第9話 安売りではなく、客を増やす
「他所から来た余所者が、俺たちの客を奪うんじゃねえ! 今すぐここから出て行け!」
粉まみれの男たちが、麺棒を振り上げて怒鳴り声を上げる。
彼らはベルクの城塞都市内で商いをしているパン屋組合の職人たちだった。先頭で声を荒らげているのは、ひときわ腕の太い親方らしき男だ。
「おい、武器を下ろせ」
リシアがスッと前へ出て、剣の柄に手をかけた。彼女の冷たい殺気に、パン屋の男たちがビクッと肩を揺らして後ずさる。
「怪我をしたいのか? 店主が迷惑しているだろう」
「リシア、待ってくれ。手出しは無用だ」
俺はリシアの肩を軽く叩いて制止し、販売口から身を乗り出して親方に向き合った。
「あんたの言い分は分かった。城外の労働者たちが昼飯を買いに城内へ入らなくなり、あんたたちの店のパンが余るようになった。そういうことだな?」
「ああ、その通りだ! お前らがここで安売りの肉なんか出すからだ!」
親方が顔を真っ赤にして食ってかかる。
俺は否定しなかった。
客観的に見れば、彼らの主張は正しい。《ノマド》が労働者のいる広場まで出向いて熱い飯を提供している以上、わざわざ時間をかけて城内の固定店へ足を運ぶ客は減る。市場を侵食しているのは事実だ。
だからといって、ここで店を畳む気はない。かといって、彼らと安売りの値下げ競争をして互いに首を絞め合うのは、三流の商売人のやることだ。
「客が便利で美味い方を選ぶのは当然だ。だが、あんたたちの店を潰す気はない」
俺はカウンターに手をつき、親方の目を真っ直ぐに見た。
「うちの店の強みは、客のいる場所へ直接出向いて、熱いままの料理を出せることだ。だが弱点もある。車内の設備では、一から生地を練って発酵させるような時間と場所が足りない。だから今は薄焼きの生地しか作れていない」
俺は言葉を切って、親方の太い腕を指差した。
「対して、あんたたちの強みはなんだ? 安定した美味いパン生地を、毎日大量に仕込める技術と設備だろう。……どうだ。あんたたちが毎朝練った生地を、卸値でうちに売らないか?」
「……は?」
親方が間抜けな声を出した。怒鳴り込んで来た相手から、急に取引を持ちかけられたのだから無理もない。
「うちが生地を買い取る。あんたたちはパンを焼いて待つ必要がなくなり、毎朝確実に売上が立つ。俺たちはその生地を使って、城壁に入れない労働者や旅人に向けて商品を売る。城内の客はあんたたちのものだ。どうだ、悪い話じゃないだろう」
「卸値で生地を……俺たちから買うだと?」
「ああ。パン屋の技術を買いたい。互いの得意なことを分けて、客を増やすんだ。明日の朝、試作のために黒麦の生地を三十食分ほど持ってきてくれないか? もちろん代金は払う」
親方はしばらく呆然としていたが、後ろにいる職人たちと顔を見合わせ、やがて気まずそうに麺棒を下ろした。
「……わ、わかった。明日、生地を持ってきてやる。だが、変な使い方をしたら承知しねえからな!」
男たちは文句を言いながらも、どこかホッとしたような顔で帰っていった。
翌日。試験営業三日目の朝。
約束通り親方が持ってきた黒麦の生地を使い、俺は新商品の試作に取り掛かった。
分厚く伸ばした黒麦の生地に、細かく刻んだ燻製肉と、熱で溶けやすい山羊乳のチーズをたっぷりと包み込む。それを鉄板の端に急造したオーブン代わりの鉄箱に入れ、じっくりと火を通す。
香ばしい麦の焼ける匂いと、燻製の香りが立ち上った。
「『黒麦チーズと燻製肉の焼きパイ』だ。外は硬めの黒麦で香ばしく、中は熱くて柔らかい。冷めても腹持ちがいいように設計した」
焼き上がったパイを二つに割ると、中からとろりとしたチーズと燻製肉の脂が溢れ出す。
「いただきます」
フィーナが試食として一口かじり、目を輝かせた。
「美味しいです! 黒麦の少し癖のある風味を、チーズのコクが包み込んでいます。これなら労働者の方々にも満足してもらえるはずです」
「よし。じゃあ、今日のメニューはこれで行くぞ」
広場で営業を開始すると、パン屋との騒動を聞きつけていたらしい竈印組合のイルダが、遠くから視察に訪れていた。
彼女は俺の黒板のメニューと、実際にパン屋の親方が生地を運んできた事実を確認し、手元の書類に何かを書き込んでいた。
「……移動店が固定店から客を奪うのではなく、仕入れ先として共存し、市場を広げるか。なるほど、これなら既存の組合も文句は言えまい」
イルダが呟くのが聞こえた。
金環商会が主張していた「移動販売は都市の秩序を乱す」という禁止論の根拠が、これでまた一つ崩れたはずだ。
提携によって生地を仕込む手間が省け、提供速度はさらに上がった。
俺は順調に販売数を伸ばせるだろうと踏んでいた。
だが、現実はそう甘くはなかった。
「……店長。今日の営業、終了時間です」
夕暮れ時。広場から労働者たちの姿が消えた後、フィーナが申し訳なさそうに報告してきた。
俺は鉄板の横に積まれた、耐油紙の包みを見つめた。
味は申し分ない。栄養価も高く、原価計算にも問題はないはずの新商品『黒麦チーズと燻製肉の焼きパイ』。
それが、一日の終わりに十二食分、手付かずのまま売れ残っていた。
「十二食、売れ残ったか……」
《ノマド》を開業して以来、初めての明確な「商品の失敗」だった。
客足が途絶えたわけではない。客は列を作ったが、途中で買うのをやめたり、別の店の粗末な干し肉を選んだりした者がいたのだ。
味でも、値段でも、衛生面の問題でもない。
ならば、一体何を見落としたというのか。
俺は冷めかけた黒麦焼きパイを手に取り、どうやってこの問題を修正すべきか、じっと考え込んでいた。




