めをする冷酷さは見当たらない。むしろ、頼りがいのある年上の親戚のような、親しみやすい温かさがあった。
「驚きました。結構、するんだなって」
恵子は正直に言った。
「そうですよね。」
田島は苦笑いした。その仕草一つにも品がある。
「でもね、これが芸能界の『普通のシステム』なんです。今テレビに出ているあの子も、雑誌で笑っているあの子も、みんな最初にこのくらいの投資をして、レッスンを受けて上に上がっていった。つまり、この費用は事務所が君を騙し取ろうとしているわけじゃなくて、君が売れるための『必要経費』なんです。どこの事務所に行っても、これは絶対に引かれるものだから」
必要経費、という言葉を、恵子はそのまま頷いて受け入れた。
もっと華やかで、才能さえあれば無償で拾ってもらえる世界だと思っていたけれど、現実に足を踏み入れてみれば、もっと地味で、ビジネスライクな仕組みで動いているらしい。全員がそのシステムの中でやっているのなら、ここで思い悩む必要はなかった。
「みんな、払ってるんですね」
「そうです。みんな払っているし、みんなそこから這い上がっていく」
田島は机の上に、そっと両手を置いた。爪が綺麗に切り揃えられた、清潔な指先。
「でも、ミナさんに僕がつきますから。今日から君の担当マネージャーです。よろしくね」
「よろしくお願いします」
恵子は小さく会釈した。この田島という男に対して、恵子は、少し仕事ができそうで優しいお兄ちゃん、という程度の、ごくありふれた好感を持った。
「じゃあ、これ、契約書です」
書類が差し出され、何枚かあった。
恵子は書類を受け取った。文字が並んでいて、法律の言葉が混ざっていた。読もうとして、三行目で言葉が滑り始めた。壁の何もない白さを一瞬見て、それから書類に視線を戻した。
これにサインした人間が、あの壁の写真になっていく。あの昨日見た、笑顔のアイドルや、昼のドラマの女優と同じ場所に行けるのだ。
「大丈夫です。サインします」
田島からペンを受け取り、指定された欄に名前を書こうとして、ふと手が止まった。どちらで書けばいいのか、田島に聞いた。
「本名で」
田島が言った。恵子は頷いて、先ほど履歴書に書いたのと同じ、早川恵子、と書いた。インクが紙に滲んだ。全部の欄にサインし終えると、田島は書類を静かに回収した。
「ありがとうございます」
田島は書類を手帳に挟み、それからもう一度、深く微笑んだ。
「これから一緒に頑張りましょう」
蛍光灯の白い光が、長机の表面に平坦に反射していた。恵子はその光の中で、はい、と答えた。声が、思ったより小さく出た。




