第7話 黒衣の女も、最後尾です
黒衣の女が発する異様な空気に、広場の労働者たちは息を呑んで道を譲った。
女は《ノマド》の販売口の真正面まで進み出ると、フードの奥の赤紫の瞳で俺と鉄板の上の肉を興味深そうに見つめた。
傍らに控える二人の屈強な護衛が、他の客を威圧するように巨大な戦斧の柄を地面に打ち付ける。
「面白い造りの竈だな。それに、悪くない匂いだ」
女は赤い唇に艶やかな笑みを浮かべ、俺に向かって言った。
「ここにある商品をすべて買い取ろう。代金は言い値で構わない」
金貨の入った革袋がカウンターに無造作に置かれる。チャリン、と重たい音が響いた。
後ろに並んでいた労働者たちから、「おいおい……」と諦めの声が漏れる。貴族や大商人が金を積めば、平民の口に飯は入らない。それがこの世界の常識なのだろう。
だが、俺は革袋に触れようともせず、鉄板の上の肉をひっくり返した。
「悪いが、買い占めはお断りだ。全員に行き渡るまで一人一個と決めている」
「ほう?」
女の目が細められた。
「それに、うちは横入りも禁止だ。あんたの護衛が場所を取ったんだろうが、注文するなら本人であるあんたが最後尾に並んでくれ」
「貴様っ、平民の分際で無礼だぞ!」
俺の言葉に激昂した護衛の一人が、戦斧を振り上げようと一歩踏み出した。
しかし、その動きは俺の横から伸びた銀色の鞘によってピタリと止められた。
「店主の言う通りだ。列を乱すなら、私が相手になるぞ」
リシアが静かに、だが明確な殺気を込めて護衛を睨みつける。王国最強の剣聖の圧力に、巨漢の護衛でさえ額に冷や汗を浮かべて硬直した。
一触即発の空気の中、不意に、鈴を転がすような笑い声が響いた。
「ふふっ……あははは! 面白い。平民も私も、同じ一つの胃袋として扱うか」
黒衣の女は楽しそうに肩を揺らし、護衛たちに下がるよう手で合図した。
「よい、武器を引け。腹を空かせた客として並べと言うのだ、その規則に従ってやろうではないか」
女は護衛たちをその場に残し、本当に一人で列の最後尾――数十人の労働者たちの後ろへと歩いていった。
その異様な光景に、広場中が静まり返る。
俺は何事もなかったかのように営業を再開した。
「待たせたな。炙り角兎と飴色玉葱の肉汁包みだ」
「あ、ああ……ありがてえ!」
先頭の労働者が銅貨を払い、商品を受け取る。
フィーナが手元の羊皮紙に素早く販売数を記録し、ボルグが常に火の回りを監視している。俺はひたすら肉を焼き、玉葱を炒め、生地で包む作業に没頭した。
労働者たちは、片手で食べられる熱々の肉汁包みに夢中になって噛みついている。酸味のある香草が灰角兎の獣臭さを消し去り、脂の旨味だけを口の中に残す。疲労した体に塩分と糖分が染み渡り、彼らの顔に活力が戻っていくのがわかった。
列はスムーズに進み、予定していた百食の上限が近づいてきた頃。
ついに、列の最後尾に並んでいた黒衣の女の順番が回ってきた。
「待たせたな。はい、これ」
俺は他の労働者と全く同じように、耐油紙に包んだ肉汁包みを女に差し出した。
「値段は交易銅貨三枚だ。身分や種族で価格は変えない」
「……徹底しているのだな」
女は感心したように呟き、フードから白い手を伸ばして商品を受け取った。
彼女は上品な仕草で、端をほんの一口だけかじった。
まず濃い肉の塩気を確かめるように目を細める。次いで、舌の熱でほどけた玉葱の甘みと、香草の酸味が余韻をさらった。赤紫の瞳がわずかに見開かれる。
「ふぅん……なるほど。最初の一口で腹を掴み、最後は重さを残さないのか。それに、このソース……野営の貧相な食事とは比べ物にならない」
品定めする速度だったはずが、二口目から明らかに間隔が短くなった。
常に余裕のある態度を崩さない彼女だが、食べる速度は明らかに上がっていた。美味いものを前にした純粋な衝動は、どんな権力者であっても隠しきれるものではない。
女はあっという間に一つを平らげ、口元を絹のハンカチで拭った。
「見事だ。並んだ甲斐があったよ」
「お粗末さま」
俺が片付けを始めようとすると、女はカウンターの上に規定の交易銅貨三枚を置いた。
そして、その隣にもう一枚、見慣れない黒っぽい銅貨をコトリと置いた。
「それは?」
「私からの心付けだ。受け取っておけ」
女が置いた銅貨には、黒い角と王冠を組み合わせたような精緻な意匠が刻まれていた。レガリア王国の通貨ではない。
「同じ客として扱ってくれたこと、高く評価しよう。だが……」
去り際、女は《ノマド》の車体にペイントされた店のロゴマークを見上げ、赤い唇を弧の字に歪めた。
「料理も規則も申し分ないが、一台の竈で救える腹の数には限界がある。この一台で、どこまで客を増やせるか……見物だな」
女はそれだけを言い残し、護衛を連れて広場から去っていった。
まるで、俺の事業の限界を見透かしているかのような言葉だった。
「終わりました、店長。ちょうど百食です」
フィーナの報告で、俺は視線を黒板に戻した。
売上記録、衛生状況、火災の兆候。すべて問題なし。イルダの提示した試験営業初日は、無事故で終わった。
だが、あの女の言葉は俺の耳にこびりついていた。
『一台で、どこまで客を増やせるか』
その問いの答えを、俺はいずれ嫌というほど突きつけられることになる。




